■ 十六夜スタンプ 〜 Busy Librarian.            【Taiso】


「ぷー」
 パチュリーはひたすら不本意だった。むくれていた。
 埃が濛々と舞う図書館。
 あちこちぶち抜かれた壁、ドミノ倒しになった本棚、投げ出された無数の本。
 眼前には紅い瞳を爛々と輝かせた獣人がいて、興奮に半ば我を忘れている。
 アーチ型の窓の向こうには鬱陶しいぐらい巨大な満月が笑っていて。
 上空には見物を決め込んだ魔理沙とアリスがお茶を飲みながら浮かんでいて。
 笑っていて。
 その月光に照らされた自分の出で立ちはといえば、幻想郷外から流れ着いた体操服を着て、両手両足をむき出しにして。頭にはぎゅっと鉢巻を巻いて。膝小僧には絆創膏まで貼りつけて。あちこち筋肉痛で。あれこれてんやわんやで。
「これで最後だ、七曜の魔女め!」
「こなくていいわよ別に。今日の分の運動は間に合っているの。随分とね」
 半ば自棄っぱちに呟きながら、両手にスペルカードを構える。
 どうしてこうなったのだろうと自問しながら。
 でも、何故か悪い気はしない。
 逆に気分は爽快だった。
 何故なら、これで終わりだから。
 いつものように十六夜咲夜を呼び出して、この混迷の状態を終わらせることが出来るから。

 ――彼女の首から掛かったスタンプカードの空欄もいまや、残り一つだけである。 
 
      ☆

 湖の畔に、満月の夜になるとちょっとだけ大きくなるという噂の、あくまで噂の、紅い屋敷がある。
 その名も高き紅魔館。
 東の最果てに浮かぶ神州の、さらに東の山奥にある幻想郷に於いて、突出して西洋の影響下にある建築物である。一人の吸血鬼を主と仰ぎ、沢山のメイド達が日夜働いている。ここ最近は各地に観光名所が乱立してきた観もある幻想郷でも、いまだにその絶大な存在感を示してやまない悪魔の城だ。
 鞭を持った屈強な戦士に攻め込まれないのが不思議とも言える。
 さて。
 館の地下奥深くにはこれまた有名な、無限とも思える蔵書を備える広大な図書館がある。
 最近では盗掘者たちに侵入され放題の、この文化遺産。 
 そこには今日も今日とて三人の魔法使いが集い、それぞれに暇を持て余していた。

「暇なんか持て余していないわよ。私はね」
 安楽椅子に体育座りをして本のページをめくっていた少女が不機嫌そうに顔を上げた。
 パチュリー・ノーレッジ。
 この図書館の所有者にして生粋の魔女である。
「暇人みたいな言い様は確かにお断りだわ。ただ、なんだかむず痒くて落ち着かない夜よね。中途半端なお月様のせいかしら」
 赤いカチューシャの人形師アリス・マーガトロイドは、不機嫌そうにティーカップを口に運んだ。卓子の上で足を投げ出した小さな少女人形が、アリスの動作を模倣して作り物のティーカップを口に運ぶ。
 中天に忽然と浮かぶ古びた窓の向こうには、ほぼ真ん丸の月が浮かんでいる。その月光を浴びながら、パチュリーの瞳が逆三角っぽく尖る。
「ならさっさと帰れば良いじゃない」
「帰る? こんな夜に家に帰ったところで、まともな人形の一つも出来はしないわ」
「だから私のところに来て嫌がらせをしているのかしら。まったく、この屋敷の猫いらずは千年たっても上手く機能しないのね、きっと」
「あんただってこの夜が気に入らないんでしょう? さっきから魔法の本が蛾みたいに飛び回っているわよ」
「私の本は蛾というよりは罪深き嫦娥だけどね。貴女のご自慢は人形食?」
「面食いは人間だけで十分よ」
「……人間は食べてもそれなりに旨くないけどな」
 新たな声がその場に流れる。
 それは足。
 椅子を傾け、両足を机上に載せただらしない格好で、少女達の繰言を聞いていた、
 三人目の魔法使い。
 黒ずくめの衣装に白いエプロン。
 紅魔館以上に幻想郷で勇名を馳せる少女。勿論、悪い意味で。
 顔に被せていたとんがり帽子を被りなおす。
「アリスも何かと月のせいにするのは止めた方がいいな。彼処に住んでるちっぽけな奴らもいい迷惑だろうから。特に頭の悪そうな兎たちとか」
「なによ魔理沙、こてんぱんにのされた上に魔法を食べられたんでしょう?」
「私が出すものは何だって誰にだって旨いぜ」
「下品な誤解を招く発言はやめたほうがいいわよ」
 アリスの非難も何処吹く風、よっこらせとオヤジくさい掛け声に力を籠めて躰を起こすと、霧雨魔理沙は不敵に笑った。
「まあ滅多なことでは馳走しないけどな。食べ歩きの方が楽しいし」
「全然カッコよくないわよ。それにこうやって博麗神社の食糧危機は続くのね」
「どうでもいいから早く帰ってよ」
 なんだかんだと云いながらお茶を楽しむアリスと魔理沙を、ジト目で睨みつつ嘆息するパチュリーだった。最近ようやく静かな環境が帰ってきたというのに、何故こいつらは当たり前のように侵入しているのだろう。一年ぐらい言葉を発せずに暮らしたいぐらいの慨嘆である。
 ――そう。
 レミリアが企図した月探検旅行の発端からこちら、静寂を旨とするこの大図書館は常に喧騒と共にあった。パチュリー自身が留守にすることこそほぼなかったものの、情報の収集に始まって、宇宙船建造、完成披露パーティ、博麗の巫女によるロケット打ち上げ。その後も竹林の賢者の使いが本を借りに来たり、帰ってきた館の主が今度は海を望んだせいで、ここは急造のプールにまで変貌した。さすがに海の家はさっさと撤去して貰ったけれど。
 あの事件の裏では、悪名高い妖怪の賢者と月の眷属が勝ったの負けたのと策謀合戦をやっていたらしいが、幻想郷の大部分の住人と同様、パチュリーにとっては至極どうでもよい話だった。
 そういえばと魔理沙が、妙にスカスカな感じで空間の広がった図書館の一部分を指していった。
「新聞にまで報道された『幻想の海』とやらは何処へ行ったんだ? アレはあれで面白かったのに。冬場だったのは残念だったけれどな。床を刳り抜くのも大変だったろうが、さっさと埋め戻したのか。勿体無い」
「…………………」
 パチュリーは魔理沙の言葉に刺を感じて一層不機嫌になりつつも、指をぱちんと鳴らして答えた。
 すると、ゴゴゴゴゴという地響きと共に床がスライドし、広間の真ん中に有名な写真通りのお手軽人工海が出現する。
「おおすごいな、秘密基地みたいだ」
「魔理沙は発想が年少の男の子ね……」
「おおよそ間違いではないわよ。本で読んだ、外の世界の国際救助隊基地をモデルにしたから」
「プールの下には銀色の一号機が隠れているんだな」
「もうロケットは造らないけれどね。大気圏に再突入できる完全再利用型の奴じゃないと」
 魔法少女が泳ぎたいと言い出す前に再度指を打ち鳴らし、さっさと床を復元する。
 実は、妖怪の山の方からエネルギーバイパスを精霊魔法で引っ張って、年中無休で恒温機能付きの温水プールに改造しておいたからだ。むろん妖怪の山の住人たちには無断で、大多数の人間や妖怪には秘密で。冬季に温泉がわりと延々入り浸られてはたまったものではない。
 それに、周囲にあるのは魔法の本ばかりとはいえ、紙に湿気は大敵である。パチュリー自身もまた、水泳を始めとする運動全般とは無縁でありたかったし。その割には思いついたメンテナンスに手を抜かないのが彼女の魔女たる所以かもしれないが。
「まあそれなりに面白い見世物だったけど、お茶のおかわりはまだかしらね」
 アリスがティーカップを傾けて催促する。と同時に、無数にある扉の一つが開いた。この館、外に向かって開く窓は極端に少ないのに、中を仕切る扉は異常に多いのである。
 現れたのはティーセット一式を準備したメイド。
 魔女たちには馴染みの顔である。
「お茶のお代わりの気配がしたので来ましたわ」
 パチュリーが不機嫌そうな顔で、メイドを睨み付ける。
「頼んでない。私が欲しいのは、保証期間が千年ある猫イラズ」
「今準備中ですから、お茶でも飲んでしばらくお待ちくださいな」
「何杯お代わりすればいいのかしらね」
 皮肉られても涼しい顔の女性の名前は、十六夜咲夜という。紅魔館に住む唯一の人間にして、紅魔館の妖精メイド達を取りまとめる存在でもある。満月の夜に寄り添うようなその名は紅魔館に来てからのものらしいが、どうやら彼女は気に入っているらしい。
 アリスは堂々とティーカップを差し出しながら、不安気に眉をひそめる。
「あんた、こんな気持ち悪い月夜に私達の相手をしていていいの? 例の我が儘お嬢様の逆鱗に触れるわよ」
「今夜は珍しく一人でお出掛けですわ。そろそろ新しい遊びを所望されていらっしゃるみたいだから。お嬢様の望みを全部叶えられたら、私は夜の女王ですわよ」
「夜のメイド女王ね。なんだかいかがわしいわ」
「あんただって夜の人形マニアの癖に」
「人形遣いです!」
「そういうことで、こんなに静かな夜だから、局地的なゲリラ血の豪雨が降らないといいとは思っているのだけれど」
「いや、そう思うなら付いていきなさいな……」
 呆れるアリスにも、メイド長は完璧に瀟洒な笑顔を返すだけ。
 十六夜咲夜の調子を狂わせるなんて誰にも無理なのかもしれない。彼女が本気でことに当たる姿をもう長く誰も見ていないのではないかと、パチュリーなどは訝るのだった。
 一方の霧雨魔理沙は、海の消えた図書館のフロア辺りから高い天井までを延々と眺めて続けている。この少女から笑顔が消えるなどとはほぼ皆無だが、特に今のようなニヤニヤ笑いは低レベルな悪巧みを巡らせている時によく出るもので、俄然周囲の人々を警戒させずにはいられない罪作りな顔だった。
「しかしなんだな、この図書館ではもうなんでも出来るな。羨ましい限りだぜ。山の上の巫女が欲しがってた巨大ロボだっけ、あれもここなら建造できそうだ。」
「そんなもん私が先に作ってしまうわよ」
「しってる、失敗して大爆発したんだよな」
「うるさいわね」
 地下でドリル付きの巨大メカを既に秘密裏に建造中だ、などという追従をパチュリーは口に出さない。面倒なことになるに決まっている。
「……あんたたちもいい加減にしてほしいんだけれど。ここは私の図書館であってそれ以上でもそれ以下でもないわ。レミィに頼まれたからロケットは作ったけれど、もうああいう騒ぎはお断りよ。二度とね」
「そうかなあ。それこそお嬢様に頼まれたらまた何かを始めるんじゃないのか?」
「断りはしないけど、理は別よ。今度はひっそりと、誰にも見つからずにやるわ。専用の別館でも作ってね」
「それもそれで結局は図書館になっちまうんだろう? 同じことだぜ」
 パチュリーの表情は拒絶と同義だ。
 今までそうであったように、これからも未来永劫、ここは図書館でなければならないのだ。
 誰よりもまず私のために。
 私だけのために。
 最近誤解されているが、ここは公共の場所ではないし、有名な観光地でもない。
 そのためには――まず目の前の招かれざる訪問者たちを駆逐しなければならないだろう。
「咲夜、そろそろお客様にお暇願ってくれるかしら?」
「まだお茶のお替りが残っていますわ。ほらパチュリー様も」
「ああ、ありがとう……ではなくて! 妖怪どころか人間やら妖精が普通に侵入できるから、こうやって妙に利用されてしまうのよ。この二人をさっさと追っ払いなさいな」
「おいおい物騒だな」
「仮にもお客に向かってねぇ」
「お客じゃないっていってるでしょ」
 語尾の端に若干の荒さが混じるパチュリーに、アリスが重ねて指摘する。
「でも、己の知識が人の意図に正確な回答をもたらすというのは、嬉しくない訳じゃないわよね? それ自体が学究の徒として正しい道だし、新たな謎をも示すわけだから」
「う」
 パチュリーは咄嗟の返答に窮した。
 先程の魔理沙の指摘もある程度は正しいのだ。ここには無尽蔵の知識もあり、それを活かす自分の頭脳もある。仮に河童の技術と生産力を導入すれば、オートメーション化した一大工場すら導入可能だろう。目の前のボンクラ魔女たちではなく、真摯に学問を志す人妖を広く招けば、ここに幻想郷随一の象牙の塔を設立するのだって不可能ではない。
 紅魔館に霊夢と魔理沙が攻撃してきた紅月と紅霧の夜以降、確かに他者と交わる機会は増え、思索の幅は広がった。ロケット建造中も充実していなかったわけではない。無事に打ち上げられ伽藍洞になったここになんとなく感慨を覚えたのも否定しない。
 だけど、だけど。
 頑として反論したい。
 物事をあんまりにも前向きに受け止めてしまうと、ではこれまで積み重ねた私の百年はなんだったのかと思いたくもなる。私には私の、魔女としての在り方があるのだ。ズケズケと踏み込まれて呆気無く変えられてしまうようなものではなく、この揺ぎ無い図書館のような、静寂と沈黙と真理を纏った姿。
 それが本来の自分なのだ。
 それで正しいのだ。
 知識を至上とするパチュリーにとっては珍しい、感情優先の結論であった。
「まあ、とにかく。どう文言を捻ろうとも、私がそう認識する限りあんたらが侵入者であるのは間違いないのだから、さっさと退散した方がいいわよ。最近はなんだか喘息の調子もいいから、何やったって負ける気がしないのだから」
「それはそれは、なかなか怖いな」
「二対一でも十分なやる気ね」
「何故ハンデ戦が前提なのか分からないけれど、私は本気よ。このサボタージュメイドが働けばそんな必要はないのだけれど」
 ところが。
 痛烈に皮肉られた咲夜はといえば、先程までの遣り取りを聞いたあと、小首を傾げて少し考え、
「……だったら、可能性を潰せばいいのではないですか? 逆転の発想ですよ」
 更に妙なことを言い始めた。
「は? 可能性? 何のことかしら」
「そうです。いいですか、」
 メイド長は司会のお姉さん風に、人差し指を立てて諭すように喋り始める。
「パチュリー様の図書館にはそれこそ値千金の価値がありますので、これからも他者に狙われることが多々あるでしょう。我々も防衛しますが何しろ力不足で侵入を許すことがあるかもしれません。ですから、思いつく限りの可能性をピックアップした上で、それをパチュリー様ご自身が先回りして実際にやっておけばいいのです。そうすれば今後誰が策謀しようと、『やってみたけれどやっぱりここは図書館だから』と反論できるのではありませんか?」
「へえ。そいつはちょっと面白そうだな」
 魔理沙が躰を乗り出している。アリスもさっきよりは気怠さが和らぐ表情だ。
 このメイドは何を言い出すのか。
 パチュリーは少しだけ本気で慌てた。
「そんなの、際限がないじゃない。だいたい苦労するのは私だけだし、ここは天地がひっくり返っても図書館なのだから、わざわざ証明する必要はないわ」
「ならば期間と回数を決めればよいのです。誰しもが思いつきやすい事例だけでも潰しておけば後々きっと為になりますわ。タイムキーパーは私がやりますし。なにしろ時計は嘘はつきませんので」
「お前にだけは言われたくない台詞だな、それは」
「失礼ね。私の時計は誰よりも正確よ。私にとってのみだけど」
「そりゃそうだ」
「実験をして誤った可能性を減らすというのは十分に客観的で科学的ですわ、パチュリー様。それに広大な図書館全体を創り変える必要はありませんしね。勿論、私が言い出したことですから、仕事の合間を見計らってお手伝いしますし」
 むぅ、とパチュリーは唸った。
 発想は間違がってはいない気もする。するけど、とっても詐欺臭いのは何故だろう。
「……普段何も口出ししない咲夜がこんなに積極的なのは不気味ね」
「お嬢様が居らっしゃらない時ぐらい別のことを考えるのも悪くないかと。屋敷の仕事もやけに捗りましたし」
「そのわりに猫イラズは効いてないけどね」
「そもそも本来は美鈴の仕事ですわ」
「優雅な責任逃れね」
「いいから話を進めろよ。どうやって行程の管理をするんだ?」
 興味津々な魔理沙とアリスが催促までし始めるので、パチュリーは黙って咲夜を促した。適当にせよ、話を進ませないことには帰りそうにない。
 十六夜咲夜は、ポケットから一枚の白い厚紙を取り出した
 ――と思ったら、妙な違和感と共に白紙は即席のカードになっている。名前を書く欄と長方形の桝目がきっちり描かれ、右肩には紐が通されて輪になっている。
「……なにこれ」
 パチュリーとアリスは頭の上にはてなマークを浮かべたが、魔理沙は自慢げに説明した。
「私は知っているぜ。これ外の世界の健康器具だろ。夏になると子供たちが早朝から、音楽に合わせて体操をさせられて、判子を回収させる強制労働があるって香霖がいってたからな」
「非人道的ね」
「人間の考えることはおおよそ分からんよな」
「あんたも人間だけどね」
「白黒と金髪、漫才なら然るべきところでやるべきよ」
「まあでも大体そういう事ですわ。アイデアをひとつ完了する毎に、私が判子を押させていただきます。この二十五の桝目が全部埋まったら終了ということで、それ以降は何も申しませんわ」
「結構あるわね」
「パチュリー様と無尽蔵の知識ならすぐでしょうに。あまり少なすぎても興が乗らないでしょう?」
「……それは、そうだけど」
 幻想郷に於いて相対的に判断する際、この紫髪の魔女は周辺の者たちに比してやや真面目な傾向があった。それが付け入る隙を与えているのかもしれないけれど。今もまた、咲夜から受け取った即席のスタンプカードを言われるままに首から提げている。
 勿論、パチュリーは納得しているわけではない。正直、全然気乗りしない。
 だが……一刻も早くあの懐かしい静謐さを取り戻すには早道にも思えた。
 急がば回れという言葉もある。
 欠落した知識を回収することにもなるかもしれない。
 試してみるだけなら。
 面倒くさくなったら反故にすればいい――
 多様な言い訳が心の水面に浮かんでは消え、最後には頭上と同じく曖昧な色をした決心という三日月がぽっかりと浮かんだ。
「はぁ。……あれ、まだいたのあんたたち。さっさとお帰りなさいな。これからそれなりに忙しくなるのだから」
「おいおい、実際にお前がなにを試したのか見ておかないと、重複した悪巧みをするかもしれないがいいのか? 私としても無駄に迷惑を掛けるのは本意じゃない。逆に見えない場所で変な行動を取らないよう監視しておくのも悪くないんじゃないのかな」
 したり顔で魔理沙は嘯く。アリスも同様に頷いてみせる。何度も、面白げに。
 何のことはない、パチュリーが苦労するのを見物していたいだけなのである。悪趣味極まるが、これまた一部真理が混ざっているのでたちが悪い。
 高性能に歪んだ性格である。
「………………」
「まあまあ、頭の疲労に効くケーキでもつくりますので、少々お待ちくださいな」
「あ、それはあとでいいわ咲夜。今、少し頼みたいことがあるのだけど」
 ジト目のパチュリーは、貰ったばかりのスタンプカードに『格闘技場』『ロケット射場』『第四ステージ』と書き込み、悪魔の召使いに差し出した。
「判子ちょうだい」
「………………」

      ☆

 こうしてパチュリーによる、図書館との奇妙な対話が始まった。
 最初は図書館と比較的な親和性が高いと思われる喫茶店や教室、音楽堂などを手始めに。 とはいえ、物品を並べただけでは成功したとは言い難いので。
 喫茶店の場合はきちんと客を招き、カウンターでサイフォン式のコーヒーを淹れたりする。結局飲むのは魔理沙やアリスなのだが、代金を請求するのは忘れない。なんやかやと言い訳をする場合はちんけな魔道書・魔道具の物納も許した。
 教室はといえば、自分の知っていることを伝えるだけなのでパチュリーにとっては比較的容易だったが、小悪魔やら門番やらを無理やり座らせて過疎校の学級を再現しても、ぼそぼそ声の早口で喋るのでなんのことやらよく分からない。その上、なにしろ門外不出の知識ばかり溜め込んでいるので、うっかり伝えてはいけないことを遡上に乗せてしまいそうになり慌てる場面もしばしば。ちなみに門番は居眠りを繰り返して、魔力で強化されたチョークを何度もぶつけられている。
 音楽堂は、そこらを浮遊していた騒霊たちを連れてきての鑑賞会で済ませた。聴衆は多くを語らなかったが、じっと座って楽しむべき内容だったかどうかは、疲労を浮かべた皆の表情が物語っていた。
「ああ、忙しい、忙しい」
 ノートに簡単な計画をしたため、機材や人物の準備をし、実行に移す。
 成功を収めて判子を回収すると、さっさと片付けて次の計画へ。
 例によってパチュリーが図書館を出ることはなかったものの、巨大な空間を右へ左へ、あっちこっちと走りまわっては実行する彼女は実際、誰しも驚くほどに精力的だった。
 ふわふわ長いスカートに足を取られてすっ転ぶことも多かったが。
「おいおい、ちょっとは余裕を持てよ。成功かどうかも分からないじゃないか」
「成功か失敗かを決めるのは私だからいいのよ。咲夜は基準じゃないからね。判子係なだけで」
 埋まり始めたスタンプカード。丸の中に「咲」という漢字が朱肉でもって連判してあり、考えようによっては盛春の花畑の如くである。計画が定まり進捗が形になって現われると、充実感が自ずと湧いてくる。普段は彫像のように読書を続けるパチュリーであってもそこだけは同様だった。
 目下、図書館は即席自立ての実験室である。
 パチュリーが、フラスコの輝きを目で追いながら、液体の向こうに歪んで見える魔理沙やアリスの顔を見ている。
「上手く反応しないわね。卑金属を金に変える実験は難しわ」
「それが出来れば私たちの仕事は大方終了だからなあ」
「人形遣いだって錬金には憧れるけどね。まぁ一日二日で達成は出来ないでしょうね」
 フラスコを親指と人差し指で摘んだパチュリー・ノーレッジは、至極迷惑そうな顔をして、なんだか偉そうな批評家たちに流し目を送る。フラスコの中では、光をプリズムに分解したような色の液体が、磁力線の形をなぞってゆっくり対流している。
 そもそも属性魔法を得意とするこの知識の魔女は、実験まがいの作業を苦手としている。なんといっても純粋な知識のみから真理に到達することこそ彼女の至上命題なのだ。
 実験の過程云々の以前に、集中力が散逸しているのは如何ともし難い。
 フラスコを振ってしばらく様子を見ていたが、隣でアルコールランプに掛けたままだった、コポコポと気体を発生させるビーカーを眺めている。
「……バイパスは上手く行っているようね。上方置換法は上手くいっているわ」
「火気厳禁だぜ」
「いやそれは、猿でもわかる子供の科学実験でしょうに」
「でも咲夜は判子を押す気満々みたいだけれど」
 少し離れた場所で、メイド長が自分の印鑑を丁寧に手入れしていた。
 象牙で作られた至極上等な代物だが、今回の件以外で使う機会があるのかどうか、魔法使いたちにとっては錬金術以上に謎だった。
「……ともかく、小規模な奴はだいたい消化してきたから、今度はもっとでっかく行こうぜ。何しろロケットの打ち上げをすでにやっているのだから、こんなのばっかりじゃインパクトに欠けるだろう」
「言われるまでもないわ。次は、あんたたちの掘っ立て小屋では絶対できない企画をお目にかけるのだから」
 パチュリーの鼻息は妙に荒かった。

 次の日、図書館は巨大迷路になった。
 もともと無限とも思える広さの図書館は道に迷いやすく、場所によっては魔道書に襲われるという危険地帯であるのだが。パチュリーは決められた区画内をきちんと設計し、本棚を移動させ、本を積み上げ、本棚同士のてっぺんに板を掛けてトンネルとし、それはもうエンターテイメントとして楽しめる安全快適を謳ったラビリンスを創り上げた。ハンプトンコート宮殿もかくやという様相である。
 まあ、実制作のほとんどは時空を操る咲夜の手に委ねられているが。
 クリア可能なことを実証するためにパチュリー自身が構築された迷路を歩きまわった際には、地図を持っているにも関わらず大いに迷い、難易度と娯楽性の高さを証明した。しかも例によってワンピースの裾を踏んではあられもなく転んだ。それはもう、天狗のパパラッチが大枚はたいて写真を欲しがるくらいの勢いで。
 荒い息を吐きながら這々の体でゴールに辿り着いたパチュリーに、咲夜が提案する。
「パチュリー様、パチュリー様」
「何よ、忙しいのに」
「私も忙しいですけどね。ちょっと前から思っていたのですが、作業するのにその格好は不向きじゃないですか? なんだか転倒も多いみたいですし」
「普段走ったりしないから、ほんのちょっとだけはバランスを崩したりもするけれど、別にたいしたことじゃないわ」
 パチュリーはあさっての方向を向いて強がるが、膝のあたりが裏から血で汚れているのは明白だった。
「郷に入っては郷に従えといいますし、運動をする時はそれなりの格好をするものですよ」
「あんたは動き易そうな格好をしているものね。多少は恥じらいも纏うべきだと思うけれど」
「開放的な気分が仕事のストレスを和らげることもあるのです」
 そういって咲夜は、パチュリーに運動着一式を差し出した。
 白い半袖シャツに、紫色のブルマー。お揃いの鉢巻まで付いている。
「……なにこれ」
「外の世界の少女用の体操服だそうですわ」
「いや知ってるけど」
「何でも最近、幻想郷に大量に流れ着いているそうで。古物商から安価で譲っていただいたのです。勿論新品ですよ」
「ちょっと露出が過ぎない? 図書館内は自動調節で寒くないけれど」
「とっても健康的でいいと思いますけど」
「それに、香霖堂の店主って男よね」
「男性ですけど」
「………………」
「………………」
「深く考えない方がいいのかしら」
「勿論新品未開封ですから」
「その用語に若干の邪念があるのはどうしてかしらね?」
「ちゃんと紫色ですよ? レアらしいです」
「趣味と実益……」
 パチュリーは出来ればこの先、自ら香霖堂を訪れる機会が無いことを願った。

 さて。
 めでたく仮設の巨大迷路は落成し、広く内外にお披露目された。
 パチュリーの名で招待状が発行され、紅魔館はロケット完成パーティー以来の喧騒である。来客たちは図書館に突如現れたアトラクションにもさることながら、軽装極まりない格好をしているパチュリーの爽やかさに驚愕した。なにしろ喘息で部屋から出られないのがデフォルトの少女が、半袖シャツとブルマに鉢巻である。膝小僧には腕白少年よろしく絆創膏がぺったり貼ってあった。空前絶後であった。
 ゲーム開始を前に、パチュリーが黄色いメガホンを口に当てて喋る。
「あー。いろいろあってなんだかランズボローっぽい巨大迷路が完成したわ。通り抜けられたからといって賞品が出るわけでもないけれど、図書館の深部がどうなっているかを垣間見られる貴重な機会よ。今回は特例で、もうこういうことは二度と開催しないから、せいぜい楽しんでいくといいわ。あ、迷路内で飛行や非行は禁止よ。あとは、走ると転ぶからお奨めしない」
 メガホンを構えたところでパチュリーが小声なのに変わりないので、その言葉のほとんどは届かなかったが、同時に咲夜がスターターピストルを高らかに打ち鳴らしたので問題はなかった。お客たちは次々に闇の迷路へと吸い込まれていく。
 この大騒動にもレミリアは現れていなかった。咲夜を通じて許可を出しただけだ。
 同じ館に住んでいるとはいえ毎日顔を合わせる訳ではなく、パチュリー自身も図書館に独り半年ほど篭ったりも普通にするので、特段心配な訳ではなかったけれど。
(レミィじゃ、この程度の余興だと楽しめないかもね)
 そういいつつ、次の図書館改造計画を練ろうとした所へ。
「毎度! 若干遅くなりましたが真実の究明者、清く正しく射命丸です!」
「出入り禁止。ついでに写真撮影は厳禁」
 早くもパチュリーの肢体を狙っていた天狗のレンズが不満そうに降ろされる。
 どこから入り込んだのか、幻想郷のトラブルメーカーにして『文々。新聞』の発行者、射命丸文は不満そうに言った。
「変化ほど顧客に望まれるものはありませんよ。謎の図書館に突如出現した巨大迷路。季節外れの爽やかな衣替えを敢行した図書館の主。これを記事にしないなんて手はありません」
「特定のファンというものは大概保守的なものだと思うけれどね」
「そういう輩を切り捨てることこそ部数の伸びに繋がるのです」
「炎上しないといいのだけれどね……それに知っているのよ。結局あんたの新聞は結末が決まってから書き始めるのだから。私の実験に影響をおよぼすのは許さない」
「実験! 幻想郷きっての理論派で有名なパチュリーさんが実験とは、どういう風の吹き回しでしょうか。やはりロケットの月面侵略が形の上では成功したことが大きかったのでしょうね」
「どうでもいいじゃない。個人的なことだし、幻想郷に大事を及ぼすでもなし、あんたの新聞では記事になりそうもないわよ。私が椅子に座って本を読むでは記事にならないでしょう? それと一緒」
「ここまでの騒ぎでそう言い張るあなたも凄いですが……」
「とにかくだめ。絶対。特に写真。ほら撮ろうとしない!」
「……まあ今はプライバシーの問題もありますからね。報道の自由とか私の気分とかの兼ね合いで、譲歩もしたりしなかったりしますけれど……あ、その代わりと云っては何ですが、うちの新聞の記事拡充などご協力願えませんかね?」
「なによ」
「図書館の可能性とやらを広げるお手伝いですよ。無理して躰を動かすようなことでもありませんし、時間もそれほど取らせません。魔道書を書くよりはずっと簡単なお仕事です。なんだったらお礼もしますよ? 『文々。新聞』の無料定期購読でもいいですけど」
「いや、もともと無料でしょうに」
 最近は念写を武器にした新参の天狗も活動を広げているという。口調こそ穏当なものの、彼女はかなりの押しの強さで畳み掛けてきた。がもともと活動的極まりない射命丸文に報道させないのは結構手間がかかる。その辺りは十六夜咲夜が責任をもって対処するということで手打ちにはなったけれど。
 結果的に、パチュリーは天狗の依頼をおおよそ快諾してしまっていた。
 どうしてだろう。
 自分でも不思議に思うくらい、今なら大体のことはこなせてしまいそうな気もしていたのだ。

 なお、肝心の大迷路であるが。
 パチュリーが精魂込めて建設しただけのことはあり、招待客たちの評判もおおむね上々だった。
 ただし、無理やり時空を歪めて急造した部分と、紅魔館やその主が本来持つ魔力が干渉し合い、一部で無限回廊が発生してしまったらしく。参加した妖精が行方不明になったり、出られなくなりそうになった妖怪や人間が魔法で穴をぶち開けたりが多発。その他、鼠によって本を囓られる被害、お化け屋敷化を企む者の潜伏、貴重な本の盗難未遂、順路をすり抜けてそもそもルールに従わない亡霊等々、多種多様な問題が頻発した結果、一日限りであえなく閉鎖の憂き目と相成った。
「暗くて狭い場所だと、誰しも悪いことを考え始めるものよ」
とは、今日に限って常識を語る神社の巫女の弁である。

      ☆

 その後もスタンプカードは順調に埋まっていった。
 迷路の件で反省したのか、衆目に晒す大規模な実験こそ控えるようになったものの、パチュリーの努力によって図書館にはこれまでにない脚光を浴びせられていった。
 舞台。
 大浴場。
 キッチン。
 遊歩道。
 神社の分社、等々。
 実験に伴う問題は散発的に発生したが、巫女が解決したり、妖怪の賢者が問題視しなければならないほどの事件に至ることもなく。まるで子供の粘土細工みたいに現れては消えていった。
 一方で、射命丸文に頼まれた『文々。新聞』の連載記事も掲載中だった。
 図書館の一角にフォトスタジオを作り、フィーチャーした図書館の本を撮影し、その概説をパチュリーが執筆するというもので、もうニ週間以上毎日書いている。当該の新聞は
最近、里でも一定数の読者を持つ有名紙であるので、あまりに理解不能で悪影響な本を紹介しても仕方がないし、他方で毒にも薬にもならないものを取り上げたのでは図書館の主としての沽券に関わる。それこそ無限にある蔵書の中から何を取り上げるか、紫の魔女は毎日頭を痛めつつ依頼に取り組んでいた。
 その結果であろうか。
 やがてパチュリーの記事はそれなりに好評となり、里の文化人たちからは実際に本を読んでみたいという希望すら挙がることになった。
「貸すだけなら特に問題ないけどね。誰かさんみたいに無期限を要求されたらちょっと困るけれど」
「人聞きが悪いぜ。無期といえば二十年ぐらいで出てこれるもんだよ」
「あんたの詭弁は結界を超越してる気配がするわ……」
「アリスだって他人の人形を集めたりしてるじゃないか」
「孤独な人形は本と違って他者の毒素を吸収し害悪を成すからね。慈善事業よ」
「漫才なら図書館以外でやりなさいな」
 これ言うの何度目だろう。すごく不毛な気がする。
 ともかく。
 天狗から伝わった要望を考慮した結果、パチュリーは一部の蔵書を開放することにした。
 勿論これも咲夜の確認印を得るための実験のひとつ。
 移動図書館である。
 本の運搬は、このところ頻繁に里に通っているらしい、迷いの竹林に住まう妖怪宇宙兎にお願いすることにした。竹林に住む賢者には以前にも本を貸しているので、その代償という訳である。渡りは幻想郷最速を自称する天狗があっという間に付けてしまった。
「……なんで私がこんなことを」
 大幅に遠回りさせられた鈴仙・優曇華院・イナバはボヤきつつ、手提げ袋に詰まった本をパチュリーから受け取って里へ向う。貸出管理と薬売りの仕事を並行してやる上、帰り道には本を返却するために紅魔館へ立ち寄らなければならない。仕事の苦労は倍以上だろうが、彼女にとって師匠の言葉は絶対だった。まるで二宮金次郎が如き前傾姿勢で大量の荷物を運ぶ彼女は苦行者のようだった。
 ちなみにその周囲をもう一人の小柄な兎がトコトコ歩き回っていたが、手伝う気配は皆無だったという。

 そんなこんなで。
 予想を遥かに上回るペースでパチュリーは働いていた。
 彼女が首から提げたスタンプカードはそろそろ最終段階に入ろうとしている。
 驚くべきことに、期間中彼女は一度も体調を崩すこと無く、喘息の発作にも見舞われていなかった。計画遂行のために朝起きて夜に数時間眠るという、規則正しい生活を送っていたことや、図書館内だけどはいえあちこち動いて躰を動かしたこと、図書館を変貌させる際に掃除を行って降り積もった塵を除去してきたことなどが好影響だったのかもしれない。
 彼女自身は忙しさにかまけて気づきもしなかったが、その運動能力はここ数十年で最大値にまで高まっていた。ただし、それはあくまでも当人比によるもので、普通の健康な人とはまだまだ雲泥の差ではあったし、あちこちの筋肉痛に常時悩まされ、相変わらずなんにもないところで転んだりもしたが。
 最初は遠慮がちだった体操服姿も今では板についてしまい、咲夜が用意した同様の着替えも数着に及んでいた。絆創膏は膝小僧だけでなく、肘やらおでこやらにも付いていた。
 結局、何が彼女をそうさせていたのだろう。
 実はパチュリー自身も良くわかっていなかったのかもしれない。
 誰にも邪魔されぬ平穏な暮らしを取り戻したかったのは言うまでもないが――作業に没頭することから、本から全き真理を得る過程にも似た快楽をも得ていたとすれば。
 きっと寄せては返す如き、長い歴史の波動の揺り戻し。
 普段は動かない大図書館が躍動する。
 それはつまり、次の大いなる静止への準備段階に他ならない。
 短い熱狂の季節は、終息を迎えようとしていた。

      ☆

 はじめと同じ、静かな夜。
 闇に忽然と浮かんだアーチ型の窓の向こうには、レモン色の満月が浮かんでる。
 パチュリーは机に向かい、今夜も『文々。新聞』の原稿に取り組んでいた。幻想郷最速を誇る天狗は、原稿の催促もまた幻想郷最速だった。
「時間を守って文章を書くってことが、こんなにきついものだとは思わなかったわ……」
 原版を印刷に出す締切りはどう設定されているのか、パチュリーは甚だ不満で疑問だったが、兎にも角にもまずは桝目を埋めなければならない。
 隣のテーブルでは、霧雨魔理沙とアリス・マーガトロイドが、パチュリーによる挑戦の日々を勝手に論評していた。
「……しかし、『シューティングキャラバン』は傑作だったな。二分間限定で弾幕ごっこをやって撃破数を競うって奴。ああいう企画なら大歓迎だぜ」
「撃破される的を作るのが面倒そうだったわね。それも誰かさんがレーザーで貫通攻撃なんて、空気の読まない攻略方法を編み出すし」
「いつもながら全力を尽くすのが私の流儀だぜ」
「ゲームに於いては規定されたルールを守るのが筋というものよ。そもそも大迷路の時に壁を最初にぶち破ったのは魔理沙でしょうに」
「あれは誰かとたまたま弾幕ごっこになったからな。中でスペルカード対決をやってはいけないというルールはなかったし」
「恣意的で計画的な犯罪臭を感じるわ」
「そういうアリスだって、『ケーキバイキング』の時は意地汚く食い漁って。ブン屋が取材禁止でなければ、今頃あのみっともない顔が幻想郷中に配られて賞金首みたいに貼り出されるところだぜ」
「あれは……意外に美味しかったから仕方ないでしょう! 他の奴に食べられたくなかったんだから。そういうことってあるじゃないの」
「生き馬の目を抜く騒ぎだったからなぁ」
「もうあんな騒乱はごめんだけどね。レシピは書き留めたし」
「お前、自分の料理の腕を高評価しすぎじゃないか」
「うるさいわね」
「まあでもなんだ、これで終わりだったっけ? パチュリー、スタンプカードを見せてくれよ」
 パチュリーは答えない。気づかない。
 ただ、羽根ペンを原稿用紙に滑らせていくだけ。
「……すごい集中力だな」
「いや、私たちも自室で魔法に関わる時はそうでしょうに」
「そういう自分を観察することなんてないからな」
「今の彼女にスタンプカードを見せろなんて、龍の頚の玉をとってこいと願うのに似ているわ。首から提げてるからまさにそんな感じ」
「龍の頸の玉って、あの性悪な姫様がいやらしい貴族に課した五つの難題の一つか」
「そうそう。龍の頚の玉がある位置は、逆鱗という龍の泣き所と同一なのよ。龍を激怒させて人間が生きて帰れるわけ無いじゃない。そんなものをとってこいというのはつまり、死ねというに等しいわ。人間じゃあるまいし、自殺なんて趣味は無いもの」
「あの我が儘お嬢さんはなんでそんなモノを欲しがったのかしらね」
「……欲しがったわけじゃないでしょ。自分の愛を賭して龍を求め船出した皇子様はともかく、多分、姫様にとってはどうでもいいものだったのよ。単なる嫌がらせね」
 それまで傍らで控えていた十六夜咲夜が、パチュリーを見遣りながら言った。
「でも、龍にとってはそれは致命的なものだった、と」
「そうね。少なくとも、パチュリー様にとってどうでもいいものではないといいのだけれどね」
「まあ発案者としてはそう願うしか無いだろうな」
 魔理沙の悪い笑みにも、咲夜は澄まして答える。
「少なくとも紅魔館の住人ならば、黒い盗人よりは確信を持って言えますわ」
「ああ、そうそう。紅魔館の住人といえば、地下の問題児はともかくとして、この馬鹿騒ぎに長々と出てこないお嬢様は」
 アリスが疑問を呈しようとした、その瞬間。

 ドドーン!

 地下にあるはずの図書館の壁が外からぶち抜かれた。
 飛び散る本。
 ゆっくりと将棋倒しを始める本棚。
 白く濛々と舞う煙。
「な、な、なによ突然、一体!」
 衝撃で机から投げ出されたパチュリーが、周囲をおっかなびっくり見回している。
 かさぶただった膝小僧の傷が再び出血していたりする。
 先程まで茶席を囲んでいた三人は上空に退避していた。
 魔理沙が闖入者に最初に気付き、ニヤリと笑った。
「これが最後の判子になるのかな?」
「どうかしらね。パチュリー様が仕込んだものとは思えないけれど」
 紫の魔女は、若干埃を吸ってしまい咳を繰り返したあとで、涙をこぼしつつ、静寂を壊した犯人へと詰問を飛ばした。
「誰なの?」 
「問われれば名乗りもするが、今夜は満月なればその是非もなし……貴女の研究もよし。貴女の実験もよし。魔女には魔女の、人には人の道があるだろう。この世なればそれが交錯することも多々ある――だが、世の中には、その者によって知らぬままでいいこともあるのもまた事実だろう。知識と日陰の少女よ」
 異形の人影。
 朗々とした声。
 濛々と上がる土埃の中、パチュリーは満月を仰いで振り返る。
 月光を受け、床に転がって広がる反物の如く、
 薄く薄く世界に広がる雲を背景に、
 凛とした少女が長い髪をなびかせる。緑に染まった髪が炎の如く逆巻く。
 爛々とした瞳に巨大な二本の角。
 鬼の如き形相。
「…………あんた、だれよ」
 パチュリーが誰何する。
 ちゃっかり自分のティーセットを守ったままのアリスから、驚きの声が降りてきた。
「あら。なんだか懐かしい光景ね」
「パチュリー、そいつは里の高名な歴史の先生だぜ。ちょっとばかし人間の部分が減ってるみたいだが、満月の時はいつものことだ」
「減ってない! ちょっと隠れているだけだ」
 獣化した上白沢慧音が興奮しながら否定する。
 荒い吐息はまるで変質者のようとも思ったが、仮にも文化人ならばそれを言うのは失礼だとパチュリーは自重した。
「尊敬を集める先生だったら、夜分遅くの訪問にも礼儀があるでしょうに」
「満月の夜は仕事を手早く片付けると決めているので多少の無礼は目を瞑ってもらおう」
「で?」
「里に外界の知識を流失させるのを止めに来た。知識は大いに共有されうべき物ではあるけれど、それが独り歩きする可能性を無視する訳にはいかない」
「……歴史の先生じゃなくて歴史修正主義者の間違いじゃないの? 誰が何を見てどう考えるかは不可侵の思惟に委ねるものよ」
「外界から隔絶された幻想郷は変化それ自体を自覚していない。さまざまな安全装置で妖怪から守られた人間は特にそうだ。急な刺激は何事にも失敗を伴う可能性がある」
「何の失敗? 誰の失敗? だいたい想像は付くけどね。観客席の方々のご意見は?」
「悔しいが図書館側に一票だな」と魔理沙。
「議論の余地無く魔女が正しいわね」とアリス。
 咲夜は答えるまでもないだろう。
 慧音の呼吸が更に荒くなってきた。
「いいだろう、不吉な人間と魔女たちよ。歴史の緩やかな侵略から里を守るのもまた私の仕事だ。さっさと終わらせて新たな歴史編纂を続けなければならない」
「そうね、『歴史は夜に作られる』というのには同意してあげるわ」
「覚悟!」
 妖獣は一直線に突っ込んできた。
 パチュリーがひらりと躱す。
 勢い余った慧音は頭から書架に飛び込み、ぶち抜いてしまう。再び飛散する本の数々。
「ちょっと、この先生はなんでこんなに野蛮なの!」
「寺子屋で悪い子にお仕置きする時は頭突きをするらしいぜ。過度の体罰は誤った因習だと私も思うがな」
 魔理沙の暢気な声がいまいましいが、文句は後だ。
 周囲に落ちていたものを突撃者に向かって投じる。
「お、あれはおタマに包丁じゃないか。物理攻撃で反撃だな」
「キッチンを作った時に片付け忘れたものだわ」
「パチュリー様、刃物を投げるのは感心しませんね」
「あんたが言うな」
「あんたが言うな」
 左右から倒れてくる本棚をくぐり抜けて大広間へ出ると、脚力では段違いの慧音が既に回り込んでいる。両者を遮るものがなにもない、危険な空間だ。
 パチュリーは即座に指を鳴らした。
 と、いきなり床がなくなり、幻想の海が再び現れる。
 最深部でも三メートルぐらいの深さではあったが、まったく予期していなかった慧音は足場を失い、冷たい水の中で一瞬溺れかけた。今日は冷水が張ってあったらしい。
「こにょにょ、ひきょうにゃぞまじょめ!」
「鬼さんこちら、よ」
 パチュリーは再び林立する本棚の間に飛び込んでいく。背には『順路』と書いた張り紙がある。
「まだるっこしいわね。角には闘牛で対抗すべきよ。ほら、なんだっけ、古の帝が流罪にされたっていう」
「後醍醐さんだな。しかしあれは牛突きであってマタドールじゃないぞ。ドリルにはドリル、角には角という理論は分からんでもないが」
「確かに、パチュリー様は牛というわけでもありませんからね」
「……どういう意味よ!」
 暗い本棚の間から抗議の声が挙がる。
「あー、あっちは解体が終わっていない大迷路の方角ね」
「マラソン大会でも一部共用したな。妖精のメイドがたくさん行方不明になった気がするけど」
「いい迷惑でしたわ」
「外部に被害を出さないのは正しい判断だったと思うけれどね」
 水面から飛び出した恐怖の歴史先生が犬のように濡れた躰を振るいながら、パチュリーの後を追っていく。狭い通路に入り込んだ瞬間、地面でたわんでいた紐がピンと張られ、彼女は壮大にすっ転んだ。魔女の卑劣な罠であった。
「でもあれ、私が仕掛けたブービートラップなんだけどな」
「あんたなんてことすんのよ!」
「手段を選んでこそ勝利が掴めるってもんだが」
「もっとまともで人道的な罠を使いなさいな」
「いや、言葉としてそれはどうなんだ」
 解説者たちの勝手な解釈とは裏腹に、勝負は一定方向へ推移しつつあった。
 へとへとになりながらも地の利を生かし、最小の運動量で相手を翻弄するパチュリーに対し、あくまでも突撃を旨とする慧音は無駄に誘導されて疲労しつつあった。魔女側には、これまでに図書館で培ったさまざまな実験の蓄積もあった。
 ただそれが却って図書館自体の被害を大きくしていることは否めなかったが。
 ともあれ、元来の体力では雲泥の差である二人。
 戦闘が始まった場所へと帰ってくる二人。
 パチュリーが有利とはいえ、勝負を決するべきタイミングが近づいていた。
「ぷー」
 彼女はひたすら不本意だった。むくれていた。
 埃が濛々と舞う図書館。
 あちこちぶち抜かれた壁、ドミノ倒しになった本棚、投げ出された無数の本。
 眼前には紅い瞳を爛々と輝かせた獣人がいて、興奮に半ば我を忘れている。
 アーチ型の窓の向こうには鬱陶しいぐらい巨大な満月が笑っていて。
 上空には見物を決め込んだ魔理沙とアリスがお茶を飲みながら浮かんでいて。
 笑っていて。
 その月光に照らされた自分の出で立ちはといえば、幻想郷外から流れ着いた体操服を着て、両手両足をむき出しにして。頭にはぎゅっと鉢巻を巻いて。膝小僧には絆創膏まで貼りつけて。あちこち筋肉痛で。あれこれてんやわんやで。
 向こうに陣取った上白沢慧音が、最後の怒声を挙げる。
「これで最後だ、七曜の魔女め!」
「こなくていいわよ別に。今日の分の運動は間に合っているの。随分とね」
 半ば自棄っぱちに呟きながら、
 両手にスペルカードを構える。
 構えたところで、
 ――目の前に天井からぶら下がった一本の紐を見つけた。
 まるで天界から降りてきた蜘蛛の糸のように。
 魔女はなんの感慨もなく、それをくいっと引いた。
 呼応して。
 どこからともなく落ちてきた小規模の真鍮製たらいが、慧音の二本の角を上手くスルーして、その脳天に直撃する。
「……オチが付いたな」
「『コントショー』ってやったっけ?」
「実現せぬ可能性を追求するのが、真の探求者というものです。パチュリー様は立派な御方ですわ。見習わなければ」
 目を回してぶっ倒れた慧音が完全に沈黙した後。パチュリーは惨憺たる有様の周囲をゆっくりと見渡し、書きかけの原稿が破れているのを目にし、天の満月を仰ぎ。
 それからスタンプカードの最後の空欄にさらさらと文字を書き入れ、小さな手をちょいちょいと振って無言のまま咲夜に判子を求めた。
 夜のメイド長が汚れた台紙をまじまじと眺めると、こう書き殴ってある。
 曰く――『廃墟』、と。

       ☆

 紆余曲折あって。
 ようやく図書館に静寂が戻ってきた。
『文々。新聞』の連載は程なく終了した。射命丸文は連載の維持を勧めたが、この天狗自身からして、パチュリーの試みが終わったのを契機に興味を失い始めているのは明白だった。パチュリーとしても若干の潮時を感じていた。ただ、類似の仕事があれば考慮の余地があると思ってもいた。
 移動図書館の件は、冷静さを取り戻した慧音と話し合った結果、里の文化人の代表たる稗田家を介在した小規模な展示会を開催するということになった。しかし、何者かに検閲された情報それ自体が魅力をスポイルしてまうのは何処の世界も同じことで。最初の企画意図が人々に供されるかどうかは謎である。
 パチュリーのスタンプカードも無事に全部埋まった。
 咲夜は感慨を浮かべるでもなく、
「お疲れ様でした」
 ただ、鉄面皮のように変わらない完璧な微笑の向こうの、瞳の表情が若干憐れみに歪んでいる気もして、少しだけ引っかかっていたのだけど。
 とにかく、終わったのだ。
 何もかも。
 一気にやる気を無くす。バイタリティは嘘のように消え去った。残ったのはいつも以上に散らかった、廃屋同然の図書館の有様だけ。
「もうこれで十年はなにもしなくていいわね」
 座り込んでいつものように本を読み始めるパチュリー。
 図書館を弄る際に予期せず発掘された稀覯本、数十年ぶりに再会した愛読書などなど、活動期間は我慢していた本も山ほどある。これからは小悪魔にでも延々と給仕をさせて、紅茶の芳香を燻らせながら、一年でもニ年でもゆっくり頁を捲って暮らそう。もう魔理沙もアリスもいない。外敵は咲夜が責任をもって撃退してくれる約束である。
 静寂と安逸のみを、ただただ強く決心する。
 と。
 図書館の壁の一角の、滅多に開かない黄色のドアが内向きに開いて、中から見知った少女が現れた。
「こんばんわ、パチェ。なんだか久しぶりね」
「ああ、レミィ」
 紅魔館の主にして幼き大悪魔、吸血鬼のレミリア・スカーレットだ。
 不吉なことに何処で精気を充填してきたのか、元気いっぱいでご機嫌そのものの様子だった。
「最近はどうしていたの? ここのところ姿を見なかったけど」
「パチェだって図書館から出てなかったんだからお互い様でしょ」
「それは正しいけれど間違っているわ。私はこの頃、」
 説明しようとして、パチュリーは息を飲んだ。
 紅魔館で起こっていたあの騒ぎをレミリアが知らないなんてことがあり得るだろうか。
 むしろくまなく観察していたと考えるのが妥当だ。
 それに十六夜咲夜がレミリアに逐一報告していたはずだし。
 だとしたら。
 いいえ。
 そもそも、スタンプカードで実験を試みたのは誰の提案だった?
 そう――誰よりも主人に忠実な、悪魔の手先の言葉だ。
 エデンの園でイヴに智慧の実を食べさせた手口そのままに。
 何故?
 月世界旅行からこちら、悪魔が退屈そうにしていたから、その余興に。
 末永く主人が退屈を覚えないために。
『そろそろ新しい遊びを所望されていらっしゃるみたいですから』
 咲夜の言葉が鮮明に蘇る。
 変貌していく友人の表情に満足したのか、レミリアはそれはもう壮絶に微笑んで。
「そうそう、これみてよ。咲夜みたいに私もスタンプカード作ってきたの。勿論パチェが自分でやってきたのと重複はなしよ」
 スタンプカード?
 パチュリーは自分の耳を疑った。
 目の前にあるのは巨大な模造紙と、囲碁の十九路盤など比較にならないほど精緻に書き込まれた桝目の数。最大難易度のマインスイーパーでもこれには及ばない。
「……そうね、手始めに『シューティングキャラバン全国大会』ってのはどうかしら。幻想郷の内外から腕のある奴らを呼び寄せて弾幕ごっこ。全国っていうくらいだから五分間モードよ。楽しみねぇ」
 レミリアはにょっきり伸びた牙と、手狭に「れみりあ」と刻印された黒檀の判子を見せつけて、それはもう無邪気に笑う。
 無表情で言葉もない、知識と日陰の少女。
 読んでいた本を畳んで脇に抱えて、立ち尽くして。
 その栞には、ぴっちり埋まった咲夜のスタンプカード。
 どんよりと蹲る脳内の彼女が、ある決心で凍りついていく。
 ……明日はあの体操服を再度着て、寒空の下を走ろう。
 精霊魔法で雨を降らせて、ぬかるみの中を転げ回ろう。
 このまま健康になって、あのアホな脳筋門番みたいになりたくはない。
 いっそ喘息がぶり返せば、面会謝絶に出来るだろう。巨大な図書館全体を『病室』にするのだ。追加で咲夜に判子を押して貰おう。そうすればもう誰にも会わなくてすむ。図書館は心地良い静寂に包まれる。間違いない。
 半ば泣きだしそうなパチュリー・ノーレッジは、心底そう決心していた。