■ 寒椿   Camellia sasanqua cv. Fujikoana        【魂魄妖夢】


 刺々しくも清浄な雪が降る。
 練乳のように濁った空から雪が降る。
 大地は震えを隠すようにして積もった牡丹雪の下に姿を隠し、薄暗い空が雲と白い大地に囲まれている不思議な世界が、地平線まで広がっている。
 世界の中央には、切れ目のない鉄の棒が此方こなたより彼方かなたまで続いている。
 あり得ない線路。
 失われた路線。
 人を運ばない、鉄道。
 幻想になった途。
 そこをまっしろな魂魄妖夢が歩く。
 ひとりぼっちで。
 裸足で。
 真っ白な髪に飾られた真っ赤な椿が一輪。
 新雪の降り積もった枕木の上に、小さな足跡がどこまでも、どこまでも続いている。

      ☆

「妖夢」
「は、はい」
 蒼白の天を無言で眺めていた妖夢が、振り向いた。
 吐息が白くこごる。
 ここは冥界。雪化粧をした白玉楼の庭園。
 池に掛かった石橋の上に、西行寺幽々子が立っている。もちろん、周囲に足跡なんてない。幽霊なのだから当然である。
「なにをぼおっとしているの。普段の三倍増しで存在感がないわよ」
「……そりゃ半分は幽霊ですから、人間に比べれば元来存在感なんて少ないですよ」
「冥界で一番人間分の多いのが自分だと言うことを解っているのかしらね」
 幽々子は肩をすくめるようにして手を広げる。
 その掌には雪の結晶が一つ、二つ、三つ。
 幽霊であるところの姫君は、意識していなければ物体を素通りしてしまうし、意識しても雪が溶けることはない。その様子を見た妖夢が程なく同じように試みるが、主人と違い半分が人間の彼女の手はほんのり温かく、掌の上の雪はさっさと溶けてしまう。妖夢の背後に付き従う大きな霊……それもまた彼女である……が、それみたことかと、妖夢の背後で軽く揺れた。
 幽々子は雪の結晶を眺めながら呟く。
「今月のテーマは三倍増しね。卯月ももう終わりだけれど」
「だから何がですか」
「ほら、妖夢の頬」
 羽衣のようにふわっと舞い上がった幽々子が、妖夢の背後に舞い降りて、冷たい指で妖夢の頬をつつく。
「いつもより三倍紅い」
「そりゃ、寒いですからね」
 幽々子はくるりと回り、しゃがみ、面白そうに妖夢を見上げて、それからまた指で、妖夢の言葉を押し止めるように。
「妖夢の唇、いつもより三倍紅い」
「……そ、それは、きっと寒いからですよ」
 幽々子が妖夢の手を取り、その指を愛おしく握って眺める。半霊の自分でさえ、底冷えするような寒さが全身を波立たせる。
「妖夢の指、いつもより三倍、……可愛くて、紅い」
「それは……」
「しもやけ一歩手前だからかしらね。でもいいのよ? 三倍紅いと三倍速いといいますし」
 そう笑って亡霊少女は妖夢から、二歩、三歩、離れた。わざわざ足跡を雪に残しながら。
 雪以外の冷気の余韻に震えながら、妖夢の視線は幽々子を追う。
「なんだか幽々子様も、通常の三倍ぐらい――」
「紅い?」
「いいえ、三倍ぐらい変じゃないですか」
「私は三倍じゃきかないわよ。紅くはないけれどね」
 幽々子はあどけなく笑った。
 だから、妖夢はたまに思うのだ。
 この方は時折、自分の知っている他のどんな少女よりも美しくて愛らしい瞬間を創出する。ただそれは氷結した湖の底に眠る少女のそれだ。遺失した時間が描き出す幻だ。身近な自分ですら氷越しで覗き込まなければならない。そして覗き込みたくない。
 怖い。
 何故、怖いのか? 
 そしてそこで、いつも考えることをやめる。自分が半分幽霊だから、幽霊である自分に身を任せれば理屈でなく受け入れられるから。衆生の理に従う定めは、自分にはない。ないはずだから。
 理性的な考えの自分を幽体のように危く揺らめかせ、亡霊の妖夢が反射的に尋ねる。
「で、幽々子様が今日、三の三乗ぐらい変わっている理由はなんなんですか?」
「最近、新聞が届かないじゃない? ただでさえ雪が積もって外界も見えないのに、これでは孤立無援の島で殺人事件が起こってもきっと迷宮入りになってしまうわ。若い天才は待ってくれないものよ」
「ああ、あの天狗の新聞ですか。前の時はつまんないから読まないっておっしゃられてたのに」
「いる時にいらないものは、いらない時にいるものよ」
「どうとでもなる言い分ですね。間違ってはいないのでしょうけれど」
「じゃ、夕刊よろしくね」
「夕刊なんてありましたっけ? 新聞に」
 幽々子は答えない。ただ笑う。ということは、この世の中のどこかに夕刊はきっとあるのだろう。幻想郷ではまだ流行っていないようだが。
 幽々子は直接正解をいわないけれど、大概間違ったことも言わない。理解ではない。定義だ。把握だ。納得だ。UMAはいないかもしれないけど、幽霊がいるのは間違いないのだから。
「お食事が遅くなっても、文句言わないでくださいね」
「大丈夫、食事の時間は忘れないから」
「そりゃ忘れないでしょう」
「忘れないのは貴女よ、妖夢」
「……………………」
 妖夢は振り返り、一歩を踏み出し、
 そこで幽々子の声が追いすがった。


「そうそう。新聞に寒椿を添えるの、忘れないでね」


 紅い紅いと連呼されて、頭の中に赤い影が焼きついた様にわだかまっていたものの、結局自分では紅いものを見ていないな、と思いながら。
 結構腹黒いことで有名な鴉天狗の新聞屋を探して、妖夢は冥界を後にした。
 今日の仕事は山ほど残っている。だいたい冥界で仕事をするなど自分をおいて他にいないのだから自明の理だ。
 せっかく自分は半分ずつなのだから、片方を置いていければ能率的なのにと思わなくもなかったが、そのせいで仕事の出来も五十パーセントになってしまうのは本意ではない。実のところ、彼女を知る者が考えるほど彼女は生真面目ではなかったが、やらされる仕事に中途半端に拘ってしまうところこそ、妖夢がまだまだ半人前だという証左なのかもしれなかった。
 ただ、
 妖夢自身が一番気が重いのは、実のところ、
 結局こうやっていつも普通に顕界に関わってしまうことだった。
 いつぞやの閻魔様の忠告が泡のように浮かび上がって弾ける。
 なのに私は、届かない新聞を求めて霊界から彷徨い出る、全き生者でも完全な亡者でもない女の子。
 これはいったい何者なのだろう?
 求道者などになれるはずないではないか。


 とはいえ、命令された仕事はこなさなければならない。
 冥界同様、一面の雪化粧をまとった幻想郷の山々を見下ろしながら、妖夢は天と地の間を飛翔していた。
 曇天は空を力任せに押さえつけ、合わせ鏡の間の世界を飛んでいる気分に陥る。
 ただ、幽霊にとって鏡は無用の長物だった。普通は映らないし、取り憑いて人を脅かすぐらいにしか役立たない。なので、さしたる感慨もなく妖夢はふよふよと空を飛んでいく。
 決して広くはない幻想郷だが、どこもかしこも真っ白になった世界を無作為に飛びまわるのはかなり無駄だった。寒さがやる気の減退に加速をかけていく。
 とにかく、まずは一番分かりやすい場所にいってみよう。妖夢は最初からそう決めていた。


「――で、なんでうちなわけ? 毎度毎度迷惑なんだけど」
「多分、確率の問題かしらね。他のところより三倍は命中率高そうだから」
「なんで三倍?」
「さぁ? 今月の目標だそうだけれど」
 日も昇って随分になるというのに、博麗霊夢は寝巻きの上に褞袍どてらを羽織った格好で現れた。顔色が悪い、というか白い。博麗神社も例外なく雪化粧に包まれているとはいえ、寒さに起因するだけとは思えない、尋常ではなく血の気が引いている。
「体調でも崩しているの? そんな顔して」
「魔理沙が新しいお酒を持ってきたから、昨晩ずっと飲んでたら頭痛くなって」
「…………………」
「そんな顔で見ないでよ。こんな真冬に、他に何をすることがあるわけないじゃない。昼は炬燵蜜柑こたつみかん、夜は酒盛りと相場が決まっているのよ」
「巫女らしく滝に打たれて衆生の幸福を祈るとかしなさいよ」
「心臓麻痺狙いかしら? そうやってまた冥界に勧誘しても無駄ですからね。死んでもあんたんところだけにはお世話にならないんだから」
「酔ってるわね」
「本当に強い酒だったのよ……天狗からかっぱらってきたのかしら、魔理沙」
 霊夢は頭を押さえて頭痛を堪えているようだった。
 確かにくだんの黒魔法少女なら無いとはいいきれない話だった。新聞屋のたゆまぬ尽力によって、霧雨魔理沙はおおよそ手際のよい泥棒であるという認識が、幻想郷の一部の住人達に共有されつつある。
「だったら、魔理沙に聞いた方が早いかしら?」
「今は駄目ね。いびきかいて寝てるもの」
「起きるまで待った方が能率的かしら」
「魔理沙がまともに喋るという可能性が高ければね」
 幽々子の言葉が頭をよぎる。自分で探しに行ったほうが三倍は確率が高そうな気がした。
「大体、新聞だって休刊日ぐらいあるでしょうに。こんなに雪が増えたんじゃ郵便受けにだって取りに行きたくないわ。そのまま濡れてゴミになっちゃったら、いくらあの天狗でも遣り甲斐がなくて休むわよ」
「その辺は、天狗の考えることはよく分からないから」
「それより、あんたんところのお嬢さんの方が訳分からないわよ」
 激しく正論だった。
「……自分で探すわ」
「だったら最初からそうしてよ……ああ、頭が痛くて話すのも苦痛だわ。まだお酒残ってるのに、いつになったら続きが飲めるのかしら」
 そういうと、霊夢は障子をぴしゃりと閉じて奥の部屋に消えた。
 まだ飲むつもりなのか。
 他人事ひとごとながら、貪欲な巫女というのもなんだか情けない話だった。
 それとも、残さず平らげるのは善行のつもりなのか。盗んできたものに善行も何もない気もするが。
「ああ、つまり博麗神社は休刊日ならぬ休肝日だったってことね」
 自分で思い当たって脱力した。雪中行軍を再開する気力すら奪われそうだ。
 妖夢ががっくりと肩を落としつつ、それでも再度飛び立とうとすると、
「ちょっと待ちなさい」
 障子が再び開いて、中から青い顔の霊夢が顔を出した。
「これ、持っていきなさいよ」
 霊夢が抱えていたのは、締め昆布のように結わえられた毛布だった。
 放り投げられたそれを妖夢が抱きとめる。
 途中まで開いた障子の向こうで「寒いー、寒いー」と寝言を呟きながら転がっている魔理沙の姿がちらりと見えた。
「これをどうしろっていうのよ」
「あんた、なんだか風邪引きそうな顔してるから。神社に寄って病気貰ったとか新聞に書かれたら、縁起が悪くてかなわないわ」
「新聞屋を見つけたらすぐ帰るつもりなんだけど」
「新聞屋が見つかってもすぐに帰れるとは限らないんじゃないの?」
 霊夢は適当にいうだけいって、再び部屋の中へと消える。
「ちょっと魔理沙、私の布団取らないでよ」
「へっへっへ、もらったものは私のものだからな」
「酷い寝言ね!」
 何かが何かを蹴りつけるような鈍い音が聞こえたような気もしたが、一応気にしないことにした。
 渡された防寒具はどう考えても邪魔だったが、妖夢はこのありがた迷惑な荷物を置いていく気になれなかった。さっきよりも自分の息が白く濁っているのは錯覚だろうか?
 綿雪が一片、舞い落ちる。
 誘われるように視界を揺らしていると、境内の隅の方に赤い寒椿が咲いているのが見えた。
 この世の花を彼岸に持って帰ることは出来ない。
 だからだろう、
 妖夢はその色に、不思議な暖かさを感じていた。雪が誇張しているのかもしれない。


 風もなく音もなく、ただ雪が舞い落ちる。
 空が幾分暗くなったような気がした。雲が厚い。
 毛布の塊を背負った妖夢は、更なる山嶺の奥へと向かっている。
 彼女の半霊は、これ以上無駄な捜索をやめさせるかのように、妖夢の前をふらふらと飛びまわって邪魔している。妖夢はそれを無視してますます目を皿にする。
 紅魔館にも一応立ち寄ったが、収穫はなかった。
 何処も同じように新聞は途絶えている。
 門の前でしきりに雪を払っている門番の少女を見て、なんとなく共感を覚えたのは確かだが、それが目的の達成に繋がるわけでもない。いろいろ悲しくなるだけなので、これも考えないことにした。
 香霖堂は営業していたが、完備された暖房で暖を取ると動けなくなりそうだったので早々に辞した。店主も新聞の再開を心待ちにしていたが、彼は雪が降ろうが止もうが自ら外に出ることは滅多にないので、事情は知らなかった。
 あと近場で知り合いがいるのは永遠亭ぐらいだったが、住人の傾向からして立ち寄っても無駄だろうし、なにより竹薮で迷っているうちに春が来そうだったのでやめておいた。今までの傾向からして、家々では厳冬に訪問者があること自体が迷惑きわまりないらしい。確かに自分でもわざわざ玄関を明けることすら面倒くさいとおもうだろう。訪問者が幽霊ならなおさらだ。
 結局、自分の足で探すより他ない。が、天狗の住処を直接見つけるのは非常に難しいので、前に天狗と出会った場所に向かうことにした。
 これだって、確率からいえば無駄に等しいのだが、
「仕事はきちんとやらないと」
 自分を諭すように呟く。
 今日の妖夢は自分でも思うぐらい、三倍ましで無駄に勤勉だった。
 逆に、冷静な自分が問うている。
 ――自分はいったい何に対してむきになっているのだろう?


 辿り着いた山中の池は、予想通り氷に覆われていた。
 ここのぬしである大蝦蟇も冬眠中だろう。周囲の森も皆、雪で真っ白に着飾っていた。
 水面の氷は鏡のようであり、また硝子のようでもあり、透き通っているのに白かった。
(また、鏡か)
 なんとなくそう思う。
 自分の姿など直視したくはない。
 ならば、少しでも透明度を下げようとするこの穏やかな雪は、妖夢のささやかな抵抗の比喩か?
 だが、池の縁に立っている以上、
 妖夢が半分人間である以上、
 氷は妖夢を鮮やかに、頼りなく映し出す。
 もう一人の自分がつむぎ出すのは、言葉。
「なぜ……どうして、寒椿なのですか? 幽々子様」
 自分はそれに拘っているのだろうか?
 だとしたら何故?


「わっはっはっはっはっはー、半分幽霊の人が半人前に自問自答ですか。これは愉快、愉快」


 突然、声が落ちてきた。聞き覚えのある声だ。
 妖夢は両刀の束を握って見上げる。
「何者?」
「そんな卵の出し巻きみたいなの背負って見得を切っても、説得力がありませんよ?」
 妖夢の顔が寒さ以外の原因で紅く染まる。
 上方――
 池のほとりに立つ大きな杉の枝に腰掛けて、射名丸文が笑っていた。短いスカートにも関わらず大きく足を開いて膝を組み、手には巨大な朱塗りの杯を持っていた。
 無論、妖夢の探していた人物……もとい、天狗の新聞屋である。
 妖夢は自分の仕事が報われたことよりもまず先に、文の似合わない笑い方に呆れていた。
「なにかしら、その笑い方は」
「天狗っぽいでしょう? これが天狗のトラディショナルというものなのですよ」
「天狗っぽいがどうこうというよりも、貴方自身に似合っていない気がするけれど」
「伝統というのは、個人がどうこう論評するものではないですから。過去から連なるものをやりつづけることで潮流が伝統になっていくのですよ。そこに意味を見出すのは国策民俗学者がやればいいのです」
「よく分からない話ね」
「事実を求める新聞記者にだって、立ちかえる場所というものが必要なのです。そのために、時にはこうして天狗の伝統的スタイルを確認する必要がある。笑い方も、お酒の飲み方もそうです。法螺貝ほらがいの練習だってしてるんですよ。鞍馬の山のひそみに倣って、六韜りくとうを教えてあげてもいいのですよ?」
「結構です」
「ま、端的にいえば、伝統的な幽霊が夏に化けて出るのと同じよね」
 それを聞くとなんだか耳が痛い。
 妖夢の主人は、最近年がら年中顕界を彷徨っているからだ。
「そ、そんなことはさておいて。ずっと貴方を探していたのよ」
「私をですか?」
「ええ。うちのお嬢様が、新聞が届かないから暇だとおっしゃって、新聞を届けるように伝えて来いっていわれたので」
「私の新聞が生活に密着するようになったんですねぇ。それはそれは、執筆者としては嬉しい限りです」
「それで、次の号はいつになったら届くのかしら?」
「でも、催促されると書きたくなくなるんですよね……」
 赤ら顔の天狗は、酒を飲み干すと、腕を組んで首をひねった。
「そんな」
「いいですか? 私は幻想郷の真実を記事にしたいのであって、新聞を読ませるために記事を捏造している訳ではないのです。残念ながらこの冬、巷間こうかんに伝えるべき事件は私のネタ帖を埋めていない。基本的に幻想郷であっても冬は物理的に活動しにくいですからね。これまでの大きな事件が、冬以外の季節に発生していることは事実なのですよ」
 確かにそれは事実だろう。
 幻想郷の冬は厳しい。毎年厳しくなっていく気もする。
 が、生気に乏しい冥界にとってはさほど影響がある訳でもない。だから、冥界の住人達はそれを意識することは無かった。むろん、半分人間の妖夢だけは毎年寒い思いをしてきたのだが。
 瓢箪からお酒を注ぎなおした文はにっこりと笑う。
「そういう訳で、冬は本来的に篭って過ごすのが正しいのです。暇つぶしにお手軽に情報を仕入れるというのは精神の堕落を導きます。寒さと雪が情報を遮断し、自分を見つめなおして春を迎えるのです。もちろん、その時再開した新聞は特別に増ページして、冬の出来事をおおまかに一覧できるようにはするつもりですからご心配なく。勿論、それまでに大事件があったら増刊号もだしますよー」
「うーん、そういわれるとなぁ」
 妖夢はちょっと考える。
 確かに話の筋は通っているし、新聞だって廃刊になったわけじゃない。大体ひねくれ者の天狗が、新聞を出してくれと頼んであっさり答えるとも思えなかった。
 だが、今の話では幽々子様は納得しないだろう。
 と、ふと博麗神社での霊夢とのやり取りを思い出した。
「……ところで、最近天狗の集落でお酒が無くなったような話を聞きませんでしたか?」
「お酒ですか? これこのとおり、天狗はお酒を飲んで越冬しますから、大量に準備してありますよ? すごいペースで消費するので、無くなったといえば無くなったともいいますが。それがどうしたんです?」
「いえ、ここにくるまえに博麗神社に寄ったら、巫女と例の黒いのが飲んだくれてたんだけど。そのやたら強いお酒が、魔法使いがどっかから入手してきたものだという話だったから」
「…………………へぇ」
「もしかして魔理沙が天狗の里からくすねてきたんじゃないか、なんて霊夢と話していて……ああ、これが事実なら記事にするのは難しくないですよね? 天狗の里の事件なんだから。今からなら夕刊にも間に合いそう」
 鴉天狗の少女は何故か無言になって妖夢の話を聞いていたが、ひょいと枝を飛び降りて、妖夢の近くに立った。それともしらず妖夢は自分の思いつきを喋っている。
「でも、いくら魔理沙でも、強い上に謎に包まれた天狗の里を狙うなんて不届きで大胆なことしないわよねぇ。見つけるのも大変そうだし、って、あれ? どうしたの?」
「……貴方もお酒飲みませんか? こんな雪の中で寒いでしょう? 内側から温まるのも乙なものですよ」
「み、妙に不自然なタイミングね」
 文は笑っている。
 その笑顔が怖い。
 底冷えするような笑顔だ。
「結構ですって。私、半人前だからお酒はそんなに強くなくて、それに一応仕事中だし」
「天狗にだって書けない記事はあるのです。記事を書く者は常に客観的でいなければならないのです。だから、当事者は記事を書くべきではないのですよ?」
 その笑顔の圧力に押されて、妖夢が半歩あとずさる。
「え、え? ちょ、ちょっとそれおかしくないかしら? 要は自分の仲間の不祥事は外に出せないってことじゃない! 新聞記者がそんな風でいいの?」
「被害に遭った個人の情報は感情に配慮して隠すべきだと思いませんか?」
「個人情報保護の使い方間違っているんじゃないの?」
 どん、と背後に何かが当たる。雪がぱらぱらと落ちてきた。後ろは木の幹だった。もう逃げられない。
 半霊が、網につかまった魚のようにびちびちともがいて跳ねている。
 文はにんまり笑って、何故かさかづき瓢箪ひょうたんを構えている。
「さぁもう逃げられませんよ」
「新聞記者が犯人って安いミステリーみたいじゃないかって、幽々子様ならおっしゃいますよっ」
「なにも完全犯罪を企むわけではありません。暇をしていたので、せっかくだから私と呑み比べをしてもらおうかなって思って」
「そんな、天狗に勝てるわけ」
「勝負は時の運ですって」
 抵抗する間もなかった。
 泡を食った妖夢の小さな口に文の瓢箪が突き刺さり、
 さかさまになった入れ物から銘酒「天狗殺し」が妖夢の喉に流れ込む。
 今まで経験したことの無いようなアルコールの強さ。焼け付くような痛みを感じた瞬間、妖夢は確信した。
 これだ。
 これが幽々子様がおっしゃっていた、本命の「三倍」だと。
 それから数分も立たないうちに、妖夢は正体を失った。

      ☆

 刺々しくも清浄な雪が降る。
 練乳のように濁った空から雪が降る。
 大地は震えを隠すようにして積もった牡丹雪の下に姿を隠し、薄暗い空が雲と白い大地に囲まれている不思議な世界が、地平線まで広がっている。
 世界の中央には、切れ目のない鉄の棒が此方より彼方まで続いている。
 あり得ない線路。
 失われた路線。
 人を運ばない、鉄道。
 幻想になった途。
 そこをまっしろな魂魄妖夢が歩く。
 ひとりぼっちで。
 裸足で。
 真っ白な髪に飾られた真っ赤な椿の花、一輪。
 新雪の降り積もった枕木の上に、小さな足跡がどこまでも、どこまでも続いている。
 いつからここを歩いていたのだろう。
 いつまでここを歩けばいいのだろう。
 ひたすら寒かった。これよりもっと豪雪の日も、氷が湖の底まで凍らせるような寒い日も知っているつもりだったが、妖夢は今この瞬間ほど凍えたことは無かった。
 前を見ても、振り返っても、同じような光景で、自分は本当に前に進んでいるのかどうかも定かではない。ただ、自分の足跡があるかどうかだけが、過去と未来を示していた。
 立ち止まることは赦されなかった。
 ただひたすらに歩いていた。
 やがて。
 地平線のこちら側に、ひとつの影が浮かび上がった。
 人影だ。
 あれは……誰だろう。
 妖夢は心持ち、歩みを速めた。
 そこにいっても何も変わらないし、いいことなんて一つも無い。
 解っていた。
 それでも妖夢の心は逸った。
 この変化の無い場所から自分を連れ出してくれる存在を願った。
 幸いにも人影はそこから動こうとしない。
 妖夢は急いだ。半ば駆け足になっていた。足の裏の雪は平らだったが、刺さるように痛かった。
 そして――
 妖夢はその人を見た。
 無彩色の世界には似つかわしくない、紅いチェック柄のチョッキとスカートを纏った、緑の髪の少女だった。
 大きな傘で雪をよけている。
 傘を持たない手の方に、寒椿の花を握っていた。
 妖夢は、息も切れ切れに尋ねる。
 ここで何をしているのですか、と。
 少女は答えた。
「お葬式、かしらね? 貴方もお花を手向けてあげるといいわ」
 そういって、少女は視線でその方向を示す。
 緩やかな弧を描いた線路の端に、雪と土とを積み上げたボタ山が二個三個あった。
 掘り返されているということは、掘った穴があるということだ。
 妖夢は線路を外れ、雪を踏みながら妖夢はそちらを覗き込む。
 そこには、少女が埋葬されていた。
 夢見るように、母胎の中の胎児の様に膝を抱えて、そこに横たわっていた。
 素裸で、真っ白な姿で。
 ただ一輪、その肌に落ちた寒椿だけが紅い。誰かが流した凍らない涙のように、紅く輝く。
 昔、物の本で読んだことがある。
 椿は花全体がぼとりと落ちるところから、首を落とすことに喩えられて不吉とされたこと。
 落とされた首はその表情に生前の最後の意志を留めている。
 それは恐怖か、苦悶か、絶望か、虚脱か。
 この少女はいったい、どうやって、どんな気持ちで死んだのだろう。
 落ちた椿は、それを代弁するには随分紅すぎるような気がした。
 多分これは、この椿は、普通のよりも三倍紅い――


 そして、妖夢はそこでようやく気づいた。
 埋葬された少女が誰であるかに。
 それは自分だった。
 それは妖夢だった。
 妖夢の半分が死んでいた。
 自分によって、自分が埋葬されていた。
 気づけばもう、傘の少女は何処にもいない。
 自分の葬儀の参列者は、地平線まで探しても、自分ただ一人だけ。
 ただその光景を、音も無く、雪が埋めていく。

      ☆

「で、結局、新聞屋にしてやられたのね」
 白玉楼の居間で、西行寺幽々子は溜息をついた。
「すみません……」
「酔っ払った天狗に正論を正すというのも妖夢が馬鹿正直な証拠ね。天狗に会いに行くんだから、鬼の一匹も連れていくぐらいの打算がほしいところね」
「鬼を仲間に入れるのがさらに難しい気がしますが」
「そこはそれ、パワーバランスよ」
「はぁ」
 酒をめちゃくちゃに飲まされた魂魄妖夢が、同じ場所で気がついたのは、次の日、夜が白々と明けていく刻限だった。よく凍死しなかったものだと思ったが、霊夢が持たせてくれた毛布がきっちりとかけてあったせいだろう。天狗の最低限の良心と、変な時に妙に働く博麗の巫女の勘に、妖夢は素直に感謝した。
「ま、その調子なら新聞は滞り無く届くでしょう。多分、冬が終わる前に三倍増しで号外も発行されるでしょうし。魔理沙からも天狗のお酒を取り上げたり、今回は割とよくやったわ、妖夢」
「……………はい」
「あらあら、誉めてあげているのに嬉しくなさそうね」
「そんなことはないですよ」
 そう答える妖夢は、自分でも無理に笑っていると感じていた。
 気になっていたのは、そう……あの夢のこと。
 多分、私の唇と同じ色をしていた、あの寒椿の色のこと。
 無論、主人にも話していない。話せなかった。
 その瞳に覗きこまれたら全て見られてしまいそうで、幽々子の顔も直視できない。
 でも、
 ただ、
 ひとつだけ、
 聞いておきたいことがある……。
「あの、幽々子様」
「なぁに?」
「私、寒椿の花を忘れてしまったんですけど……怒らないんですか?」
「私は妖夢が怒っている時よりも、妖夢が笑っている時の方が好みなのよ。これは秘密ね」
 ああ。
 幽々子様が見え透いた嘘を言っている。
 椿の花に僅かな嫉妬を覚えた、自分を責めないなんて。
 こんなことがあるなんて。
 妖夢は、だから、少しだけ緊張して、少しだけ頬を膨らませて、いった。
「私は今、いつもよりも三倍、幽々子様が嫌いです」
「あらそう? ……だからなのね」
 永遠の姫は、いつもより三倍は普段通りに儚く、笑った。
「妖夢の仕事が三倍増しで残っているのは」
 半人半妖の未熟な庭師は今度こそ本当に脱力した。


 妖夢は自分の部屋に戻ると、簡単な図面を描き始めた。
 自給自足の冥界にあって、妖夢の器用さは精髄を極めつつあったが、その腕では勿体ないほどシンプルな設計の工芸品だ。完成させるのにものの数時間も掛からないだろう。妖夢には完成したそれが目の前にあるかのように想像できる。
 それは律儀に紅く塗装された郵便受けだ。
 妖夢は筆を滑らせながら、完成したそれが白玉楼へと登る長い長い階段の途中に備え付けられる様子を思い描く。
 そして、その脇には蒼白く透き通る冥界でも真っ赤な花を付ける、あの世の寒椿の木を植え付けるのだ。
 ……遠い遠い未来。遥かに超越した、劫の時間を想起する。
 いつか自分が人間の半分を失って、正真正銘の霊になってしまった頃に、
 新聞が届かなくなった日に、
 失われた自分の暖かい紅い唇を求めて、幽々子様が寂しがることのないように。
 その横にはずっと私が居るのだろう。半分を失い、半分を思い出す私が、未来永劫、主人の下に。幽々子と同じように、失われた自分の半身を思い出しながら。
 その時間は来るだろうか。来ないだろうか。


 ……一時筆を休め、手元に置いた寒椿の花を眺めてみる。
 その紅い姿が失われていく時間を眺めてみる。


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