■幕間 一


 行き先を確認しなかったと気がつくのは、ずっと後になってからだ。

      ★

 ・・・無機質に吐き出される整理券を一枚抜き取って、タラップを登り切った。
 天井の蛍光灯は薄暗い。あまり厚そうでもない鉄の屋根の向こうからは、テンポを変えず、一層くぐもった雨音が木霊のように反響している。もう濡れなくてもいいはずなのに、寒さはあまり変わらない。先程までと質が変わった、骨身に染みるような・・・寒さ。
 畳んだ傘の先、スチールの先端の先から、水滴がひっきりなしに落ちている。
 板貼りの床をしとどに濡らしていく。
 バスの中には人気がなかった。
 一番前に当然座っているはずの運転手の存在すら希薄に感じられて。
 煙雨にけむる外界と同じように、私の世界は灰色に濁っていく。

 プシュ・・・バタン。

 圧搾音と共に閉じる、アコーディオンのような扉。
 突っ立っていた私は、冷たくあしらうような扉の動作に急かされて、幾分ふらふらしながら最後尾の席に腰を下ろした。むき出しの膝を揃えると、冷え切った足が小刻みに震えた。
 巨体を揺すりながら咳き込むようなエンジン音を私の小さな体全体に響かせて、バスはゆっくりと動き出した。
 ―――――。
 直接雨に晒されなければ、この淀んだ気分も少しは晴れるかと少し期待していたのに、縮こまった躯は沼地に足を踏み入れていくかのように重いまま。身を包み込むのは寒気と、簡単にいろんなものを潰してしまえる大きなタイヤが道路の舗装を水ごと削り取る轟音。それに、曇った硝子窓の向こうに流れていく巨大なビルの群れや、通り過ぎていく信号の青や黄色や赤や、そういったもの。目線に時折止まる歩道の傘の花も、勝手なイメージを抱いているほど鮮やかに咲いているわけもなく、淡々と行き交うだけ。
 濁りがこの都市の全てを包み眩ましていく。
 かのように。
 濡れてしまった鞄を膝の上に置いて、やるかたなく、ただ、視線を投げる。
 前方へ。

 そこには。
 蝶が、いた。

 前方の席に、蝶が一頭、羽を休めている。
 瞠目する、いいえ、違う。あれは、
 そう。
 ――大きなリボンだ。
 昔見た河原の彼岸花のような、燃える紅色のリボン。その縁には、レースのように柔らかい布でつづられた白いフリルが施されている・・・。
 なんのことはない。そこには女の子が座っていたのだ。今まで気づかなかったが。視界には入っていたのだろうが、認識していなかった。あんなに目立つ色なのに。
 バスが交差点で気怠げに巨体を右に左に揺らすたび、少女の黒髪が揺れ、その上のリボンが揺れる。それがまるで、大輪の花の上で羽根を畳み広げる蝶に見える。
 バスの外が煙雨に包まれ、バスの中が無機質の沈黙に覆われている中、その紅白の蝶はあまりに鮮明で、鮮烈で・・・私は少しだけ、偏頭痛を覚えた。
 ゆっくりと目を閉じる。
 なのに――閉じた瞼の裏には真っ白な鏡が幾つも幾つも広がり、その一つ一つで紅白の蝶が舞う。赤と白のイメージが無限に増幅して増殖して、私から安息を奪っていく。
 心地悪かった。喉の奥でほんの少しだけ、吐き気が疼く。
 なのに・・・なんだか、懐かしい気がした。

 無限の鏡の中の一つに小さな手を精一杯延ばしてせがむ、幼い私がいた。
 手を伸ばせば何でも届くと思っていた、あのころ。
 ようやく順番がまわってきて、にこにこしながら覗き込んだそれは、
 ああ、それは、
 お祖母ちゃんのそのまたお祖母ちゃんの頃から受け継がれてきたという、
 ――万華鏡だ。
 特別な意味があるわけでもないけれど、年月が経つにつれ捨てるに捨てられなくなり、結局、祖母から母へ、母から娘へと、受け継がれているもの。

 あれはいったい、何処に行ってしまったのだろう。

 いつか。
 いつかわたしも、自分の子どもに、それを渡す日が来るのだろうか。自分が成長し、恋をして、家庭を築き、子どもを産む。その子供が、幼い私と同じように、手を伸ばし、せがむのだ。
 こんどは私の順番だと。
 ――実感がない。いいえ、そんなことは許されない気がする。
 決して。

 自分がこんな気持ちだから、きっと、
 あの万華鏡はどこかにいってしまったのだろう。
 今は苦いだけの、懐かしい記憶。
 あの頃はただ、純粋に好きだったと思う。
 平等に与えられた世界の向こう、あの小さな円から覗く先の世界が好きだった。色紙と合わせ鏡の舞い。きらきらと色取り取りに輝いて、
 それはまるで、
 皆同じように輝いていた子ども時代の残り香のように。


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