This is the Short Story of "Stray Dragon".





1.雲外蒼天                     Advent


 滑空する――
 空を滑り落ちる。
 いくつもの積乱雲を掴んではその身を乗り出し、
 下方へ向かって飛翔していく。
 地獄は精緻な天井にあり、
 天涯は地の底で夢を見る。


 それは絶えず雷鳴と共にあった。
 本来落ちていく筈の水を集め、昇華を以ってその身を構成し、
 幾度となく身をくねらせる稲光を纏って雲の隙間を潜りぬける。 
 前兆はなかった。
 何故なら、光そのものは何人にも捉えられない神の領域だから。
 知覚にとっては、
 始まりは遅れてくる轟音であり、
 認識された歓喜はやがて咆哮と転じる。
 光が通り過ぎた後で、行動が理由に帰結し、因果関係を上書きしていく。


 そう。
 貧弱な人間とは違い、
 あまねく強靱な意思は、あらゆる時空で肉体に束縛されない。
 知性こそが、それに合わせた肉体を時に応じて一から構築していくのだ。
 原子核のその奥の運動すらも司って。
 その過程こそが重要である。


 もし仮にそれを人間が客観的に観測することができるとすれば、
 もし人間がそれを過去という記録に封じ込めようとするのであれば、
 多大なる畏敬と恐怖と崇拝とを以って、
 ただ一言こう書き記すだろう。


 曰く――絶対者の降臨、と。





2.空白少女                    Tabura rasa


 ――そして、少女は目覚めた。
 むくりと起き上がり、自分の両手をまじまじと眺め、ついている泥を払い落とす。
 立ち上がり、周囲を見渡してみる。
 どこまでもつづく平原。遠く霞む遥かな場所まで、無数の色がひしめいている。
 花だ。
 赤、青、黄、白。無限の色彩に包まれて、少女は立っていた。
 多少焦点の合わない瞳で、少女はその光景をぼんやりと眺めている。
 意思を感じさせないというわけでは、ない。むしろ、周囲の世界との距離を測りかねているという風情か。
 世界に手を伸ばせば届いてしまうその近さに戸惑いを感じているのかもしれない。
 振り仰げば、青空には流れゆくちぎれ雲が三つ四つ。
 暖かな南風に吹き流されながら、まるで挨拶のように影を落としていく、斑に、少女に掛かるように。
 無造作に伸びる黒髪をも風に揺らしながら、少女はただ立ち尽くしている。
 ずっと。身じろぎもせずに。
 ……どのくらい経ったのだろうか。
「おっと、こんなところに不審者発見」
 影に混じって、人の声が落ちてきた。
 ほどなく後を追って、黒い姿が質量と共に降下してくる。
 三角帽子の魔法使いだ。もさもさの金髪が太陽光をいい加減に反射している。
「梅雨の時候だっていうのにいつまでも春だから仕方なく空を飛んでいたら、めずらしく女の子を拾っちまったぜ。でもこいつはさすがに私の手には余るなぁ」
 霧雨という、およそ青空には向かない名前を持つ魔法使いは、そういって頭を掻く。
 少女はまるで空を見るように、
 大地を見るように、
 花を見るようにして、
 目の前の魔法使いを見ていた。





3.珍客                       Antique Shop


 カランカラン――
 いつものようにドアベルが鳴り、僕はいつものように本から顔を上げた。
「いらっしゃ……なんだ、魔理沙か」
「よう香霖。相変わらず失礼な言い分だがまぁいい。なんだかしらないが今日は客を連れてきたぜ」
 時折うんざりしてしまうほど顔馴染な少女の後ろには、見覚えのない少女が立っていた。
 ドアを開けたまま、店の中に視線を巡らせている。
「おい、その子はどうしたんだ」
「向こうの平原のど真ん中に突っ立ってたから、連れてきた」
「連れて来たって、猫の子じゃないんだから」
「猫の子だったら連れてきていいのか? 猫は家に取り憑くから厄介だが」
「そういう次元の問題じゃない」
「なんにも喋らないんだから、不審人物には違いない。不審な事態なら、不審者に任せるのがいいと思ってな」
「僕は不審人物でも里の顔役でも迷子案内人でもないんだけどな」
 魔理沙が手を取って、少女が握ったままのドアノブを放させる。
 少女はもう一歩店の中に入った。ドアが音を立ててしまる。
 地球儀、古い書物、幻想郷の外から来た機械や動物の剥製。
 陳列棚に所狭しと並んだ商品――そのほとんどが分厚い埃に覆われているのはこの際おいておいて――を眺める少女。
 僕はふと、あることに気づいた。
 少女は興味を持ってそれらを眺めているようだけれど、どれに集中するでなく、ある一定の時間、それも正確に同じ時間だけ眺めて、次のものを選んでいる気がするのだ。
 それは人間的な興味ではなく、むしろ機械的な作業。
 いや、機械的という乾燥した無味無臭さでもない――すべてに分け隔てのない行為。
 当然、その品々の一品として、僕とも目を合わせる。
 そして何を納得したのか、同じ時間を以って興味を失い、別のものを探す。
「どうしたんだよ香霖。ぼおっとしてないでなんとか対応してくれ。私も暇な散歩の途中で忙しいんだ」
「無茶を言うな。大体、彼女の意思が――」
 そこで僕は、おおよそ久しぶりに吃驚した。
 魔理沙に向き直ったその一瞬の間に、少女の姿が消え去っていたからだ。
「あ? あれ……」
 魔理沙ですら、さすがにたじろいでいる。
 出ていったならドアベルが鳴るはずなのだから。
 むしろ、さっきドアが開いたのかどうなのか、その場所にあの少女がいたのかどうなのか……一瞬前の記憶すら不確かな気がしてくるのは、一体何故なのだろう。
 とりあえず、いいたいことはいっておくのが一番だ。
 こういう説明のつかない現象が起きている時は特に。
「魔理沙、連れてくるなら客にしてくれないか。それもリピーターになってくれる人を頼む――泥棒よりも冷やかしの方がなんだか性質が悪い」
「むしろあいつをここまで連れてきたこと自体を評価して欲しいぜ」
「まぁそれはそうだがな」





4.風の循環                     Wind Tour


 少女は心地よさそうに歩いていく。
 森に穿たれた小道を通って、時折流れる細い川を飛び越えて。
 手を引いてくれた黒い少女のお陰で、自分の足で歩くことの喜びが分かったのだろうか。
 一歩一歩踏み出していくことに慣れた次は、風のテンポに合わせて歩調を速めていった。
 やがてそれは駈足になる。
 裸足で踏みこんだ大地の感触が足から全身に伝わる。
 前方からの風にむかって走れば、圧迫感と共に黒髪が大きく広がる。
 今度は風に逆らわず、風の流れに乗って走ってみる。大きく両手を広げると、それだけで空に巻き上げられそうな幻想を垣間見る。自己と他者が入り混じる刹那を感じる。変容はいつ何時も起こり続けているのだから。
 そうやって風の向きが変わるたびにめちゃくちゃに走っているのだから、当然目的地は定まらず、同じ道を行ったり来たり、違う道に出たり入ったり。
 でも、そうしている間に、太陽の温かさと森の樹陰の冷たさの違いを感じ取り、その違いこそが作り出す恒常的な風の道をも見出すようになっていく。
 森に穿たれた小道と、その頭上に細分化された風の通り道。
 息を切らしながら駆けていく少女は、
 次々と取りこんでいく新しい知識に喜びを覚え、笑顔を浮かべ始め、
 遂には森の切れる場所へと辿り着く。 
 眼前には――失われた大草原。
 風の交差点が広がっている。





5.遠野幻想物語                Mysthic Town


 里を歩く。
 人がいる。沢山の人がいる。
 人の声がする。ささめき合う、笑い合う、語り合う声。どこからか子供の泣き声がする。怒号も聞こえる。
 行きかう道が交差する場所で、両手を耳に当てて雑踏の響きを聞く。
 かつて何もない平原であった場所。巷間なく川が流れるだけだった場所。鬱蒼と茂る森だった場所。
 人が一人増え、二人増え、どんどん増えていくに連れて、
 そこには家が立ち、道が引かれ、畑が耕され、
 空に伸びる大樹の変わりに、人々の歴史が降り積もってゆく。
 だけど――この場所の歴史はゆるやかだ。
 人が知覚可能な範囲が狭いからなのだろうか。
 人が手で書いた墨塗りの文字や、人が手で葺いた草の屋根が、生活の中に息づいている。
 人の歩いた足跡が夕方まで残っている。
 人の呼気が大気と有機的に混ざってゆく。


 時間を刻む足跡を覗きこんで、人でないものが夜な夜な里の周囲を巡る。
 里の端には、妖怪を追い返すように地蔵菩薩が立てられて目を光らせている。
 その背後にはいつも、鎮守の大木が注連縄を巻かれて屹立している。
 神と、人と、妖怪と、樹と、妖精と。
 意思を持つあらゆる存在が、里という境界を構成している。
 だから昼間はより明るくなり、夜は止めど無く闇に落ちる。


 耳に木霊する人々の喧騒を土産に、少女は歩き出す。
 道の先に黒猫を見つけたからだ。
 招くようにして身を伸ばす猫を追って、少女は歩き出す。
 泥だらけの手足のままで。
 彼女はただ純粋に、全ての発見が全ての喜びへと帰結する存在である。





6.妖々跋扈                    Speed Fox


 ある日のこと。
 少女は、森で出会った陽気な化け猫とおいかけっこをして遊んでいた。
 大層すばしっこい猫だったが、追いつけない程でもない。
 枝から枝に渡っていると、森の入り口で呼びとめられた。
「これ橙、いつまで遊んでいるのだ。お使いを頼んでおいただろう」
 降り返ると、大層立派な尻尾を広げる妖狐が、裾に手を隠して立っている。
「あ、藍様」
「藍様、ではない。お前は私の式神なのだから、それに恥ずかしくない行動をしなさい」
 それから、少女の方に向き直る。
「橙、この女の子は?」
「森の中でであったの。いろいろ話しているうちに鬼ごっこしようっていう話になって……」
「人間ではないのか」
 妖狐はきょとんとしている少女をしげしげと見たが、妖怪や妖精の類には感じられない。
 かといってこんな森の奥深くに人間の娘が一人でいるはずもない。
 ならば、この少女はここにいないのと一緒ではないか。
「帰るぞ橙」
「は、はぁーい」
 化け猫は少し残念そうな顔をしたが、少女に軽く手を振った。
「ばいばい」
 そして、狐と猫は森の中を疾走し始める。
 ところが――
 少女が後からついてくるではないか。
 妖狐はあたかも風に乗るような素早さで大気を切り裂いていくのに、少女は苦もなく追いかけてくる。
 むしろ、背後を振り返るたびに、少女の姿が静止しているようにも見える。
 一定間隔を保ちながら。
 化け猫の少女もそれに気づいたようで、声をあげてコロコロと笑った。
「ね、あの子すごいでしょ、藍様。どんなに頑張っても追いついて来るんだよ」
「………………」
 樹陰を渡って撒こうとしたり、妖怪に伝わる抜け道を通ったりしてみたが、やがて徒労に終わる。
 かといって悪意を感じるでもない。
 異常な状態なのに、自分の中にも一向に危機感が湧いてこないのだ。
 そして。
 やがて、妖狐は足を止めた。
 目の前には少女。息を切らすこともなく微笑んでいる。 
 自分は世の中を計ることに後れを取らない自負があるが、この少女はきっと計算させてはくれない相手なのだろう。虚数のような存在。概念が根底から違う。
 だとすれば――
「橙、この子を誘ってあげてはくれないか」
「え? どういうことですか、藍様」
 私の考えが正しいのならば、敢えて屋敷に招くのもまた対応の仕方だろう。
 もちろん、主人に伺いを立てる必要はあるだろうが、吉祥には違いない。
 賢者である妖狐は、一歩だけ少女に近寄った。 





7.ルーネイトエルフ                on the Water


 一人でいるからといって退屈かというとまったくそうでもなく。
 森を抜けて湖岸に突き当たり、跣で水と戯れながら歩く。
 足もとの感触がいとおしい。
 足を踏み出すごとに、波紋が二つ三つ広がっていくが、躯が沈み込まない。
 むしろ大地よりもポテンシャルが大きいためか、浮かび上がるような感触を感じる。
 万物は水であると、太古の哲学者は語った。
 そう、
 全てのものは液体に始まって透明へと帰っていくのだ。


 湖上に立って、水平線のあたりを見る。
 湖が広く感じるのは魔法のせいだろう。意図すれば真の姿を観ることも可能だったが、他者の意図を受容するほうが楽しかった。
 湖の中央あたりだろうか、島があり、そこには洋館が立っている。
 窓が少なくて紅く塗られている。湖の魔法と同じように自己主張が強い者が住んでいるのだろう。
 訪れてみようと思ったが、それよりも水の心地よさが興味を引いた。
 多くの小さな川がこの湖に流れ込み、再び小さな流れとなり、また涌き水の源泉となって下界に流れ出していく。
 幻想郷と外界において、もっとも相違がないのが水の有様だ。
 外界において汚れた水が海の果てで雲となり、山の麓で雨になってここに帰ってくる。
 何千年何万年と同じ営みを繰り返す。
 だから、
 水辺には古い者が棲み易いのだ。
 水の変転を生命として受け入れることが出来る者は、おおよそ幸せな人生を送れるだろう。


 森と湖の境目を見ると、湖水に抉られた切り立った岸辺が窺えた。
 岸が水に浸食されているのがよく分かる。
 多少、水位が下がっているのかもしれない。
 ここを訪れて一度も、雨を感じていない。





8.春色小径                   Colorfull Path


 さっきまで、森の最中で出会った三人の陽気な妖精と、意味不明な会話をしながらふらふら歩いていた。
 まるで太陽と月と星のように、口々に違うことを喋るかしましい少女たちだ。
 だからこそ、それは一部の真実を照らす。妖精が豊かだということは、その世界のサイクルが正しく循環していることの証明でもある。
 でも、もう、それも過去の話。
 今は一人きり。
 ――そこは、どこまでもつづく花の回廊。
 森が鮮やかに彩られている。
 そういえば、最初に見た光景はこんな感じだった、気がする。
 でも、記憶を鍵にして誇張して想起するようなことはしない。
 少女は事象を絶対的に正確に把握する。歪むことなく、完全に。


 旅の途中で出会った人や妖怪達は皆、今年の春はやたら長いと語っていた。
 ただ、どの住人も春を迷惑に思っていないようだ。
 夏ならばうだるような暑さが嫌われるかもしれない。
 秋ならば消えていくぬくもりが寂しいかもしれない。
 冬ならば凍えるような寒さに閉じ込められるかもしれない。
 でも春は……春はきっと、誰からも嫌われない。
 春はきっと得なのだな、とそう思う。


「あー、やっと見つけたわ! こんなところにいたのね、まったく。
 あんたのおかげでこっちは色々迷惑しているのよ」
 そういう割には迷惑しているようにはみえない。
 感情のすべてが色彩で飾り立てられたかのような少女だ。
 今までであったどの人間とも妖怪とも違う。
 むしろ自分によく似ていると思った。
 容姿がではない。存在の形が、である。
 春のように生き、春のように愛される少女。
 だから、少女は思いついたことをすんなり述べてみた。
「あなた、他人から頭が春っぽいっていわれたことあるでしょ」
「余計な御世話よ」





9.幻想の住人                Ancient History


 紅白の巫女・博麗霊夢は、少女を神社へと連れていった。
 世界と世界の境界に立つ社は、その役目にそぐわずさして大きくもなく、こじんまりとして建っている。
 神社には幻想郷でもっとも古い住人――小さな鬼が暇つぶしに蓮の花を数えていた。
 少女を見るなり、やおらにんまりと笑い、手にした徳利の酒をぐいと飲みこんだ。
「へぇ。私もはじめてみたなぁ、あんた」
「そりゃ初対面だからでしょ」とは霊夢
「そういう意味じゃないよ。古さでいえば、鬼や天狗と変わらない……いや、もっとずっと旧い場所の人だよ、こいつ」
 少女も少し驚いている。
 鬼がまだ幻想郷にいるとは思わなかったからだ。


 世に人の絶対数が多い世界である以上、物事の古さは人の歴史に正比例する。
 鬼のよう強力な種族であっても、記録が残っていない時代に人と袂をわかったが故に、人の歴史によって多少歪んだ価値観に影響されて、その存在が変容している。
 地上に暮らす限りこの変容から逃れることは出来ない。
 ただし、幻想郷にいる限りは、そのサイクルは穏やかに、そしてより本質的に営まれる。


 それを輪廻というか――
 それを伝説というか――
 あとは云い回しに過ぎない。


「ねぇねぇ、あんたも人のこと言えないんじゃないの? どうせ川から流れてきて人に拾われて、大きくなったら田んぼに水を引くために本当の母親をこき使うようになるのよ」
「なによそれ。そんなに厚かましい人間は誉められないわね」
 よっぱらった小鬼の言葉に、霊夢が苦笑している。
 確かに……このままここに留まれば、やがてはそういう変容に流れていくのかもしれない。
 鬼や妖怪や、人間たちのように、自分の知らぬ間に。


 数々の幻想の住人たちの中でも、案外ずっと変わらないでいられるのは、
 目の前に立つこの博麗の巫女だけなのかもしれないなと、ふと思った。





10.仰空                  Return to the Sky


 やがて――


 少女は空を眺めていた。
 ずっと。
 ずっと。


 ずっと変わらなかった、この春の空。
 高く高く、何処までも透き通った空。
 久しく感じなかった気持ちを感じる。
 それは望郷。
 大地に拘泥しない、単色の世界が、自分の帰る場所。


 この春は楽しかった。様々な事物に触れ、多様な人々や妖怪とも出会った。
 これほど自分というものを感じたのは何百年ぶりだろう。
 それはそうだ。
 本来果たすべき義務を少しだけ棚上げしたのだから。


 でも――
 あの蒼空が呼んでいる。
 帰っておいでと手招きしている。


「道案内ならしてもいいわよ。一応巫女だしね。あんまり異変が続くとまた私のせいになるし。まぁ放っておいても迎えは来るんだろうけどね。地震の時のあの人とかが」
「おーい霊夢、久々に遊びに来たぜ……って、こいつここにいたのか」
「あれ、魔理沙この人知ってるの?」
「縁がないわけじゃないな。探しもしなかったけれど」
「じゃ、良縁を結びなさいよ。これから途中まで送ってあげるんだから」


 少女は空を眺めていた。
 ずっと。
 ずっと。


 その瞬間が来るまで。





11.少女神性            Rebuild - Blue Fantasia


 少女が決意した頃から、俄かに低く雲が垂れ込め始める。
 底抜けに明るかった空が、ゆっくり障子を閉じるかのように。
 日輪が隠され、世界が薄暗い灰色に覆われていく。


 少女はふわりと舞い上がり、神社の鳥居の上に立つ。
 同じように空を見た霊夢が、そして魔理沙が、先んじて薄暗い空へと飛び立つ。
 彼女は眼下に広がる幻想郷の大地を見下ろしていた。
 それはゆっくり、
 ゆっくりと、
 誰にも感じ取れないぐらいゆっくりと、渦を巻いて変容していく。
 世界は螺旋である。
 幻想郷はその先端で輝く結晶だった。
 とても快い光景だった。


 そして、全ての未練を断った。


 ぽつり、
 少女の頬を小さな雨滴が打つ。


 飛び立つ。
 一直線に。


 紅白の巫女と、白黒の魔法使いが、天に螺旋階段を描きながら上昇していく。
 そのちょうど中央をまっすぐに登る。
 風を纏って。大気を切り裂いて。
 自分の通った後に雲が、もくもくと吹き上がっていくのが感じられる。
 自分は雲を生成している――いや、自分は元より雲である。
 雷鳴である。


 短い間慣れ親しんだ人間の手にざああっと鱗が生え、
 両の手の先には鋭い爪を生じる。
 肌は森閑の如き深緑に染まり、
 鬣のような毛が雷鳴を呼び、稲を伸ばす響きを大地に轟かせる。
 顔からは長い髭が生じ、瞳は人間の知覚域を越えて真っ赤に染まる。


 世界は常に変容している、ちょうど今の自分がそうであるように。

 
 周囲は完全に雲に覆われて闇に包まれていく。
 その中でも、先導する巫女と魔法使いは天空を目指して飛ぶ。
 彼女たちは一体何処まで飛べるのだろう。
 彼女たちといつまでも飛んでいたいと、ふと人間の残滓の欲望が脳裏をよぎった。
 訪れた世界が、あまりにも完成された幻想だったからなのかもしれない。


 だが、彼女の肉体は彼女の意思を拘束しない。
 天に上るその力強い巨体が、鉄の壁のように天を封じる雲のカーテンを引き裂いたその瞬間、
 その存在は――
 最後の記憶を振り払って、咆哮した。


 ゴアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!


 青、
 青く、
 青いまま、
 青になり。


 何者にも束縛されない、真の空。


 神の領域。


 真っ白い雲の平原の天頂で、
 天を支配するその存在が、己の帰還を全世界に知らしめる。
 途中で追いぬかれ、必死で追いかけていた博麗霊夢と霧雨魔理沙にも、もうその姿は見えなかった。
 ただ、天をいつまでも揺るがしている轟音が、
 雷鳴の轟きにも似た轟音が、
 何度も何度も木霊して、
 鼓膜を揺らしているばかりだった。


 ――そうして、天にあるべき存在がその座に帰ったことにより、
 地の理は正しく戻り、
 灰色の雲からは今まで待たせた分を詫びるかのような大粒の雨が降り始めた。


 その年、幻想郷にようやく梅雨の季節がやってきたのである。




12.イースタンストーリー           Visionary Girls


 ……最後のページをめくり終わった蓮子は、ふぅと溜息をついた。
 両耳の奥で耳慣れた音楽を奏でていたヘッドフォンを取り外す。
 代わりに、無数の水が地を叩く音が聞こえてくる。
 静寂にも似た大気の震え。
 無人に等しい図書館。私しか目覚めていない図書館。
 様々な本にしまわれた、様々な伝説。
 息づくいのちが垣間見えるような気がする。
 それもまた、いつもの幻想なのだけれど。
 だけど――
 幻想が朽ちることは、決してない。
 馴染みの温かさ。背後を窺うと、メリーが自分の背中に背中を預けて可愛い寝息を立てている。
 彼女は今、夢の何処で、誰の夢を見ているのだろう。


 外は雨。六月最後の日も雨だった。
 でも、もうすぐ梅雨も終わる。


 あの、夏の蒼い空が戻ってくる。 





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