藤原千年縁起 



 それは千年を遡る、古い古いお話でございます。
 京の都に、それはそれは見目麗しき、一人の若き公達がいらっしゃいました。
 かの君はご兄弟達に比べても才覚に優れ、運に優れ、人を遣う術に長けていらっしゃいました。若き日より豪胆で、生まれ持った境遇をつぎつぎと退けて天下に君臨するまでに至ったのです。ですが、その成り上がり方には、神仏のご加持だけでは説明のつかない、奇妙な出来事が相次ぐとことなりました。
 いまからお話申し上げるのは、その契機となった出来事の、知られざる幻想の姿にございます。


 その皐月の晩はまこと激しく雨が降りしきる、なにやら妖しげな夜でございました。
 不気味に感じられた帝は、清涼殿に殿上人を集められて、気を紛らわせるためにお遊びになっていらっしゃいました。ところが、人が集まっていても不気味な様子は一向に静まることがなく、なおいっそう立ち込めて参ります。帝は屋根の向こうの雨音をご覧になり、つぶやかれました。
「なんと無気味な音だ。皆といてもこのように不気味なのに、一人ではとても耐えられないだろう。いや、この暗闇へ一人で向かう者などいるだろうか」
 集まった貴人の方々は、帝の言葉に一様に同意されました。
 ところが。
「いいえ。帝のお言葉であれば、何処へだろうと参りましょう」
 一人声を挙げられたのが、前述の若き君だったのです。
「それはまことか」
「もちろんでございます」
「よし。面白い話だ。ならばその勇気を示して見せよ」
 暗闇と雨とに退屈されていた帝は、臣下の言葉を嬉しく思い、即興の肝試しを指示されたのです。一人だけではつまらないと感じられたのか、帝は若き君の二人の兄君にも同じように暗夜行をお命じになりました。
 第一の兄君には豊楽院へ。
 第二の兄君には仁寿殿へ。
 そして、当の若き君には大極殿へ。
 それぞれ一人で向かうようにと宣下されたのです。
 若き君は自信に満ち溢れたご様子である一方、巻き込まれた二人の兄君にとってはとても迷惑なお話でございました。ただそれはすでに、若き君の力量の示すところであったのでございましょう。
「本当にそこまでいったという証拠が必要だな」
 と、帝がご案じになられますと、若き君は、
「では、帝の御手箱の小刀をお貸し頂きたく思います」
 と述べ、帝もそれを御許しになられました。
 こうして、三人の君は帝の元を辞して闇の中に向かわれたのですが、上の兄君方は闇と雨と、その狭間に木霊する妖しげな轟きの面妖さに耐えることが御出来にならず、早々に引き返すこととなりました。真に闇夜の冒険に向かわれたのは、若き君ただ一人でございます。


 さて、ぬかるんだ土に苦慮されながらも、若き君が大極殿にお着きになりました。
 傘をお下げになると、ゆっくり殿上に上がり、凍て付くような闇に目を凝らしながら周囲をご覧になります。大極殿は本来、壮麗な儀式が執り行われる神聖な場所でございましたが、人の気配も無く、このような雨の夜では、君が悪いことこの上ありませんでした。
 と。
 大極殿の奥、帝がお出になられる高御座の方から、人間の呼気にも獣の唸りにも聞こえる、なんとも恐ろしい息が吹きつけてくるではありませんか。
 畳んだ傘を提げた若き君は慎重に歩を進め、帝よりお借りしていた短刀をお構えになりました。
 唾を一つ呑みこむと、奥の気配に向かって誰何されたのです。
「――そこにおるのは誰か? 賊か? あやかしか? ここは帝がお出ましになる神聖な場所。穢れし者は早急に立ち去るがよい」
 すると、闇の奥から返事が返ってきます。
「賊にあらず。あやかしにあらず。我はただ、流れ行く歴史をみつめる者なり」
「なんと」
 巨大な気配が、御簾を裂き、軽々と宙を舞い、若き君の目の前に地響きを立てて飛び降りてきます。
 その時、天の怒りの如き雷鳴が鳴り響き、
 驚愕された若き君と、
 その前に存在する異形の者の姿を浮かび上がらせました。牛のような体から伸びる首には顎鬚を蓄えた老人のような人面がついていますが、瞳は三つ。胴体にも、ぎらぎらと輝く瞳が六つ、爛々と輝いていました。また、顔と胴体からは、やすやすと人を切り裂いてしまいそうな角が伸びています。
「やはり妖怪か」
「否。我の名は白澤なり」
「白澤だと。口伝に瑞獣とあるあの白澤か」
「しかり。人の歴史にはそのような形で我が登れり」
 震えもせずに御答えになる若き君を、白澤は済み切った三つの瞳で見つめています。
「その白澤がこのような闇夜にまぎれて何の狼藉を働く。瑞獣であれば堂々と、帝の御前にでませい」
「否。今宵の用件は帝にあらず。若き貴人よ、そなたにあり」
「私に?」
 白澤は危険な光を瞳の端に浮かべました。
「我はこの蓬莱の島の歴史をはるかなる昔より見守りし者。そしてまた、この国の歴史を時の下流まで見通す者。映り行く事物を捕らえること出来るのは我の力であり、我の責務である」
「…………………」
「そなたはこの後、地上の権勢を思うが侭に操るに至れり。しかるにそれは、人の力及んで良き場所では既になき。神と血を混ぜようとする意思は、やがて陰鬱に民を苦しめ、傾国の危機へと至る愚かしき未来なり。そなたには歴史を動かす力が充ちたり。ならばこそ、ここでその筋を王道へと正すのもまた必然なりき」
 白澤が語る言葉は、若き君にとっても衝撃でございました。
 自分の血が帝に混ざり、やがて地上の王ともなりえるという予言でございます。
 若く野望に充ちた君にとって、己の心に猛々しい炎を灯すには十分でございました。
 ですが、白澤はそれを阻止しようと、君の前に現れたのです。
 洋々と広がる未来が、今まさに、奪われようとしているのです。
「そう云われて、私が易々納得すると思うか、あやかしよ」
「そなたの意思はすでに流れ行く歴史の一端なれば、抗うこと叶わず」
 言うが早いか、白澤は猛然と突進しました。
 若き君はひらりと避けられました。白澤の強暴な角が大極殿の柱を削り取り、まるで地下で鯰が暴れたかのように地は揺れ、げに恐ろしき響きが闇に充ち満ちます。
 聡明な君はさすがと申すべきか、ただ一度の遣り取りで己の力量では白澤の力に対抗できないことをお悟りになりました。さぞ、無念でいらっしゃったでしょう。それでも、一矢報いんとばかりに、短刀をお構えになりました。
 再び白澤が突貫を始め、
 床が抜けんばかりに振動が伝い、


 その場に、燃え滾る火山のような烈火が燃え盛りました。


 若き君も、何事が起こったのか、理解することが御出来になりませんでした。
 そして、その光景をはっきりとご覧になった瞬間、理解を超越していると考えられたのです。遙か神代が眼前に舞い戻ったとすらも。
 白澤の巨体が、宙に留まっていました。
 人間のか細い片腕によって、持ち上げられていたのです。そしてその腕の持ち主は……おおよそ信じられないことに……年端も行かぬ小さな娘のものだったのです。
 年のころ十あたりとみれる娘は、不敵な顔つきで若き君を見つめています。
 ただ、その長い長い髪だけが、老婆の如く真っ白に透き通っているのでした。
「人の目を暗ましながら都に上ってみれば、内裏にあやかしが出るようになっているとは。末法の世が近いというのは本当だったのだな」
「……そなたの歴史が見えぬ」
 うめくように云う白澤を見上げて、少女は幽鬼のように笑いました。
「私に千年付き合えば見えるかも知れぬぞ? お前にその気があればだがな」
 そう呟くと、少女はまるで小石を放るかのようにして白澤を投げ飛ばしました。
 地響きが轟き、天井から埃がぱらぱらと落ちてきます。
 若き君は、無我の境地で、夢のような光景をただご覧になっていました。
 と、白髪の少女が若き君に向き直りました。
「お前が藤原の若き君か。噂には聞いていたが、確かに血が強い。心も頑健だ。白澤に命を狙われるのも分からなくも無いか」
「……そなたは……何者だ……」
「妹紅、という。お前と同じ血を持つ者だ。但し、格段に古い」
「古い……?」
 妹紅と名乗った少女は、自分が生まれた年に在位されていた帝の御名前を告げました。
「馬鹿な。都が大和にあった頃などと」
「白澤ではないが、私もまた、己の見てきた歴史を告げることが出来る。それはまた、鎌足殿より連綿と続く藤原の歴史でもある。ただそれをお前が望むかどうかだけど」
 白髪を除けば、どう見てもうら若き娘なのです。
 ですが、現実に目の前で起きた摩訶不思議な出来事が、若き君の心を縛るのでした。
「何故何百年も生きている。何故老いぬ」
「なよ竹の姫の話を知っているか?」
「公達の間で折に触れて語られる物語のことか」
「あれは物語ではない。なよ竹の姫は実際に都近くに住んでいた。私もこの目で見ている。月に帰るその際もな。嫌になるくらい眼に焼き付いて、剥がれぬ」
「な、なにを世迷言を」
「姫は不死人だ。世の理を超越している。姫が月に帰ると騒ぎになった頃、姫は帝に対して、不死の薬を献上したが、姫との別離を悲しんだ帝は薬を服用せず……その薬は今、この中にある」
 妹紅は自分の胸に手を当てた。
「戯れはよせ。気でも狂うたか」
「狂わなければ不死などではいられないのだよ。なってみればよく分かる」
 少女は若き君の手から短刀を素早く奪うと、自分の首にずぶりと突き刺しました。
 さすがの君も驚愕と恐怖に震えられずにはいられません。
「ひっ」
「さぁ、その目で確かに見ろ」
 ですが―――
 少女の首から吹き出したのは鮮血ではなく、灼熱を帯びた炎だったのです。
 顔を歪めて笑う少女の傷から吹き出る炎は徐々に弱くなっていき、
 炎が消えて周囲が再び闇に包まれた頃には、妹紅の首には傷一つありませんでした。 
「月をして常世、死の世界と謂う。不死の私をもってすら月に至ってはいないものの、月に関わるとこの有様だ。我らの月は既に永久に欠けることがない。不死は死に極めて等しいが、死ではない」
 妹紅の表情には、狂気と諦念とが入り混じって浮かんでいました。
 狂乱しかかった若き君は、その大きな器量によって表情を整えられ、慎重に問いかけられました。
「もし、そなたの言葉がまことだとして、何故私の前に現れたのだ」
「分からない。長く東の森から離れることは無かったから。ただ……おそらく」
「おそらく?」
「血だよ。血が呼んだのだ」
「血だと」
「藤原の血は、私が考えているよりも強いらしい。私が不死でいるように、藤原の血脈は綿々と連なっていくようになる気がするのだ。それを私は見守っていくのかもしれないし、そうでないかもしれない」
「白澤の語った歴史の通りになるというのか」
 妹紅は口の端を歪めて笑います。
「それを望むなら、歴史の流れをせき止めてでもやってみせればいい。お前ほどの胆力なら、呪詛返しであろうと怖くはなかろう。不可能ではあるまい」
「………………」
「……話が過ぎたようだ。雨も上がった。いつもいつも、私以外の時は容易に充ちていく」
 小さな舌打ち。
 その言葉と共に、周囲が一段と冥くなり、妹紅の気配が小さくなりました。
「ま、待て」
「待つのは私の方だよ。真に生死を超越したくば、東の最果てを探すがいい。いつまでも待っていてやる――だが、そこは現世ではないということを忘れないように。人の幸せは現世にしかない。不死になれば、それがよく解る」
 その瞬間、
 閃光と共に妹紅の体は消し飛び、

 キシャアアアアァァァァ――

 鷹でも雉でもない、天地を揺るがすような鳥の鳴声が闇夜を切り裂きました。
 若き君が大極殿を飛び出して天を仰がれると、
 翼を、胴体を、極炎に縁取らせながら、雲を切り裂いて東の空へ飛翔していく、巨大な瑞鳥の姿がありました。
「あれは……鳳凰なのか………」
 大極殿にはもう、白髪の少女も、白澤の姿もありません。
 闇夜を覆っていた雲も燃え上がってしまったのか、空には絨毯のような星々と、その中央で燦然と輝く満月の姿がありました。


 しばらくして、若き君は帝がお待ちになる清涼殿へと御戻りになりました。
 あまりに遅いので、公達の方々が騒然とされていたところでございましたが、既に強き心を取り戻していた若き君は、帝に遅延を詫びられた上で、お借りしていた短刀と共に、一つの木片を献上なさいました。
「これこのように、大極殿の柱の一つを削り取ってございます。明朝、その木片を差し当てて頂ければ、私の言葉が正しいかどうかお解りになることでしょう」
 翌日、帝と家来方が大極殿に向かわれ、柱の傷に木片を差し当られました。すると、木片はぴったりと嵌まり、帝は若き君の勇気を大層褒め称えられたということでございます。
 ただ、腑に落ちない方々も多少いらっしゃっいました。
 それは当の木片が、短刀で削ったにしては酷く深く抉られていたこと。若き君の成されたこととは云え、このようなことが人の腕力で可能だったのでありましょうか。
 そして、木片は何故か、端が少しだけ焼け焦げていたということでございます。
 いずれのことにしても、若き君は敢えて語らず、ただ思わしげに、東の空を眺めていらっしゃったということでございました。


 もはやお気づきになられたかも知れませぬが――
 この若き君こそが、後の世にその名を深々と刻んだ大入道殿、藤原道長様にございました。


 道長様はこののち政敵を次々と蹴落とし、自分の娘を入内させては血縁の綾を以ってその地位を固めて行かれました。身につけた強大な運を駆使されたのはいうまでもございません。そして遂には帝と東宮様の外祖父となり、地上の権勢の全ての握ることと相成ったのです。
 白澤の未来視はまさに完璧でございました。
 さて、時は後一条天皇の御世。
 今では失われし壮麗なる道長様の大邸宅……土御門殿の饗宴にて、まるで楽園のような催しが日々続く中。
 道長様はかの有名な一首の歌をお詠みになられました。


 この世をば我が世とぞ思う望月の 欠けたることも無しとおもへば


 傲慢に過ぎ、技巧にもたくみとは申せないこの歌が今もなお、あまりに強き印象を与えつづけるのは、道長様の揺るぎ無い世界を体現しているだけではなく、お詠みになられた道長様の絶対的な確信が塗りこまれていることもあったのでしょう。
 道長様はお知りになっていたのです。
 欠けない月のように生きている人間が存在することを。
 それが、自分の一族の血の祖に近い存在であることを。
 己の体に流れる血の強大さを。
 あの大極殿の雨の夜から、ずっと。  


 とは申せ、道長様も人の子であるが故、老いと病に敵う筈もございません。
 晩年へと至る最後の数年は、絢爛たる権勢とは裏腹に、糖尿病・白内障・気管支喘息・胸病といった持病に悩まされ、出家されて神仏の加持を願われました。もしかすると、不老不死の法を求めてあの白髪の少女を探す企てを企てていたのかもしれませんが……それを窺い知る歴史の途は現在、残されてはいないのです。
 ただ、道長様の生へのご執着は、ご子息である藤原頼道様にも受け継がれていたと考えられるのでございます。それが証拠に、後年、地上の浄土を目指して建設されたあの壮麗な平等院の御殿には、神技を尽くして彫り抜かれた、今にも動き出しそうな、命を宿した仮想現実が――翼を広げた鳳凰が、飾られているからでございます。


 あの夜、道長様に歴史の一端を告げた紅き翼の少女の云うとおり。
 こののち、
 道長様より血の連なる藤原の系譜は、蓬莱の島を台風のように襲った幾度の大いくさや疫病により、形を変え、分かれ、滅亡の危機に立たされながらも、脈々と受け継がれ続けて、今この時代においてもなお、帝無き京の都にありて歴史を刻んでいるのでございます。


 千年の時を越えて。
 千年の歴史を携えて。


 そう、あたかも……紅き鳳凰の翼に守られた、不死の命であるかのように。



 参考文献
   大鏡 全現代語訳  保坂弘司 (講談社学術文庫)
   藤原氏千年     朧谷寿   (講談社新書) 



(初出 東方創想話)

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