幻視 遷移軌道2065

「難攻不落な科学の地位については、多言を要しないであろう。われわれは、宇宙論的な理論の全分野を要求し、それを神学からもぎ取るであろう。科学の分野をこのように侵害している一切の計画と組織は、それらが侵害する限り、科学の支配に屈せしめるとともに、科学を支配しようとするような一切の思想は、これを撤回しなければならない」
          ジョン・ティンダル
  千八百七十四年 ベルファストにて
    (「科学と空想」平田寛訳 創元社)



 ……漆黒の円い影が荘重な指輪のように同心円状の光を帯びていく。額に納められた宝石のように宇宙に輝くのは、銀河の辺境にあるこのありふれた惑星系の主――太陽。空気の層に遮られることなく、生まれたままそのままの凶暴な光を四方八方に放出している。
 光はやがて、影を白日の下に晒す。
 光から分離する影の円は、球となって立体と化し、
 光は闇から浮かび上がる者をプリズムに分解し、
 青の幻想として選び出す。
 漆黒の虚空に浮かびあがる天空の碧玉。太陽から光速で八分という、絶妙な距離が生み出した、宇宙の奇跡。真っ青に白い縞が幾重にも渦巻く、僅かに歪んだサファイア。


 地球と呼ばれる。


 その影から、小さな小さな物体が浮かんで来ようとしていた。軌道斜傾角六十五度の楕円軌道をほんのわずかな螺旋に刻みながら、見た目にはゆっくりと、実際には疾くありて。
 直径五十八センチの球体に、何本かのアンテナが付けられただけの、頼りない金属加工品。前世紀、極北の大国から打ち上げられ、たった二十一日だけ決められた電波を発信し、その後大気圏に再突入して燃え尽きた、人類最初の人工の「星」。人間が千年を掛けて構築した科学が、重力を振り切って天に背を伸ばした、最初の爪痕。
 今それがゆっくりと自転しながら、地球の影を横切っていく。だがこれは最早存在しない筈だ。今はもう、遠い歴史の中にしかその姿を留めていない。
 ならば、
 これは、
 ――幻想なのか。
 誰が観ている幻想なのだろうか。
 人が生み出した、科学が生み出した幻想なのだろうか。
 「衛星(スプートニク)」と名付けられた幻は、地球の影へと溶けるようにして消えていく。
 そして、その軌道を追うようにして、
 ……いや、その軌道をゆっくりと踏み外すようにして、複数の人工物が星空を航海していく。
 無骨な多面体を二、三個組み合わせたような奇形の魚。
 重力下において全くもって非合理的なその形状はしかし、至る所に軌道制御用の小型ノズルが備え付けられ、大気圏外の機動に適応することだけを目的として製作されていた。ただ虚空に浮いて自由に動けさえすれば、存在目的は達せられる。
 背後に付けられた巨大なバーニアも、先程の噴射でその目的の四分の一を使用してしまった。あとは決められたところで減速し、帰還の際に同じプロセスを繰り返すだけの代物だ。
 巨体の下部には、凶悪に尖ったロケットが数機取り付けられている。それが推進機の類でないことは、船体基部とロケットの接合部のあまりの頼りなさをみれば一目瞭然だった。
 無言で鎮座する破壊兵器の頭頂部には、千九百年代初頭の無声映画の一場面をあしらったエンブレムが刻まれている――円い顔にしかめっつらを浮かべた老人の顔と、その左目に叩き込まれた弾丸。その下に陽気に書き込まれている文字、


 "Welcome to the Moon!"


 ――凡そ周知の事実だが、地球と月との歴史は、十九世紀までは神秘の領域であり、二十世紀に科学をもって革新し、二十一世紀に悲劇的な断絶をみた。
 千九百六十年代の到達、
 千九百七十年代の挫折、
 二千二十年代の再挑戦と絶望を経て、
 人類は遂に、月が無限の恵みを与えてくれる存在でないと認識した。それまで秘匿され一部の国家の機密とされた、もっとも近くにいるもっとも遠き隣人の存在は、度重なる戦闘と地表への被害によって公にされた。
 つまり――月の裏側に、人間とは違う知性体が暮らしている。発達した独自の文化を形成している。
 彼らは、人類に対して良い感情を抱いてはいない。それどころか、月探検を妨害し、幾度となく悲劇を繰り返し、最近では地球の静止軌道付近まで出没しては、人類の営みを妨害するまでになった。まるで地球に人間を封じ込めようとするかのように。
 巨大な人工衛星が都市部に落下し、未曾有の大惨事が発生すると、SF作家によって何度も描かれたそのファンタジーは、人間にとって不毛な現実になった。
 そして、
 人類は月を仰ぎ見ることを止めた。
 月を憎むようになった。
 宗教も慣習も遠き禁忌と成り果てた。
 過去数千年、数万年に渡り、
 太陽と比肩する天の守護者とされてきた夜空の白い星は、たったの数十年で憎悪の対象になったのだった。
 歴史は書き換えられた。
 ホモ・サピエンスは、他者の構築した文明との融和を早々に諦めた。月は冒険の対象ではなく、征服すべき野蛮な蛮族にまで堕ちていった。信じられないような暴論が、光の網目を通じて全世界で語られた。平和な時代にあれだけ語られた異文明との交流の夢は、危機感によっていともあっけなく葬り去られた。


 時は充ちた。
 人類の鉄槌を、人の科学の勝利を、人の世の永続を。
 声高に叫ばれる中、戦闘のみを目的とした宇宙船群が、かつて夢と希望を抱いて冒険者が航海した同じ道を通って、自らの唯一無二の衛星へと向かう。
 その懐には、月面を掘り進んで炸裂し、連鎖反応によって地中深くまで掘削する殲滅兵器をやさしく抱いて。
 かつて死の国とも黄泉ともいわれた小さな衛星の間に結ばれた死の航路に、もはや遮るものなど皆無。科学は死への恐怖をその物理法則によって超克する。今となってはもう、彼らに方向転換の手段すら与えられていない。
 ギロチンの紐は切り落とされた。
 幻想を燃やし尽くす為に、人類の希望が、「彼ら」にとっての絶望が、列を成して虚空を進む。
 その先にあるのは、
 千年の時を経てもその貌を変えることのない、
 等しく太陽の光を浴びて純白に輝く、
 まあるい、大きな、
 月。





 だが、
 それは、
 人類が誰も気づかないぐらい、
 月で待つ異文明に悟られないくらい、
 ほんの少し、ほんの少しだけ――

 欠けている。