空夢そらゆめ



 ひねもす闇にうねる海。
 ほんの数時間前、鏡面さながらに沈黙していた水面は、何かに呼応して微細な波を立て震える。遙か上空から繰り返し轟く音のせいなのか。震える世界。
 暗黒の絶海に唯一聳える巨大な塔。
 その基底部。
 一つ一つが超高層ビルほどの威容を誇る朱塗りの柱が五つ、円の軌跡上に一定間隔で並び立ち、世界を支えている。その中央から三百六十度広がる海へと波が広がっていく。
 世界が目覚めた時からこれまで、ずっとあるべき形を維持してきた場所。導き手である堕天使によって形作られ、守護される場所。
 守護されなければならない場所。
 だが。
 今ここに、上方から変化が落下する。
 遙か高くから、人影が、
 ――黒い人形が落ちてくる。
 武者の姿を模した人の等身大人形。
 意志を感じさせることなく、手足をぶらつかせ錐揉みして、頭から海面を打つ。
 水柱が立ち上がった。
 少しだけ海中に没した後、ゆっくりと浮かび上がり、俯せのままで水面を漂い始める。揺れながらも秩序を保っていた波に新たな水紋を発しながら。
 しばらくして。
 侵入者の波紋に呼応したのか、海面に気泡が浮かび上がり始めた。溜息をつく小さな始まりが、次第に幾つも、連続して浮かび上がっては弾ける。
 海原が盛り上がり、その水面を突き破る。
 首をもたげる水の蛇。
 海水で構成された龍。雫をこぼし、自らの重さでしなりながら立ち上がる水龍が、一つ、二つ、三つ……四つ。波間に揺れる人形を取り囲み、大きな顎を開けて威嚇する。
 そして、それらの中央に更なる変化が訪れた。渦潮が緩やかに発生し、その中央からせり上がる水球。循環する水それ自体が大きな球となって、海面から分離した。何かを包み込み、地球儀の如く軸を傾けて自転している。
 一人の少女の影。
 目を瞑り、海水に抱かれて立っている。人形を睥睨するようにに浮かんでいる。
 少女が厳かに目を開ける――
 その瞬間、彼女を取り巻いていた水は水風船を割ったように弾けて海に落ちた。だが、先程まで水の中にいた筈の少女は全く濡れず、燐光を帯びている。周囲には蛍の如き不思議な光球が飛び交う。
 まるで平安貴族の十二単のような雅やかな衣装。頭には龍の頭部を模した面を載せている。何処までも白く、腰よりも長い優雅な髪。秀麗な顔は創造主そのままだったが、その彫りは深く、より個性を際だたせた顔立ち。
 ただ、両の瞳は光の届かない井戸の底。ただ、周囲の光景を無為に映すだけ。
 少女がゆっくり語りかける。
「……立ち去りなさい、侵入者よ」
 人形は波間を漂ったまま、反応しない。
「ここは主様の世界の基礎たる神聖な場所。巨大な四海から天空へと、惑える魂、根源なる力を結んでは伝える場所。誰であろうとここに立ち入ってはなりません」
 反応しない。
「立ち去る気がないのであれば、わたしが処断を下さなければなりません。闇の海を統べ、世界に秩序をもたらし、世界を支える仕事のためにのみ作り出されたこのわたし――御諸空夢(みもろくうむ)が」
 波紋の起こり方が微妙に変わった。
 弧海の女房……空夢が僅かに目を細める。
 武者人形が、まるで首の後ろの繰り糸を引っ張られるかのように空中に浮き上がる。人ではない、人工的な動き方。肩や足をてんでばらばらに揺らした後、人形は姿勢を正した。ゆっくりと拳を固めていく。
 白眼が、その悪鬼の如き顔が、水滴を落としながら静かに引き上げられていく。


 色即是空――


 空夢が優雅に手を差し伸べるとともに、透明な水龍たちが武者人形の喉笛を噛み切らんと、一斉に攻撃を開始する。武者人形はいままでの様子が嘘だったのか、俊敏に宙を舞ってそれらを力強く避ける。攻撃が失敗した龍は海に潜り、波頭と同化し、再び海から突き上がる。
 繰り返し、繰り返し。
 人形は龍たちの攻撃に間隔があく瞬間を待って、背中に背負っていた弓を取り出し、右手にしっかりと握る。弓は醜悪な生物のように握りから人形の甲や腕に浸食し一体化する。人形は無機質に動きながら、弓弦を絞り始めた。霊魂で構成された青白い矢が浮かび上がる。
 狙いを付けられた御諸空夢は、何故か一瞬だけ震える。


 蟇目「日置弾正政次一番矢」


 放った、

 キイイイイイイイイイイィ!

 甲高い音を立てて矢は飛ぶ。
 次の攻撃に入ろうとしていた水龍の群れは、松明を近づけた蛇そのままに、それぞれ射角から待避していた。空夢もまた翻り、風になびく柳の枝のように優麗にかわす。
 一閃は巨大な朱塗りの柱に突き立ち、蜘蛛の巣状の亀裂を生じさせる。が、海面から現れた新たな龍がそれをかみ砕き、柱に邪霊の浸食を許さない。
 空夢は少し下がり、両手を横に広げ天を、己の創造主の住まう天を仰ぐ。


 海門「幻想厳島」


 屹立していく巨大な水柱がお互いに求め合い、左右に差し渡し、巨大な鳥居へと変貌する。その中央で力を求める空夢。神域を守護する海の門番、それが彼女だった。
 求めに応じ、先程まで龍だった水の流れは海に浮かぶ緑の島々の稜線と化す。そのカーブが鋭利な鎌となって、鳥居を超えて落ちかかり、連続して人形の串刺しを企てる。


 悪符「右近の橘左近の桜」


 武者人形は高圧の水の鎌の第一撃を避けると、手にしていた弓を手掛節の辺りから二つに分離させる。掛かっていたはずの弦は消失し、反り返った弓に沿って鋭い刃が勢いよく突出した。
 即席の双刀を順手に構える。
 時間差で落ちかかってくる水の凶刃を受け流し、真っ二つに切り捨てる。彼我双方の刃とも決して刃こぼれしない。一方は水でできているというのに、噛み合った鋼さながらに火花を散らす。それらは一瞬の後、淡い櫻になり柔らかき橘になり、飛沫を優雅な花びらに散華させながら闇の海を僅かに輝かせる。
 武者人形が防戦一方と見て取った空夢は、水の鳥居をくぐり抜け、武者人形に急速接近する。彼女の左右には古き御世の太刀が現出し、屈強な武士が振り下ろす勢いをもって……あるいは、エデンの園を守護する御使いの剣そのままに、誰も触れることなく自ら回転運動を始めた。


 旋風剣「竜宮天叢雲」


 敵の接近に躯を乗り出そうとした武者の動きが、左右から襲いかかる回転剣によって留められる。危険を察知したのか、手にした剣で受けることをせず、再び二つを合体させて弓にすると、海面すれすれを飛んで逃げる。
 追尾する少女の剣は、まるで空飛ぶ円盤のように高速で回転して近づく。一方は縦方向に、一方は横方向に。乱戦によって大きくなる波を切り裂きながら、二本の剣は鎧武者を追いかける。追われる方は反撃の糸口がない。
 空夢はそれでも攻撃の手を弛めず、


 影符「子午線の祀り」


 今まで誰もいなかった荒海に、古き御世の戦船がいくつも浮かび始めた。それらには煌びやかな鎧を身に纏った沢山の武者たちの影が乗っており、二つの陣営に分かれてお互いに矢を射掛け始める。ある場所では敵船に接舷し、斬り込んでいる者もいる。
 その一方は長き赤旗を風になびかせ、
 もう一方は猛々しく白旗を掲げる。
 あの末法の時代そのまま、遠き記憶そのまま……それは古き戦の再現だった。西国の果ての水門で、一門がおおよそすべて水没した最後の悲しき戦の。
 その激戦の渦中を、白い髪の御諸空夢と、赤い髪の武者人形が飛翔する。四方八方に飛んでくる影たちの矢をかいくぐりながら。人形は既に、回転剣の一つを弓でもって叩き落としていた。波頭を上手く使いながら、空夢へと急接近する。
 勢いを残したまま、空夢へ一撃、
 彼女が手を差し伸べると、目の前に水の壁が形成されて武者をはじき返す。その後ろから迫っていた回転剣は、彼女の手の中に還る。

 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!

 世界が振動する。
 空夢の後ろで激浪が盛り上がる。
 主を攻撃されて怒りを覚えたか、水面を割って八匹の龍が立ち上がり、軍船を転覆させ飲み込みながら、紫電の如き速さで一斉に人形へと襲いかかった。


 六韜「新皇八矢」


 人形はそれらに向かって弓を引き絞る。
 と、番えられた光の弓が瞬く間に八本に分裂した。その全部が一斉に放たれ、
 八竜すべての左目に突き刺さる。
 怒号と悲鳴が天を突き、
 怒濤が峻険な山の如く吹き荒れる。
 紫電が海面でスパークする。
 戦を再現していた影の船はことごとく、暴れる龍たちに、大波に飲み込まれていく。
 空夢がその時化のなかで武者人形に斬りかかる。


 舞符「祇王哀歌」


 荒れ狂う海の最中、幻影のように舞う御諸空夢が、手にした剣で二度三度、武者人形の首を狙う。長き髪がなびき、袖や裾が潮風に舞う。一瞬前の空夢の姿はまだ空間に焼き付いていて、白い姿が幾重にも分身しているようにすら見えてしまう。まるで武器とは無縁の曲線的動作。攻撃というよりは白拍子の舞踊ともいうべき可憐さ、優雅さ。
 弓をもってそれをはじき返す人形。薙刀を扱うように持ち、牽制に頭や足を払おうとするが、そのいずれの攻撃も空夢には届かない。
 躯を一回転させ、その勢いをもってする空夢の一撃。
 両手で握った弓でそれを押し返す人形。
 双方が顔を見合わせる。
 空夢は激しい攻撃の後も息を切らすことなく、瞳は相変わらず虚ろだ。
 一方、恐ろしくも悲しい表情の面を付けた武者人形。じりじりと剣を押し上げていく。
 長き二人の戦いの影響によって、静かだった海は嵐同様になり、大波の高低差は十メートルを超えている。打ち寄せる潮水にも人形は動じない。ずぶぬれになりながら、濡れぬままの空夢を見つめるかのような、作り物の表情。仮面の彫りを涙のような海水が伝っていく。
 と、その時。

 カカッ!

 遙か上空で何かが炸裂した。
 紅き閃光。
 その後しばらくして、

 ドドオオオオオオオオオオン!

 叩き付けられた轟音の圧力によって海面が押さえつけられる。御諸空夢は状況が掴めず、ひととき剣を持つ力を緩めてしまう。
 それは、彼女の主と凶悪な悪魔が戦い始めた影響であり、またもう一方の幼き悪魔が塔を直接破壊し始めた瞬間だった。基底部にいる空夢には察せるはずもない。
 この機を逃さず、武者人形は空夢との均衡をはじき返した。剣を払われ、がら空きになった胴に弓でもって一撃を叩き込もうとする。
 が、それこそ空夢が待っていた瞬間だった。攻撃動作に入って勢いの止まらない人形に対し、剣を持っていない方の裾から小刀が閃き、人形の左目に突き立った。
 衝撃で吹き飛ばされのけぞる武者。
 悪鬼の面にひびが入る。
 そこからしゅうしゅうと水蒸気のような白煙が立ち上がる。
 有効な一撃を受けた人形は、力無く海面に叩き付けられた。両手両足を広げたまま、海にたゆたう。砕けた面の奥はまとわりつく赤い髪に隠れて見ることが出来ない。
「……………………」
 空夢はいまだ、虚無の瞳を浮かべている。
 そのまま、
 まるで決まりごとのように、
 捧げ持った太刀を両手で逆手に持ち、
 全身の体重を掛けて落下する。
 渾身の一撃、
 狙うは人形の首か、胸か、
 いずれにしても作り物の躯は一瞬で分断されるだろう。
 御諸空夢に迷いはない。
 ただ、侵入者を滅する為に、
 ただ、自分の責務を果たす為に、
 ……もう何も考えなくていいように。
 その剣尖が、人形を貫通するその瞬間、


 在原「劇的複式夢幻能」


 ポジとネガが逆転した。
 黒く淀んだ世界の黒そのものが全て、一瞬にして白に成り代わる。
 空夢は眩しさに顔を背ける。
 空間それ自体が炸裂した。
 音はない。
 いや――

 さあああああああああ……

 音はしていた。
 音はする。
 耳朶の奥で響く、いつまでも続く長い音。
 先程まで絶えず聞こえてきた海の唸りではない。
 これは、天から振る水の恵み。
 曇天よりの使者。
 空夢はゆっくりと目を開ける――
 自分は池の中央に立っていた。
 森に囲まれた小さな池。
 自分が立つ場所から、小さな水紋が絶え間なく発せられている。周囲には紫を中心に、白や青に着飾った花菖蒲が咲いている。髪が濡れそぼって視界の端に揺れている。
 冷たい。
 ぼんやり明るい天を仰ぐ。
 敷き詰められた雨雲から降ってくる水の欠片。
 そこに自分の求めるものは、
「ない……………」
 ――そこではたと自我を取り戻す。
 自分は何を言っているのだろう。
 でも、昔ここで、同じことを云った気がするのだ。こうやって何かを待っていた。
 訪れぬ何かを。

 ひょう

 雨に満ちた大気、弓が一閃飛来する。
 太刀で弾いた空夢がそちらに目を向けると、木々の間をぬいながら影が森の奥へと走り去っていく。そうだ。彼は敵なのだ。主様の神域を侵した不逞の存在。誅せねばならない。
 一際大きな水紋を池に残して御諸空夢は舞い上がり、影を追って梅雨の森を飛行する。影は俊足でなかなか追いつけないが、見失いはしない。絶対に。
 森から獣道へ、獣道から穿たれた道へ。
 そして、階段に辿り着く。
 何十と鳥居が連なった石造りの階段。
 空夢は最初の一段を蹴り、鳥居をくぐり抜けながら飛ぶ。見上げれば、影は先へ先へと身軽に登っていく。攻撃をする時間はない。
 そして、最後の鳥居が、一際大きく古い鳥居が見えた。額にかかった文字が読めそうで読めない。何故か気になったが、雑念を払ってそれをくぐり抜ける、

 カッ

 瞬間、空夢は夏の強い日差しに包まれた。
 大地から奪った水分で白く濁った盛夏の大気。顔を手で覆った空夢は我が目を疑う。
 目の前は、一面の向日葵畑だった。
 まっすぐ何処までも続く道の左右に、広大な黄色の絨毯が広がっている。向日葵は太陽の光を一杯に浴びて、空夢の身長よりも高く大きくなり、まるで少女を覗き込むかのよう。 遙か遠くで、神社の本殿が陽炎に揺れている。暑い夏の直中。
 影は。そちらへ走っている、
 ようにもみえた。
 空夢は向日葵畑の中央を飛ぶ。
 向日葵の向こうから笑い声がする。
 聞いたことのあるような声。
 少女たちの声。
 ちらりと視線を流すと、赤いリボンや黒い帽子が向日葵の間に揺れている、ようにもみえた。
 あれは幻なのか。
 自分が幻なのか。迷い込んでしまったのか。
 ――考えるな。
 脳裡の奥で誰かの声がする。
 そうだ、考えてはいけない。
 敵の策略に嵌ってしまう。
 ただあの敵を、害をなす侵入者を討つのみ。
 一直線に伸びる参道を飛び抜け、本殿の黒々とした社に飛び込んでいった影を追う。
 自分も又、そこへ勢いよく入り込む。
 と。
 闇をくぐり抜けると、夏の日は唐突に終わりを告げ、夏の夜の幻が展開する。
 そこは長大な廊下。
 右手にはアーチ窓が無数に並び、そのどれもに紅い三日月が浮かんでいる。暗闇の紅いカーペットに映し出された、アーチ窓の光と月影。右の壁には扉が等間隔で並んでいる。その全てには施錠が施されている。
 暗い紅い世界。
 勢いを弛めずに空夢は飛ぶ。
 ただ、影を追い求めて。
 影なる世界に無為を追い求めて。

 こつ。
 こつ。
 こつ。
 こつ。
 こつ。こつ。こつ。こつ。こつ……

 どこからか、振り子時計の音が響いてくる。
 自分を呼ぶような、甘くも優しい音。
 それでいてどこか恐い、懐かしい音。
 進行方向から聞こえてくるようでもあり、
 自分を背後から追いすがっているようでもある。音が乱反射しているのか、時計に取り囲まれているのだろうか? 自分が何処にいるのかよく分からなくなる。
 しばらくして、廊下は行き止まりを迎えた。
 目の前に唯一施錠されていない扉。
 五分の一だけ開いている。
 空夢は着地し、その扉をゆっくりと開ける――

 ぎいいいぃ……

 薄暗い部屋だった。
 障子から洩れてくる光は、早朝なのか、薄暮なのか。
 畳敷きの床は綺麗に掃除されていた。
 部屋の隅には折りたたまれた布団が一組。
 部屋の隅には数冊の本が並べられている。
 そのうちの一冊は読みかけなのだろうか、開かれたまま。見開き一杯で掲載された、真っ青な空と海の写真。
 空夢の表情が少し歪む。
 本から目をそらす。
 立てかけられた本の横には、仏蘭西人形が足を投げ出して座っている。見覚えのある服を着せられている。相談して、色を考えて、帽子をかぶせて。いろんな服を着せていたが、気に入っていた服だったはず。
 ……誰が?
 誰に?
 誰を?
 俯く空夢。
 ――これは、一体何?
 ここはどこなの?
 知っているけど知らない。知りたくない。
 どうして?
 どうしてって、それは……
 部屋が一段と暗くなった、
 弾かれたように空夢が顔を上げる。
 と、窓に嵌めてあった障子が外から破られ、追っていたはずの影が飛び込んでくる。
 身構える暇もない。
 剣を構える前に組み付かれ、背後の壁に叩き付けられる。
 すると、その土壁はあっさりと崩れ、空夢は襲撃者もろとも背後の奈落へともつれ合って落ちていく――


 視界の下方に巨大な満月が浮かぶ。
 逆さまになった稜線の向こうに連なる赤と白の光の列……あれは街?
 その向こうにきらきらと輝くもの。
 あぁ――いまなら解る。
 あれは、月下の海。
 月と星々を映して瞬く、果てのない海。


 赤茶色に燃える森の中に空夢は転がっていた。
 落日の時間。焼けただれる夕焼け。
 秋の終わり。
 地面を埋め尽くした楓の葉が躯にまとわりつく。全身を強く打ち付けた。痛い。ゆるゆると腕を立てて立ち上がる。
 儀仗兵のように並ぶ右と左の落葉樹の列。その向こうに、枯れてしまった巨大な楠が立っている。天を掴もうとして果たせなかった手の如き枝。腐って雨露の開いた幹の前で、二つの影が手を取り合っている。
『心配かけて、ごめんなさい』
『いいよ。本当はずっと不安だった。だから……ついあんな言い方をしてしまって。……自分が努力しなきゃいけないのにな』
『…………………』
『それでも、俺は心配してたいから………もちろん、その時はそばにいて、……を護るから。だから………出来る限り近くにいて欲しい』
『……………………』
 やめて。
 お願い、やめて。
 空夢は懇願する。
 あなたが悪いんじゃない。
 何も答えられなかったのはわたし。
 苦労していろいろな言葉を伝えてくれたのに、ただ頷くばかりで、自分の本当の気持ちを伝えられなかった。本当の名を伝えられなかった。
 だから、終わってしまった。
 すべてはわたしのせいなのに。
 空夢は悲痛な表情で走り出す。
 影は再び遠ざかる。
 これは夢だ。
 うつろな夢。
 もう二度と見てはいけない夢。
 垣間見たことで不幸を招いた夢なのだから。
 まるで驟雨のように降りしきる紅葉をかき分けながら、御諸空夢は走る。
 枯れてしまった御神木をめがけて。
 手にした太刀を振り上げ、胸の辺りに添えて。
 突き出す。
 一切を否定する。
 記憶という名の幻の一切を。
 突き入れる。


 吉野「名曲初音」


 その瞬間、
 舞い散る紅の葉は真っ白に弾けた。
 紅く燃えていた天はグレーの雲に覆われ、森は雪によって再び封印される。
 無音の中、しんしんと降り積もる雪。
 空夢は再びあのはじまりの池にいた。
 水面は凍結し、波紋を投げかけることもない。
 全力疾走を続けたかのように、剣に縋り、大きく息をついている。溢れる涙は止めどない。だが、それが何故流れるのか、彼女は考えない。涙を認めない。
 ゆっくり、
 ゆっくりと、
 雪が降り積もっていく。


 無音の世界に何かが聞こえる。
 澄み切ったそれは、
 井戸の底の様な瞳にすら細波を立て、
 人妖の境界を屏風の様に描きながら、
 耳の奥でいつまでも木霊する、
 あの、澄み切った、
 竹笛の音――


『在りのすさみの憎きだに

 在りきの後は恋しきに

 飽かで別れし面影を

 いつの世にかは忘るべき……』


 空夢は願う。
 自分の想像が……記憶が成就しないことを。
 だが、時は止まらない。
 彼女がかつてこの場所で見たと全く同じ場所から、影が姿を見せる。
 少し宙に浮かんだ自分を見上げる。
 少年の成りをした、
 鎧をまとう武者人形――
 遂に、空夢は剣を取り落とす。
 凍り付いた水面で剣は弾ける。
 罪は決して消えない。
 償いは存在しない。
 それを証明するかのように、武者が御諸空夢へ弓を番える。
 先端に呪符を差し込んで。
 彼女の記憶にある通りの手順で、
 彼女の記憶に完全に合致する姿勢で、
 ゆっくりと弓を引き絞っていく。
 空夢は恐怖に震える。
 この後何が起こるか、知っているから。
 白い湖面に噴水のように振りまかれる、
 真紅の――
 がちがちと歯を鳴らす空夢は、恐怖の正体を理解する。
 罰。
 自分が招いた罪に対する罰。
 いまから自分はあの弓に貫かれる。当然の帰結だった。自分は何を偽り、何を失ったか。それを思えば当然なのだ。
 このあと繰り返されるあの光景を見るよりは、ここで滅した方がいい。
 もう二度と見たくない。
 消えて無くなりたい。
 だって、恐くて恐くてたまらない。
 もういやだ
 もうやめて、
 もうやめ――、
「やめて!」
 希う白き少女。
 赤き髪の武者人形は小さく唱える、


 天符「天乃羽矢一隻と歩靫」


 天空を切り裂く神聖な烈光。
 弓から解き放たれた神の矢は激しく分裂しながら御諸空夢に向かって飛ぶ。
 全身を串刺しにする、
 その寸前で、
 ……漆黒の霊気が御諸空夢を包み込んだ。
 悲痛に滂沱する空夢の、その口だけが、
 醜悪な笑みを浮かべる。
 喉から沸き立つ、しわがれた老人の声――


 呪詛「皇民民皇の詔」


 あの冬の日と全く同じように、地面を突き破った八匹の白き龍が、世界を崩壊に導く。
 武者人形が導いた仮初めの幻想は、瞬く間に解けて霧散する。
 そこはもう、荒れ狂う闇の海。
 稲光が間断なく轟き、塔世界を支える五つの柱さえ揺るがす巨大な波が打ち寄せる。
 闇の海から立ち上がった龍たちは、一斉に武者人形に襲いかかる。
 空夢の意志とは関係なく。
 彼女は止めようとした。
 だがもう、力のみが暴走して敵を――いや、生贄を求めた。
 目の前で矢を放ったままの鎧武者を、
 作り物の分際で神へと矢を放った愚か者を。
 空夢は絶叫する。
「やめてえええええええええええええっ!」


 八岐の大蛇が、武者人形の全身に喰らいついた。
 あの時と同じように、
 空夢には何も出来ない。



 ――清弥。



 畔に立つ。
 「向こう側」に、己が護るべき塔が見える。
 荒れ狂う海が見える。
 狂乱する八龍が見える。
 そして、魂の抜けた御諸空夢が浮かんでいる。
 遠く感じる。
 他人事のようだった。
 手の中には名前が一つ。
 清弥。
 大切な人の名前。
 やっと、取り戻した。
 それが、光を発しながらゆっくりと消えていく。
 抱きしめる。
 弱くなっていく。
 二度も失われる。
 ……そのままでいいの?
 嫌。
 もう離したくない。
 清弥と一緒にいたい。
 ならば、全てを否定しなければ。
 全てを?
 そう。己を構成する全てを。
 そうすれば、それは己の内に還ってくる。
 どうすればいいの?
 自分の思惟からそぎ落とすだけ。
 ……試してみる。
 まず、貴女を生んだ世界を否定できる?
 うなずく。否定する。
 すると、目の前の海や塔が掻き消えた。
 寂しい気もしたが、必然だったので未練はない。
 では、貴女を構成する力を否定できる?
 うなずく。
 すると、体の中から人を導く光や、呪いや呪縛の龍たちが抜け落ちていく。自分が自分でない感じがした。とても頼りなかったが、それでも胸の中の暖かさは残った。
 貴女の名前を否定する?
 うなずく。
 すると、思惟だけが残った。自分が何者なのかよく分からなくなってきた。より一層、大切な人の名前を抱きしめる。他によりどころが無くなってきたから。
 貴女の感情を否定する?
 うなずく。
 すると、失うことや無くなることへの恐怖が消えていった。明確に、清弥が存在していることだけを認識する。それは必要なこと。それは必然。だから、これでいい。
 貴女自身を否定する?
 ……でも、それじゃなにも感じられなくなってしまう。自分がいなくなってしまったら、誰が清弥を感じるんだろう? 清弥もいなくなってしまう。何もなくなってしまう。
 でも、貴女にその未練がある限り、清弥は貴女の手からこぼれ落ちる。未練は更なる未練を呼ぶ。全ては連関しているのだから。
 恐怖はすでに断ち切っている。
 ならば必要なのは、
 信念と、真理。
 失ってみれば解る。
 失わないと、何も始まらない。
 ――そして、それは決断した。
 ゆっくり、ゆっくりと自分を消していく。
 支えるものを、観察者を失った絶対の存在である「清弥」は、無の中を登り始める。
 いや、下っているのかもしれないし、
 消えているのかもしれない。
 それはもう誰にもわからない。
 解ろうとする者がいないのだから。
 しかし「清弥」は方向性を持つ。
 それはただ、刹那という究極の時間の流れに身を任せるだけの旅路。
 一瞬という永遠。
 ビッククランチの、その瞬間、
 つまりは、







 空(くう)―――――










 空即是色――









 真っ青な、
 ただ真っ青な。
 それは梅雨明けの空。
 あちこちに残った水溜まりに弾ける光。
 何もかもみな、瑞々しく美しい。
 緑は萌え、地は充ち、白い雲は往く。
 森に溢れる鳥たちの鳴き声。
 零れる様に赤い花。
 川面を叩いで泳ぐ魚。
 風にそよぐ葦の原。
 青々とうねる棚田。
 世界の色が数万、数十万色と増えていく。世界自体が解像度を上げて鮮明になる。
 甦る世界。
 再生する記憶。
 芽吹く命。
 回帰――それが全て、瞳の奥の光に宿る。


 そらは抱かれていた。
 頭の上の面が取り外され、落ちていく。
 悪鬼の面も同様に。
 荒れ狂う闇の海に。
 呆然としていたそらは、今まで顔を預けていた胸板にそっと手を置く。龍の攻撃で穴の開いた鎧武者の胸板。そこから、ゆっくりと視線を上げていく。
 在原清弥の顔が見下ろしている。
 人形師アリス・マーガトロイドによって真に人外の者となり、豊かだった表情がもう動くことはないが、あの優しい目はいつもの清弥そのままだった。
(迎えにきたよ、そら)
 口が動かないのに、清弥の声がする。
 いつもの口調で。
 いつもの音律で。
「ぅぅ………」
 喉の奥から、声にならない声が漏れる。
 抑えていた感情が迸る。
「あああぅ……せいや………せいやぁ………」
 武者人形の指が白い髪を梳く。
 抱き寄せる。
 そらも羽交い締めをするように抱きつく。
 全力で。
 頬を清弥に押し当てる。こすりつける。
 号泣する。
 涙が頬を伝い、鎧を伝って海へと落ちていく。
(前にいっただろう、そら)
 もちろん、覚えている。
 忘れるはずもない。
 ――そらが何処に行ったって大丈夫だよ。
 俺が見つけて、必ず守るから。


 抱き合う二人を、荒れた大海原が、次々と立ち上がる巨大な水柱が覆い隠していく。
 八龍の咆吼が闇世界にとどろき渡る。

────────────────────

 塔世界は崩壊しつつあった。
 最上階での堕天使とレミリア・スカーレットの力の激突、そして真ん中付近でのフランドール・スカーレットの完全破壊により、巨大な塔は粉砕され、くの字に折れ曲がりながらゆっくりと崩れていく。
 そこへ、新たな破壊神が出現した。
 まるで塔を花蕊のようにして、咲き始める花弁。塔を囲んで暗黒の海から立ち登る八匹の巨大な龍。
 彼らは塔へと収束すると、一気に攻撃し、貫通し、巻き付いて折り曲げ始めた。塔はまるで包丁を突き入れられる豆腐の如くずぶずぶと砕かれ、折り曲げられていく。塔の巨大さを考えれば、魔龍の強大さは一目瞭然だった。抵抗することなど不可能だった。
 崩壊した塔を闇の海へと引きずり込みながら、八岐大蛇は雷鳴のように啼き続ける。
 それはどこか、人間の哄笑にも聞こえる不気味な声だった。
 無となった世界に、笑い声はいつまでも木霊していた。