■ヴォヤージュ1969                   【Lotus Love】

































   これは、

   博麗霊夢と蓬莱山輝夜が垣間見た八百万の可能世界の中、

   あったかもなかったかもしれない――あるひとつの幻想。





























 千九百六十九年、七月二十日。
 日傘を差して虚空を漂う紫の女が、
 遠く見守るその先で。

 月周回軌道を回っていたアポロ十一号は、着陸船と司令船を無事に分離した。『鷲』と名付けられた着陸船は、二人の宇宙飛行士を乗せ蜘蛛のような四脚を下に向けて降下していく。時折挙がる炎は四酸化二窒素とヒドラジンが化合した結果だ。切り離した今、彼らにはもはや下るしかなく、緊急離脱のフェーズを除けば無事な着陸こそがもっとも安全な結果となっていた。歴史的な成果を前に、操縦する彼らとしては、現実的にここにきてもなんの結果もなく戻るという選択肢もあり得なかった。ケープ・カナベラルの巨大な宇宙センターで見守る数千人の人々にも、宇宙中継をテレビジョンで眺める無数の人々にとっても、それは同様だった。
 月面に接近する途中で、異変が起こった。
 作業メモリ256キロバイトの原始的コンピュータが点滅で警告を発する。
 副操縦士が報告した。
「プログラムアラーム、1201だ」
 結局のところ、この警告はコンピュータの操作領域に於ける重複処理を示す、本当に軽微な問題だったのだが、その時は実質的に船を指揮する地上の誰も、咄嗟に回答ができない。空気が凍結する。
 着陸フェーズ内の『死者のゾーン』が迫っていた。降下中の三分間の何処かに、重力の影響で何も出来ない十秒間が発生する。脱出したところで司令船とランデブーできずに終わる。即断が求められた。
『着陸船、そのアラームは「続行」だ』
 若いコンピュータエンジニアの怯えきった声が届いた。
 既に地上の六分の一の重力はしっかりと着陸船に影響を及ぼしている。警告を発しつつも船のシステムは完全に機能していた。コンピュータは間違っていない。地上を信じるしかない。
 と。
 そこで、船長は前方左の三角窓を見た。
 ……自分は発狂したのかと思った。
 何故なら、真下に見える『静かの海』――そう、それは地上でそう名付けられた場所だった――には、文字通り大量の水を湛えた、真っ青な海だったから。
 となりで副操縦士が、おそらく自分と同じ表情をしていた。
 だが……コンピュータは間違っていない。
 自分の目は正しい。
 彼らはさまざまな目的で宇宙を目指した男達の中で、もっとも幸運で、もっとも勇敢かつ最も優秀なだったためにここまで辿り着いた。だからこそ、今地球人類で最も遠方を冒険しているのだ。
 船長はフライ・バイ・ワイヤシステムの操縦桿を握ってスロットルを開けた。
 機体が振動する。
 予定着陸地点からずれていく。
 安全に降りられる場所を探さなくてはいけない。
 地上から報告が届く。
『六十秒』
 着陸用燃料の残量を示している。感情を煽る余計な言葉はアポロ計画の行程に存在しない。
 船長は構わず吹かせた。
『三十秒』 
 手を離した。
 衝撃。
 若干沈み込むような感触があった。
 ゆっくりと、エンジンの唸りが収まってゆく。
 時間がなくなったかのような錯覚に陥る。
 所定の規定に従ってチェック。チェック。問題はない。何も。何も。
 着陸は成功していた。
 ……だが、二人に言葉はない。
 現状報告の義務があったが、何も喋れずにいた。
 窓の外に広がる光景が、全く予期せぬものだったから。
 本当ならば着陸後に食事を摂り、完璧な準備をして月面に降り立つはずだったのだが、決められた手順を全て省き、目を焼く日光を遮蔽するヘルメットを被ると、いそいそと外に出た。
 そこは、真実、海だった。
 やや岩石質の海岸に寄せて返す波。
 真っ黒な空には巨大な地球と無数の星々。
 周囲には木々……そう、恐らくは桃の木が茂り、実を付けている。遠く背後には信じられないぐらいに巨大な樹が、山のように影のように聳えているのが見えた。
 ここは天国なのか地獄なのか。地上ではバックパック込みで八十キログラムもある宇宙服を着こみ、まるで雪だるまのような姿のスペースマン達は、荒涼とした月面の土を踏むための靴で、地上となんら変わらない様相の浜辺に立っていた。自分たちのほうが場違いだとしか思えなかった。
 彼らの視線がある方向へと向けられる。
 森へと続く林道の手前に複数の人影が立っていた。
 遠い歴史の中のチャイニーズのような古風な衣装の少女が二人。
 その背後には、一様にブレザーを纏い、頭に大きな耳を生やした……そう、それはきっと兎だ。副操縦士は世界の文芸に親しんでいたから、アジアの民話で月に兎がいるという話も当然知っていた。もちろん物語の中だけで。
 彼女たちの中から一人の兎が押し出されるようにして出てくる。一際耳が長く、淡い紫の髪も長い兎の少女。恥ずかしがりながら二人の男の前に立つ。
 兎もまた少し怯えているようだったが、意を決して、
「ヘルメットを取って。空気も、光も大丈夫だから」
 彼女は明らかに知らない言葉を話していたが、脳裡にはきちんと英語で響いた。
 二人は顔を見合わせてから船長だけが、四苦八苦しながらようやく金色のバイザーを脱いだ。
 彼女の言うとおりだった。
 兎は嬉しそうに頷くと、握りつぶしてしまいそうな小さな掌を差し出す。
「ずっと、待っていたよ。多分きっと、世界の始まる前から」
 その美しい指に比べて、ごわごわとした自らの指はなんともみっともない。船長は思った。だけど恥じる素振りは無く、ゆっくりとしっかりと、彼女の手を握った。
 兎の少女が握り返してくる。
 言葉はなく、ただ静かに揺り返す潮騒が響いている。
 その様子を和やかに見守る月の人々の最中。ピンクの服を来てニヤニヤ笑う、一際小さな兎の右手に握られているのは、幾多の宝玉という可能性を実らせた伝説――蓬莱の玉の枝。


「……ヒューストン、こちら『静かの海』。鷹は、〈止まり木〉を見つけた」





                                    「虚音立国完璧盤」   了