■残照/きみについて           【hibari / to stanford】
                           

 そこに映っているのは彼女の姿。

 それだけ。

 その光。

 そのための、光。

 繰り返し差し込む光。

 瞼、瞳の奥の受光体が受ける、奥、光。

 満ちる。

 繰り返す。

 起床。

 肘を伸ばす。

 髪が流れ落ちる。

 遠く雲雀の声が響く、遠く。

 靈が示す悠き声のさなかにいるように。

 伸ばす、歩く。

 歩みを進める。

 繰り返す。

 廊下の突き当たり。

 格子から斜め四十五度に滑りこむ朝日。

 その光。異なった色。

 伝わる。

 洗面所。

 ぼんやりと立っている。

 そこに映っているのは彼女の姿。

 正面に鏡はない。

 下。

 寝乱れた髪を書きながら桶に張られた水面を見下ろしている。

 一度水をぶつけたばかりの顔。

 流れ落ちる。

 そこには見知った自分がいて、大層眠そうにこちらを見上げている。

 寝ぐせのついた髪が一本二本、唇にまとわりついていて、色っぽいどころか幽霊のようだ。

 再度、いまからそこへ水をぶつける。

 水を塗りたくる。

 肌から浮き上がった寝汗を封じ込める。

 毎日しているように。

 毎日しているかのように。

 毎日していること。

 着衣。

 眠気を封じ込めて、着慣れた服に身を通す。

 自分の服はどうして本体と袖が分かれているのだろうと考えることもたまにはあるけれど、実のところどうでもいいのですぐに忘れてしまう。

 覚えていること。

 実際はこれ以外の服も持っていること。

 それらは何故か夢のようですぐに忘れてしまう。

 背後には鏡台がある。

 そこに映っているのは彼女の姿。

 あまり大きくないから、肢体全部を映すことができない姿見。

 座り込んで顔を正面に向ければ足が入らず、立って身なりを確認しようとしたら頭が入らなくて首なし騎士のようになる。

 足ばかりを眺める趣味はないようなので、自然と足を崩して鏡の前に座り込む時間が一番長くなる。

 実は背後にある椅子に座ればうまく全身を収められるのだけど。

 思い出しては忘れる。

 最近は埃を被っている時間が長いような気もする。

 日本茶に偏っているからだろうか。

 ティーカップはもう長い間、水屋の奥に仕舞われたままだ。

 夢のように。

 幻のように。

 昨日のように。

 沸騰するお湯。

 録録とした時間。

 部屋に運ぶ手間を怠惰さが省かせる。

 台所。

 積み上げられた古新聞。

 そこに写っているのは彼女の姿。

 横目に見ながら、台所で朝のお茶を傾けて。

 掃除。

 神社の面積を一番多く占めているのは境内で、彼女の時間を一番多く占めているのは空白。

 相似関係の事象はどうしても引きあってしまう。

 結果、今日も境内を、隅から隅まで延々と掃き清めていく。

 昨日のように。

 明日のように。

 意外と真面目に、まっすぐに線を描いて。

 訪問者はいない。

 郷は遠い。

 神のための庭とはいえ、自分以外は無人の空間。

 真面目そうに外に映るのは、職業上の役得かもしれない。

 彼女が例えば、神社に住むだけの妖怪なら、同じように掃除をするとしても四角い角を丸く掃くような日々だったに違いない。

 巫女でない人間だったら、誰も見ていない場所でいつしか楽をする手段を選択するだろう。

 だが彼女は自分を忘れない。

 忘れることがあっても。

 誰に云われるでもなく、こともなく、こともなげに巫女だった。

 結果、今日も境内を、隅から隅まで、掃き清めていく。

 枯葉を萃める。

 流れ落ちる。

 汗。

 都の雅な枯山水のような、縞の美しい砂利、仮初の形。

 時折僅かな雲母が、日光を浴びて綺羅のように輝く。

 境内の外れには小さな池がある。

 何者かを埋めたかような小さな塚の畔。

 時期が来れば咲き乱れる古代蓮も、
今はただ立ち枯れて濁った水に浮かぶ。

 無心で箒を動かす彼女が近づく。

 およそ清浄とは言い難い、緑の藻が繁茂した場所。

 そこに映っているのは彼女の姿。

 紅白の目出度い配色の服も、池に映れば濁った彩色と化す。

 箒の色はドドメ色。

 空の色は鈍色。

 池の悪意に歪められて、今にも泣き出しそうな天気模様が、地面から恨めしそうに、晴れ渡った天空を見上げている。

 ぱっと見でひとりでは広すぎる境内であっても、有限である限り物事は終わる。

 掃除はやがて終わる。

 終わらない幻を見せながら。

 時間が流れ落ちる。

 午前は午後に変わる。

 昼食。

 ご飯に御御御付、漬物といった粗食。

 箸の上にご飯を少しだけ載せて、ゆっくり口に運び、それなりの速度で咀嚼する。

 食事は必要なことだろうか、楽しみだろうか。

 考えることもあるが、考えない時間が大勢を占めている。

 そう考えると、酒は罪深い。

 食事に比すると、行為の長さに比べて思考を促す時間が引き伸ばされるからだ。

 容易に妖しい精神を招き入れてしまう。

 客がいれば尽きぬ談叢を呼び起こしてしまう。

 人智を超える導入剤。

 考えるだけで恋しくさせる。

 茶碗を置いて、味噌汁の入ったお椀を左手に取る。

 対流する味噌と刻まれて浮かぶ葱。

 そこに映っているのは彼女の姿。

 小さな小さな水面。

 水溜りに浮かぶ木の葉のように。
 
 口をつけ、音もなく啜る。

 熱くても音もなく。

 味気ない味がする。

 どこからともなく海の味。

 味噌の奥に、この世界からは遥か遠いはずの海藻の味がする。

 地底の奥の孔雀の道のその先の。

 迎えに来る船。

 そも、味を感じているのは舌であって、一瞬で舌の上を通り過ぎれば液体はどれも同じ。

 食事が終わった後に胃の奥から戻ってくる味の感触は幻想である。

 自分が目の前にあったものを食べた、という幻想。

 酒は違う。

 酒精は尊き永き神の息吹。

 血中に混沌と神意を呼び覚ます一刻の魔法だ。

 酒に映る自分の姿がおおよそ歪んでいるのは、やはりそれが人間の精神では掴めない代物だからに違いない。

 人の心を容易に萃める神の掌の上で酔い痴れる、その酷く不敬な時間を楽しみに待ちながら、無言で食事を摂る。

 ゆっくり、ゆっくり。

 腹がくちくなると、眠くなる。

 そうでないと、人は貪欲だから過食の罪を犯す。いつまでも、どこまでも。

 酒に浸り食に至る。

 人は、なかなかままならない。

 なまなかならない。

 午睡。

 ただ眠る。

 彼女はよく眠り、深く眠る。

 神社の広い境内のその端の、少しずつ確実に朽ちつつある鳥居の片方の柱に身を寄せるようにして、座り込んで。

 もう片方の柱には竹箒が立てかけてある。

 鎮守の森のその奥の、いずこからが飛んできた大きな蝶が、竹箒の先に止まる。

 紅白の大きな蝶。

 羽を畳んで、広げて、また畳んで。

 羽を休め。

 休めている。

 十秒止まって十秒飛んで、また十秒止まって、そのまま。

 彼女の胸元が呼吸に合わせて、ゆっくりと動いている。

 微かな風が、彼女の髪と大きなリボンを静かに揺らしている。

 蝶と同じように揺れている。

 立て掛け方が悪かったのか、竹箒が風に押されて少しずつ、少しずつずれていく。

 やがて、

 倒れる瞬間が来る、

 それでも蝶は翼を休めたまま。

 小さな複眼はその瞳に沢山の世界をレンズに映している。

 無数の世界。

 ひとつのせかい。

 それでも。

 そこに映っているのは彼女の姿。

 彼女の姿と、

 神社の姿。

 空の姿。

 たくさんの神社やたくさんの巫女や、たくさんの空をたくさんたくさん映している。

 箒が流れ落ちるように倒れれば、

 蝶は羽音を立てることなく飛び立ち、

 時折吹き抜ける風に流されながらも、彼女の周りをふらふらと飛びまわだろう

 ゆらゆらと揺れる紅のリボンの周りを。

 ゆらゆらと風に流されながら。

 そこが花でないと知りつつ、立ち去りがたく舞うのだろう。

 竹箒が倒れたか、蝶がどこへ去ったのか、花が咲いたのか。

 しかしながら、彼女にとっては結局どうでもいいことで。

 適当な頃合い、適当に覚醒した彼女は、適当にそこにいた。

 適当に時間は過ぎ。

 夕刻。

 青空が流れ落ちて、

 薄暮の時間。

 地に落ちる影が濃くなっていく。

 緋の天蓋すらも落ちかかってくる。

 本殿に上がる為の階段にその身を預けて。

 彼女がこちら側の空を見上げている。

 やがて湧き出づる夕闇へと溶け込む刹那まで、ずっと空を眺めている。

 夜の訪れを待ち構え。

 山の方角を見晴らす。

 妖怪の山だろうか、違う山麗だろうか。

 今は雲もなかった。

 風も止んでいた。

 星は見えなかった。

 刻に意味はなかった。

 人もそれ以外も、何ひとつ声もしない。

 無為の抄録のような一日。

 耳の奥に残るのは、朝に聞いた雲雀の声の残響だけ。

 太陽が大きく滲んでいく。

 挿し込む光。

 覗き込む瞳。

 そこに映っているのは彼女の姿。

 水桶に浮かべたあの瞳が、同じように光を湛えている。

 万華鏡のようにいくつもいくつも、光を遺している。

 光が落ちていく世界の中で、瞳だけがいつまでも光を覚えている。

 忘れながら。

 繰り返し差し込む光。

 瞳の奥の受光体が受ける、その光。満ちる。

 繰り返す。

 その光。

 そこに映っているのは彼女の姿。

 他には何もなく。

 それだけ、

 ただ――

 そこに映っているのは、彼女の姿。


 
































      ☆

 きみについて、少し語ろう。

 ――そう思うのだけど、いざ考えてみると、実際のところぼくがきみについて知っていることはとても少ない。
 きみがどこで生まれてどう育ったのか、きみのお父さんやお母さんがどんな人なのかぼくは知らないし、多分、これから先も知り得ることはないと思う。でも、きみを知る多くの人たちもまたそれを知り得ないはずで、それについてぼくが嫉妬を覚えなくて済むのはいいことだ。
 ぼくが知っているきみは、いつも考えたそのままに行動し、よく怒り、よく笑い、とても面倒くさがり屋で、妙に勘が鋭くて、それでいて奇妙な義務感に縛られている。
 容姿についても少しは知っているけれど、結局のところそれはすごく主観的な見方になるし、いまもきみがそういう姿をしているとは限らないから、言及するのはやめておこう。あまり勝手な見解を述べると、きみに怒られそうだしね。
 きみは自分の使命を苦としているわけでもなく、さも当たり前として受け止めている。得る物は少ないけど与えるモノも少ない。それでも他人にそれなりに慕われる。
 それがきみだ。

 きみを思い出すのは、何故だかいつも帰り道だ。
 まるで振り向くようにしてふと、遠くきみの幻が浮かびあがる。
 多分、そういう時はいつも夕暮れで、ぼくをとりまく世界の輪郭がぼやけるからじゃないかと思う。
 一時的にきみがいる場所に近づくからだと、思う。
 きみが暮らしているその場所がきみにとって大切なものなのかどうか、ぼくには分からない。きみがその場所に必要とされていることは知っているし、その場所がきみの存在なしには成立しえないこともまた理解できる。ただそれを、きみが自明のものとして受け止めているかどうかは疑問だ。確かめようがないし、きみだってそんな無粋なことをする奴を近くにおきたくはないだろうから。
 でもそこは、きみがいるおかげで少しばかり愉快な場所になっているんだろう。
 そしてまた、きみがいるおかげで少し恐ろしい場所にもまたなっているのだと思う。
 誰しもそうであるように、ぼくらはいつも、世界の外側を求めて暮らしている。
 振り向くように。今きた道を辿るように。
 決して届きはしない外側。
 自分が暮らすこの場所以外のどこかに、ここよりはもっと素敵で幸せな場所があるはずだと。その想像自体がどんなに不幸なことでも、それはきっと、とても大切なことで。そういう幻想をもっていられるってことはちょっとばかし幸せなことだ。
 ぼくにとってきみのいる場所は、いわばそういう処。
 そして。
 きみの場所が、そのような世界であるという理由の一つはきっと、きみがそこにいるからだ。

 きみは手の届かない人だ。
 物理的にも、心でも。
 一瞬は届きそうになったかもしれない。
 うぬぼれかもしれないけれど。
 そう思いたいという気持ちには逆らえない。
 でも――もう永久に届くことはない。
 それは幻想にすら届かなかった泡沫の夢。
 もう悔しくはない。
 悲しくもない。
 逆に届かないからこそ安心していられる。
 きっと他の誰の手も届かないだろうから。
 そんな気がするんだ。
 酷く幼稚だけど、でもそれが人間の心だろう。
 無垢に生まれて、幼稚なる心を持ったまま、人は死ぬ。
 世界に大人はもういない。
 いるのは大人のふりをした子供たちだけだ。

 あの紅月の夜、きみが空を舞って吸血鬼と戦った日のこと。
 すごくむかしのあの日のことを、今でもよく覚えている。
 世界が真っ黒と真っ赤に染まってしまった瞬間、ぼくは届かない君の一端を垣間見た。
 きみは神々しくて威厳があって、まるで神様のようだったけど、それでもきみは人間のまま、ぼくの手を引いてくれた。
 とても嬉しかったけど、そのきみの姿がぼくには決して届かないものだったって気づいたのは、ずっとずっと後になってからだ。
 それからもきみは、幻の桜を咲かせたり、月のお姫様と遊んだり、天界へも地獄へもいったりきたり、いろいろな場所を訪れて、果たして事件なのかどうなのか分からない物語に首を突っ込んでは、それなりに解決をしているらしいね。
 どうしてぼくがそれをしっているかって?
 実は、きみがいるはずの場所については、ぼくらの街ではよく話題に上がるから、なんだ。
 ぼくが口にし始めたからかもしれないし、そうではないのかもしれない。。
 すべては酒の席でのことだから、確定的なことなんてわからないよね。お酒はいつも、現実と幻想の境界をすこしだけ曖昧にしてくれる。それもまた錯覚なのだけれど。
 でも不思議だろう? 
 いったこともみたこともない場所について、ぼくらは思い想い重く憧憬する。ぼくらが知っている事物がその場所へ辿りついたらどうなるか……そんなことばかりが語られている。
 いまでは何故か、僕が知っている以外のきみについての物語が、ぼくらの街にあふれている。それらはまるでニセモノなものもあるけれど、本当に見てきたような話もあって、ぼくは混乱したり驚いたりしている。本当にきみのいる場所から、いろんなものが漏れ落ちてしまっているかのようだ。
 本当はそんなこと、ありえないのにね。

 もしかすると。
 それらの冒険は、きみによく似た誰かがなしたものなのかもしれないし。
 あるいは。
 きみ以外のすべてが幻想で、本当にそこに存在しているのがきみ一人だけなのかもしれない。もちろんその場合は、ここでこうして考えるぼくもまた幻想だ。
 それでもきみはいつものように、あの場所から空を見上げているのだろうね。

 ……こんな妄想も、きみならば半ば興味なさそうに、半ば苦笑して、きみは許してくれる気がする。きっと、たぶん。
 僕は毎日のように機械の言葉と戯れながら、そんな感じで想い巡らす。
 他にもきみを思う誰かと同じように。
 こうしてきみについての言葉はこの国のさまざまな場所で語られ、増えていく。
 たくさん語られれば語られるほど、多分、きみの本当の姿はどんどん遠くなってしまっているのだろう。
 でもね。
 いいと思うんだ、それで。
 届かなければより一層、繋がっているという幻想が強くなるだろうから。
 きっとそれが、一時でもきみに触れた、ぼくの信じるきみの姿だから。

 ――きみについて、ぼくが知っているとこはとても少ないし、これからも増えることはないと思う。
 きみがきみでなくなっていくように、ぼくもまた刻々と、ぼくでなくなっていくのだから。
 ただ。
 きみについて願うことは、きっと許されると思う。
 きみについて祈ることは出来ると思う。
 それぐらいは許されて欲しいと、願う。
 だからぼくは。
 ぼくは今でも、きみがきみのままで微笑んでいることを願っているよ。

 誰のためのでもなく。

 ただ、きみの思うままに。