■闇の少女と光玉の実 【Light in Darkness】
ほおづきみたいに紅い……今日は紅くないのね、お月様。
でも、お顔に八重の雲が掛かった、真っ白な貴方の光も大好きだよ。
そんな真ん丸なお顔のすぐ横を、まるで狐の嫁入りみたいに、大きな流れ星が斜めの線を描いた。
気配もないし、音もしなかったけど。
あれはきっと、幻想郷の中に落ちたなー。
そんな風に、風に乗って思ったり。
だから今夜はあれを、追って飛んでみようかな。
東へ、東へと。
わたし?
わたしはルーミア。
宵闇を友とするふつーの妖怪。
――お月様を見ると、人間を食べる時のことを思い出すのは何でだろう。
でも、あー、そういえば。
最近、人間食べてないな。
人間に出会うことは、昔よりもずいぶん増えている気がするのだけれど。わたしが昼間も出歩くようになったからかしら?
普段はよく闇で周囲を覆っているから、わたしの視界は夜でも昼でもあんまり変わらないのだけれど。けれど。
いつだったかな、闇を出しっぱなしで写真撮られて、天狗の新聞に載っちゃったこともあったっけ。
どんな記事だったかは全然よく覚えてないんだけど。たまたま出会った妖怪や巫女がしきりにその話をしていたのを覚えてる。わざわざ教えてくれなくてもいいのにね。
うーん。なんだっけ。
あー、そうそう、人間の話だ。
なんでだか、人間の肉とか、血とか、昔ほど欲しいと思わなくなったんだ。
どうしてだろう。
どうして、なんてのも昔はあんまり考えたりしなかったんだけど。
別に「どうして」が分かったからって、何かが変わるわけでもないのにね。
うーん、これもよく分からない。
まー、おおよそどっちでもいいんだけど。
それでもきっと、たとえば、ええと、湖の水が全部人間の血で、その底に沈んで紅いお月様を見上げてみたら、きっと気持ちいいだろうなとかは、想像してみる。
月明かりの揺れ方とか、まるで見たことあるかのように想像できるなー。
そういう、腹がはじけてしまいそうな想像ばかりで、胃がもたれそうな感じ。
素敵だけど、お腹いっぱい、胸焼けいっぱい。
あれ? わたしの胃ってどのへんだっけ。
あー。いいけど。
そういうことで今日もまた、黒い服を着て夜空を飛んでいる。
闇夜の鴉なんていうけれど、あれって褒め言葉なのかな。
どうなのかな。
夜空を飛ぶのは楽しい。
人間を食べるのより楽しいかもしれない。たぶん。
ということは、もしかして。
わたしにとって必要なのは人間よりも夜空? 同じくらい大切?
なのかしら?
どうかのしら。
じゃあなんで昼間も空を飛ぶようになったのかしらって?
さーね。自分でもよくわからないのだけれど。
そもそも、自分でよくわかっていること本当はそんなに多くなくて。
実際には、それで十分だったりする。
自分がよく知っていること――たとえば、自分の名前とか。
自分のことをよく知らなくても、自分のことを自分だと思うのは、自分の名前のせいだと思うのよね、随分きっと。
いつからこんな名前なのか、よく分からないけれど。
「うらめしや〜」
目の前でいきなり月光がひらめいたと思ったら、おっきな瞳がこちらに向かってアカンベーをしていた。
「……なんだろ、これ」
「だから、うらめしや〜、なのよ。驚いて!」
ぎょろりと動いた一つ目の下から、可愛い女の子がムスっとした表情でこちらを見上げていた。
あー。最近ここらで売り出し中の唐傘お化けだ。
ちっとも怖くない妖怪として、妖怪たちの間でも有名になりつつあるような。
とっても嬉しくないだろうな。
「言葉は正しく使うべきだと思うけれど。あんた、わたしに恨みなんてないでしょー?」
「それでもトラディショナルな言葉って結構大事だと思うの。あれこれ考えるよりも、石の上にも三年っていうじゃない? 巫女にはダブルで退治されちゃったけど、こうやっていろんな人を脅かしていれば、いつかきっと、多分大丈夫になるのよ」
「このへんで巫女に退治されない妖怪なんていないし。世界が狭いと夜も明けないわー。わたし的にはそっちの方が楽しいけれどもね。太陽を盗んだ男的な」
「……やっぱりジャンプ傘の方がいいのかしらね……こう、バサっと開いたほうがきっと驚きやすいよね、うん。でも傘ってあんまり落ちてないんだよな……傘の改造とか……」
ぶつぶつ言いながら唐傘おんなのこは下降していった。
あれだと森の妖精にからかわれて前が見えなくて、樹の幹に頭をぶつけるかも。
それはそれでそのように仕方ないけれど。
わたしもやるし。
でも。普通に考えて、妖怪を驚かす方法はきっと、人間を驚かせるよりも難しいと思うのよね。最初に難易度選択ぐらいはきちんとやったほうがいいと思うわー。
大体、こんなおっきなお月様の夜に傘を背負った不審人物なんて、とっても目立って仕方ないじゃない。
かわいそうに、彼女が背負った傘の瞳が泣きそうに歪んでる。
そこにも月の光が映ってて。
☆
風が早くて早くて、山みたいに連なった黒いちぎれ雲が流れてく。
鼻の頭に水の気配が、する。水はないけど。
わたしはまだらな月の光を浴びながら。
遠くへ消えた星の欠片を追いかけてた。
深まった夜の底にもぐって、人間の行き来しなくなった街道に沿ってふらふらと飛んでみると、その途中に、今日も今日とて、赤い提灯が揺れている。
「あー、鰻屋発見ー」
人間の放つ光よりも、ちょっぴりちょっとだけ赤方偏移した光。
妖怪にとっても、とってもやさしい光。
わたしはそれに引かれていく。するー、するすると。
人間のお酒がそれなりに飲めるこの店は、毎晩のように街道を東へ西へうろうろしているけれど、森が切れるあたりまでには出張しないので、結局、わたしのねぐらからいうといつも同じくらいの距離で営業してる。
こんな場所に屋台なんてとっても場違いだけれど、通い慣れるとそれも気にならなくなってきたなー。
慣れって良くないものなのかしら? もしかした。
とか、なんとか思いつつ。
ふんわり着地してやんわり暖簾を押して、席に座る。
顔なじみの夜雀が例によって調子外れの歌を歌いながら、八目鰻を蒲焼きにしてた。
「こんばんわ。また来たわよ」
「らーららー、あ、あーあーあ、えっと、あっと……誰だっけ?」
「…………………」
夜雀はとんでもない鳥頭で、わたしの顔を見るたびに名前を聞いてくる。
店が毎晩同じ場所に店を開かないのも、昨夜に屋台を止めた場所がどこだったか思い出せないから。
それでも最近はさすがにわたしの顔を覚えてくれたようね。
名前はまだだけどー。
たぶん、名前は無理だけどー。
とっても濁ったお酒と、焼いたばかりの鰻がカウンターに並ぶ。
人間と比べて特に美味しい訳じゃないんだけど、やっぱり食べることは楽しいし、お酒で酔っぱらうのも楽しいし。
妖怪同士で情報交換するのも割とおもしろかったりする。
この夜雀も、何時の頃からか人間の真似をして屋台なんてやっている。どういう風の吹き回しか知らないけれど。どこで仕入れてるかしらないけど。
お客なんて妖怪か、道に迷って絶体絶命の人間ぐらいしか来ないはずなのに、いつもにこにこ顔で応対するのよね。
鳥目にするけど。
「あー。そういえば、最近って人間襲ったりした?」
「うーん。憶えてないなあ」
あんたが覚えてないのはいつものこと。
「なんだかね、こちらが歌を聞かせる前に逃げちゃうんだよね。鳥目になってからが面白いのに。八目鰻も美味しいのに」
「……そろそろ歌いながら接近するのやめたらどうかな? 『わたしはここにいますよー』って教えているようなものじゃない」
「あ。そうかも。でもあの騒霊たちだって歌いながら近づいてくるよね?」
「あいつらは人に音を聴かせるだけで満足な変なヤツら。いつも楽しそうで幸せそうだけどー」
「歌は人を幸せにするものよ」
「あんたがいうなー」
「あんたも変わった妖怪だけどね」
「あんたがいうなー」
コロコロと陽気に笑う夜雀。
あー、変わってる。
あ、変わってるのはわたしもか。変わってきてる。
あーあ。あー。
お酒が回ってきた。まだ二杯目なのに。
あー。
こうやってまた。
またいつもと同じようなことをしゃべってる。くだらない。
面白い。
コツン。ポツン。
「あ、雨だー」
「雨だー」
「あはははははは」
「あはははははは」
お酒で目が回る。周りが雨の音に包まれる。
夜雀の歌が聞こえなくなるのはいいね。
わたしは鳥目にはならないけど。
二人で変なことをいっては笑っている。
笑ったり歌ったりしている。
鳥目にはならないけども。
「うらめしやー! えっと、うらめしやー。こうかな、うらめしやあー!」
雨音の間をぬって、とっても最近聞いたことのある声が聞こえるような、気がした。
なんて努力家な妖怪だろう。妖怪にしておくのは惜しい気がする。
もしかして気のせいかもしれないけれど、たぶん気のせいでいい気がする。
幻聴ということにしておこうかな。
でもまー、雨が降ってても傘があればだいじょうぶだよね。
ええと、なんだっけ。
そう。
おおよそいつもこんな感じで。
わたしはいつもここでこうやって、くだをまいている。
ここを訪れる妖怪はわたしだけじゃなくて、妖怪が何人か集まることもある。今夜はいないけど。いつも笑ってるけど。笑ってるだけじゃなかったりするけど。
そうねー。
たとえば。たとえば。蛍の妖怪や、恐い者知らずの氷の妖精、一から十まで嘘をつく妖怪兎とも顔見知りになった。それまで、自分以外に妖怪がいることなんて気にもしなかったし、自分のことについてすら考えもしなかった。暇つぶしにここに通っていたら、近くで暮らす妖怪たちの様子が勝手に分かるようになってたなー。
あのいまいましい巫女の上手なからかい方もあれこれ教えて貰ったし。
まだ、上手くいった試しはないけれどー。
上手くいくのかな。
「……上手くいかないよねぇ」
「……上手くいかないねー」
「「いくわけないよねー」」
「あはははははは」
「あはははははは」
そうそう。
その巫女にだって最初に出会った時までは全然興味がなかったんだよね。
知ってたはずなんだけど。
そのもうちょっと前に、妖怪の賢者が決闘のルールをふれ回っていたらしいけれど、それもどうでもよかったし、しっていてもしらなくてもわたしは変わらなかった。
変わったのかな?
判らないけど。
まーでもまー、本当にそんなことがあったのかどうか、疑わしい所。
どっちでもいいけれど。
……雨雲のせいで、お月様の光が消えて、提灯の明かりがちょっと強くなった気がした。
わたしたちは雨音に負けないように、笑いながら大声で話をしている。
今夜、夜雀が特にいっぱい喋っているのは、最近また増えた妖怪について。
いつぞやの地震騒ぎに続いて、温泉が湧いたとか地面に大穴が開いたとか、今度は空からお寺が降りてきたし、新しい天狗の新聞が里に出回り始めたなんてことも。
そういう話題で里も、妖怪の山も相変わらず大騒ぎらしいって。
多少なりと客商売をしている夜雀は、ここ数年でそれなりの情報を手に入れやすくなっているので、そういう話題に耳ざとかったりする。
その流れでわたしも、以前よりはもっとずっとたくさんのことを知ってたり。
もっとも、夜雀は鳥頭なので、その日の内に誰かに喋ってしまわないと忘れてしまうんだけれどもね。
「……あー、あーあー、そうそう、そういえば思い出したよ」
「わたしの名前?」
「あんた誰だっけ? ……じゃなくて、あんた以外の、今日のお客さん」
「鳥頭のあんたが珍しいねー」
「ほんとにねぇ」
「あんたがいうなー」
どうやらここ数日で、あの文々。な奴を始めとした天狗の新聞記者が何人も訪れて、ある噂が伝わっていないかと尋ねられたらしい。
「なんのことを?」
「『人間には勿体ない光』の噂、だって」
「それなにー?」
光。
特に日光は昔からおおよそ、人間を守る力の象徴だったりする。
わたしだってこれでも普通に闇の妖怪だから、お日様はちょっと随分苦手。
月光は好きだけど。
でも、人間は光に頼りすぎるきらいがあるよね。何かといえば戸を開けて火をつけて鏡を使って、自分の周りに光を配ろうとしたり。あまつさえ、光は人間のものだと勘違いしている節がある。それはどうかなーって思うけれど。
こう見えても、わたしだって光を使うし。
光がないと闇もないからねー。
で。
そんな人間に決して渡すべきでない、とっても大切な光が現れる予兆が出た、って噂が流れてるんだって話。
今は妖怪しか知らないから、巫女なんかが動く前に記事にしたいとか、なんとか。
「なんだろうね。また神様が太陽でもくれたのかしら?」
「まともな使い道のない光なんていらないと思うけどねぇ」
そういえば地底で光ってる太陽の事件の、主犯も鳥だったような。
あれも使い道がわからないって聞いたような。
とは、わたしはいわなかった。
相手は鳥だし。
いっても無駄だし。
「……で、その光ってなんなの?」
「それがねー。龍の光の珠なんだって。龍の女王様の。使えば魔王の闇だって簡単にはいでしまう伝説の宝物」
「…………………そーなのかー」
あんまり嬉しくない宝物ね。
特にわたしにとっては。
何しろ龍は幻想郷でいっちばん偉い神様だ。
聞いただけでなんだかいっちばんすごそうだ。
よく分からないけど。伝説っていうぐらいだし。いっちばんだし。
こわい。
でも、しかし、なんだかなー。
人間には巫女がいて、最近では人間なのかどうなのか判らない人間も出てきて、あちこちで妖怪が当たり前のように退治されている。
幻想郷には人間と妖怪がいて、妖怪は人間を襲うのだけれど、結局のところ最後は巫女が勝ってしまうんだから。
この上、闇を剥ぐ光なんて人間の手に渡ったら。
ずるいと思う。
とってもずるいと思うなー。
特にわたしが困るなー。
ここは幻想郷なのになー。
妖怪と人間、本当などっちが強いんだろうなー。
とか。
考えてしまう。
今までは考えなかったことを考えてしまう。
「ていうか、天狗があんたによくその話したわねー」
「まぁ人徳っていうか、妖怪徳? ここだけの話ってことで独占取材だもんね」
「あんたそれ、来た天狗全員に言ってたでしょ」
「そうだっけ?」
このように。
決して、鳥頭と約束をしてはいけない。
わたしはまた笑いながらお酒を呑んで、ぐーっと背伸びをした。
いつのまにやら雨は上がってた。お月様はちぎれ雲の向こう、山の端に沈んでいったみたいだ。
思った以上にながい時間、夜雀とお酒を飲んでいたみたい。
屋根から次々ぽたぽたぽた、落ちる雫越しに、夜空を見ていたわたし。
思い出し、ふっと思い出した。
今夜はお月様を横切った、結構大きな流れ星を追って夜を飛んでいたのだ。
多分、幻想郷の中に落ちたはずの流れ星。
音のしない流れ星。
あらら、あれって、もしかして――
龍の珠かしら?
そうだったらいいなー。
あれを見たのがわたしだけだったら、いいなー。
楽しい想像でいいなー。
たまには、人間からくすねたっていいじゃない。
神様とか天狗とか、巫女とか。
ふつーの妖怪が力が強い奴らを出しぬいてもいいじゃない。
……出来るかな?
わたしに出来るかな。
この話自体はわたしにはちょっと、たぶん、向いてないかもしれない。
闇の妖怪が光を独り占めしようとするなんて。
それでも。
もし本当に、手に入れることができるのなら。
闇のためだけの光。誰にも無関係な、わたし専用の光を手に入れられるのなら。
とっても素敵なこと。
多分、そこらの美味しくない人間を食べることよりも、きっとね。
「あれあれ、どうしたの? もうお酒はいらない?」
「ありがとー。雨もやんだし、どっかにいくよ」
「わかったよ。たまにはゆっくりわたしの歌も聴いていってね」
「今度は耳栓持って来るから。それにわたしは鳥目にならないし」
夜雀に軽く手を振って振り返されて、そのまま。酔った調子でふらふらっと夜空に浮かび上がる。
ちなみにお金を払った試しはない。
請求されたこともない。
これで営業と言えるかどうかはすごく謎。
だけど楽しい。
多分夜雀も楽しい。
だからまた来る。
しばらく飛んで振り返ると、真っ黒な森の中に小さく赤い光が灯っている。
ちょっとだけ、濁ったお酒が恋しくなる灯火。
赤提灯のあの色を最初に考えた誰かさんは、とってもえらいなーと思う。
☆
わたしは口笛を吹きながら、星明りの夜空を飛んでいく。
くるりくるりと。
あっちこっちそっち、調子外れのメロディは、どうやら夜雀のはた迷惑な歌がうつっちゃったみたい。
お酒が効いているのでそれもまたとってもとっても、ああ心地良い。
闇を貼りつかせない躰には、風がそのままの形で吹きつける。
ずっと前、何も考えずに闇ばかり出している頃の視界はとても悪かったのだけれど。
ちかごろは闇の出し方を工夫できるようになってきて、目の周りだけ闇で覆わなくするようになったから、視界はそれなりにとっても良くなったりした。低空を飛んでごちごちと木にぶつかって、痛い思いをすることはなくなったかも。
たぶん。
あんまり。
あ、でも、もしかして。
闇の中に両の目だけ見えてたら逆に不気味かしらね?
本当は、ええと、ボディスーツだっけ。あんな感じに躰にピチっと闇をまとえればいいのだけれど、なかなかうまくいかない。
それに、そんなのが空を飛んでいたら闇じゃなくて影の空中散歩になってしまう。
不気味。
……まーいいんだけどね。妖怪だし。不気味だし。
風と同じくらい、お月様の光だって気持ちよかったんだけど、今はもう西の空のかなたに帰っちゃったから、ちょっとだけ無念無念。
ちょっと残念な気分を楽しみながら目を落とすと、眼下には川、森のあいだを流れる小川、雨で濁った浅瀬。
小魚が跳ねるその先。
蛇のように左右にうねるそこをなぞって飛んでいくと、ちょっとだけ大きな湖に出る。
遠くを見つめると、湖の端に煌々と明かりの灯ったお屋敷。
赤い悪魔たちが暮らす、おっかない紅の屋敷。
建物自体が魔物だから、うっかり近づくと怖い気配をばらまきはじめる。
こっちを威嚇し始める。
まるで蚊取り線香みたい。ぐるぐる。ぐるぐる
とか、なんとかいうと、さらにおっかないメイドが突然現れるんだろうなー。
迂回、迂回。愉快痛快。
こんなに気持ちのいい夜に怪物ランドはお断りだもんね。
距離をとって、おもいっきり上昇して、吸血鬼の住処をやりすごす。
でも、遠くから見ると蝋燭の乗ったケーキみたいでなんだかきれいよね。
少ない窓が解き放たれて。
それぞれ紅く光っていて。
ちょっとだけ食べてみたくなる。
お腹を壊しそうだけど。
星の天井、雲のまだらに覆われた、薄黒い幻想郷の地表にも、ちいさなちいさな明かりが瞬く。
川や池は星界の鏡。
里のあちこちには常夜灯の炎。
森の影にはふくろうの目玉。
誰もいない野原に気紛れな稲妻が奔って、野火がゆっくり広がっていく様。
闇夜は楽し。
空の散歩はいとおし、いとおかし。
でも今は東へ。
わたしには時間を止められない。
東の空には明けの明星が登り始めている。
いそげ、
いそげ、
いきは宵酔、この妖界な夜を我慢して、
こわいこわい龍神さまの光を探しに行こう。
わたしは笑いながら、両手を大きく広げながら、螺旋を描きながら飛ぶ。
一路東へ、
夜空の落し物を探しに。
――でも、
結局、
実際、
それは間に合わなくて。
楽しい楽しい妖魔の夜行は、壁みたいな東の山脈のその手前でおしまいになった。
まだ夜も開けないのに。
夜と朝との境界線に邪魔をされて。
☆
「あら、この辺りじゃあまり見かけない顔だけど、此方まで遠足かしら? おやつは日本では三百円までのはずだから、もう尽きている頃合いでしょうに」
次第に明るくなってきたなと思ったら、お日様が出てくるはずの場所にまるで山脈のような雲が地平線まで稜線をなして。
その輪郭と雲との隙間がかぱっと開いて。
中から無数の目玉がこちらを見てた。
一斉に。ギョロッと。
左から右へ、視界の全部が境界で、例外なくわたしを見つめる瞳だった。
その中央に二匹の式神を従える女の形の何かがいる。
あー。
あああああああああああああああああああああああああああああ。
あーあー。
憶えてなくても、見れば分かるよ。
わたしだってね。
――コレは、妖怪の賢者だよ。
扇子で口元を隠して、小振りな傘を背負って、こちらに微笑みを投げている。
妖怪の中の妖怪だ。
紫紺の衣の恐怖だ。
巫女以外で、いっちばん注意しないといけない奴。
おおよそ真義という次元での、まさに正体不明。
緊張って、多分、こういう心地をいうんだ。
自分の中の胃や腸や心臓があるのやらないのやらわたしはしらないけどね。
だって、危険な妖怪やら人間やらは多少、いやいっぱい他にもいるけれど。
コレは次元が違うのだ。字源という示現で。
それでもわたしは見栄を張る。
別に怯えることもなく。
「夜は妖怪やらわたしやらが空を飛ぶにふさわしい時間だと思うの。たとえ相手が神様だって、邪魔するなんてわりとまっとうじゃない気がするわー」
「なんて順当で中庸な妖怪の心得なのかしら。最近の妖怪たちに習字で書き取りさせたい名言ね」
「そうでもないよー」
「でも嘘の付き方は下手くそね。それでも馬鹿正直である方が神様もそれなりに思し召してくれるから、いいのかしら。竹薮の穀潰し宇宙人のせいで、星空の神々と幻想郷とは相性が悪いのかもしれないけれど」
「そーなのかー?」
「あら、決め台詞って大切だと思うわよ」
「そーなのだー」
ばれてる? ばれてそう。ばれてるなー。
とっさにそう思った。
考えていることが口から垂れ流れてるんじゃないかしら。食べきれなかった人間の赤い血みたいに、頬を伝ってしまいそう。
アレだよ。
ここまで飛んできた理由。
流れ星を追って、東へ東へ、まるでお日様をお出迎えするかのような感じに。
わたしだけの秘密。
例の件。
わたしは隠そうとした。でも、やっぱり、間違いなく。
無駄だと分かっていても。これが条件反射?
無駄なのも楽しいのにね。
でも、あー、どうしてこんなおっかないことになっちゃったんだろう。ただ一人、ひとりだけで、一人の秘密だけにしようとおもっていただけなのに。
人間はすぐに秘密を作ろうとするけれど。
妖怪は秘密をもっちゃ駄目なのかな。
賢者もその式も、まるで攻撃姿勢などを見せてくれない。そんなことは必要ないから。もしちゃんと戦えば、わたしなんてどうにでもなるのだ。どうにでも。
賢者自らが設定したルールに従ったとしてもね。
いわゆる、首ちょんぱ。
わたしの血も紅くて、さぞ美味しいんだろうな。
でもお腹は減っていないんだ。残念ながら。
わたしがどうこうするのは無茶で無駄で無理。
一から八まで全部だめ。
「偉そうな態度してるなんて、ちょっと気分が悪くなるなー。こんなにもいい夜の散歩なのに」
「あら、自分から太陽を迎えに来たのに、そんなことをいうのね」
「じゃあ、わたしのために、夜と昼の境界をひっくり返してくれるのかしら」
「お望みならばそうするけれど。でも貴女には向いていないと思うの。貴女が探している小さな宝物もね」
「………………」
唾を飲み込んだり。
さすがにね。
さて。さてさて。
お釈迦様、閻魔様、大悪魔様の掌の上。どれが一番広いのかな。
それでもわたしは呪符を抜こうとする。
賢者が決めたルール上で。
わたしのことなんて全部ばれているのに。ちっぽけだからね。最初から最後まで。
どこまで?
どこまでも。
空がどこまでも連なっているように?
そう。
空はどこまでも連なって。
――いない。いないよ。今時は妖怪だって、たっかーい空気が実は地球の表面のとっても薄い層で、その向こう側に永劫と云っていいぐらいの宇宙が広がっているのを知っているから、そのくらいは考えるから、
あ。
闇が。
あああああああああああああああああああああああ。
闇ガ来る。
感じた。。
わたしの中ノ闇が、。
私をコノヨウニ構成している闇が。
闇という私が。
人間で言うところの心臓と胃と腸、そのもっと奥まったところから。
わたし私に手を伸ばして、ワタシの頭をわたし抱いて、わたしと普段つながっていない闇がわたしわたの耳に囁きかける闇がル闇ヤミミ私に闇を私吹きかけわたし吹き上わたしが闇ヤミわたしじゃないワタ闇闇闇Y A Y M I S あ ア や や や さ し … I … し す や …… そ … そ もそ も、今回の一件、天狗たちの取材によって急速に広まっているという「人には勿体無い光」の噂は誰が広めたのか? 何故、高貴な神宝が出現するなどという幻想郷では在り来りの話題に力持つ天狗達が飛び付いたのか? それは大元の情報源が一定の信頼に足るものだったからに相違ない。恐らくは幾重にも連鎖した情報は、幻想郷の有力な者たちの茶飲み話の遡上に登っては消え、事件になる手前の泡沫的な状態で拡散してその周辺に漂着したのだ。換言すれば情報源のロンダリング。最初から話題の出現場所に於ける不自然さを消尽する為の伝播であり、幻想郷内の情報網は専ら利用されたに過ぎない。では情報の拡散と拡散時の不確実な改竄それ自体が目的だったとしたらそれは何故? それはすなわち、幻想郷に於いてこの話題に興味を抱く者が一定数存在するかを確認したかったから。巫女や魔法使いや、それに比肩した「プレイヤー足りうる存在」の状態を調査する。人間にはと但し書きをつければ妖怪が喰いつき易いとの魂胆か。誰が。言うも愚か。目の前で妖艶に笑っている賢者に決まっている。何のために。当該者が幻想郷に与える影響の大きさを量るために。どうして。自分の設計したルールが上手く機能しているかを調査するために。自らの影響を測定するために。自分が設定したルールによって自分が量られることを避けるために。そう。そうだ。この賢者たる妖怪は、神に及ばぬながら圧倒的な力を備えるが故に、自分自身を完全に演算し、その数値を常時完璧に検算している。だからこそ、不確定性原理を身に纏い、自らがニュートン物理学上の計算の要素にならないように立ち回っているのだ。分母にも分子にもならず、ただ演算記号であろうとする。または、自分が代入された式の解を明示しない。であるにも関わらず、答案用紙の点数をちらりと公表しなければならないような機能を排除できない。こここそが彼女の限界。巫女と魔法使いと吸血鬼が月へ行った結末のその最後で、竹林の賢者に月の酒を飲ませるその感情が彼女の限界。敗北という本質を隠蔽しつつ露出する。量子論への羨望だがそれ自体ではない。それを幻想郷そのもので覆い隠さなければならぬために、賢者は反復練習のように計算し続ける。人間と妖怪と幻想郷を代入し続ける。ラメータを最大限に取りながら。パラメータに適合しない要素を排除するために。ならば――
ならば。
ならば?
……自分でもよく分からない闇の嵐が頭の中でちょっとの間だけ吹き荒れた後、
すっかりと晴れて空っぽになった頭の中のいうとおり、
わたしはわたしのいつものように振舞った。
そうすることにした。
両手を天と地にかざし、スペルカードを握りしめはしたけれど、発動の宣言はしない。
そのかわり、そこからおもいっきり闇を展開して。押し延ばして。
まるで世界を上下に支えるような感じで。
「向いてないかどうか、やってみなきゃわからないよね。誰もやったことがないのなら試してみないとわからないんじゃないのかしら?」
「………………」
賢者はたおやかに微笑んだまま。
賢者はわたしがわたしのように振舞うのを望んでいる。
ルール上のプレイヤーとして振舞うのを。
だからわたしは、単なる妖怪を装うちっぽけな妖怪のような妖怪として対応することにした。
きっとそれが模範解答。
妖怪の賢者が望む小賢しく浅ましい回答。
でありながら、結局わたしに出来る最大限の回答だったりする。
どっちにしろ勝てないし。
嵐を呼ぶ剣なんて持ってないしね。
「私の知らない間に、大層似つかわしくない知恵を付けたようね。それがいいことなのかわるいことなのか、わたしにもおおよそ定められないけれど」
莫迦にされているのかな。
されてるんだろうな。
とは思ったけれど、なんだかとても機嫌が良かったし、高揚していたし。
前から自分でも、たぶん妖精ほどは莫迦でもないと自分でも思っていたので、否定したりはしなかった。
「……そう。己を豊かに感じるのは悪いことではないわ。力量さえ見誤らなければ、きっとわりともっと、貴女は素晴らしい闇へと行き着くでしょうよ」
「いわれなくても宵闇によばれればどこにでもいくんだけどね」
「その余分な言葉に免じて、お望みどおり昼と夜の境界を弄ってあげるわ」
妖怪の賢者は虚空に一本線を引き、そこに広がった隙間へとその身を滑らせる。結局使役しなかった式たちと一緒に。
賢者が消え去るその刹那、
睨まれただけで昇天してしまいそうな流し目をわたしに送ってきて。
「ああ、そういえば。少し見ない間に頭のリボンを取ったのね。そっちの方がいいわよ、ずいぶんと頭が悪そうに見えないから」
――頭に、リボン?
どんなの?
わたし、そんなの付けていたっけ?
思い出せないなー、
なんて考えている時間はなかった。
あ。
光だ。
とんでもない、圧倒的な光圧を叩きつけられた。
攻撃――いいえ日の、出。
睨み合っていた間に、お日様がとっくに登っていたんだ。
妖怪の賢者が張り巡らした八重垣の竹垣みたいな雲によって覆い隠されていただけ。
それが全て、一瞬で取り払われた。
晴天になった。遮蔽物がなくなっていた。
わたしが展開していた闇なんて一瞬で蒸発してしまった。
ああああああ、これは駄目。
だめよー。
消えちゃうよー。
とけちゃうよ。
またも。
またもこれは、賢者の計算式だった。
妖怪の賢者のたぐいまれなるハッタリだった。
ちっぽけなわたしにとってはまるで致命傷なぐらいの、つまらないレベルの。
でも、
でも。
でも、
わたしはわたしでわたしを滅ぼしてしまいそうな強烈な朝日のさなか、それを見つけた。
眩しくて眩しくて、焼けただれる視界全部を覆う巨大な太陽の中央。
ほんの一部だけの、闇。
いいえ、
影――
太陽を背景に半円形の丘。そこに逆光で立つ、大きな大きな大樹が立っていて。
その、天へと伸びる枝葉のさなか。
重なりあった葉と葉の間。
一際きらきらと輝く魔法のような珠。
木の実。
太陽を凝縮したような、光の結晶だ。
……アレだ。
わたしが追ってき、た星のかけら。
本能でなく、自分の意志でもう一度、闇を全力全開。
自分の姿を闇で包む。
近づいていくために。
それはとんでもない神様へのほんのちょっとだけの抵抗だ。
太陽の熱でじりじり炙られながら。
視界も悪いのでふらふらしながら。
それでも腕だけをしっかり、ありったけの力で前に伸ばし。
つかまえる――
「冷たー」
ぎゅっと握ったその両手を、真ん丸の闇で覆って。
まるで人間が、捕まえた罪人を繋ぐ枷のように。
慌てて太陽に背を向け、地上に点在するそこらの影へと逃げ戻る。
文字通り飛んで逃げる。
全身からプスプスと煙が上がっている気がした。
気のせいであって欲しいので、しばらくは目を瞑って確かめないことにする。
それにしてもー。
自分がつかんだものは竜王の珠だったのかしら。
とっても冷たくて、とっても小さくて、なんだか持ってないような感触しかないのだけれど。
それともそれとも、お日様の光加減で輝きすぎた朝露だったのか。
こぼれ落ちなかった雨露の残り雫だったのだろうか。
このささやかな闇を解き放ち、両手を開いてみるまでは分からない。
箱に入ったまま毒ガスを吹き付けられる猫みたいに。
猫でなくてよかったなーとか思いながら、このままもって帰って、ねぐらで確かめようと考えてみる。
でも、やっぱり。
確かめたほうがいいのかしら?
確かめないほうがいいのかしら?
わたしの中のどっかにいるわたしという闇のわたしは、そうそう都合良くは答えてくれない。
そんなのは多分いないんだろうなー。
いても困るし。
☆
行きは良い良い、帰りは眩し。
明るくて遠くて、こわいこわいの帰り道。
「うらめしやー」
「うわーびっくりしたー。」
「それ嘘だよね」
「嘘だけど。怖くないけど。……それに今日はもう妖怪はかなり間に合っているの。特に傘を背負った妖怪はね。特別、かなりね」
「ちょっとちょっとなによ、その拒絶っぷり。分かってても傷つくじゃない」
「わかってるのかー」
相変わらずプンプンと起こっている唐傘お化け。一晩のうちに何処で見つけてきたのか、透明のビニール傘に大きな目玉と舌を描いているが一段と怖くない。
妖怪が朝に出てきたらだめじゃないと言おうとして、やめた。
手の中の秘密もあったし。
妖怪らしくないことをやっているのはわたしも同じだったからね。
「あんたさー、夜にまた魔法の森の辺りに出てきなさいよ。ミスティアの赤提灯に連れていってあげるから」
「なんのこと?」
「人間を怖がらせるちょっとしたコツを教えてあげるわ。八目鰻もわるくないしねー」
あー。わたしたちのお陰でこの子が大層怖くなったらどうしよう。
まーないだろうけどね。
あるかもよ?
ブツブツ言っている彼女を残して、わたしは太陽から逃げるようにさっさと寝床へ向かう。
ちょうどよく吹いてきた西風を使って。
木の影葉陰に躰を溶かしながら。
両手をしっかりと握ったまま。
あの恋しい宵闇を早くも待ちながら。
ところで。
わたしは昔々の浦島太郎のお話を知っている。
本当の浦島太郎があれこれどうなったかはしらないけれど、海から戻ってきて玉手箱を開けたのだけは変わらない。
たぶんきっと、寂しかったからね。
でも、わたしは妖怪。
寂しいってよく分からないから、玉手箱を開けない。
この手を開かないまま、闇の中に戻っていくのだ。
宝はずっとここにある。
闇を剥がす光の玉はここにある。
あるとおもえばあるのだ。
たのしくて、おもしろくてしかたない。人間には残念だったねーって悔しがらせたい。
夜が待ち遠しい。
あああああああああああああああああああああああ。
あー。
今考えてみると、今こうしてわたしがいることも、妖怪の賢者がわたしに声を掛けてきたこと自体も、兆しだったのかもしれない。
今までは決してあり得ないこと。これからはあり得ること。もしかしたらずっと前からそうだったこと。
何かが変わりつつあるのは本当のようで。
それが、わたしが変わっているのかしら?
世界が変わっているのかしら?
までは、解らないのだけれどね。
まぁ、別にどうでもいいし。
考えないし。
結局今日も、きっと今夜も、明日のその次も。
きっと人の肉の味が恋しくならないまま。
鰻の蒲焼きを肴に酒を呑むために。
だからわたしは明日も、月の光を全身で受け止めたくて、夜風を渡るんだ。
わたしだけの闇と光と充足とを持ち歩いて、散歩して。
月夜の影に笑っていて。
わたし?
わたしは宵闇を友とする、ごくありきたりの、とってもふつーな妖怪。
わたしの名前は、ルーミア。
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