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 風切り音の彼方に命の声がした、ような気がした。後ろに視線を投げようとしてやめる。今は集中力を欠くべき時ではない。
 それに……人の心配など、自分らしくはない。
 霧雨魔理沙はそう思いながら、箒を握り締める両手に力を籠める。紅魔館の暗い廊下に、箒に吊したランタンの灯りが揺れていく。光が影響を及ぼす範囲が紅、その他は闇。躯を縮め、高速で廊下を飛翔する。
 眼前に突然扉が開いてきて、死霊が吹き出してくる。左右だけからではなく、上下の扉から、窓から、階段の脇から。そのたびに壁を蹴り、天井を蹴り、急ブレーキを掛けて回避する。肩の後ろから追いすがろうとする白い手。足を引っ張ろうとする髪の毛。ナイフは断続的に投げつけられ、蒼白い火の玉がぶつかってくる。一つ一つの霊に対処するのは難しくないが、これだけの数を敵に回すと非常に鬱陶しい。
「いい加減にしないと私でも怒るぜ」
 呟きながらも、相変わらずニヤニヤと笑っている。対処に困る場面は嫌いではなかった。脳味噌をフル回転させる場面に自分を放り込むことは、己の向上にとって必要不可欠だと、魔理沙は認識していた。
 背後に敵集団が迫る。投擲される武器を避けながら、背中のリュックに手を突っ込み、中をごそごそと漁る。取りだしたのは、緑色の液体がちゃぷちゃぷ音を立てる丸底のフラスコだった。こんなものを投げ込んでいてよく割れないものだが、彼女は特に気にしていないらしい。一葉の言葉を吹きかけ、硝子に唇を寄せると、霊に向かって無造作に放った。
 硝子の割れる残響は、燃え上がる炎の燃焼音に取って代わった。幽霊達はその輝きに道を失う。液体が燃えて、輝かしいエメラルドグリーンの火焔を吹き上げているのだが、館の構成物には飛び火していない。それでも、相手の攻勢を抑えるのには一定の効果がある。
「ポーションは消費物だから嫌いなんだよな。またフラスコを揃えなきゃ……あ、香霖堂に在庫あったかな」
 前方を見ると、無限に続く廊下の扉が再びばたばたと開き始める。まだまだ遊戯の時間は終わらないようだ。
 魔理沙は帽子を被り直すと、近くの階段に飛び込んだ。巧みな箒さばきをみせて流れるように降下していく。
 打ち合わせはしなかったが、霊夢と命は階上を目指して進むはずだった。この館の主人は生き血を啜る夜の眷属である。あの種族には本能として象徴的な韻を踏む習性があるから、間違いなく上方に鎮座している。夜の支配者としてこの紅月の元に君臨する為に。
 霊夢はレミリアに対してどういう行動を取るだろう。その真意のもっとも深い部分は魔理沙にも分からなかったが、前提として霊夢とレミリアは対峙を望んでいるだろう。ならば、自分は少しでも雑魚を引き寄せなければならない。
 命にとっても、それは生命を引き延ばすチャンスを増やすことになる。
 だが、あのメイド長の相手は御免被りたいところだった。あの殺気は幻想郷ではなかなかお目にかかれないタイプのものだ。普段は森の奥に引きこもって研究の日々を送る魔理沙であっても、人や妖怪に出会い、話し、あれこれと判断する機会が無いわけではない。ただ、咲夜のようなタイプの人間は記憶になかった。あれで人間だというのも驚きだが。
「それはお互い様なのかもしれないけどな」
 耳の横をナイフが通過し、金髪がふわりと宙に舞って輝いた。間髪入れず階段の踊り場に向かってポーションを投げ込む。また、攻撃の手が緩くなる。
(……多分、咲夜の相手は私ではないぜ)
 霊夢と命の顔を思い出して、魔理沙は思う。なんだろう。占星術を司る者としての勘だろうか。どうも、自分には縁遠い存在に感じられて仕方ないのだ。そして、霊夢や命は結構大変だろうなと、他人事のように考えてみる。
 ふと、苦笑する。
 自分がこうやって、人のことばかりを考え、人の為に何かを成しているという状況に、かなりの違和感を感じたのだ。これも経験、真理を究めるべき魔術の学徒としての階梯の一つなのかもしれない。そう思わなくもないが。
「どうせ夜が明けりゃまた違ってくるぜ」
 夜を求めるべきストリゴイの末裔は、的外れな言葉で雑念を締めた。また一ダースずつ溢れるメイド達に向かって飛翔していく。

        ☆

 距離を取りながら交戦していたのだが、やがて敵が少なくなり、ついには攻撃が途絶えた。数は数えていないが、かなり階段を降りたのは間違いない。暗闇の中で感覚が麻痺しているが、普通に考えればもう地下に達していることだろう。
 館の雰囲気がかなり違った様相を呈している。人気はもとより、霊の気配も皆無になった。代わりに強い魔力が漲りつつある。絨毯から柔らかさが消え、埃っぽい空気の中に嗅ぎ馴れた匂いが立ち込めてきていた。
 魔理沙が鼻をくんくんと鳴らす。
「なんかいい匂いがするな」
 それは、スライスされチップにされ水に溶かされ加工された木の匂い。そして、微かに黴臭い、年代そのものを漂わせる匂いだった。
 魔理沙は箒から降り、廊下に立った。カンテラを手に持ってかざす。
 目の前に黒々とした大穴が口を広げている。またも階段だったが、いままでの統一されたデザインではなく、さらに数世代前、いにしえの暗黒時代を思わせる重さを漂わせる。なにより禍々しいのが、継ぎ目なき木製の螺旋階段であること。木々は叫びながら躯をねじ曲げられ繋ぎ合わされたかのように無惨な姿を晒している、ように感じられた。
「……地獄へでも続いてるんだな、きっと。こりゃ面白いものにぶち当たったぜ」
 敵の気配は完全に消えた。
 魔理沙は箒を肩に担ぐと、興味津々で階段を下り始めた。もうその貌は友達を思う照れ屋な少女ではなく、独善と学問の徒である魔法使いのそれになっていた。


 長い長い長い長い長い階段だった。
 分岐も、何処かの階に出るということもない。ただ延々と淡々と、階段だけが単調に続いている。だが、魔理沙は徐々に躯を支配していく熱情を楽しんでいた。なにがここまで自分を興奮させているのだろう。想像出来るだけに断定してしまうのが勿体なかった。
 黴臭い匂いがはどんどん強くなる。
 自分の小さな足音。荷物の軋み。そして全然変わらない風景。目眩がしてきそうだった。だが、魔理沙としてはその気持ち悪ささえも楽しみたかった。
 ……やがて、長い階段は終局を迎えた。
 そこはもう暗黒ではなかった。
 三メートル四方程の立方体の部屋だった。三方の壁には大きな魔法陣が記してあり、四つ目の壁は扉が施されていた。荘厳な押し開け型の扉の左右には燭台が灯されていて、まるでエデンの園で知恵の実を守護する神の回転剣のように、油断なく光を投げかけている。
 扉の上の看板には守護の六芒星とともに、ラテン語と神代文字、それに失われた古代文字で刻印が彫り抜いてある。魔理沙は震える声で、その名を呼ぶ。
「ヴワル、魔法図書館……マジか、よ」
 奇しくも、魔理沙が霊夢に告げた幻想郷の謎の一つが、彼女の前にその扉を示しているのだった。
「こんなところにあったなんて、な」
 先ほどからの黴臭い匂いは、本の放つそれだったのだ。魔法使いの常として、魔理沙は偏執的なまでの読書狂という側面を持つ。
 誘われるように扉を抜けようとして、手を伸ばした、ところで脳裏に火花が散った。
「くっ」
 結界。それも簡単に躯をバラバラにしかねないぐらいの強力なものが行使されている。慌てて手を押さえるが、稲妻のような衝撃が肘までを貫き、掌と肘とを往復している。
「とんでもねぇ奴がいるんだな……これは面白い。めちゃくちゃ楽しくなってきた」
 激しい痛覚も宝の山を目の前にした魔理沙をひるませることは出来ない。この夜の始まりから今に至るまで、ここまで魔理沙が滾るのは今が初めてだった。
 懐からタクトを抜き、結界に向かってゆっくりと降る。幻想郷で行使される魔法は体系だっていない。長く外界と隔絶され、魔術の歴史からも取り残されたからだ。独自に発展した呪符(スペルカード)の文化もそうだが、要は引き出す魔力の強さが優劣や勝敗を決める。言葉の厳格さや手続きにはあまり括りがない。
 魔理沙は魔法陣を描きながら結界に対峙する。修練を積んではいるのだが、どうにも結界の解き方は苦手だった。そういう場合はどうするか。
 ぶっ壊すのである。
 三度七度魔法陣を描いた後に、スペルカードを抜いて燭台の間に投げた。同時に空いた手で顔を隠した。
 「……いけ」
 小さく呟く。
 敵味方、二枚の魔法陣が一瞬にして球に展開し、ついで閃光を放った。煙が上がる……が、それは収縮し音も閃光も黒煙もすべて、中央に出来た漆黒の穴に飲み込まれて消える。ついで、その穴自体も小さくなって消失した。
 後には何も残っていない。ただ、燭台の炎が消えてしまっていた。
 魔理沙は小さくガッツポーズをして、扉を両手で押し開ける。
「う」
 その光景がに飛び込んでくる。
「う、う、う………」
 広大なその場所。
「う……うおおおおおおおおおおお」
 歓喜の絶叫が木霊した。魔理沙にとってこれだけの宝の発見は、生まれて初めての出来事だったかもしれない。
 図書館。
 この三文字で表現するには少々不遜かもしれない。そこは地平線まで連なった広大なで膨大な世界だった。ありとあらゆる床、壁、天井には本棚が張り付き、ひしめき、肩を並べている。そこにぎっしり詰まっているのは、地上の何処からも失われた世界中の稀覯本の数々。本だけではなく、剥き出しの羊皮紙や巻物、木簡にパピルス、石板まで。本棚から蜜のようにこぼれ落ちたものは廊下に階段に溢れ、埋め尽くされている。
 魔理沙にとって、この場所を楽園と表現しないで一体なんというのだろうが。
 一瞬にして理性は吹っ飛び、魔理沙は狂ったようにケタケタ笑いながら本の海へ飛び込んでいく。霊夢の前では絶対に見せないような表情。サバトへ向かう魔女のように欲望を剥き出しにして、本棚と本棚の間を駆けめぐる。
「すごい、すごい、すごすぎる」
 とある本棚の前に立ち、背表紙の名前に目を輝かせる。背が届かないくらいの場所へ必死で背伸びして、抱えきれないほどの本を乱暴に抜き出しては、狭い通路の一角に積み上げていく。それはまるで、お菓子を頬張った子供が、飲み込んでいないのに別のお菓子に手を伸ばしているかのような。
 ごろごろと駆けずり回り、あっという間に本の小山を作ってしまうと、その麓にどっか両足を投げた。リュックの中からノートとインク壺を取り出し、早速次から次へと本に目を通し始めた。もの凄い速読。眼球が血走るかのように蠢く。その表情には鬼気が宿る。
 ペンを持つ手がノートの上で舞う。
 同じ館を彷徨っているはずの友人達のことなど、既に彼女の頭の何処にも存在していなかった。


 壁際のある場所に、火のついていない燭台があった。
 誰の手に触れることもないまま、それがぽうっと灯る。それが始まり。
 連鎖するように、燭台が次々と灯り、一本の線を形成して図書館の深淵に伸びていく。
一直線に、何かを目指して。
 それは遥か過去の偉大な王達の時代に敵国の侵攻を伝えた物見塔の列そのものだった。禁域を脅かす侵入者の存在を、主は決して許さない。


 魔理沙はまるで恋する人形だった。
 箒にまたがってくるくるくると回りながらページをめくった。寝そべってキスをしながら文字を追った。とりあえず本を閉じてははにかみ、また本を開いて再会を喜んだ。
 歓喜ががその他の感情の存在を許さなかった。
 どうせすぐに全部読めはしないのに、手に取る本をあれこれと悩んでみたり、本棚の間を迷いうろうろとしてみたり。ここは、魔理沙の心を奪うに十分な資質を備えていた。
 開いていた本からばっと顔を上げると、魔理沙は子供のように覚束ない足取りで走り出した。今度はどの本にしよう。もう、頭の中はそれで一杯だった。今から征服する本棚の前で両手を腰に当て、にっこり微笑む。私と貴方は運命の関係。私をあげるから、貴方を頂戴。いいでしょ、いいよね?
 魔理沙が新しい本に手を伸ばして─── 
 偶然に、
 本当に偶然に、
 ある一冊の本に気づいた。廊下にうち捨てられた一冊の本。
 一瞬戸惑って、迷って……いつもの魔理沙の表情に戻っていく。ゆっくりと、その本に手を伸ばす。
 それは古い古い、紐で綴じられた和本。表紙はぼろぼろに破れ、ほぼ原形をとどめていない。本文を自体も結構な虫食いにやられている。
 だが、魔理沙はその本から目が離せない。
「なんだろ、これ……」
 表紙に書かれたその神代文字。
 それはただ、『博麗』とだけ記してある。
 ……博麗神社の歴史を著した書物なら神社の書庫にある。歴代の博麗の巫女達は、記録を残すことを一つの務めとしているからだ。だが、幻想郷の正確な成立についての第三者的記録は何処にも残っていない。
 誰もが必要としなかったからだろうと、魔理沙は思う。幻想郷に歴史は必要ない。そこに住まう者にとって、自分が生き感じることが全てだからだ。人も、妖怪も妖精も木々も皆、時に縛られず、季節と共に生きている。失われない永遠の時間
 だがこれは、存在しない筈のそれなのかもしれない。
 恐らくは、博麗の巫女以外の手によって書かれた、博麗大結界の成り立ち。幻想郷がどうして誕生したのか、その始点の出来事。もちろん、魔理沙自身も博麗の巫女がどのような存在なのかは知っている。だがこれは、その縁起を指し示すものなのかもしれないのだ。
 こうして提示されると、普段気にはしてなくても興味をそそられるのは、間違いない。
「………………」
 だが、なぜだろう。知識欲の権化であるはずの魔理沙が、どうも気乗りしないのだ。
 いつも通りのすました霊夢の顔が浮かんで消える。春のような頭の中で、とてつもない力を内包する巫女。
 そこに、どうやら極めて特殊である力を持つらしいメイド長の顔がだぶる。
 そして、怯えたような、それでいて何処か惹かれる表情を浮かべる少年が……知り合ったばかりなのになぜか深い印象を落とす少年の顔が浮かんで消える。
 ……熱狂は遠ざかった。
 闇の中に魔法使いが一人。カンテラの光が、孤独な影を広大な図書館の壁面に投影している。