■ ジキタリス   Digitalis purpurea LINN.        【霧雨魔理沙】


 急な斜度のついた広葉樹林の上をしばらく飛んで丘の頂に至ると、林はそこで途切れて小さな花畑になった。吹く風に紫の鈴を鳴らしてジギタリスが群生する。五月も終わりにさしかかったある朝、霧雨魔理沙はお気に入りの箒に乗ってその花畑を訪れた。
「よう」
先客が居ることは、上空から確認できていた。
「あら、お久しぶり」
答えを返したのは、永遠邸の鈴仙である。
「こいつを摘みに来たのかい」
魔理沙はジギタリスを指した。
「そうよ、キツネノテブクロ。
 薬草ね」
丁寧に根から掘り起こしたその植物を、鈴仙は一株二株と籠に納めてゆく。
「私の言葉ではジギタリス。
 劇薬だぜ」
持参のずた袋から取り出した白手袋をはめた魔理沙は、同じ袋から取り出した園芸用のスコップを手に、植物を注意深く掘り起こし始めた。
「あら、私達はこの植物の毒を人間ほど気にしていないのよ」
己の分をあらかた籠に収めてしまった鈴仙が、身の回りのものを片づけながら言った。
「月の民はやたらに頑丈だからな」
魔理沙の声色は大抵の場合、彼女の用いる言葉ほど皮肉を含んではいない。はきはきとしたむしろ爽やかとも言える口調、それが彼女の美徳の一つかもしれない、と鈴仙は思った。
「それもあるけど、体内に入った毒の力を、ある程度制御できるのよ、私たちは。
 普通の人間にはおそらく無理でしょうけど」
それを聞いた魔理沙はうなずいた。
「なんとなくわかるぜ。
 普通の人間が制御できるなまの力なんてわずかだからな。
 その力を一度殺して自分に扱える状態にしないと、その力で逆に傷ついてしまう」
そう言いながら慣れた手つきで植物を採集する魔理沙を眺めながら、鈴仙は荷物から竹の水筒を取り出した。
「おもしろいわね、それ。
 力を殺したら、力が消えてしまわないかしら」
言って、竹の香りのする水で口を湿した。
「殺す、と言っても別の力でそれを相殺する、という意味じゃない。
 そうだな……力を手なずけるということになるのかな。
 わかるかな」
「なんとなく、ね。」
水筒に栓をしながら、鈴仙は肩をすくめた。
「昔、ある人に教えてもらったんだ」
魔理沙はスコップを置いて、立ち上がった。目を閉じて両手を広げると、世界に数多くの力が満ち、それらが干渉しあいながらゆっくりと動いている様がよくわかる。足下には大地があり、空には風が、天には光があった。心を澄ますと、大地が、太陽が、今は見えない星々や月が、巨大な尺度スケールの均衡の上に粛々と動いているのがわかる。

      ☆

「目を閉じてごらん、魔理沙。
 今のおまえなら、世界に満ちている力を感じることができるだろう」
言葉のままに目を閉じると、魔理沙は師に教えられた方法に従って意識を集中した。霊夢ならば丹を練る、と言うのだろうか。意識を心と体の奥へ向かって集中すると同時に、感覚を世界へ解放してゆく。すると世界のいまひとつの姿、巨大な力に満ちて鳴動する姿が徐々に感じられはじめた。
えます」
視覚を通して知覚しているわけではなかったが、己の認識をどう表現して良いのかわからなかった魔理沙は、視えるという言葉を選んだ。
「では、辺りを調べてごらん」
その言葉に周囲を回した魔理沙は、己の背後にいた師の存在を捉えた。魔理沙が感じ取ったその存在は、純粋で圧倒的な力とでも言うべきものであって、それをどう処理すべきかわからずに混乱してしまった魔理沙の脳にとってそれは爆発的な光輝であり、光の存在しない全くの暗闇であり、刻一刻と変化し乱れ混じり合う全ての色であった。その存在を捉えてしまった刹那、魔理沙の中にこれまで感じた事のない法悦が弾け駆けめぐり、その意識は瞬時に闇へと沈んだ。

      ☆

「ジギタリスは、人間にとっては猛毒だが、その成分を抽出し適量を投与すれば薬にもなる。
 それが、あんたの師匠の得意分野の一つだ。
 この行為……こいつだったら葉を乾燥させて粉砕、成分を水に抽出した後に希釈するって作業……を通して、こいつの持つ力を手なずけることができる。
 そうしてはじめて、薬として利用することが可能になる。
 人間にとって、自然に働く力と言うものは大抵がこの様なものなのさ」
魔理沙の言葉に、鈴仙は腕組みをして答えた。
「人間が魔導書やら八卦炉やらにこだわる理由が何となくわかってきたわ。
 その力を利用する術をあなたに教えたのが、さっき出てきたあなたの師匠、ってわけね」
「ご明察」
魔理沙はそう言って採集作業に戻ったが、すぐに手を休め、
「そういえば、長いこと会っていないな」
と呟いた。
「その師匠に?」
鈴仙の問いかけに魔理沙はうなずいた。掘り起こしたジギタリスを持参の籠に無造作に突っ込んで蓋をする。
「ところで、その師匠って誰なの?」
何気ない質問に、魔理沙の動きが止まった。「えっ」という小さな呟きを発したきり動かない。その身体は、手袋を外しかけた不自然な格好で止まっている。数呼吸ほどの間の後、人形のような硬直から解けた魔理沙は、どこか暗い視線を鈴仙に投げかけた。その視線は記憶の闇をさまよっていて、鈴仙を見てはいない。
「いいよな、あんたは師匠がすぐ近くに居て」
「……は?」
間の抜けた返答を返した鈴仙だったが、彼女は先ほどの質問をした後から魔理沙の出す波長がひどく不安定になったことを感じていた。何か訊いてはならない事を訊いてしまったのだろうか、と彼女は思った。
「今日はもういいかな、こんなもんで」
誰に言うでもなく呟くと、魔理沙は箒の先に籠とずた袋とをぶら下げた。
「お先に失礼するぜ」
言うなり箒にまたがって空に飛び出してゆくその後ろ姿を、発進の余韻に揺れる鈴仙とジギタリスが見守った。
「大切なものを、どこかに置き忘れて来たのね」
鈴仙はひとり呟いた。魔理沙の姿は、すでに芥子粒ほどである。


「……参ったな、名前をど忘れしちまったぜ」
耳元で風きり音がひゅうひゅう言う中、魔理沙は呟いた。やる事はたくさんあったが、ひとまずは家に戻ってジギタリスを置いてこなければならなかった。

      ☆

 その昔、魔理沙は右手に大火傷を負った事がある。目隠しをして世界を視る修行の最中に転倒し、燃え盛る焚き火に右手をついてしまったのである。火傷のあまりの痛みに大声で泣いてしまったことを覚えている。次に覚えているのは、火傷した右手を握る師の手であった。
「馬鹿だね、あんたは。
 ちょっと痛いけど我慢するんだよ」
「うん」
師は水ぶくれの出来はじめた魔理沙の手を握ると、それを見つめた。瞬間、魔理沙の掌に火傷のそれとは比べものにならない激痛が走った。反射的に手を引こうとするが、手は恐ろしい力で締め上げられていて動かない。叫び声を上げようと口をあけたものの叫ぶことが出来ず、魔理沙はただ空気を肺に送り込むのが精一杯であった。次の瞬間、痛みは来たときと同じく唐突に去った。師が手をゆっくりと離すと、魔理沙の手は火傷も何もなかったかのように綺麗になっていた。
「すごい」
驚きにきらめく魔理沙の目に、焼けただれた師の手が映った。
「……それは?」
心配そうな魔理沙の問いかけにほほえむと、師は掌を軽く握って息を吹きかけた。ゆっくりと掌を開くと、そこにあった火傷は消え失せていた。目を輝かせる魔理沙に、師は言い聞かせた。
「いいかい、魔理沙。
 あんたは人間だから、あたしみたいに自然に働いている力をそのまま行使する事は出来ない。
 自分の力でその力を無理矢理使おうと考えれば、必ずしっぺ返しを受ける。
 生きているものが自分を殺そうとするものに対して抵抗するように、力だってただ利用されるわけでもない。
 そして、強い力ほどその抵抗は強い。
 強い力を使おうと思えば、あんたはその力を一度殺して、それから使わないといけない。
 それが、力を力で従わせてしまえる妖怪と、そうはいかないあんたの差なのさ。
 これから、そのやり方を教えるからね」

      ☆

 風の死んだ図書館の中には、闇が吹き散らされないまま沈殿し、層となって積もっている。閉め切られた雨戸から漏れ入る昼光が積層を切り裂き、緋の絨毯の上に直線的で途切れがちな文様を描いていた。
「おじゃまするぜ」
魔理沙の声を聞くと、ヴワル図書館の主は小さく溜息をついた。読んでいた本に栞を挟み、羊皮紙にメモを書き付けてから目を上げる。
「何しに来たの」
館内は書物の保存のためか、極端に照明が少ない。卓上の燭台一つが、その場に置かれた唯一の照明であった。
「調べたいことがあるんだが」
外から来た魔理沙は、照度の落差に目が慣れるのを待っていた。
「あなたにこの前貸した、ブライドウェル版の無名祭祀書を返してくれれば手伝ってあげてもいいわよ」
魔理沙は箒に提げた袋から八つ折り版の本を取り出すと、机の上に置いた。図書館の主である魔女は片眉をわずかに上げて魔理沙を見ると、手を二度たたいた。
「椅子に座って頂戴」
と、傍らの安楽椅子を指さす。豪奢なクッションに魔理沙が身を沈めた時、背に蝙蝠羽根を生やした給仕がワゴンを押しながらやってきた。
「お茶をお持ちしました」
伏せられた椀を返し、二人分の紅茶を注ぐ。紅茶と共に出された皿には、焼き菓子が盛られていた。給仕が退出した後、二人は紅茶を啜りながら話を始めた。
「調べものって何かしら」
焼き菓子をつまみながら魔女が言う。
「ある人物の名前。
 私の師匠と言える人。」
紅茶の香気か、それとも好奇のまなざしか、図書館の主を務める魔女は目を細めて魔理沙を見た。
「そんなに大切な人の名前を忘れてしまったわけなの?」
どことなく非難めいた声音に、魔理沙はカップを持っていない方の手をあげて抗議した。
「それが、全く思い出せないんだ。
 ここに来る前に探せる範囲で家を探してみたけど、その人に関した資料はどこにもなかった」
魔女は小さく肩をすくめると、紅茶を啜った。
「薄情なようだけど、名前がわからなくては図書館では探しようがないわ。
 違うかしら?
 霧雨魔理沙の伝記があるならまだしも、ね」
図書館に並ぶ本棚の群れを、魔理沙は呆然と眺めた。
「それも、そうだな」
そう言うと、魔理沙は紅茶の残りをぐっと飲み干した。

      ☆

「おまえに星のかけらを操る方法を教えよう、魔理沙」
「星の、かけら?」
「そう、星のかけらさ。
 星のかけらに囲まれたおまえは星々の王、太陽となる」
師と別れた後になってわかったことだが、師の教えてくれた星のかけらを操る技は、魔理沙自身を太陽になぞらえて太陽系を正確に模する技であった。習った当初は、操る星のかけらそれぞれに細かな制限がある理由がよくわからなかったが、今ではよく理解できる。
 魔理沙がはじめて太陽系を正確に模することができたとき、師は腕を広げてその外にある世界を見せてくれた。太陽系の外には太陽系と同じ惑星系が限りなく存在し、それらを束ねる概念として銀河系があった。広大な銀河の中を数え切れない彗星が飛び回っている。そしてその宇宙の縮図の中で師が体現していた存在とは…尽きることのない宇宙の闇であった。

      ☆

 魔理沙の箒は紅魔館を離れ、人里へと向かった。やや霞がかった晴れ空の下、里のところどころには昼食を作る煙が立ち昇っていた。魔理沙が向かったのは博麗神社である。紅白巫女は昼餉を終えたところで、縁側でのんびりと茶を啜っていた。紅魔館の焼き菓子を手土産に、魔理沙は茶をいただく事にする。
「あのさ、霊夢」
「改まって、なんでしょうか」
霊夢は、不審そうな面持ちで魔理沙を眺めた。
「私の師匠の名前を、教えてくれ」
不審の表情は疑惑のそれに変わる。
「ねえ魔理沙。
 あなた、私をからかってるんじゃないでしょうね」
「からかってなんかいない。
 本当に思い出せないんだ」
ふざけているようにも見えない魔理沙の表情と声音に、霊夢の疑惑のまなざしは心配そうなものへと変わった。
「……どうしたのよ、突然そんなことを訊いたりして」
「どうもこうも、気になってしまったものは仕方ないし、度忘れしてしまったものも仕方がない」
魔理沙の声が苛立ちを含んでいる事に気づいた霊夢は、はぁ、とため息をついて茶を啜った。
「……私よりも幽香に訊いた方がいいんじゃないのかしら」
言って視線を外す。
「知ってるんだろ?
 私の師匠のこと」
魔理沙は霊夢ににじり寄った。
「知ってるわよ。
 あなたがなんで忘れたのかは知らないけど、知っているのは私とあなた、そして幽香だけ」
そう早口で言った霊夢の視線は魔理沙を見ておらず、湯呑みの中をさまよっていた。
「なら、ここで教えてくれたっていいじゃないか!」
声を荒げる魔理沙に霊夢は顔を上げ、頬を火照らせた魔法使いの瞳を覗き込んで今度はゆっくりと言った、
「ねえ、魔理沙。
 あなたが何を考えているかわからないけど、もうあの頃には戻れないのよ。
 あなたが師匠の名前を思い出しても、どれだけ師匠のことを思いだしても、いくら師匠に会いたいと思っても、もう会うことはできないと思うの」
「どうして?」
悲痛な響きを帯びた問いかけだった。霊夢は悲しげな瞳を伏せて言った、
「……どうしてもよ」

      ☆

「魔理沙、一緒に空を飛ぼう」
「空を……飛ぶ?」
「そう、私みたいに空を飛ぶのさ」
「魔理沙にも翼が使えるようになるの?」
「いや、おまえは人間だからね。
 箒に乗るのがいいんじゃないかな」
「箒に乗って空を飛ぶの?」
「そうさ、こんなふうにね」
天空の紺碧に翼の漆黒。身体が浮いたかと思うと、師弟は雲海の上を飛んでいた。はしゃぐ魔理沙を見て、師は目を細める。

      ☆

 魔理沙の箒が幻想郷の空を疾駆する。博麗神社と幽香の住む屋敷はさほど離れておらず、ほどなくして魔理沙は春の花々の咲き乱れる庭に着いた。
「久しぶりね」
地上からかけられた声に、魔理沙が振り返る。魔理沙が答える前に、幽香は口を開いた。
「こんなところに何の用かしら?」
着陸態勢に入っていた魔理沙はそれには答えず、箒の高度をゆっくりと下げながら半ば独り言のように言った、
「こんなに花が咲いていては、着地の時に花を踏まないかどうかひやひやするぜ」
それを聞いた花の妖怪はくすり、と含み笑いをした。
「そう?
 昔はそんなこと、全然気にしていなかったじゃない」
ようやく着地した魔理沙は、軽く眉をひそめながら言った
「その昔のことに、用がある」
「言ってご覧なさい」
両手を広げて言った幽香に魔理沙は間髪を入れずに質問した
「私の師匠の名を知らないか」
妖怪の目が、すっと細められた。
「知ってどうするのかしら、魔法使いさん」
言われて魔理沙は首をひねった。
「気になったから、知りたいんだ。
 あとは……できれば会いたい、その人に」
それを聞くと幽香はくすり、とほほえんだ。嫌味のない極上の笑みも、魔理沙には不思議と攻撃的に映った。
「会っちゃいけないのかよ!」
一陣のつむじ風が花畑に吹いて、花びらを巻き上げては散らした。
「いけなくはないわ。
 ただ、あなたが考えている形で会うのは難しいでしょうね。
 彼女は、今のあなたにとっていわば…ジギタリスみたいなものだから」
人差し指を唇にあてて思案する幽香を、魔理沙は怪訝な表情で見つめた。
「私には毒だとでも言うのか?」
かすかな怒気を孕んだ声に、幽香は肩をすくめた。
「馬鹿な子。
 もう、あの頃に戻れないと言うことは知っているのでしょう?」
冷たい声だった。
「戻らないさ!
 ただ……ただ、会いたいだけなんだ!
 名前を思い出したいだけなんだ!
 名前さえわかれば、名前を呼ぶことができるじゃないか!」
刺すような幽香の視線から逃れるように、魔理沙は叫んだ。
「でも、あなたはあのひとの名前を忘れた。
 実際、今もその名を思い出すことができない」
幽香の冷たい声が魔理沙の心に無断で入り込んで、不安を掻きたてる。
「忘れたんじゃない!
 ただ…ただ日々が忙しくて、その中で見失ったんだ」
魔理沙には幽香がたまらなく恐ろしかった。ただ近くに立って話をしているだけなのに、魔理沙は嫌な胸騒ぎを覚えて浮き足立ってしまうのだった。
「あなたは普段、その存在を忘れて生きているじゃない。
 普段はその名を忘れていて、自分の会いたい時だけ思い出したい、と言うのは少し虫が良すぎる話じゃない?」
「そんな!」
魔理沙は言葉に詰まった。幽香は黙って彼女を見ている。
「……ただ会いたいだけなのに。
 会いたいだけなのに、なんだってこんな……」
魔理沙は歯噛みして目前の妖怪を睨み付けた。
「勝負しろ。
 私が勝ったら師の名を教えてもらう。
 負けたら何でもおまえの言うことを聞いてやろうとも」
幽香の目が、すっと細められた。唇の端が残酷な喜びに歪む。
「いいのかしら。
 今のあなたに勝ち目はないように思えるのだけど」
言うなり上空に身を躍らせた。


 戦いは一方的なものだった。心理的な落ち着きを欠く魔理沙は幽香のいいように翻弄され、消耗し、得意の脚力も満足に出なくなっていた。
「そんなんじゃあ、師匠も泣いちゃうわね」
「うるさいっ!
 マスタースパークで吹き飛ばしてやる!」
言うなり、魔理沙は懐から呪符を取り出して構えた。何を思ったのか、幽香がそれまで開いていた日傘を畳んだのが見えた。幽香に向けて構えた魔理沙の掌からマスタースパークの閃光が走った刹那、幽香の傘からそれを上回るエネルギーの束が迸った。呪壁を張る間もなく、魔理沙はエネルギーの奔流に飲み込まれる。身体を守るための呪具が次々に弾け飛んでいく中、魔理沙は歯を食いしばってエネルギーの直撃に耐えていた。
(畜生、ただ、ただ会いたいだけなのに!
 名を呼んで、笑いかけてもらいたいだけなのに!)
ばきん、という鈍い音ともに左腕の呪環が砕けた。魔理沙の最後の盾であった呪具が壊れた今、彼女を守るものは何もなかった。光の奔流に身体を弾き飛ばされ、魔理沙は宙を舞った。箒を制御するだけの力はもはや残っていなかった。激痛と共に暗く染まって行くその意識の闇に、何者かがそっと手を伸ばしたことを彼女はうっすらと知覚したが、その意識もすぐに闇へと染まって行った。

      ☆

 誰かの腕に抱かれている気がする。家を飛び出たはいいものの誰からも忌避され、どこにも行く当てのなかった彼女をまるで彼女の母親のように抱きとめ、はぐくんだ腕。かぎりなく広大で、彼女をそのまま受け止め、包み込んでくれた腕。その腕は、幻想郷に一人で生きること、空を飛ぶこと、魔法を使うこと、闇の友となることを教えてくれた腕であった。挫折したときはいつも叱咤し、立ち上がる力を与えてくれた腕であった。

 飛びなさい、魔理沙
 足が止まったらおまえは墜ちる
 飛びなさい、魔理沙
 迷いに絡め取られる前に、何よりも速く
 さあ、飛びなさい!

 闇からの声に魔理沙が慌てて身を起こすと、そこは博麗神社の社務所、要するに霊夢の家であった。
「意識、取り戻したみたいよ」
奥の間から、どこかのんびりした霊夢の声がしたかと思うと、襖が開いて霊夢と幽香が部屋に入って来た。
「もう起きあがって大丈夫なの?」
霊夢と幽香が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「気分はどうかしら?」
幽香の手がぺちぺち、と魔理沙の頬をたたく。
「……そう悪くもないぜ」
ぐっすり眠った様で身体はだるかったが、気分は悪くなかった。霊夢と幽香が顔を見合わせた。
「まさかあれを真っ正面で受けて立つとは誰も思わないわよ、お馬鹿さんねえ」
にっこりと笑って幽香は魔理沙の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「あんな見え透いた技を食らう魔理沙も魔理沙よ」
呆れ顔で言った霊夢が言い足した
「それはそうと、あれだけ派手に吹っ飛んでおきながらかすり傷一つないとは、ずいぶん頑丈にできているのね、魔理沙」
霊夢の言葉に気づいた魔理沙は立ちあがり、身体を改めた。気を失う直前まで激痛を覚えていたのに骨一本折れてはおらず、打ち身一つ、かすり傷一つない。
「まさ…か…」
言葉を失う魔理沙に、幽香が人差し指をたてて唇にあてた。
「そのまさか、ね。
 あれくらいやらないと、あなたは彼女に近づく事が出来なかったわけだし」
それを聞いた魔理沙は布団に潜り込むと、その中で声を殺して泣いた。もう何があってもあの頃に戻ることは出来ないのだ、という思いが彼女を深く貫いていた。魔理沙が次に師に会う時、それは死が彼女をその腕に永遠に抱きとるその
時だという事を、彼女は明確に悟ったのである。


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