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「………さま。おねえさまぁ。ねぇ、おねえさまったら」
「ああ、ごめんなさいね。なに?」
「見て」
小さな手が差し出したのは、白詰草で綺麗に編み込まれた花環だった。
「上手に出来たわね。お部屋のお人形に飾ってあげましょう」
「うん!」
姉は優しく笑う。お気に入りの日傘をくるくると回しながら。
妹は歯を見せて転がるように笑う。身体中に漲らせる元気ながら、夏の庭を縦横無尽に駆けずり回りながら。
「おねえさま、今何時?」
姉がブラウスのポケットに手を遣り、新品同様に手入れの行き届いた懐中時計を取り出す。
「……まだ二時半ぐらいね。もう少ししたら戻りましょうか。お茶を頂きましょうね」
「はぁい」
その屋敷は近年、鎮守の森の一部を切り開いて建設された。将軍から天皇に政治権力が返還された後、イデオロギーと共に発展した殖産興業にうまく追随し、貿易商として成り上がった一族の資産である。上海を初めとする大陸都市との貿易は、彼らに巨万の冨をもたらしていた。
だが、一族の中軸を為した資産家は、働き過ぎが祟ったのだろうか、流行病に倒れ先頃帰らぬ人となった。公私の両面で彼を支えたその妻もやがて、失意の内にこの世を去ることになる。
彼らが遺したのは、巨大になった会社組織と利益と、膨張し続ける企業体を運営するには余りにも非力な二人の娘だけ。その権力の全ては兄ほど非凡でも真面目でもなかった弟の手に渡り、姉妹はこの弟―――叔父に引き取られることになった。彼は自分の能力を過大評価していなかったが、その分保身の能力に長けていたので、偉大な兄の血を引く二人を……彼女達を慕って会社を乗っ取ろうとする勢力を恐れ、彼女達を中央から地方の山奥にあるこの屋敷に移した。
屋敷は元来、亡くなった資産家の静養地として意図されたものだった。風光明媚な上、モダンで瀟洒な建物だったため建築としての評価も高く、叔父の家族も頻繁に滞在していた。
姉妹のうち姉はとても聡明で、早い段階で叔父の魂胆も看破していた。しかし両親を失った痛手から何とか立ち直り生きていくためにも、今は妹と二人、心安らかに暮らせればそれでいいと思っていた。不幸中の幸いというべきか、妹は真の意味で両親の死を実感するには幼すぎた。だから姉は親代わりとして妹へ一心に愛情を注ぎ、妹の健やかな生育を見守ろうと振る舞っていた。
「ねぇおねえさま、あれをご覧になって」
妹が指を差すその先には、見たこともない蝶が百日紅の花で羽を休めていた。
光を受けて、白く紅く輝く小さな蝶。まるで自ら発光しているかのようにも見える。
「とってもきれいねぇ」
「ええ、とっても不思議な蝶……私もみたことがないわ」
「おじさまはご存じかしら」
「どうかしら……叔父様はお家のこととお仕事以外には余り興味を抱かない方だし。そういえば、書庫に立派な百科事典があったわ。調べてみようかしら。一緒に行く?」
「ううん。ここでこの蝶々を見てる……だって、放っておいたら逃げてしまいそうなんだもん」
「そうね。じゃ、お願いするわ。事典を取ってすぐに帰ってくるから。ここで見張っててね」
「はーい!」
妹が大きな声を出して、蝶がびくっと羽を動かし……また止まる。
一瞬息をのんだが、二人は同じポーズで胸を撫で下ろし……顔を見合わせてくすくすと笑った。
その屈託のない笑顔が、姉が妹を見た最後の姿になる。
―――事典を持って帰ってきた姉は立ち尽くすしかなかった。まるで幻のように、最愛の妹も蝶も消え去っていた。
叔父は内心、やはり厄介事になったかとしか考えなかった。火種は火種でしかない。捨て置くことも出来ないのが頭の痛いところだ。迷子が見つからないようなことがあれば、裏で何を策謀したかと陰口を叩かれ、順調な商売にケチがつく。別に最初から兄の不幸を望んでいたわけではないが、折角転がり込んできた幸運をみすみす手放すような事態に陥るわけにはいかなかった。
妹の捜索は徹底的に行われた。
付近の住民にも報奨金を出して手配をし、会社の従業員も動員した。不幸な事件であるのは間違いないので、真剣に探すことで自らの評価を上げるという方向に話を持っていくつもりだった。それなら、兄と違って一族の頂点にありながらカリスマを発揮できない自分が、より多くの信頼を得ることも出来よう。
だが、妹の行方は杳としてしれないまま月日は過ぎ去っていった。
姉は来る日も来る日も、失意のどん底を彷徨いながら屋敷の庭に佇んでいた。美しかった顔はやつれ見る影もない。
なぜあの時、一瞬でもあの子のそばを離れるような判断をしたのだろう。たかが十五分、いや十分の間だった。だから、いつまでも自分を責め続けるしかなかった。他に何が出来るというのだろう。
掌の上の懐中時計をぼんやりと見つめる。
それは、亡き父母からの形見の品だった。
止まってしまった両親の時間を、妹と二人で紡ぎ続けるために継承した命だった。
それなのに。
なんでこんなに辛い思いをしなければならないのだろう。私は今、ここで独りぼっち。
なぜ?
なぜ?
……こんな思いをするなら、時間など止まってしまえば良かった。両親の逝去と一緒に、私達の時間も歩みを止めるべきだった。
それならきっと………いつまでもずっと、夢のように幸せなままで。
運命の風はなお、彼女を苛むことになる。
今度は、彼女自身が失踪を遂げたのだ。
勿論誰にも、その理由を推し量ることは出来なかった。
叔父としては頭を抱える事態であったが、逆に兄の影を払拭する機会でもあり、彼はなるべく後者の考え方で天秤を傾かせながら行動した。いうまでもなく今回も全力を尽くして探したが、頃合いを見て打ち切る手際も見事だった。組織内にはそれについて異議を唱える者もいたが、精神的支えとなる先代の血が途絶えてしまっては、担ぎ出す大義名分も小さく成らざるを得ない。こうして彼は、ほとんど労せずして巨大な権益を手中に収めることに成功したのだった。彼自身の良心も最小限の傷で留めることが出来たから、何も問題はなかった。
月日は流れ、約二年後。
支配者としての様々な力や葛藤を楽しみながら生活していた叔父の元に、衝撃的な報がもたらされる。
なんと、姪御の内、姉の方が見つかったというのだ。それも、都会の花街で。彼女はどうやら人さらいに捕まり、娼館に売り払われていたのだという。古くから勤める会社の従業員が彼女の顔を覚えていて、あんまり似ているから雇用主を締め上げたところ、子細を話したということだった。
心中では舌打ちすべき事態だったが、それよりもまず早めに手を打たなければならない。特急で馬車を迎えに行かせ、人目につかないように闇夜を縫って屋敷へと運ばせた。
平静を装って出迎えた彼とその家族は、馬車から降りてきた姉を見て愕然とした。
なんと、彼女は妊娠していた。臨月も近い状態だった。客を取らされた上の、誰とも解らない子供である。
彼女は叔父の顔を見ると、以前そうであったように純粋で儚げな微笑みを浮かべる。大きく膨らんだ肥立ち腹をさすりながら、
「あぁ叔父様、お久しぶりでございます。一緒に喜んで下さいませ、あの子が……あの子が帰ってきてくれたんです。こんなところにいたなんて。私が呼びかけると、いつものように笑ってくれるんです……ね? 叔父様にもお解りいただけるでしょう?」
その瞳に生気は無く、ただ淀んでいた。
彼女は屋敷の奥深く、座敷牢に入れられた。昔の村落には、気が触れた人や狐憑き、原因不明の病人を隔離するために、鉄格子の入った部屋が設けられている家が多かった。ここは西洋風の屋敷ではあったが、古来よりの因習は色褪せずに残っていた。
叔父一家は苦悩の中にあった。
狂人と化した少女も、その母胎に抱かれて眠る赤子も、彼らにとっては面倒を引き起こす原因でしかなかった。いっそのことこのまま真実を伝えずに闇から闇へ葬り去ろうという考えすら頭によぎったが、その辺で良心の呵責に苛まれてしまうあたりが、所詮人並みの人間でしかなかった。
程なく、姉は出産した。女児だった。
陣痛の苦しみを他人に訴えることなく、夜半に一人で子供を産み落としたのである。家人が気づいたのは朝になってからで、血塗れの子供を抱いた彼女は壮絶な姿だった。
紅く汚れた聖母。
彼女は吾が子と引き離されるのを極端に恐れ、顔馴染のメイドが子供を産湯につけようとしても、頑として抵抗した。
事態は否応なしに展開していた。
叔父としても決断を迫られていた。名家の令嬢が錯乱し、しかも誰とも知れぬ輩の子を身籠もって出産した。これは大変なスキャンダルだ。新聞等は小うるさく嗅ぎ回るだろうし、万一広まれば折角構築しつつある社交界での地位も揺らぐことになる。そしていまだに消えぬ兄への後ろめたさが、彼を保身に走らせるのだった。
とりあえず、姪は自分で最後まで面倒を見ることにした。屋敷から連れ出されたのは自分の手落ちともいわれるだろうし、亡き兄の忘れ形見でもある。だが、彼女の娘は屋敷に置いておく訳にはいかなかった。そこで、信頼できる社員の家に養子として預けようと考えたのである。
これについて、姉の世話をしているメイド達は口々に「酷い話だ」と叔父を非難しあったのだが、彼女達が配慮を怠り、座敷牢の近くで喋っていたがために、その策謀は姉の耳に届いてしまった。以前の彼女であれば叔父の考えも汲もうと努力しただろうが、今の彼女にとってそれは、殺人予告にも等しい内容だった。
暗い部屋。
蝋燭の揺れる部屋。
したたり落ちる水滴の音を聞きながら、彼女はあの日のようにぼんやりと懐中時計を見ていた。
腕の中の娘は、母の手に抱かれて安らかに眠っている。この子をまた連れて行くというの? また、私から奪ってしまうというの? また私は、独りぼっちになるの?
何も映さない瞳に、狂気の炎が燃えさかる。
……時間を止められればいい。
私とこの子だけの時間。
だったら、もう苦しまなくてすむから。
あの子を連れて行ったのは、蝶。
あの、紅白の蝶。
だから私は、
時間を止めて、
動きを止めて………あの蝶を、私は殺す。
懐中時計を握り締める。
ひねり潰す勢いで握り締める。
やがて、乾いた音を立てて、文字盤を覆った硝子が割れた。
夜半。叔父はワインで晩酌をしていた。豪奢な肘掛け付きの椅子に座り込んで溜息をつく。
仕事のことで気苦労も絶えないが、そこにきて彼女のことは正直堪えた。自分の保身を確保してからなら、いくらでも彼女に同情できた。それももう少しすれば一段落つく。彼女もここで、心安らかに生きてくれればと切に願った。彼は決して悪人ではなかった。
背後に忽然と影が立った。
振り返った彼が、今生の最後に見たのは、鋭い短剣の剣尖が自分に向かって振り下ろされる瞬間だった。
紅白の蝶はそこかしこにいた。
自分を馬鹿にするかのように羽を休めていた。
あの時もそうだった。だから油断した。
だけど、今度はそうはいかない。この子は誰にも渡さない。
もう二度と、迷子になんてならないように。
武器は叔父様の収集品を借りた。汚したら怒られるかもしれないが、後で謝れば大丈夫だと思う。今はこの子を護るのが先なのだから。
見つけてはナイフを無造作に振り下ろした。蝶は二つに分解されて消える。なのに、視線を上げればまたその蝶が浮かび、屋敷中をひらひらと飛んでは着地するのだ……窓硝子に、椅子に、ドアに。そのたびに懐中時計を握り締め、ナイフを振り下ろした。
―――覚束ない足取りで彼女が通り過ぎた後には、心臓を突き刺されて倒れ込んだ、叔父の家族やメイドや使用人達の死屍が横たわっていた。彼女は振り返ることなく、扉を開け放ち、燭台を倒しながら階上へと登っていく。
炎は舌となって絨毯を、カーテンを、柱を飲み込んでいく。火の粉が舞い、鮮血が溢れる。
屋敷が紅に染まっていく。
そして、いつの間にか彼女は自分の部屋に戻っていた。
座敷牢ではなく、本来の彼女の部屋である。
揺り椅子を傾けながら、我が子のために子守歌を歌っていた。何者にも邪魔されない時間のために。二人だけの時間のために。
そこには大きな天窓があった。
部屋にも火の手が回り、周囲の柱が火焔の華を揺らし始める。
午後十一時五十五分を刻んだ瞬間、壁の時計が炎に巻かれて爆ぜた。
炎が全てを飲み込んでいく。
炎に照らされながら、歌を歌いながら、
彼女は天窓を見上げていた。
夏の夜空には満月が掛かっていた。
見たこともないくらい真ん丸で、
見たこともないくらい紅に染まっていた。
そして、そこから声がした。
(おねえさま)
「なぁに」
(おかあさま)
「なぁに」
我が子は手の中にいるのに、彼女は月に向かって答える。
まるで紅月が愛すべき存在であるかのように、己の全ての愛情を注ぐ微笑みを浮かべながら。
(わたしは、ここにいるわ)
「ええ、解っているわ」
(もう二度と、迷子になんてならないわ)
「ええ。あなたは私と一緒にいきていくの。もう二度と、迷子になんてならないように」
我が子を月に向かって差し上げる。
その二本の腕も、紅蓮の紅に包まれていく。
(だから、わたしを呼んで。わたしを招き入れて)
「いらっしゃい、私の大切な子。私の胸の中へ………」
月に向かって精一杯差し伸べる。
しっかりと、しっかりと。
膝の上では狂気の短剣と、時を裏切った懐中時計が寄り添う。
やがて、
両の腕の先端から、紅い筋が幾本も流れ落ち始め、
全ての罪と罰は、炎によってこの地より浄化されていった。
屋敷は紅蓮となって最後の悲鳴を上げる。
あっという間に燃え広がった。全焼だった。
その焼け落ちる祈りを引き継ぐかのように、紅月が闇夜の世界すべてを睥睨していた。
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