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夜の王女が天空高く登っていく。
白き翼をはためかせながら。
それに呼応し、月を中心点として黒く厚い雲が渦巻く。それはあちらこちらで紫電を発生させ、空間の霊力を飽和させ、
遂にそれは迸る。
レミリアの細い指の指図に従って轟音と共に大気を裂き、強力な無数の一撃となる。裁ち上がる紅の龍の数は数えきれず、それはまるで懺悔を求めて僧侶が苦悩する修道院の回廊のようにも見えた。
落雷は続く、
紅魔館へ、
湖へ、
その周辺の森へ、
そしてもっともっと遠い、幻想郷中のあらゆる場所へ、山へ、谷へ。
各地が紅の裁きを受け、煉獄の炎が吹き上がる。
その柱廊のさなかを、霊夢はひらひらとかわしながら飛翔していた。まるで吹き荒れる台風の中を舞う一枚の木の葉のように頼りなく。
雷神の怒りが収まった後でも大気が孕んだ怒気は終息しない。駆けめぐる紅の紫電は立ち込める霧を無形の力場へと変え、それら一つ一つが意志を持って巫女へと攻撃を繰り返す。逃れる術のない紅の地獄絵図。
圧倒的な魔力の中にあって、博麗の巫女は正確なストップ&ゴーを繰り返す。自ら力を使うこともなく、荒れ狂う暴風に乗るかのように、優雅に。ふわりと一回転しながら、左右に構えた札を放った。
それは只の紙であるはずだが、
また尊ぶべき神でもあった。
彼らも又意志を持って、二つ三つと繰り返し分裂し増殖しながら、紅き運命の躯を引き裂くべく飛びすさる。彼女が回避運動をとっても、それらは磁石の如き力で的を外さない。
一撃目がレミリアに傷を付けた、
と思った瞬間、彼女の躯は周囲の霧に溶け込んで霞んだ。符が通り抜けた瞬間に実体を取り戻す。こうなっては何処までが彼女で何処までが霧なのか、判別する手だてなどない。
諦めずに追いすがる無数の霊符。
レミリアはクスっと微笑んで、
無数のナイフが夜空に出現した。彼女の従者が絶対の自信をもって操った数もスピードも、この攻撃の比較対象にはならない。自らの圧倒的な能力を誇るかのように、短剣の隊列は整然として全方位に放出された。
巫女の放った札は残らず串刺しにされて消え去っていた。だが、巫女は微動だにせず、最小限の動きでナイフの攻撃を見極める。頬の横、爪先の先、リボンを掠め、襟に傷を入れる。それでも巫女は両の瞳を閉じない。
だが、ナイフの災厄はそれだけではなかった。ナイフが通り過ぎたあとには紅の軌跡が残っていて、それ自体が大きなあぎとを開いて猛禽のように次々に飛来する。禍々しい呪詛でありながら、反物を次々と転がすような優美さ。相反するような魅力を乱しながら、次々に繰り出される攻撃。
直前の攻撃を余裕を持って回避しているだけあって、霊夢は全く動揺しない。前面に完璧な防御を誇る陰陽玉を配置、紅の牙の全てを目の前で霧散させた。
その霧が消えないうちに、陰陽玉は主人の意志通りにレミリアの眼前にあり、
彼女の肩と腰を打ち抜いた―――
羽音が空を支配した。
紅の月の光が斑になるほどの蝙蝠、蝙蝠、蝙蝠。何処とへなく乱舞し陰を落とす。
駆けめぐる魔の使い。
その向こうで月が………
激しくも暗いピアノの曲を反響しながら、
月が、巨大になっていく。
どんどん膨らみ、自転の速さを増していく。
一瞬視界を攪乱された霊夢が顔を上げる、
その視線上には。
月があり、
紅があり、
月に重なる影がある。
それは、紅の調律師。
右手に運命を、左手に裁きを、その微笑みに死を乗せて。
差し出す、
愛する人を抱くように両手を差し出す。
両手の狭間で生まれたエネルギーが、もはや数字という記号で表現するのも不遜に当たる神聖な神の矢が顕現する。
その数は無限、
その力は無限、
その存在は無限、
放出されるメビウスの如く歪んだオーラが、霊光が、
今では脆弱という言葉でしか表現し得なくなってしまった霊符の結界を、薄紙のようにあっさりと貫通し、間隙を与えないまま巫女の全身を打ちのめす。
顔を覆ったのは一瞬だった。
あるいは、霊夢に本気で防御させようと思わせたこと自体、この夜で最初の出来事だったのかもしれないが……もはや戦いの趨勢が誰の手に渡ったかは明白だった。
博麗の巫女は蹂躙される。
紅き紅き打撃によって全身を侵食される。
無垢なる躯が犯されていく。
そして、
―――弾けた。
彼女の躯は意志を失いのけぞった。
今度こそ宙に投げ出された。
ずっと付き従っていた陰陽玉が、ただの物体として放物線を描き、墜落していく。
もはや空の全ては紅月だ。
大地と月が肌を摺り合わせているようだった。
その中で、黒き影となった吸血姫はその両手を重ねる。
それをゆっくりと解き、引き剥がしていく。
幼き少女の掌の中には、猛き黒炎が生まれていた。両手を離すことに長く伸びて、火勢を増していく。
それは、ただ一本の槍。
地獄の業火で鍛えられた炎の豪槍だった。
柄の部分に当たる場所を握り締め、肩越しに振りかざす。少女の幼さと炎槍の巨大さがアンバランスなのに、相互の存在は悠久の時を越えて結びついた永遠の誓いのように自然だった。
それは、運命に縛られた少女の完成形だったのかもしれない。
レミリア・スカーレットは微笑んだまま、
遊びに飽きた少女そのままの口調で呟く。
「………おしまい」
そのまま、無造作に投擲する。
炎は伸びる、
炎は伸びる、
吹き飛ぶ巫女に向かって、
幻想郷の断絶による夏の夜の終演に向かって、
その紅の切っ先に運命の一撃を載せて、
「うわああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
雄叫びが地上から全天を揺るがした。
二つの絶対存在の闘争によって無惨な肌を晒す地表と紅魔館。
その部屋の中の一つで、
既に無い屋根の中の一つで、
ぼろぼろになった床を踏みしめながら。
……博麗霊夢がレミリア・スカーレットの攻撃に晒されたのを目撃したその瞬間、ちっぽけで子供っぽいといつも揶揄される無力な躯の中心で、確かに何かが弾けた。
その何かは意志の奥、深層の波動を全身にくまなく巡らせる。
その両足は強力なバネと化し、
その両手は筋肉に秘められた力を受けて血が出るほどに握り締める。
手の中にあるのは折れた霊刀。柄には、館に入る前に霊夢から受け取った護符を巻き付けて。
それは、博麗の力を集束した小太刀。
視界が狭まる。
目指すべき場所に向かって狙いを定める。
無我夢中だった。歯を食いしばった。
ひたすら感情に流されるまま、
居合いのように抜刀する。
――――光が、
まごうことなき純白の光が溢れた。
それは折れたはずの錆びた刀ではなく、
もはや小太刀でもない。
もののふの魂を宿す巨大な野太刀だった。
邪悪を切り裂く神剣だった。
少年はそれに気づかない。
ただ、あの存在を、紅の悪魔を滅殺する手段だけを望んだ。
「ああああああああああああああっっっっっっ!」
夜空に舞い上がった。
そのまま投げ放った。
無茶苦茶で、無様な攻撃だった。
なのに―――
その一撃は真っ直ぐ飛んでいくのだ。
黒い色紙の上に白い色鉛筆を定規に当てて滑らせるかのように、まっすぐまっすぐ、
空に還っていく流星のように、
目指す場所へ、
今まさに炎の魔槍を振るおうとしたレミリアの左胸に、
正確に突き立った。
時間の流れが緩やかになる。
その場にいた誰もがそう感じただろう。
炎の槍は意志を失って消え去り、
光の剣はその勢いを衰えさせていく。
攻撃した少年の表情は激怒のまま凍り付き、
貫かれた少女の笑みは一瞬だけ驚きに歪み、
そして一層華やぎ、心底喜んだ様子で冷たく微笑んで―――
奔流が吹き出した。
左胸の傷から溢れたそれは、もはや攻撃でもありえなかった。
それは過去・現在・未来、全ての時間と空間に於いて、有と無の狭間に存在するあらゆる色素を凝縮した「紅」そのものだった。
「紅」は満ちる。潮のように。
「紅」は染める。ベニバナのように。
「紅」は降り注ぐ。真冬の粉雪のように。
天も地も大気も全て、「紅」に染まっていく。雪がすべてを覆い尽し、全ての罪を包み込むかのように。
何の力もなかった少女を千年にわたって縛り続けた見えない運命が、「紅」となって顕現する。
幻想郷の全てを覆い、その運命に従わせるために拡散していく。
一層激しく自転する月すらも「紅」。
何処が月だったか、思い出せない。
そこにあるのは「紅」だけ。
「紅」、
「紅」、
「紅」、
―――いや。
ただ一つだけ、「紅」でない者がいた。
決して染めることの出来ない光輝。
「紅」の中にひらひらと舞う、白と赤の幻。
紅白に輝く何かが舞い飛んでいた。
それは現実を超越した光景だった。
この世界全体を覆う紅の暴力の最中にあって、己の輝きを失わないその姿。小さく光の尾を纏って「紅」の中心に羽ばたいていく。
やがてそれは、新たな輝きを纏い始めた。
彼女は瓦礫の片隅で目を覚ました。
頭の中がガンガンした。
全身も痛かった。
口の中が血の味で一杯だった。
手の中には壊れた懐中時計があった。
ぼんやりと夜空を見上げた。
「紅」の空だった。
紅の中央に、愛すべき少女がいた。
苦悶の表情を浮かべている様子が手に取るように分かった。
その場所へと、紅白の蝶がひらひらと舞い飛んでいく。
覚えている、
思い出す、
忘れはしない―――
あれは、あの時の蝶だ。
自分から可愛い子を奪った、憎むべき蝶。
そして今もまた……私の可愛い子を奪っていこうとしている。
許さない。
絶対に許さない。
あの子と一緒にいるの。
あの子と二人で生きていくの。
そのために、あの蝶を落とす。
絶対に倒す……………!
握り締めた懐中時計とスペルカードを、掌ごとナイフで貫き通す。
絶対に渡さない!
絶対に!
絶対に、
それから一瞬のうちに、全てのことがおこった。
博麗の巫女の両手には陰陽玉がある。
それはいつの間にか四色の光を放つ瑠璃の珠になって膨らんでいく。
崩壊した塔から、蒼き閃光が飛び立った。
歯を食いしばりながら巫女に突撃していく。
右手からは無数のナイフを、霊で形作られた白いナイフを放出し、巫女に迫る。
だが、巫女に対して傷を負わせられない。
膨らむ霊力を察知した少年が叫ぶ、
「霊夢駄目だ、その人は―――!」
依然として「紅」は幻想郷の全てを侵食し、飲み込もうと広がり続ける。
だがもう、半眼の巫女を侵すことは出来ない。
瞳は井戸の奥のように広く、がらんどうで、何も映さない。
その代わりに、両手の陰陽玉だったものが膨らんでいく。
絶叫しながら迫る満身創痍のメイド、
飛び立つ博麗の少年、
自我を失った運命の欠片、
その向こうで四色の光が広がっていく。
それは夢、
山々の眠りを映す遙かな息吹、
それは想、
金色の波に揺れる黄昏への憧憬、
それは封、
再生のために燃える炎の揺らぎ、
それは印、
歴史の狭間に刻まれる白き伝説、
両手には幻想郷の全てがあった。
その全てで、目の前の「紅」を、
その奥で震える一人の幼き魂を包み込むように―――
時間が無限にまで引き延ばされ、
物質も音も光すらも届かなくなった無の世界で、
世界の全てを抱きしめる少女が呟く。
「夢想封印――――」
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