■ プロローグ もぞり。 布団にくるまった小さな躯が、少しだけ寝返りを打つ。蹴り飛ばした厚手の上布団を無意識のうちに引っ張って、もう一度その暖かさを求めている。器用なことをするものだが、本人には当然その自覚がない。解れた髪が微かな呼吸を繰り返す鼻に掛かって、小さく揺れている。 もぞり。 頭の位置を変えると、枕にずぶずぶと顔が埋まっていく。足をゆっくり動かしながら、それでもしばらくそのままにしていると、 「…………うぐ」 呼吸が困難になったのか、顔を上げ、枕の上に顎を落とした。 寝ぼけた霊夢が、薄目で初めて光を感じる。 「……にゃ」 意味不明。 しばらくそのままでまなこをしばたたかせて、 ようやく、ゆっくり、肘をゆっくりと立て始める。膝を崩したまま、布団にくるまったまま上体を起こし、自分の顔の型がついた枕を抱き寄せる。 「さむぃ」 また、独り言。今度は意味が通じる。精神が覚醒を始めたようだ。 自分の部屋。障子がまろやかに朝の微光を浮かび上がらせる。明るくはないけれどもう暗くもない。畳の匂いがいつもより芳ばしく感じるのは気のせいか。外からヒバリの声が響いている。 どうも、頭が重い気がした。かといって、風邪を引いている感じでもない。 周囲にゆっくりと首を傾けて何かを探す――あった。 脇の書斎机に、蓋をした湯呑みが置いてある。ゆるゆると手を伸ばすと、中は冷めたお茶。湯気もないのに、茶柱が立っている。傍らに落ちている桜の花弁。 霊夢は湯呑みをまじまじと覗き込むと、寝汗でほんのり上気した唇にゆっくりと運ぶ。 こくっ、こくっ、 細い喉が液体を通す音。 白い肌に赤味が差していく。 一瞬、全身に震えを感じ、その後ゆっくりと暖かさが戻ってくる。 ……そして、一息つく。 「あったかいのが、いいなぁ」 昨夜のうちに準備したのは名案だったけど、さすがに淹れたての煎茶をあらかじめ準備するのは無理な話だった。そして、そう考えると一気に湯気が恋しくなった。 ああ、お茶を淹れよう。 徐々に回り始めた頭の中の時計の針を感じながら、霊夢は布団の脇に畳んであったリボンを取り、両手でいつものように髪を結わえる。 ……結わえようとして、 その違和感の正体に気付いた。 重い。 頭が髪が、ひたすら重い。 「なによ……これ……」 自分は、夜着と一緒に髪を纏っていた。 いや……髪が、 信じられないぐらいの長い髪だった。 紛れもなく、自分の髪。 それが、腰よりもずっとずっと長く伸びている。昨日寝る前に髪を梳かした時までは、普通の長さだったのに。 一気に目が覚めた。 そして―― 机に置かれた桜の花弁の不自然さに思い立つ。あの花は、一体何処から紛れ込んだというのか? 曇った窓硝子の水滴を布巾で拭うが如く、曇っていた脳裡の空が、芦原の雲のその向こうへと、一瞬で広がってゆく。 霊夢は立ち上がり、 自分の髪を踏んで転ばないように努力をしながらも、障子を両手で左右に開け放った。 途端、思いつく限りの色が網膜を刺激した。 ……周囲の桜が満開だった。 境内は既に菫畑だった。 正面入り口の鳥居には朝顔の蔓がからみつき、その向こうからは金木犀の香りが漂ってくる。向日葵の大きな茎の下には競うように躑躅が花が咲かせ、池の畔には色とりどりの花菖蒲や紫陽花が雨もないのに輝いている。もちろん、水の上には睡蓮が浮かんでいた。 花、 花、 花、 何処を見ても視界に花の入らない場所はない。春夏秋冬の法則を蹴散らして、ありとあらゆる花が世界を覆い尽くしている。 霊夢は眼前に展開する極楽浄土をしばらく惚けるように眺めていた。が、数分という時間を費やしてようやく溜息をつくと、立ち込める甘い香りを感じながら、近くに立てかけていたお払い棒を見下ろした。紙垂が吊された榊の枝の先にすら、白い花が小さく咲いている。 「……これはまた、私の仕事かしらね? まったく、厄介なことだわ」 そういいながらも何故か、霊夢の顔は明るい。 長い髪を柔らかい風がゆっくりと揺らしている。 ☆ その日、……青空の下。 幻想郷は極彩色の千の春を迎えていた。 無数の花という花が咲き乱れる、 総ての要素が重なり合い空を見上げる、 ――六十年に一度の春。 |
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