殺されていた。
命の意識は寄る辺なく宙に浮き、途方に暮れるばかり。
四メートル四方ほどの部屋。その面積の半分を天蓋つきのベッドが占めている。絨毯もベッドのシーツもカーテンも緋色で統一してあって、豪奢で重苦しい雰囲気。天井から吊り下げられた蝋燭のシャンデリアには火が灯っていない。部屋の奥には窓が一つ。開け放たれているが、それを遮るように黒く頑丈な鉄格子が嵌め殺しにしてある。几帳面な斜線を描いて外界から降り注ぐ光は嘘のように白くまぶしい。
ふと、気づく。
ベッドの上は凄惨なまでに血まみれだった。慌てて視線をそらす。
ここはまだ紅魔館の中なのだろうか?
それとも、既に自分は彼岸の川を渡ってしまったのだろうか?
命はぼんやりと考える。
テーブルには二つの椅子があり、その一つには命の骸が腰掛けていた。もちろん死んでいるので、だらしなく引っ掛かっているという方が正しい。首は前方に折れ、口は意志なく開かれ涎はこぼれ、白目を剥いた生気無き瞳は虚無だけを映している。握り拳を固めたままの手が、だらしなく垂れ下がっていた。
ここで、自分の胸中に渦巻いている汚泥の正体が分かる。全くもって皆無な現実感。殺された経緯が分からないのだ。自分がここにこうしている理由が分からない。記憶が断絶している。
誰が?
なぜ?
多分、幽霊っていうのはこういう気持ちだから成仏できないのだろうと納得する。体験してみて初めて分かるものは確かに存在するが、全てが終わってしまった今では、何処までも無駄でしかない。
テーブルには両刃のナイフが無造作に放り出してあって、その剣尖には生々しい鮮血を残している。乾ききっておらず、ねっとりとした緋色が動いているようにも見える。間違いなく、凶器はこれだろう。
ゆっくりと、ゆっくりと視点をずらしていく。
壁沿いに並ぶ古めかしい箪笥、鏡台。鏡は三面鏡になっていて、無限の混沌へと見る者を誘うが、当然ながら幽体の自分は映っていない。その隣にドレッサー、子供用のアームチェア。そこには三人の人形姉妹が肩を寄せ合って狭苦しそうに座っている。
箪笥の上には、部屋に似つかわしくないオブジェ。ホルマリンに漬かった心臓だった。イミテーションにしては趣味が悪すぎる。血の気は全く消えて蒼白い。本物なら、既にきれいに洗浄した後なのだろう。内臓は本来こういう色をしているんだと、理科実験室で嫌悪感を覚えた記憶がある。血と関わり合いのない心臓に何の意味があるのか、命には分からない。
部屋に備わった扉をよく見ると、鍵穴がついている。外からロックしてあるようだが、室内に鍵は見当たらない。箪笥の中にしまってあるのだろうか? 実体のない命に、それを確かめるすべはない。
扉の外から何かが聞こえる。
か細く優しい、眠気を誘う、それは歌。
「 おやすみなさい わたしのむすめ
あけないよるに ゆめを みて 」
「 あかい あかい
あかい つきが
あかく たかく
あかく そまる… 」
誰が歌っているのだろう。
静かな静かな子守歌。
と、背後に……部屋の中に人の気配を感じた。
振り返ると、テーブルの上のナイフを払いのける小さな手。
「あーもう、邪魔だっていってるのにぃ」
殺人現場に少女がいる。
年端もいかない、幼い姿。椅子に登るのに四苦八苦しなければいけないほど、小さな少女。頭には赤の大きなリボンがひょこひょこと揺れている。
テーブルから落ちたナイフは、緋色の絨毯にどっかと突き立った。実体がないというのに、命は冷や汗をかく思いがする。彼女の手つきは危なっかしくて見ていられない。それでも他に何も出来ないから、命は見守り続ける。
少女はどうやらお茶を淹れようとしているようだ。ティーセットは病的なまでに白い。周囲が紅でコーディネイトされているから余計にそう感じられるのだろう。ポットの紅茶は湯気を立てていて、誰かが彼女の為に既に準備をしているのだとわかった。あんな幼い少女が、一人できちんと準備を出来るはずがなかった。
彼女はおっかなびっくり急須を握ると、ティーカップに注いでいく。流れ落ちる紅と茶色の芳しい液体。陶器が重たいのだろう、手が震えているが、なんとか注ぎ終わる。次いでもう一つ。椅子の位置を移動し、命の骸の横にやってきて椅子に登り、その前のティーカップに同じ動作を繰り返す。幼いから、やたらと時間が掛かる。
二人分のお茶を淹れ終わって、少女は満足そうに頷き、席に着いた。
「さあ、おやつの時間よ。一緒に食べましょうね。いただきます」
命の骸は答えない。
命の魂は答えられない。
少女は怪訝そうな顔をして、それでもお茶を傾け始めた。そこで、砂糖が入っていないことを思い出し、顔を思いっきりしかめ、舌を突き出した。
「ううぅ、にがぁい」
砂糖壺からスプーン山盛りの砂糖を二度三度。溶け残るぐらい沢山いれて、満足そうにお茶を飲む。目の前には盛りつけられたクッキィ。バタァクッキィに手を伸ばし、ちょっと命を見遣って、悪戯そうにチョコレイトクッキィを選んで頬張る。
「……わたしと、あなただけの内緒よ? チョコレイトばかり食べてたら、虫歯になるって怒られちゃうの。怒らなくてもいいと思わない?」
一人ごちながら、少女はぱくぱくとクッキィを食べ、お茶を飲む。殺人現場のお茶会は続いていく。
「ねえ、あなたは食べないの?」
骸は答えられないが、少女は綺麗なおでこに細い指を当てて考えている。やがて、
「わかったわ。食べさせて欲しいのね。甘えん坊さんなんだから……いいわ、ちょっと待ってて」
またあたふたと椅子を降り、骸の横に移動させるとそれに登り、命にあてがわれたティーカップを持ち上げる。支えを失った頭を持ち上げ、唇にカップを触れさせて傾ける。口は開いたままだが、その大半は服を汚して流れ落ちてしまう。
「あーあー、ちゃんと飲まないとぉ。服汚したら怒られちゃうのよ?」
出来るならそうしてあげたい。
命はそう思いながら、少女の行動をじっと見ている。他に何も出来ないから。
少女は箪笥からタオルケットを取り出すと、濡れた命の服を拭い始める。命の躯が力無く倒れそうになると、慌てて支えなければならない。幼い彼女にとって、それは結構な難事業だった。
命の首が背もたれの後ろに垂れると、命の死因が露わになった。心臓が丸ごと抉られている。そこを中心に鮮血の後が広がっているのだが、少女はお茶がこぼれた後だと勘違いしたのか、一生懸命それをふき取ろうとしている。傷が目に入らないのだろうか?
ということは、やはり陳列された心臓は自分のものなんだろうか?
命はぼんやりと考える。
少女は作業に没頭しているが、血と紅茶は広がる一方で綺麗にならない。逆に、少女の服や袖を汚していく。それらが付いたまま顔を拭ったりするから、頬や額にも血がこびりつく。少女はそれに気づかない。
暫くして、ある一定の達成感を得たのだろうか。少女は作業を止め、うーんと伸びをした。
「あんまりお行儀が悪いと、遊んであげないんだから。分かった?」
死体に向かって説教を垂れる。きっと誰かの真似をしているのだろう。微笑ましくもグロテスクで異様な光景だった。
「あーあ、お茶が冷めちゃったわ」
自分のお茶を飲もうとして、人形のネクタイが歪んでいるのを見つけ、丁寧に直す。それから窓の外に何かを見つけたようだ。少女は笑顔になって駆け寄った。
「うわぁ」
命の意識もそれについていく。
そこは太陽の光が燦々と降り注ぐ、白く暑い夏の中央だった。少女の部屋は階上にあるようで、目の前はまだ青い薄が一面に群生し、風が吹くたびに海原のようにうねっている。風の声が耳の奥で木霊して、少女の髪と大きなリボンを揺らしていた。
少女は鉄格子の間から顔を突き出す。
と、視界の奥に人の姿がある。薄の海を泳ぐかのような二人連れ。それは、幼い頃の命と、亡くなる前の祖父だった。写真で見たことしかないはずの祖父は、命が想像していた通りに足を運び、柔和な笑顔をしていた。薄は命の姿を覆い隠しては揺れる。彼の持つ昆虫採集の網が、白い旗となって右へ左へ揺れている。老人はそれをにこやかな表情で見つめている。
命の意識は、不思議な光景に憧憬溢れ、胸を締め付けられる。思わず心臓を抑えようとしたが、それは意味を成さない。彼は死に、彼の心臓は何者かの虜になっている。彼の眼下で外界を羨望と共に見つめる少女のように。
少女の首が動いた。今度は別のものを発見したようだ。
「あ、ちょうちょだ」
命はそちらを向き……奇妙な既視感に捕らわれる。
命と少女のいる部屋の窓に向かって、小さな蝶が飛んでくる。紅と白で彩られた、美しくも幻想的な蝶。小さい姿が、印象的な色彩のために大きく見える。
それは風に乗り、鉄格子をすり抜け、部屋の中に舞い込む。少女は大喜びで歓声を上げ、両手を上げて捕まえようとする。その頭上を蝶はゆっくりと旋回しながら舞う。
「ねぇ、おりてきて。捕まえたりしないからぁ」
幼い嘘で歓迎しながら、少女は笑う。
蝶は、やんわり拒絶をするかのように飛翔を続ける。
ひゅっ
「………あ」
風切り音が、少女の時間を一瞬にして切り取った。
頭上の蝶がいなくなった途端、背後で何かが壁に打ち付けられた音がした。少女は笑顔を凍り付かせたまま、音がした方をゆっくりと振り向く。
紅白の蝶が一本のナイフによって壁に貼り付けてある。もう生きていない。ただ、後肢だけをぴくぴくと震えさせている。風を受けて飛翔する為の片翼が、鋭利な刃に切り取られて、舞い散る桜のように地面に落ちていく。
幻惑は、見破ってしまえばただの事象に過ぎず、生きるのを止めた生物は、ただの物体にしか過ぎない。
命を殺したのと同じナイフが、紅白の夢を展翅している。
少女の顔がゆっくりと、ゆっくりと泣き顔に変わっていく。こわばり、しわくちゃになり、大粒の涙が目尻からこぼれ落ちる。
「う、う、うわあああああん! うわあああああっ、うわああああっ、うわああああっ、ひっく、ひっく、ひっく、うわああああ………」
しゃくり上げながら、その場に立ち尽くす。血と紅茶で汚れた両手も服もそのままに、ただ泣くことしかできない。スカートの裾をぎゅうっと握り締める。ぼろぼろと涙が、紅の絨毯に落ちては染みをつくる。
少女をあやすように、扉の向こうから歌がする。
「 あかく あかく 」
「 あかく ねむれ 」
「 あかく あかく
……おねむりなさい…… 」
か細く優しいその歌は、全てを包み込むように広がっていく。それでも少女はひたすら涙を流し続ける。
日光は遠く、ここは影と紅の墓場。
それはまるで、永久に終わらない葬儀のようで。
何をすることも出来ない命は、繰り広げられる光景をただただ見下ろしながら、途方に暮れている。
……こうした解けない設問ほどたちの悪い問題はない。もちろん、本当に回答のない問題が提示されることはほとんどなく、その原因の大半が自らの能力不足と判断力不足と認識力不足に起因するとしても、だ。答案用紙の向こうから悪意を感じるということは多々ある。そして、そういうことに命は敏感だった。
なぜなら、自分に能力がないことをしっているから。要するに卑屈なのである。
「……やめやめ。やってられないって」
握ったシャーペンを、真っ白なままのノートの上に転がした。テキストを閉じ、通学鞄の中から携帯用ゲーム機を取り出す。電源を入れ、クイックロードを実行して途中からゲームを再開する。もう少しでクリアできるのだ、さっさと解いてゲームショップで売り払わなければ。一日ごとに買い取りの値段が下がってしまう。
命が座る席は、自分の席。
そこは教室。
窓沿いの、前から五番目の席。
クラスメイトは誰もいない。放課後だから。自宅に帰ったら、脳天気な両親に邪魔されて勉強どころではなくなるに決まっている。だったらここで早めに終わらせて、家での気儘な自由時間を増やすのが得策だ……というのが一応の理由だった。
ここは三階で、窓の外には校庭が広がっている。今は試験期間中だからグラウンドには誰もいない。炎夏のまっただ中で、アブラゼミが信じられないほどの合唱を奏でている。もちろん汗も止めどなく出る。それなのに、教室から離れたくない。
もしかしたら、もうとっくに夏休みになっているのかもしれないな、と思う。それなのに、テストが出来なくて、テストを受ける決心がつかなくて、僕はじっとここに座る。それでも勉強もせずに僕は、一体何をしているのだろう。
何処かでもう一人の自分が呟く。夏休みなわけないじゃないか。こうやって目の前に問題が残っているというのに。さあやれ。さあ終わらせろ。自分の時間を掴む為に。
努力しろ。
そして、そういう頭の中のもやもやを敢えて無視するべく、命はゲームに熱中する。または熱中するふりをする。現実逃避する時ぐらい邪魔しないでくれ。そう願う。
ゲームは終盤にさしかかっていた。レベルも足りる。強さも申し分ない。努力が嫌いなわりに、命はPRGのレベル上げが嫌いではなかった。半分以上頭を空っぽに出来る作業だからということなのかもしれない。
ただ、今もってラスボスが倒せない。
理由は簡単。装備のウィンドウを開く。結構序盤で手に入れた聖剣の名前が、一番下に掲載されている。十中八九、これを使わなければラスボスは倒せないのだろう。が、使い方が分からない。主人公が剣を抜けないというメッセージを何度も読んだ。それこそ嫌になるぐらいに。
ラスボスには魂が二つあって、片方をこの剣で貫かないとダメージを与えることが出来ないらしい。そういう予備知識は攻略本で仕入れていたが、肝心の使い方が欠如しているのではどうにもならない。何処かで見た気もするのだが、思い出せないままなのだ。
それが苛つく。
汗がまた噴き出る。額の汗を腕で拭う。
ゲームぐらい、ストレスなしに遊ばせて欲しいと思う。所詮は暇つぶしなのだから。
でも。
この現状は、自分がある要素を見落としていることの帰結なのだ。ゲーム内に答えはある。何処かにあるはずなのだ。
それを見ていないのは、自分だ。
自分の責任だ。
それが苛つく。
だから、ラスボスのダンジョンの前で延々とレベル上げを繰り返す。数字だけはどんどん上がっていく。プレイ時間はどんどん加算されていく。解決にならない時間。繰り返される自己嫌悪。
ゲーム機のAボタンだけがやたらすり減っている。Bで否定するよりも、Aで肯定する方が簡単だから。ボタンを押していればゲームは進む。それなのに、自分は立ち往生している。
それが苛つく。
原因を考えることなしに。
「………やっぱり、ここにいたのね」
何処かで聞いた声がした。
顔を上げると、見慣れた顔の少女が居る。
廊下に繋がる入り口の扉にもたれかかって。
頭の上にもっと見慣れた赤いリボン。
古めかしいセーラー服を纏い、ぺたんこの鞄を肩に担いで。
慌てて命はクイックセーブを施し、ゲーム機を鞄の中にしまった。
「……いいだろ、別に。どこにいたって」
「良くないわよ。私はずっと待ってたんだから」
「だから、待ってなくていいんだって」
「本当に?」
「本当だよ」
「本当に?」
彼女がこちらを見ている。じっと。
目をそらして校庭を見ると、誰かが走っている。情けない姿だ。分かっている、あれは僕だ。祖母の家に泊まった夜の僕。肩口に大きな傷を付けられて、意味もなく興奮して、巨大な月に追われて情けなく逃げ出している僕だ。ビデオで同じ場所から繰り返し再生しているかのように、逃走のシーンを何度も何度も繰り返している。
あの時は必死で、何も分からず滅茶苦茶に逃げまどっていたが、客観的に見ればこれほど滑稽な光景もない。しかも今は真っ昼間で、醜態を隠してくれる闇は何処にもない。
何もかも嫌になって机に突っ伏す。
そこに広がっているのは解けないままの問題だ。いきなり提示されて、さあ解け、さあ考えろと強要する意地の悪い問題。
何処にも逃げ場はない。
分かっているんだ、いわれなくても。
それなら。
それなら、
「………………わかったよ」
命はゆっくりと頭を上げる。いつの間にか少女は近寄ってきていて、命の机の前に立っている。満足そうな微笑み。
「そうね。やっぱり、きちんと人の話は聞くべきだわ。何も考えずに断る前にね」
「考えてるよ」
「あら、そうかしら」
少女はすまして笑っている。
「もう一人でも迷子にならない?」
「子供扱いするなよ」
少女はいつものように笑っている――。
……しばらくの後、二人は通学路を並んで歩いていた。
白日が刺すような勢いで降り注いでいる。なのに、眩しさを発生させているのは太陽ではなくて紅い月。そのせいだろうか、周囲は微妙なセピア色と紅色に滲んでいる。
アブラゼミの大合唱はとどまることをしらない。あの声は求愛と交尾と死のエチュードでしかないのに。そう表現すると少しはロマンティックになるかといわれれば、そうでもない。昆虫採集に躍起になったのはもう遠い昔の話。通学路に転がる蝉の死体から命の尊さを感じ取ることなんてできやしないのだ。
隣を歩く少女は、すまして前方を眺めている。大きな入道雲が遥か遠くに鎮座している。何でもない光景を瞳に映して微笑んだまま。なぜあんなふうに笑っていられるのだろう。
そうやって観察している自分は仏頂面の局地なんだろうな、と思う。だからなんだかいたたまれない。
後ろからチリンチリンと自転車のベル。振り返れば、私服姿の級友が歯を見せて汚らしく笑っている。自転車で、二人の横をすり抜けながら、
「よぉ命、学校残ってゲームかよ。どーせクリア出来てねえんだろうが」
「うるせぇ」
「攻略本立ち読みなんかしてるからだよドケチー」
「とっとと消えろっ」
少年の自転車が、下品な哄笑と共に遠ざかっていく。
何もあんな冷やかし方をしなくてもいいのに。だから餓鬼は嫌いだ、いつまでたっても小学生と同じ気分で同じように振る舞って。
「……ドケチ、ね。ふーん」
冷淡な視線に気づく。
「なんとなく、あんたって人間が分かるような気がするわ」
「あー、たまたまだよ、たまたま」
「そうなのかしら?」
少女はぐぐっと睨み付けて、それからまた笑う。
「……ふふふ」
「何がおかしいんだよ」
「なんでも」
「バカにしてろ」
膨れっ面になる。多分、自分の顔は真っ赤だ。彼女の前ではこんな自分を見せたくないのに。どうしてそんな気分になるのか分からないけど……でも、女子の前で格好良くありたいってのは、男の本能みたいなものだから、仕方ないのだ。別にこいつだから、というわけではない。そうに違いない。
少女が笑い、リボンが揺れる。
二人は一緒に歩き続け、
チリーン。
……足を止める。
そこは、街と街の間にある小さな神社だった。誰も目にとめる者のない、誰も気づかない、でも決して無くなることのない古の社。こんもりと小さな森を背負った、遠き御代の神の霊場。
朽ちかけた鳥居の前で、命は立ち止まる。
くるくると回っている、日傘。
一緒に影もくるくる、くる。
数歩離れた場所に、見覚えのある女性が立っている。肩に日傘を掛け、楽しそうに回している。
すごい美人、という言葉ばかりが頭の中をぐるぐると回る。命の記憶にも、これだけきれいな大人の女性は見たことがない。年は高校生か大学生ぐらいに見えるけど、整った顔立ち以上に、黒いサマードレスと日傘を軽く着流している姿が、とても大人っぽく見えた。見ているだけで心臓が跳ね上がってしまいそうだ。
「どうしたの? そちらにいくと迷子になってしまうけど……大丈夫?」
「そ、そうなんですか?」
こちらに家があるはずなのに、そう指摘されると本当に迷子になってしまいそうな不安さを感じてしまう。
女性の瞳が、すうっと細くなる。
命を見ているのだろうか?
それとも。
命は振り向く。一緒に歩いていた少女は立ち止まって、こちらをじっと見ている。
命を見ているのだろうか?
それとも。
チリーン。
何処かで呼び鈴の音がする。一体誰を呼んでいるのだろう。
神社の奥から、蜩の鳴き声が響いている、カナカナカナカナカナ。そういえば紅の月は西に傾き始め、夕闇が迫りつつある。なのに、日差しは強いままで、相変わらず汗腺から温くべとつく液体が噴き出てくる。もうシャツは肌にぴったりとくっついて、気持ち悪くて仕方がない。
逡巡する。
日傘の女性が、ゆっくりと右手を開く。
そこにあるのは、硝子の割れた懐中時計だ。時を刻み続ける道しるべであるはずのもの。柔和な表情と共に、か細く優しい声が響く。
「さぁ、お家に帰りなさい。二度と迷子にならないように」
遠くで歌が聞こえる、子守歌が。
「………………」
一方の女生徒は立ち尽くしたまま。
赤いリボンが、風に揺れている。セーラー服のリボンが、スカートの裾が、切りそろえられた前髪が、皆一様に揺れている。
瞳は深く青く、命を貫き通す。
その向こうを、沈黙と共に紅白の蝶が舞う。 紅月は傾いて西の空へ没し、三人の影が三つ、次第に長くなっていく。
それでも命は、決断することが出来ない。
それでもようやく、
命はようやく、
ゆっくりと動き始める。
………そちらへ、
「……でも、不思議じゃない? 何で登場人物がみんな小さな女の子ばっかりなの?」
ご飯を飲み込みもせずに、母は箸を向けて父に尋ねる。行儀が悪いと何度注意しても直らないから、祖母も父も命も既に諦めている。
仄暗い蛍光灯の下、卓袱台を五人が囲んでいる。命、父、母、祖母、そして日傘の女性。家族でない人が混じっているのに、誰も不自然だとは思わない。命も当たり前のように、ご飯のお代わりを頼んでいる。お櫃から山盛りの白米をついで、彼女はにっこりしながら茶碗を返してくれた。
卓袱台から少し離れた場所に、骨董品じみたTVがおいてある。ダイヤル式で、信じられないことにモノクロだった。ただ、電波を受信する能力は現在のものと遜色ないのだろうか、映像はかなり鮮明だった。流しているのはNHKだろうか、世界の珍しい昆虫を特集した番組のようだ。音はない。父親の教育方針で、食事の時間は会話をすべく消音が実行されている。かといって、食事中に親子で会話が弾むことは少ない。もっぱら夫婦同士がぺちゃくちゃと喋り続けている。
……茶碗を受け取ると、命は彼女に礼を言う。
「ありがとう」
彼女は答えない。ただ、笑うだけ。
父が少し考えながら、母の問いに答え始める。
「うーん……そもそもね、魔女だの巫女だのっていうのは本来は成熟した女性の為の地位だったんだ。月の満ち欠けと月経が結びつくように、それが不思議な力と結びつくように。逆に言えば、初潮が来る前の少女は女性ですらない。古代の精神文化の発祥を見ると、その殆どが女性上位の社会になっている。これは人を生み育てることが出来るのが女性だけだったということから来てるんだよ。産婆さんが特殊な技能者として崇められていたのも、そういうことの一つだよ」
「ふーん。私は、男の人がいないんじゃどうしようもないと思うんだけど」
「実際はそうなんだけどね。それほど、子供を胎内に宿すって言う行為が、人知を越えた現象だと思われていたのかもしれないね……で、そういう原始の世界観から転換し、結果として理性の文化を構築する手助けとなったのが敷衍された世界宗教だったんだ。キリスト教では、アダムのあばら骨からエヴァが生まれたことになってるだろう? かなり恣意的な神話だよね。この考え方が定着することにより、女性達は貞淑であれという思想が普通になった。科学が進んで、受胎のメカニズムが明らかになったのも拍車を掛けたんだろう。ただ、どこかで原始的な文化への回帰、恐れが残っていたんだ。今もそうだよね。そういうものが幻想と怪奇から生み出される妄想として伝えられているってことだよ」
「それから?」
「ほら、この物語の作者は男性だろう? だから、神秘的な魔女の力を保ちつつ、『女性』になって凶暴な本性をむき出す前の少女をこの想像の世界に封じ込めようとしたんじゃないかな? ルイス・キャロルが良い例だよね。絶対に届かない場所に少女達を置くことによって、神秘を保つことが可能だから。これだけ精神分析や記号学が進んでくると、大抵のものは理屈で説明がつくからね。手に届かないものをつくるってことは難しいことなんだよ」
「…………よく分からないわ」
「別に分からなくていいんだよ。学問じゃないし、いってしまえばみんな妄想の産物なんだから。ぼんやりと考えているだけで楽しいものなんだよ」
父はそうやって笑うが、理解できないのは命だってそうだ。大人はそうやっていつも煙に巻くばかり。難しいことを言えばそれっぽく聞こえると思っているんだろう。父さんは難しい本を読み漁って分かった気になってるだけ。それは本当に迷惑なことだ。食事中ぐらい静かにしていて欲しい。
祖母は沈黙したまま、ゆっくりと咀嚼している。
そして「彼女」は、ご飯を食べながらじっと命を見ている。それが気になる。だから視線が合わないように、茶碗の中のご飯を掻き込み、TV画面を見る。
番組は、蝶のコーナーになっていた。色鮮やかに紹介されているはずの蝶達は、白黒のフィルターに封印されている。そこに本来の魅力はない。
くるくるくる、回転する何か。
……何かを忘れている気がする。
さっきからそれが気になるのだが、考えても詮無いので夕食と一緒に飲み込もうと試みている。忘れているということはどうでもいいということなのだ、そうに違いない。抜けない聖剣も解けない問題も、いつか流れ落ちて通り過ぎてしまうから。だから、きっと大丈夫なのだ。
「……まぁいいわ、よく分からないけど。で、あの話のオチ分かった? 密室の謎」
「多分ね」
「本当に?」
「推理小説ってのは基本的には読者に優しい本なんだよ。何処かに答えが書いてある。問題が解けなくても、最後には作者が自分でネタばらしをやってくれる。だから考えなくても読むことが出来る」
「そんなことないわよ。読み終わってもなんだかよく分からないままの本って結構あるもの」
「それはトリックが分かってないんじゃないんだ。それを為した者の意図を掴んでないから、理解できないだけ。登場人物なり、作者なりのね。分かってくれって本なんだから、合理的でないと意味がない。それがそう配置された理由を掘り出してご覧」
「じゃ、あなたお願いね。わたし面倒くさいもの」
「……考える気なしだね」
父は苦笑して、汁碗を卓袱台においた。父は語って聞かせるのが本当に上手い。まるでテレビのナレーションのようだ。だからといって命の興味範囲かといわれればそうでもないのだが、耳に流れ込みやすいというのは事実だろう。
「いいかい、あの部屋は扉が内向きに鍵をかけてあり、部屋の中に鍵はない。窓にも鉄格子が嵌っていて抜け出すことは出来ない。でも、犯罪者が鍵を持っているなら、罪を犯した後で外に出て、外から鍵を閉めてしまえばいいだけだ。だから故意にああいう部屋を見せるということは、誰かがそういう意志であの部屋を演出しているということになる」
「ふんふん」
「凶器はナイフだろうが、ナイフを調べて犯人を特定するなんて常識的な方法はこの際後回しだ。だって、それをするのは登場人物の中の誰だい? 回答は部屋の中に遍在していて、それを結びつけられるのは、全てを視ている者だけだ。今回に限っては、便利な探偵も刑事もいやしないから」
……そうだ。謎を解き明かしてくれる安楽椅子型探偵でもいれば、話は早い。ただ、そんな存在はいない。あるのは自分と、暗闇の中で自分の手を引いてくれた、冷たくも温かい小さな手の感触だけだ。
TVを見る。
ブラウン管の中を蝶が舞う。モノクロのはずなのに、鮮明なレッドとホワイトを纏って蝶が飛ぶ。優雅に舞う。小さな輝きを煌めかせながら、結界で区切られたミクロの世界に無限の広大さを感じさせるように。
日傘の女性の視線を感じる。
だけど、考えなくちゃいけないことがある。これは自分で考えるべき……こと。
望むべきこと。
「さて、ここで特に注意すべきは、ホルマリン漬けの心臓だ。これには実行者の明確な意志がある。だれかにこれを見て欲しいんだよ。捕らわれた心とか、所有して欲しい気持ちとか、そういう暗示を知らしめる為に。強い意思表示であるといえるね」
父親は独白するように喋る。
「見覚えのあるナイフによって抉られた心臓。それを見て欲しいのは誰だい? それを見せたいのは、誰だい? だれに所有してほしいのかな?」
………分かっている。
分かってるんだ、父さん、母さん。
ただ、それを考えたくなかっただけ。ちょっと逃げたかっただけなんだ。目の前の現実から、少しだけ。
いつの間にか、父の視線は命に注がれている。母のそれも。祖母は黙って咀嚼を続けている。
ただ、今までそこに座っていたはずのあの女性の姿がない。視線を感じない。頭の奥でくるくると回転する日傘の幻影が遠ざかる。
「……多分、大丈夫だよ。僕は大丈夫だから」
家族達は答えない。
ただじっと、命を見ている。
今はなぜか、それだけでいいと思えた。
茶碗の上に箸を揃える。
「ごちそうさま……いってきます」
そして、すぐ側に置いてあった博麗の小太刀を掴む。鞘に収まったまま、いまだ抜かれたことのない剣の、その鞘をしっかりと掴む。
思い出す。
自分が何をすべきか。
自分が何から逃げているか。
心臓をさらけ出してすべて投げ出す前に、自分が出来ることは何なのか。
諦めてしまう前に……
命は立ち上がり、
目を開けた瞬間に、小太刀を持った手を振り上げた。
振り下ろされたナイフの切っ先が、小太刀の鞘によって弾かれる。刃が欠ける甲高い音が響く。
自分は天蓋つきのベッドで横たわっていた。急いで起きあがり、襲撃者の姿を見ようとする。
それは傲然と立つメイドではなく、卑屈で矮小な命自身の姿だった。肩口から血を垂れ流し、虚ろにぎこちない笑みを張り付かせて。そして、なすすべの無くなった少年は、陽炎のように揺らいで消える。
命は大きく深呼吸して、それを見送った。
自分は初めて敵を倒した。まだ、剣を抜いていないとしても。
「探偵物やホラーでは、自分自身が犯人ってのは、使われすぎてもう禁じ手なんだよな」
昔、父親が披露していた蘊蓄を吐き捨てる。情けない自分にはぴったりだなと思えた。
振り返ると、リボンの少女はいまだに大声で泣いている。もう喉が嗄れようとしているというのに。胸が締め付けられる。壁に紅白の蝶を縫いつけたはずのナイフはない。もうなくなったのだ。だから、大丈夫。
命は少女の側に立ち、しゃがんで顔の高さを揃えた。鼻をすすり上げながら、少女が不思議そうな顔をする。
「ごめん。僕はもう大丈夫……大丈夫、だから。一緒に行こう。次はきっと、僕が君を起こしてあげるから」
ポケットからハンカチを取り出し、涙と血で汚れた少女の顔を拭う。鼻水も拭き取る。目の回りが真っ赤だが、少女はようやく泣くのを止めた。
「一緒にいこう。だから、大丈夫だよ」
少女は鼻をすすり上げながら、小さく頷いた。
命は少女の前に、閉じられたままの右手を差し出し、ゆっくりと開く。その中には真新しい鍵が一本。紅で統一された部屋の中で、それは独自の存在を示すように鈍く光っている。
少女が手を差し出した。
少年は、開いた方の手でそれを握る。
二人は扉の前に立ち、鍵穴に鍵を差し込む。
もう子守歌は聞こえなかった。聞こえたとしても、もう眠くはならない。大丈夫だ、一緒にいるから……きっと。
ゆっくりと……ゆっくりと、ノブを回した。
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