■ 山百合 Lilium auratum 【鈴仙・優曇華院・イナバ】 地球人によって「静かの海」と名付けられた月の平野で、一人の月兎がうずくまって泣いている。だいたいがぼんやりとした映像なので、その貌はよく見えぬ。月兎の足下には一輪の花が咲いている。 月兎の背後に一人の人影が降りたった。 「あら、月にも花が咲くなんて知らなかったわ」 美しい声音に兎は紅の目を上げる。日傘を手にした地球人らしき女である。女は月を訪れる地球人が決まって身につけている、白い布製の甲冑をよろってはいなかった。兎は、視線を花に戻す。 「……きれいな山百合ね。 そんな綺麗な花を前にして、どうして泣いているの?」 地球人らしい存在は、無窮の 「…だって、私は罪人だもの」 ぽつりと、兎が言った。 「ほんとうに?」 たしかに、兎の首には罪人の鎖が繋がれてあった。その様子をよく見ようと、立ち上がった地球人の足下から砂埃が舞い上がった。月の砂は地球のそれと比べるとひどく細かい。月の低い重力のせいもあって、ちょっとの震動ですぐに舞い上がるのだった。淡い紫と緑に咲く百合を、兎は身体全体で庇って守った。 「……だって、鈴仙が月に来てくれないのだもの。 嘘まで 兎の涙は、ゆっくりとした間隔だが止まることなく流れ続け、山百合の足下に輪郭の定まらない染みを作っては消えてゆく。 「嘘?」 不思議そうな声に、兎は声音を落とした。 「ええ、地球人との全面戦争があるという、嘘。」 ああ、と得心して地球人は言った、 「無理よ、彼女は囚われているもの。 もっとも、彼女に囚われている意識はあるかどうか……」 「知っているんですか?彼女の事を? 会ったんですか?彼女と? でもどうして、囚われているんですか? まさか……あの罪人たちが彼女に何かを?」 切迫した兎の声に、地球人は両手を振って言った、 「ああ、そんなにせっつかないで頂戴。 私は彼女の事はあまり知らないわ。 ただ、その……ちょっと話し合った事があるくらい。」 「なら、そのちょっと話し合った事を教えてください、 どんなことでもいいんです、 鈴仙は元気そうでしたか?」 「その前に自己紹介をしましょうか。 私の名前は幽香、地球から来たわ。 あなたは?」 「私は月の罪人で名を……」 ☆ 「れいせーん」 因幡てゐに脇腹をどん、と蹴られ、鈴仙は目を覚ました。 「鈴仙、師匠が呼んでるよー……わっ!」 逃げるてゐを追って部屋を出、顔を洗って混濁した意識を整理するうち、先ほどまで見ていた夢の内容は鈴仙の頭からすっかり抜け落ちてしまった。 「たるんでいるわよ、鈴仙」 後頭部に寝癖を付けたまま出てきた弟子を見て、八意永琳はため息をついた。 「最近どうも寝付きが悪くて……うなされるのです」 答える声にも生気がない。 「うなされる?」 「ええ、寝ていると決まって悪い夢を見てうなされるのです」 「夢の内容は覚えていないの?」 「いえ、全く……」 永琳は訝しがったが、事実であった。内容こそは覚えていないものの、眠ったと思えばうなされて起きる。近頃の鈴仙の睡眠は、長くても二時間を越えなかった。 「そういえば目の下に隈ができているわ、大丈夫?」 目の下に隈の浮かんだ弟子の顔を、永琳はまじまじと見つめた。 「いえ、大丈夫です。 ちょっと眠いだけですから」 「そう? 今日はちょっと頼みたい事があって……」 ☆ 地上人が語りはじめ、その内容を聞くと、兎は涙をぽろぽろとこぼした。涙は山百合の足下に落ちるやいなや、月の砂に吸い込まれて淡い存在の痕跡を描いては消えゆく。地上人が語り終わると、今度は兎が語る番だった。 「……私は鈴仙を呼び戻すために、地球人との全面戦争があるという嘘を 鈴仙は戻ってきませんでしたが、その行為が罪に問われ、そのせいで私はここで独り死んでゆくのです。 でも、これも今の鈴仙の境遇に比べれば何でもないでしょう。 あの子はこれからもずっと、罪の意識を抱えながら生きてゆくでしょう、贖罪の機会もないままに。 それは、とても悲しい事です」 地上人はじっと兎を見つめていたが、ふと思いついたように言った、 「ああ、わかった。 その山百合はあなたの涙が育てていたのね、この不毛の土地で」 「そうなのです。 私が鈴仙の事を思って流す涙で、この山百合は咲くのです。 そうでなければこの不毛の地に百合は咲かないでしょう」 兎は首を振りながらそう言ったが、言いながらも彼女の涙は止まらなかった。地球人は大きなため息をつくと言った、 「いくら私でもその一輪を手折るほど無慈悲ではないわ。 せいぜい、あなたが死ぬ頃にもう一度ここに来て……行く末を見守るくらいね」 ほどなくして兎は死んだ。罪人である彼女の死にはいかなる月の民も立ち会う事を許されなかったが、あの地上人が彼女を看取った。弱りきって動けない兎は、末期の力を振り絞って山百合を指さすと、これを鈴仙に届けてくれ、と言って目を閉じた。 地上人は兎の亡骸と山百合とをそっと取り置くと、一声、声なき声を発して月を穿った。その一撃に月は割れんばかりに揺れ、月の民は皆、恐怖に怯えた。穿たれたクレーターに亡骸を埋葬した地上人は、手近にあった星条旗を突き刺して墓標とした。 「これで月もまこと不毛の地となった」 ☆ 「……が死んだだって?」 鈴仙は、そう口走りながら目覚めた。永遠邸が寝静まった深夜、強い月明かりが障子越しに彼女の目を打ったのだった。月にかざした手で目をこすってはじめて、鈴仙は己が泣いていた事を発見した。 (……なぜ、泣いているのだろう) 夢の内容を思い起こそうとするが、うまく思い出せない。誰かが死ぬ夢だったような気がするが。夢は彼女の手の中からするりと逃げ出してしまって、残されたしっぽも霧と消えつつあった。誰かが死ぬ、それが自分は悲しいのだろうか? (……わからない) 鈴仙は、布団を頭からすっぽりとかぶると頭を抱え、再び眠りにつこうと試みたが、無理であった。朝が白々と明けるそのときまで、彼女は布団の闇の中で頭を抱えながら時を過ごした。 「この頃、不思議な夢を見ます」 弟子の言葉に、永琳は眉をひそめた。あまりよく眠れていないのだろう、弟子の目は充血し、落ち込んでいた。 「どんな夢かしら」 やはり良く思い出せないのですが、と鈴仙は前置きした 「月の兎が、死んでゆく夢です」 永琳はため息をついた。この弟子は、あのとき月に戻れなかった事を、まだ気に病んでいるのだ。 「またどうせ月から送られたおかしな電波と共鳴しているんじゃないのかしら。 あなた、わたしの言いつけを守って月から来る周波をカットしているの?」 「え、ええ、まあ」 永琳は再びため息をついた。答えの調子から推し量るに、未だに月との回線を開きっぱなしにしているに違いない。 「言いつけ通りになさい。 肉体労働でもすればぐっすり眠れるのじゃないかしら。 竹林の掃除を命じます。 誰の助けも借りずにやるのよ。 すぐに行って。」 何事かを言いたそうにしている弟子を一瞥して送り出すと、永琳は大きなため息をついた。 「どうして私たちがあなたを月に返したがらなかったのか、わからなかったのかしら?」 そう独語すると、机に向かって薬を調合しはじめた。 地球兎たちに適当な仕事を与えて一人になると、鈴仙は竹林の掃除に取りかかった。あの一件までは竹の花泥棒が時折現れる程度の静かな竹林だったが、事件以後は不届きな闖入者が絶えなかった。連中は絶え間なく竹林を荒らしては去ってゆく。すべきことはたくさんあった。 夏と言うには少し早い季節、竹林には小さな花々しか咲いていない。鬱蒼と茂った竹が光線を遮るせいで肌寒い朝だったが、身体を動かすうちに鈴仙はしっとりと汗ばんだ。黙然と竹林の掃除を進めるうちに、鈴仙は小さな 見慣れた祠の前に、見慣れぬ一輪の山百合が咲いていた。この百合は昨日まではそこになかったはず、と思いながら祠の前に立ったとき、花の強い香りが鈴仙を打った。鈴仙は顔を上げた。涙を瞳にとどめる事など不可能であった。穢れた地上に逃げ下った月兎の目に溢れた涙が頬を伝い、山百合の花に落ちた。花を打って葉に落ちるその滴は竹林から漏れた朝光に刹那の間きらめくと、山百合の根元に降り注ぐ。次々と降る涙の雨は、まあたらしい土のうえに小さな黒い痕跡をいくつも描いたが、その痕跡はすぐに輪郭を失って消えゆくのであった。 |
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