■不尽の約束                   【KAI-KOH】


「………………」
 夢のない午睡だった。
 目覚める。
 藤原妹紅は樹陰で、上白沢慧音を待っていた。
 暇を潰すのは苦手ではなかったが、人里での無為な時間は珍しい。
 時折行き過ぎる人々も、妹紅には近づこうとしない。変人だと思っているのかもしれないし、妖怪と思っているのかもしれない。妹紅の方も関わる気がないのだから問題はないが。
 今日は、以前に迷いの竹林絡みで人助けをした縁で、里に招かれた。妹紅は遠慮しようと思ったのだが、里の有力者の頼みということもあり慧音も無碍には断れなかったらしい。また、最近里で評判に鳴りつつある腕利きの薬屋の件を筆頭に、安易に竹林に近づく者が増えつつあるので、これについてきちんと釘を刺しておいて欲しいという慧音の要請もあった。
 本来、里を出れば幻想郷に安全な場所などない。
 ただ――往来を自由に闊歩する妖怪や幽霊が増えたせいで、どうにも危険に対する認識が低下している傾向があるらしい。特にそれは物怖じしない子供達において顕著だという。人間が妖怪に襲われる事件が特段減ったわけでもない。それについてきちんと説明すべきだというのが慧音の意見だった。
 有力者というのがどれほどの力を持っていて、自分が警告したところでどれほどの効果があるのかしれたものではないが、両手で持ち帰れる分の食料か酒を貰えるならばいいかと、妹紅は消極的な理由でやってきた。不老不死でも腹は減るし、酩酊に恋する時間もある。希には人間だった頃の生活に回帰したくもなろう。
 そして藤原妹紅は今、人間の時間に寄り添って暮らしているのだから。
 眼前には子供達の為の小さな学校がある。
 教えているのは慧音だ。
 先程教室をそっと覗き込み、騒然とした雰囲気を鎮める慧音先生の奮闘に肩を竦めた。
 半分くらいは人間でない者が、人間に正しい歴史を教えている。
 滑稽とまではいわないけれど、違和感がある。ただ自分が口出しすべき理由もなかろう――この千年、『現在』という二次元に等しい軸に暮らしてきた自分には、特に。
 もう一度樹の幹に寄りかか、片膝をついて目を閉じる。もう少しは掛かるだろう。
 外で寝るのは好きだし、地べたに寝そべるのだって馴れている。
 獣避けの火が失われる恐怖とも、今は無縁だ。
 ここは人里で、
 なにより自分は不滅の炎そのものなのだから。

「……死んでる? 行き倒れか」
「息はしてるよ」
「じゃ、なんでこんなところで寝てるんだよ」
「変な人だからじゃない」
「きっと妖怪なんだよ、お姉さんなのに髪が真っ白だもん」
「寝てる内に捕まえよう! みんなで掛かれば出来るぞ」
「えぇ、でも……」
 周囲がうるさい気がした。閉じたままの瞳なのに、明度がちかちかと変わる。入れ替わり立ち替わり、誰かが近寄っている気配がする。妹紅は煩わしそうに目を開けて、むくりと顔を上げた。
 途端に歓声と悲鳴が上がって包囲の半円がばっと広がる。
 黄色い声は、やはりというか、学校で学んでいた子供達のようだ。妹紅をおっかなびっくり見つめている。
 妹紅は無言で頭を掻き、それから立ち上がって彼らを見下ろした。輪の直径が一歩二歩分だけ広がる。皮肉そうな笑みを浮かべて服の埃を払っていると、
「こらぁ! あんたたち何やってるの!」
「まずい、明野だ! みんな逃げろーっ!」
 悪餓鬼を絵に描いたような少年の一言で、子供達が蜘蛛の子を散らしたように逃げ去った。注意をした女の子は子供達より少しだけ年長のようだ。こちらに歩み寄る慧音に付き従い、水の入った桶を提げている。よって、子供達を追いかけられないのが悔しいのだろう、顔を真っ赤にして小さな逃亡者達を睨んでいた。
「お待たせしました」
 慧音が妹紅に頭を下げ、明野もそれに倣った。
「学校もなかなか大変そうだな」
「私が自主的にやっていることですし。預かっている以上は頑張りませんと」
 慧音は子供たちとは別に、その親たちにも講義を行っている。人間が保持する歴史が歪むのを危険視しているからだ。半妖という微妙な立場で人の歴史に干渉しながらも、稗田家などと軋轢を生むことなく里と調和しているのは、誠実さでは人間以上である彼女自身の人徳なのかもしれない。
「――ごめんなさい。あの子達、慧音先生のお客様に失礼なことをしました」
 明野から真剣に謝罪されて、妹紅はむしろ苦笑してしまう。
 大きな瞳が真っ直ぐに自分を見つめる。強い。こういう目で見られた記憶が咄嗟に浮かばない。なんだか気恥ずかしくなる。
「私はいいが、人を怒る際は短く強くするといい。悪し様に人を思い続けるといずれ呪詛になってお互い辛くなる」
「……は、はい」
 流れ落ちる白髪を別にすれば、妹紅の姿形だって明野の姉で十分通る。そんな口から妙に落ち着いた言葉を渡されて、彼女は戸惑っているようだった。
「もういいよ、明野。水撒きは後でやろう。私も所用がある」
「はい先生。では失礼します」
 慧音の生徒はもう一度深く礼をして、学舎の方へ駆けていった。
「出来の良さそうな娘だな」
「頭の固い大人よりはよっぽど吸収します。私の言葉を鵜呑みにもしませんし」
「嬉しそうじゃないか」
「教師を自認しているのですから、これくらいの喜びは欲しいものです」
 里の守護者は、そういって屈託無く笑った。

 会合は妹紅の想定を超えるものではなかった。良い意味でも悪い意味でも。
 無駄足とまでは言わないが、得た物も少ない。長老達との言葉の遣り取りはやはり退屈だった。予想よりも若干多めの酒が手に入ったのは嬉しくもあったのだけれど。
 あとは……あの聡明そうな娘ともう一度話をするのも悪くないなと思っていたのだが、どうやら入れ違いらしく結局会えず仕舞いだった。どうせまた機会があるだろうと、妹紅は執着しなかった。
 里を抜け、竹林へ向かう。
 背中の籠ではささやかな戦利品がかちゃかちゃと音を立てている。
 人の好意は嬉しいものだし、たまには里の様子を見物するのも悪くはないが……一人で黙々と暮らし、宿敵への復讐に明け暮れた時代が長すぎたのか、若干気疲れするのもまた事実だった。こうして一人で歩き出すと心が安まる。同時に、すべてを失いすべてが始まってしまった、あの童女の時代――流浪の時代を思い出す。
 寂しさ。虚無。
 人を殺めて蓬莱の薬を飲み干した瞬間も、その後の苛烈な遍歴も。千年以上も経つのだからその辺りの記憶なんて飛んでしまっても不思議でないはずなのに、魂に刻印されたが如くにすべてが鮮明に蘇る。慈悲もなく。
 天人でも異星の民でもない、ただの人間が不死になることの意味。
 さっきの娘だって、私より先に死ぬのだ。間違いなく。
 これまで至極当たり前だったことが、心の底を冷たく濡らす。
 人と付き合えば心は温かさを憶えるが、人との相違が心に小さな傷を付ける。
 でも今は、それを差し引いても人と付き合うのが楽しいと思う。千年ぶりの心の有り様が胸の中で脈を打つ。いや……もしかするとこれは、千年前にすらなかった感情なのかもしれない。
 人間と妖怪が適度なバランスをとっている、この不思議な時代。
 藤原妹紅は他の誰とも違う意味で、幻想郷を愛していた。

 ――その夜。
 カタン、カタン。
 機を織る音。緯糸を結わえられた杼が経糸の間を滑っていく音。
 洋燈の暖かくもぼんやりとした光に浮かび上がる、布を織り上げていく人の影が揺れる。
「母さん。今夜は風が強いね」
「そうね」
 明野は繕い物の手を止めて、時折揺れる戸口をなんとなく見つめる。
 母親は手を止めずに、機を織りつづけてている。
 カタン、カタン。
「父さん達、大丈夫かな」
「集会に行っているだけでしょう? 今日は夜警の順番でもないんだし」
「でも、妖怪は村に出ることも有るって、霧雨の家の人が話していたって聞いたよ」
「それを言ったら何処にいたって暮らせはしないわ。夜を恐れるのが人間だもの。でも、みんなで力を合わせて夜を過ごすのも人間なのよ。確かに、怖い夜だってあるけどね」
 同じような会話。
 もう何度も繰り返してきた会話。
 それでも、人間は同じように繰り返す。
 親から子へ、子から孫へ、同じように。
 妖怪と違い、容易に倒れ死んでいく者達だからこそ、記憶を反復し、連鎖させていく。
 その過程において様々に変容してしまうとしても。
 ――でももし、こんな夜に竹林に独り暮らしている人がいたら、どんな気持ちなのだろう。怖くないのだろうか。寂しくないのだろうか。
「……明野。手が止まっているわよ。もう少しで今日の分が終わるんだから、頑張りなさい」
「はぁい。母さんみたいに早くなるといいのに」
「練習しなきゃね。でも、私があなたぐらいの頃はもっと下手だったわよ」
「ウソだよね」
「そう思う?」
 少女は運針を再開しながら、もう一度だけ戸口を見遣った。
「お母さん、今日ね……慧音先生のところで」
「ん?……なあに?」
「……ううん。なんでもない」
 カタン、カタン。
 機が織り成していくのは、素朴な色合いの緑の織物。
 なのに今夜の明野の視界にはあの、白い髪の後ろ姿が目に焼き付いて離れなかった。

       ☆

 数日後。
 夜半の折、絹糸のように細い月が西の空でしどけなく垂れる。
 妹紅は自分の庵でちびちびと酒を嘗めている。彼女は夜目が利く。囲炉裏に炎はなく、竹林の上から零れてくる星明かりのみを肴にして嗜むそれは、しかしながら、昨日よりも楽しめていない。舌先で転がらないばかりか、喉を必要以上に刺激して困惑する。
 酒が悪いわけではない。
 心が地についていないからなのだろう。
 理由は分かっている。
 どうにも、竹林が騒がしい。
 常人には決して見聞できぬ精霊達が落ち着きなく乱舞する雰囲気を、妹紅はありありと感じ取っていた。この分だと物見高い幽霊達が集まり始め、次いで新月明けだというのに眠りを妨げられた妖精達が不機嫌に目を覚ます。
 どうやら何者かがこの迷いの竹林に入り込んでいるらしい。
 里で人間の立ち入りを戒めたばかりだし、注意が巷間にきちんと喚起されていれば、よりにもよって夜の迷路に入り込む間抜けはいないはずなのだが。筍堀りの季節でもないし、永遠亭へ薬を貰いに行くにしても無謀すぎる。街道にだって妖怪は出るのだ。
 ――仕方ない。此処での危機は見過ごせない。
 妹紅は御猪口の中に沢山残ったままの酒を一気に飲み干して起立した。
 勿体ないし、旨くない酒だ。
 この借りはそれなりに返して貰いたいものだと思いながら、戸口を抜ける。
 庵の建つ場所はそれなりに手入れしているので開けているが、竹林に踏み込めば生育の早い竹のこと、見上げても星座を確認できない。だが長年暮らす妹紅は目を瞑っていても位置と方位を失わない。まして今は活発な人外の者どもの蠢きを感じられるのだから、照明が煌々と輝いているに等しかった。
 地面を警戒に蹴り、或いは竹を踏み台やバネにして、不死の娘は夜を駆ける。
 目指す場所はそんなに遠くなかった。
 外から竹林に分け入ってもさほど遠くないところ。
 年季の入った太い真竹の根本、両足を抱いて顔を伏せる小さな影が一つ。
「そうなのか」
 呟く。
 既視感。
 一瞬それが、過去の自分に思える。
 ――無力だった頃の自分。
 己が手を掛けることとなる岩笠と熾火を囲んで座っていた幼い自分。
 落ちてくるかのような荘厳な星空に怯えていた自分。
 ただの人間の寿命しか持っていなかった、普通の人間の自分。
 もう千三百年も前の記憶なのに、
 藤原妹紅は自分の立ち位置が確かでない錯覚に捕らわれていた。多分、ほんの一瞬だけ。
 小さく溜息をつき、右手で空中を静かに薙ぐ。精霊達が鎮まり、竹藪が静寂に満ちた。妹紅が現れても悪戯に興じようとする妖精はいない。あらゆる危険は去った。
「こんなところで何をしている」
 影はびくりと肩を震わせ、顔を上げる。闇中でも聞き覚えのある声だと察知したのだろう、途端に嗚咽が漏れ始めた。先日は凛々しげだった顔が年相応な、むしろもっと幼い顔立ちに窺える。頬には既に幾筋もの涙の河が刻まれていた。
 明野だった。

 そのまま里に送り返すのは容易かったものの、まだ若干情緒が乱れていたので、妹紅は一旦自分の庵に連れて帰った。主が戸を開ける頃には囲炉裏に火が燃えさかっている。外観では燈火の気配が無かったのにと明野は不思議そうにしていたが、妹紅は説明しなかった。
「そこの桶で顔を洗え。大変なことになってるぞ」
 少女は無言で従った。濡れた顔を手拭いで擦っても、激した後の紅潮した顔はしばらくそのままのようで、それに気付かない無防備さが妹紅の目に何故か眩しい。
 程なく湧いた湯で茶を勧め、自分は片膝をついて酒の残りを飲み始める。
 しじま。
 薪の燃える音がぱちぱちと揺れる。
 囲炉裏を挟んで、未だ下を向いている少女。
 やるかたなく、妹紅が問う。
「……誰かに頼まれてきたのか」
 力なく首を振って否定する明野。
「誰かに言ってはいるのか」
 また否定。
「慧音は童が一人で里を出ることなど認めないはずだが」
 言葉にほんの少しだけ圧力を籠もる。
 少女の拳に力が入るのが見えた。無言を押し通すことは出来ないと悟ったのだろう、明野は顔を上げまるで懇願するように、言った。
「あ、あなたに……妹紅さんに会いたかったんです。その、あれから慧音先生に貴方のことを聞きました。何年も何年も竹林の中に一人で住んでいる、と」
 妹紅の表情に一瞬だけ戸惑いが浮かぶが、少女はその機微を察知できずに言葉をつなぐ。
「もちろん、里を出たらいけないって解ってました。私だって、他の子たちに何度もずっとそういってましたから。でも、どうしても気になって。だから、竹林の前までいってみようって。走ったら日暮れまでに帰ってこれると思ったから。竹林の前まで来たら、奥へ続く道が見えてちょっとだけ中に入っても外が見えたから、大丈夫かなって思って歩いていたら、とたんに道が解らなくなって」
「………………」
「すごく恐い気配がいろいろ集まってくるのがわかって、とても恐くて、なんでこんなことしたんだろって思ったけど……里にいる時はどうしても、もう一度妹紅さんを見てみたかったんです。自分でもよく分からないけど、聞いたお話の中のあなたと、真っ白で綺麗な髪をしたあなたのことを考えていると、いてもたってもいられなくなって、つい」
 妹紅は無言だった。
 言葉を発せないでいた。
 正直、面食らっていた。
 直接的に純朴に、妹紅に気持ちをぶつける相手など、これまでの経験でも皆無に等しかったのだから。
 本来の筋道なら、明野の無謀さや浅慮をきちんと叱るべきだった。当の妹紅も当然そうすべきだと弁えていた。つもりだった。だが、紡ぐべき言葉は何処にも見あたらない。
 そもそもこれまで自分を訪ねてくる者といえば上白沢慧音か、あとは永遠亭に住まう仇敵ぐらいなものだ。親や社会に守られた小さな子供が危険を冒してまで、自分に会いに来るなどというのは想像の埒外だった。
 慧音は自分のことを何処まで、どのように語ったのだろう。彼女が安易に私の内実を他人に喋ることなどはありえない。それでも今、この子の中で自分は、一体どのような人物となっているのだろう。普段は気にもしない想像が、頭の中で渦を巻く。
 自分はは衝動に突き動かされて、人を殺し、不死と成り果てた。
 彼女は衝動を抑えきれず、危険を冒して、私に会いに来た。
 ここに差はあるのだろうか。
 同じことなのだろうか。
 だから、年長者が年少者に語るべき道理など口をつくこともなく。
 人を呪うことはあっても、根気よく諭すことはなく、
 嘲弄することはあっても、愛を込めて叱ることはない。
 妹紅はその意味でも人間ではなかった。
 だから今は、ただ無言で頷く事しかできない。
「ごめんなさい」
 また頷く。頷き返す。
 それだけ。
 しじまが再び。
 ……そこで、失策に気付く。
 明野は怒られるでもない様子に怯えを感じている。自分の瞳を伺っている。無関心こそが人の心をもっとも傷つけるというのに。子供なら尚更である。
 妹紅は最大限努力して、ぎこちない笑みを浮かべた。
 せめて自信なさげに見えなければよいが。
「明野は慧音から聞いて私のことを少しは知っているだろうが、私は明野について何も知らない。不公平にならないよう、出来ればお前のことを聞かせて欲しい」
「あ、……はい」
 効果は覿面だった。明野の表情に光が戻る。
 元より人の話を聞くのは嫌いではない。
 ことの成り行きに多少安堵しつつ、妹紅は酒を飲む。
 明野は自分についてよく喋った。
 自分の身の回り、両親のこと、家族のこと。自分は本当はお姉さんだったのだけれど、弟は生まれてすぐに亡くなってしまったらしい。だから、弟の分までいろんなことをしてあげようと、ご飯を沢山食べ、動き回っているうちに背も伸びたのだという。学校で子供達の取り纏めをしているのもそれが理由で、家族が自分が頑張りすぎていると心配していることすら知っていた。慧音をとても尊敬していること、慧音のためにどんどん行動したいと思っていることも。慧音のおかげで勉強がとても面白いのだと知ったらしい。
 話は学校や家を越え、里のあれこれにまで及んだ。喋り終えるのを怖がるかのように。
 妹紅は相変わらず黙って聞いていた。
 だが、二人の雰囲気からはぎこちなさが霧消していく。徐々に。
 勢いに乗る明野の言葉に、いちいち頷きながらの晩酌は続いた。
 酒が妙に旨い。気のせいかもしれない。
 やがて本当に喋ることが無くなった後で、明野が妹紅を窺っているのに気付く。
 今度は自分の番だろう。
 でも、自分のことは話したくない。
 卑怯だとは思うけれど……名前通り、広がる大草原のような心の持ち主である少女にとって、自分の経験はまだ重すぎるだろう。どう掻い摘んだところで、基本は闇に属する人間なのだから。不死である以上、その境界線は越えられない。
 だから、
 言葉代わりに、お礼代わりに、妹紅は手品を見せることにした。
 驚かないようにと言葉を含めてから、妹紅は燃え盛る囲炉裏の薪に手を翳し、何かを引き出すように指を弾いた。
 呼応して、一瞬強く立ち登った炎から、一羽の鳥が飛び立つ。
 全身を炎で波立たせた、雀ほどの小鳥だ。
 火の鳥は小さな火の粉を舞い散らしながら部屋を一周回り飛び、部屋を隅々まで照らし出した後で黄金色の翼をはためかせ、梁から吊された鉄鍋の縁に舞い降りた。生きているかのように毛繕いを始めるその妖術に、明野は驚きを隠さない。感情を奪われた童女のように呆然と眺めている。
 妹紅は静かに呟く。
「私は私のことを明野ほど上手に喋ることは出来ないけれど――喩えていうなら、私は炎だ。
 不死の山で絶えることなく登る火、
 遺骸を荼毘に付して輪廻転生を司る火、
 芽生えのための野焼きの火、
 お前が生きるために食する飯炊きの火、
 時に人の命をも危機にさらす無情の火。
 この先それらに臨む際にお前が私を想起するなら、きっとそこに私はいるだろう……もし、そう考えてくれるだけで、それで私は充分に嬉しい」
 ああ。
 言葉はもどかしいものだと思う。
 わだかまる気持ちが伝えられない。
 千年の間に言葉を磨く機会もあってよかった気がする。
 こちらを凝視する明野の瞳に映る、今のこの私は、果たして私自身だろうか。
 今ぐらいはそうあって欲しいと、真剣に願いたかった。

       ☆

 上白沢慧音が迷いの竹林に向かったのは、夜の帳が降りきった頃だった。大人達は妖怪による神隠しの恐怖を押し留めながら里の中を捜索したが、明野は見つからない。そうしている間に日が暮れる。そこで慧音は思い出したのだ――明野が妹紅のことについて興味津々に訊きたがっていたことを。里から迷いの竹林までは大人の足でも結構な距離があるし、聡明な明野がそんな愚かなことをするだろうかと悩む反面、明野の行動力に度々驚かされるのも事実。やはりここは足を向けなければならないだろう。
 それに、もし本当に竹林に入ってしまったのなら、一面では逆に安全なのだ。街道を一人で歩くよりはよほど。現在、竹林の中の領域であれば、外界に無関心な永遠亭の人々よりも妹紅が注意を払う領域の方が遙かに広く深い。
 平身低頭する明野の両親に対し、自分の責任で必ず連れて帰ると確約し、それから今回は妹紅のことを話した自分の責任でもあるのだから明野をあまり責めないようにと言い含めておいた。明野はそれなりの罰を受けるだろうが、彼らはきっと常識的な対応をしてくれるだろう。
 そして。
 慧音の予想通り、竹林の奥に踏み込む前に両者は出会うこととなった。どうやら妹紅の庵に保護されていたようで、訪問する際にいつも辿る獣道を外に向かって歩いている最中だった。提灯代わりに、妹紅の人差し指の上で煙の立たぬ一つ火が揺れている。
 妹紅と慧音は瞬時に視線で事情の遣り取りをし、こちらを認めた明野はばつの悪そうな顔をして、頭を下げた。
「慧音先生……あの、ごめんなさい」
「お前が謝るのは私じゃなくてご両親、それに里の皆だよ。このお人にもね」
「はい。妹紅さん、ごめんなさい」
「もう謝ったろう、明野? ……慧音、この子をよろしく頼む。すぐ送り届ければ良かったんだが」
「いえ、こちらこそお手数を掛けました」
 慧音は妹紅と明野の間に流れる空気を察知して少しだけ驚く。
 どうやら希有なことが起きたらしい。
 物見高い新聞屋に売ったらさぞ喜びそうなネタだが、勿論自分の胸の中にだけ大事に仕舞うことにする。
 明野が慧音に駆け寄るのを確認して、妹紅は指先の灯りを吹き消す真似をした。
 周囲が一瞬で闇に包まれる。明野がびっくりして、慧音に縋り付きながら恩人の姿を探すが、闇に馴れぬ目では白髪の少女の姿を見つけられない。
「妹紅、さん?」
「心配しなくても私はここにいる。実は、私はこっちの方が見易いんだ」
「そうですか――あの、」
 明野は闇に向かって呼びかける。
 懸命に、真剣に。
「あの、また会ってくれますか? お話、聴かせてもらえますか?」
「………………」
「私、妹紅さんの話がもっと聞きたいです。もっと話したいこともありますし、うん、作ります。だからまた会いたいです。今度は怒られないように、お昼の内に、慧音先生や、お父さんやお母さんと来ますから、だから……いいですよね、慧音先生」
「ああ。連れてきてあげるよ」
 夜風が吹き、笹が擦れ合う。
 闇が優しく微笑んだかのように。
「一事が万事、そんな大事になってしまっては里も大変だろう。私も不本意だからな……酒が切れたらまた里に行くから、その際に。私の時間はいくらでもあるのだから」
 明野の表情が開花の如く華やかに綻ぶ。
 それは慧音ですら見たことのない少女の一面だった。
「だから、今はお帰り。まっとうな人間は夜を休み朝を迎えるのがいい」
「はい……さようなら、おやすみなさい、妹紅さん」
「ああ」
 明野が慧音の手を握りしめる。それが合図となった。
 里へ帰る二人が踵を返す。
「慧音」
 明野には聞こえない、幽かな声。
 視線だけそちらに向ける。半妖たる慧音の瞳であっても、妹紅の姿は既に生い茂る竹の影に入り交じり、捉えにくい。
 ただ声の指向性は明確で、声色はいつもより豊かに彩られている気がする。
「私はこれまで不死であることを良かったと思ったことはないし、今この瞬間も変わらない。不死人は輪廻の枠から外れた場所から世界を俯瞰するだけだから」
「そうでしょうね」
 呟き返す。妹紅にだけ届く声で。
「しかし――私がうっかり人と約束などしてしまうと、私が滅びない限りはその約束も不死になってしまうことを失念していたようだ。考えてみれば、約束にとっては迷惑な話だな。己が望まないまま永遠の存在になってしまうのだから。私は、どうしてだかそれが、小気味よくて愉しい。遂に本当におかしくなってしまったのかもしれない」
「……今日の貴方は、なんだか饒舌ですね」
「千年も生きれば物狂いに囚われることも多々あるさ。死なない誰かを殺したくなる前に、孤独に酒を飲んで寝ることにするよ」
 自嘲めいた言葉を残滓として、草むらを踏み分ける音が一歩ずつ静かに、竹藪の奥へ遠ざかっていった。
「慧音先生、どうしたんですか」
「ああ、いいや、なんでもないよ。さぁ帰ろう、ご両親が待っている」
 慧音もきびすを返し、明野の手を引いて迷いの竹林を抜けた。
 隠された蓬莱人の表情が気にならなかったといえば嘘になるが、望むだけ野暮というものだ。ならば疾く帰って、人の見るべき夢に酔い痴れるがよかろう。
 人間の里の学校の先生とその生徒が、
 月をも憚る満天の、
 千三百年前に孤独な少女が一人仰ぎ見たのとほとんど何も変わらないはずの、白く濁った星空を見上げたその刹那――
 お節介にも、藤原妹紅の心境を代弁するかのようにして。
 一条の流星が天から地へと溢れ出て、流れ落ちた。