■蓬莱の樹の下で               【EXPECTIMG RIVER】

      1

 闇の空の下、茫洋とした――鮮明に輪郭を結べない竹林が広がる。短刀のように細長い緑の葉を生い茂らせているはずの彼らは己を乳白色に濁らせて、水墨画のように滲みながらたなびく霞にその身を漂わせる。何処までが林なのか、どこまでがそれ以外なのか、真の姿を現そうとしない。臆病なくせに頑固で、こちらから歩み寄ってさえ、幻の衣を脱ごうとしない。
 その竹林の中央に。
 大樹が一人、立っていた。
 場違いな巨躯。
 楠のようにも杉のようにも見える不思議な樹だ。
 気配を晦まそうとする周囲の竹の陰とは対照的に、樹は全てを包み込こもうと広げた幹を天高く突き上げる。そこから伸びた無数の枝々は長丸く大きな深緑の葉を限界まで茂らせて、光の中に無防備に晒されていた。風格漂う彼女の威容は、劫たる三千世界において唯一、自らの存在を確信するものの有り体であった。
 その樹を直下で見上げる、少女がいる。
 がっしりと大地を掴む掌の如く隆々とした根の上に少女は立ち、大気を覆い尽くさんとする緑の天蓋を眺めていた。何者にも侵されたことのない円らな瞳は、樹陰の狭間から漏れ来る星屑の光の数々、映し出されている光景の荘厳さを、ありのまま幼い精神に刻印していた。小さく柔らかい手は触れた幹より生命の逞しさを感じ取り、あたかも大樹に抱擁されているかのような錯覚すら覚えている。大樹を母性とするならば、少女は乳飲み子。親近感と安堵感が、少女の内側に満ち充ちていた。
 少女は瞳を閉じ、額を、ついで耳を幹に当てる。
 鋭敏な聴覚には幽かな音――幹が脈々と水を通している音がはっきりと聞こえていた。彼女の精神が脳裏に投影するヴィジョンには、水が一滴、また一滴と大樹全体に行き渡っている様子が鮮明に描画されている。それは、彼女の想像力が一秒ごとに成長していることの証左でもある。
 ――ふと、下を向く。
 呼ばれるように。
 幽かな緑色の光が視界を掠めていた。複雑に絡み合った根の隙間から、穏やかな光が漏れているのに少女は気付く。
 衝動が疑念を通さずに四肢を動かすのが幼き精神である。彼女はそれに素直に従い、おっかなびっくりといった体で根から根を渡り歩いた。足を踏み外さぬように注意しながら光源へと。幼子がジャングルジムの如き入り組んだ閉所を好むように、少女もまた臆することなく、入り組んだ根の上を渡っていく。
 緑の導きに惹かれるまま、心奪われるまま。
 ゆっくりと、
 ゆっくりと。
 幾重の障害を乗り越えながらようやく覗きこんだ場所には、彼女が期待した以上のものが静かに待っていた。
 宝玉。
 淡く翠に揺れてまどかに佇む、それ。
 おはじきよりは大きく、桃の実よりは小さな、自ら発光する不思議な存在。
「きれい」
 少女は呟き、自らの言葉が虚空に消え去る前にはすでに、宝玉に魅了されてしまっていた。なんとしても手中に収めたいという罪なき欲望の虜囚に。
 即座に彼女は心を決めた。
 落下しないよう、寝そべって左手でしっかりと根を抱きかかえ、下方へ一所懸命に右手を伸ばす。指先が宝玉に届きそうだと思った。だから、バランスが崩れ行くのを自覚しつつ手を伸ばしてゆく、身体を傾けていく。
「あと、もう……すこし……」
 中指が珠に触れそう、と思った瞬間。
 左手に全ての体重が掛かった。華奢な腕がそれを支えるべくもなく、視界の天地が逆転した。
 落下。
 背をしたたかに打ち、一瞬息が詰まる。拳をぎゅっと握って痛覚を我慢で抑えこみ、湧き上がる涙を堪え、腕で両目を擦って起き上がる。
 挫けない彼女の意思に報いるものだろうか、果たして、目指すものはある。
 眼前に、濁ることなく。
 ――一瞬だった。
 その一瞬で彼女は充足した。負の感情を流し去った。
 窪ませた手のひらの上のそれを、少女は飽くこともなく眺め続ける。彼女は普通の人々よりも僅かばかり特別な存在で、市井の子供よりはずっとたくさんの事物を目にしてきたけれど、それでも今までにこんな色の翠をみたことはなかった。どこまでも滑らかな球の表面は、角度を変える毎に違った表情を見せてくれる。空間と時間を同時に感じさせる深奥さ。少女は頭上の樹陰を見上げた。これはどこから落ちてきたのだろう。これは誰がもたらしたものなのだろう。
 穴が開く程見つめるうちに、どこか渦巻いて引き込まれていくような眩暈を感じて、少女は一度目を逸らし、周辺を見回した。
 そこは、巨大な樹の這い回った盤根が地上に創生した小さな空間だった。あちこちから洩れてくる同じ角度の光の束が、トンネルが連なっていることを示している。前方遠くには白く輝く出口。大人ならば膝をつかなければいけないが、彼女の寸法なら根を避けながら歩いて抜けられそうだ。
 少女は宝珠をしっかりと握って歩き始めた。
 自分だけの宝物を見つけた達成感が全身に漲る。有頂天だった。詞の意味も解せずまま覚えた歌を切れ切れに口ずさみながら、張り出した根を越えて出口へ歩み進んだ。
 光の中へ、
 外へ飛びこむ、
 瞬間。
 乳白色に包まれていた詩は忽然と、熱を以って劇的に場面転換する、朱く。
 少女は大きく目を見開いた。


 辺りの竹林が炎に包まれていた。
 事物の終焉を身をもって証する事象が世界を取り巻く――。


 茫然。
 頭の中が真っ白になる。自我が揺らぐ。力が抜け、宝玉を取り落とした。
 水墨画のようだった竹林は爆ぜながら炎に飲まれ、一本、また一本と灼熱の中に崩れ落ちていく。一瞬にして水分を失った花が醜悪な炭素の遺物へと移り変わる。強制的な現象の置換。生命に抗う術はない。翠の生が、墨塗りの死へと変貌を遂げていく。
 躯の内側から震えが沸き起こる。
 ガクガクと、ガクガクと。
「いや……」
 少女の呟きに呼応するかのように、又ひとつの命が炎に包まれる。
「お願い……やめて……」
 また一本。まるで少女の願いを嘲弄するかのように。


 やめて――


 もはや声にもならない悲痛な呻きを嘲笑うかのように、竹林全体が産み出す火力が倍増した。緑の勢力全部が炎に嘗め尽くされつつあった。
 不思議と炎が燃え移らない始源の大樹の元で、少女はただただ涙を流した。蹲り泣きじゃくった。この終焉そのものの眺望の原因が自分であるかのような罪悪感と、何ら干渉することの出来ない無力感が、少女の小さな胸を容赦なく打ち付ける。
 因果が結ばぬ時の溯上では、事物に関係のない者が謂われ無き責め苦を受けることも有ろうか。千事を知り万時を裁く閻魔にも手が届かない世界がないとはいえない。ましてや人の形として未完成な童女に与えられた艱難辛苦は理不尽であろうが故にどこまでも、どこまでも、どこまでも。万華鏡のように回転する地獄が展開するのだった。
 ――如何ばかり時が流れたろうか。
 少女の傍らに転がっていた翠の宝珠が突然、強烈な緑の閃光を放った。
 大声で泣いていた少女が、はじかれるように顔を上げる。
「顔を上げて」
 聞き覚えのある声がした。
 女性の声。
 何度も聞いた気がするが、いつ聞いたのか、どこで聞いたのか、誰のものかは分からない。ただ、確実に知っている。覚えている。
「さぁ、そこから歩くのよ」
 どこへ?
「見えるでしょう? せせらぎが示すひとつの道が」
 止まらぬ涙に開きにくい瞳をこじ開ける。
 道なんて何処にもなかった。
 だが、自分の二本の足が水に浸されているのは解った。
 自分はいつのまにか、浅瀬に立っている。
 振り返れば、そそり立つ大樹の根の奥から清水が湧きだしているようだ。大樹の周辺には小川が堀のように巡っている。
 凶悪な周囲の炎がこちらに渡ってこないのは、そのささやかな水源によるものだと、聡い少女は悟りつつあった。
「その道を往くといいわ。振り返らずに、躊躇わずに」
 声が導く。
 優しくはない。でも突き放すでもない。
 それでも、少女はすぐには動けない。
 前方へ連なる小川は炎に紛れ込むかのように見える。
 自分を包み込んでいる巨大な優しさを離れ、炎が渦巻く世界に溶けゆくか細い道を選ぶなんて。恐怖を感じずにいられようか。
「さあ」
 声は後ろから背を押すようにも、前から呼ぶようにも聞こえた。
 選ばなくてはいけない。
 このまま選ばないことだけは出来ないのだから。生死を決める運命の輪が閉じる寸前でさえ、人は行動を選択しなければならない。
 ただ――縋ることぐらいは許して欲しい。
 そう思ったのか、思わなかったのか。
 少女はしゃがみ込み、一旦手放してしまった宝玉をもう一度掴んだ。指の隙間から洩れる翠の光が少しだけ強くなる。炎のように荒れ狂っていた心に微風が吹き込んで。ようやく彼女は裾で涙を拭った。
 川の流れは浅く緩く。一歩踏み出すと柔らかな砂が少女の足をふんわりと受け止める。
 『声』の言ったとおり、それは童子でも歩けるほどの道だった。
 炎を遠ざける蜘蛛の糸。
 少女は歩き出した。
 大樹に背を向けて。
 緑宝珠を握りしめて。
 僅かにしゃくり上げながら。

 炎に怯えながら、それでも少女はしっかりと歩みを進めた。小川から立ち上ぼる涼気が不可視のスクリーンとなって、少女を炎から完全に守っていた。風を孕んだ炎が形を変え立ち上がって少女を脅すことはしばしばだったが、熱気を顔に浴びせることは出来ない。火の粉の欠片すら近付くこと叶わなかった。
 流れはやがて川から河へと転じる。
 炎がようやく遠ざかり、小川が若干深く流れが早くなってきたのを感じて、その岸に上がった頃、彼女はそれを見つける。
 瀬が支流へと接合する場所に丸太で組んだ船着場があり、一艘の小舟が繋がれていた。
 ゆらゆらと上下するその船体に立っている人がいて、こちらを見ている。
 赤と白の装束に身を包んだ、少しばかり年上に窺える少女だった。彼女が纏っているのが神を祭るための装束だというのは、すぐに解った。
「待っていたわ。よく頑張ったわね」
「………………」
 その巫女は穏やかな笑顔を浮かべていた。
 今まで自分を導いてくれたのはこの人なのだろうか。記憶の中の声とは似ているようでも、そうでないようでもあった。
「乗るといいわよ。ここから先は舟でないと駄目だから」
 頷く。
 手を引かれて乗り込む。巫女は舫い綱を解いた。舟は漕ぎ手もいないのに無音で岸を離れ、ゆっくりと大河を滑り始める。
 反対側の岸が遠すぎて見えない。海のようだけど河らしい。まるで三途の川のように巨大な。
 視界のあちこちで、支流が合流するのが見えた。自分が歩いてきた小川はもう見えなくなってしまっていた。
 それでも、遠くで燃え盛る竹林と、その中央で依然として鎮座する巨樹はしっかりと、まるで威光を放つ御神体の如く、少女の両目に映っていた。
 大樹の元で過ごした安寧の時間を思うと、少女の心は震えた。
 気遣うように、緑宝珠が優しい光を投げかける。紅白の巫女はその有様を、古びた微笑で見守っていたが、察知したものを気付いて右手を空へ差した。
「ねえ、あれを見るといいわ」
 少女は再度、遠ざかる世界を、燃え盛る過去を、立ち上る火炎を見つめる。
 灼熱の竹林から、不意に一羽の鳥が飛び立った。全身を炎で包み、波立たせている。黄金色に輝く翼を力強く羽ばたかせ、乳白色の大空へと舞い上がっていく。星空に浮かぶ真っ青な星を目指して。
 何処までも美しいのに、創世より未来へ至る歴史の最中で穢れし人間のための世界。
 地球。
 蒼の惑星に向かって飛ぶ鳥のその紅玉色の瞳には、理由の窺い知れぬ憂いが浮かんでいるように見えた。
 少女は鳥を視線で追いかける。
 泪の跡をその頬に小さな河のままの形に残して。
 緑宝珠をギュッと握りしめて。
 去りゆく再生の象徴を見つめて、自分でも意味を解しないまま、呟く――
「……鳳凰……」











────────────────────

「――また、夢をみたわ」
 笹の葉擦れが、障子の向こうから聞こえてきていた。
 耳を隠すように流れる真っ黒で艶やかな髪をかきあげなくても、雨音のように低く小さく耳朶を打つ。
 風は強くないけれど、止む気配はない。時折吹き降ろして、障子戸を揺らした。
「そう。また夢をみたのよ」
 寝床から身体を半分起こした姫がそう、ぼんやりと告げた。傍らに控える従者は答える代わりに、読んでいた古い書物を閉じた。もう何千、何万回、果てしなく繰り返した遣り取り。
「意味のありそうな夢でしたか、そうではなかったのでしたか?」
「さあ。良く憶えてないけれどね。意味もなく脈絡なく懐かしげな夢だった気はするけれど」
「じゃ、意味をつけるのはやめてはどうかしら。夢見なんて巫女の仕事だし、貴女は何かについて考えたり働いたりする必要なんてないのだから」
「よく憶えてないけど、でもなんだか、いつもと違う夢だった気もするのよね。少しだけ、続きが気になるわ」
「それなら寝直すのもいいかもしれないわね。ただし、もう御日様は中天にいらっしゃるけれど」
「今は永琳の顔よりも、御日様の顔を見たい気分かしらね」
 従者は笑って、寝室の障子を開け放つ。すると、遠くを見通せないほどに深い竹林が、視界の大半を覆った。竹の発した酸素が肺に充満するのを感じる。覚醒を実感する。
 自分を千年以上も取り巻くこの竹林は形を変えながらも、未だかつて大規模な火災に見舞われることもなく、今日もある。そういえば知識ではしっていても、実際には生命を奪う程の恐ろしい火事など遭遇した記憶がない。
 ならばあの夢は?
 あの忌々しい千年の腐れ縁に影響されているのだろうか。
 ここしばらくは目立った殺し合いもしていないのだが、さて。
 立ち上がり、庭へと目を落とす。
 竹藪と屋敷を区切る竹編みの塀のこちら側には、ささやかな盆栽がいくつか並べてある。地上でも栽培できる月面の植物、優曇華。育て始めて幾許かになるけれど、まだ実を付ける気配はなく、枯木にしか見えない。予想以上に地上の穢れは遅効性なのだろうか。鈴仙やてゐを除いた地上の兎たちはほとんどふつうの兎なので、いろいろな理由で生死も入れ替わりも早いはずなのだが。結局のところ、私たちの言う穢れの大半は地上人に由来するものなのかもしれない。分からないけど。
 中天から降り注ぐ日光が眩しい。
 光の速さは一定だけど、時の長さは一定ではない。
 永遠より自分を開放した私は、どんな速さの時流に身を委ねているのだろう。
「少なくとも、勤勉な者よりは長い二十四時間のはずね」
「地球で暮らしているのだから、三分五十五秒ぐらいは長く感じても罪にはならないでしょうに」
「そのズレを合理化しただけで閻魔様に怒られてしまうのが人間なのですよ」
「人の業が深いのかしら、それとも地獄の裁判長が頭が固いだけ?」
「幻想郷の担当はそうでもないみたいですけどね。伝え聞くところによると」
「情報源が『文々。新聞』なら信じないわよ」
 布団を畳んだ長年の友は、答えないままさっさと部屋を出て行った。最近は不思議な薬屋としても多忙で、人間に効き過ぎない薬を作るのも大変だと零していたらしい。時が動き出しただけで、何かが大きく変わりつつあるのは間違いないなと思う。
「そういえば――」
 もう誰も聞いていないことを知ってか知らずか。
 未だ変わらずここにいる永遠の姫が。
 蓬莱山輝夜が。
 竹林の向こうに細流のせせらぎを求めるように耳を澄ましながら。
 半ば自覚せずに、呟く。
「そういえば……あの緑の宝玉はどこにやってしまったのかしら」
 独りごちた過去の罪人の言葉は、誰の耳に届く前に苔むした庭石に落ちて砕けた。

 優曇華の地球での姿。
 蓬莱の玉の枝。
 五つの難題の内、唯一実在する神宝。
 今はなく、かつて存在していた、
 或る可能性。

      2

 東よりの風が吹き、
 そのとき、
 一羽の鳥が背後から飛び立ち、
 影が落ち、羽音が乾き、
 立ち込める八重の雲の彼方で、龍の咆哮が轟いた、
 微かに。


 午睡――


 ……薄暗い場所。
「もう、夕暮れなのね」
 博麗霊夢は影の中で、目を擦りながら顔を上げた。風がほんのり冷気を帯びて彼女の白い腕を撫でていく。うたた寝している間に寄りかかっていた神社の鳥居に手を掛けて、立ち上がり、大きく伸びをした。
 ふっと、試みる――
 今見ていたはずの光景を思い出そうとしてみる。
 漆黒の空。
 白の大地と、空色の川、緑の予感。
 ……夢だったのかな?
 思い違いではないのか。夢などではなく、過去の記憶が重なりあった、曖昧な。
 甘い微睡みは刻一刻と遠ざかっていく、
 それもまたいつもの日常なのだ、けれ、ども。
 今視た世界が思い出せない。
 伸ばした指の先に吹く風の感触。
 しかし、彼女は執着しない。幻視が彼女の仕事の一つであると知っていてもなお。失われた夢を追い掛けるのを諦める度に漏れる欠伸。これが霊夢が、彼女を知る者たちに対して事実以上に暢気だと取られてしまう遠因なのかもしれない。
 気を抜いた心の拍子を打つかのように、立てかけていた箒が倒れた。石畳を打つ乾いた音。残響はない。
 鳥居の影から外に出ると、赤錆のような黄昏が一瞬で小さな巫女を染め上げる。今だけは神社も森も空も遠い雲も山々も、みな八百万の赤銅色とひとつの黒とに塗り分けられていた。稜線の向こうに、今日の役目を終えた巨大な日輪が落ちていく。
 蜩の声が遠くから切れ切れに聞こえてくる。山に帰還する鴉の羽音。夜風を呼び寄せる鎮守の森の囁き。毎日が同じような光景でありながら、一日ごとに世界の位相がずれていくかのような。それはどこか心細くなるような。混濁する境界。それら総てに囲まれながら、巫女はただつれづれなるままにぼんやりと頭を掻き、ゆっくりとした動作で箒を拾い上げもう一度口を押さえて欠伸をして、首を二度三度傾けてみる。そして少しだけ自分の体を抱く。
「そういえばちょっと寒くなってきたわ。獏のように昼寝は場所を選ぶべきかしら。もちろん昼というにはもう遅い時間というのは分かっているのだけれど……そうね」
 箒を持って神社の方に数歩あるいて、
 ……にわかに立ち止まる。
 普段は大きく開かれた円い瞳が、すぅっと細くなる。
「こんな不吉な時間まで眠っていると、やっぱり縁起が悪いのかも知れないわね」
「あらそう?」
 巫女に再び影が落ち、
 巫女の頭上から声が落ちてきた。
 紅く燃えた雲の谷間から、
 蒼い空と紅い夕暮れの狭間から、
 夕闇と夜の帳の隙間から、
 そのたおやかな声が、櫻の残り香を忍ばせて、ぞろり、這い出してくる。
 優雅な傘の影は夕暮れの境内を揺らめかせて切り取り、神聖な神庭に穢れた闇の結界を形作る。
「やっぱり、彼は誰れ時に現れるのがお好きなようね……胡散臭い妖怪さん?」
「その通りよ。だから用心はいついかなる時も欠かさない事……そうね、脳天気な巫女さん」
 そうやって、
 夕闇を遮って現れたのは、
 二匹の妖怪を従え、
 更紗のように軽く揺れるワンピースを纏い、
 常日頃より常備する日傘によって、あらゆる日光を遮りつつ光と闇の隙間に潜む。山奥のこの小さな世界、人間と妖怪と古き掟によって守られる場所……幻想郷において、数多の妖怪たちの中でも最大の実力者とされる少女の異形。
 八雲紫。
 ――そうして巫女と妖怪は、陰陽の形を模すかのように対峙した。
 いつかのように。

      ☆

「で、何よいきなり。普段は食っちゃ寝して呼んでも出てこないあんたが自分から姿を見せるなんて、よっぽどの悪さをするつもりなんでしょう」
「大正解、といいたいところだけど。博麗霊夢の言うことにだって間違いはあるのね」
「なにそれ。嫌味ならいろんな奴から年中無礼講だからお断りよ」
「ひとつぐらい増えても数のうちに入らないわ。ありがたく受け取りなさい」
 妖怪に誉められても嬉しくはないけど、悪口を言われるのがもっと嫌いな博麗霊夢は、本殿に上がるための階段の最上段にちょこんとしゃがみ込むと、隣にちゃっかり腰掛けている八雲紫の顔を胡散くさげに睨み付けた。
「たまにはもう私の言うことをちゃんと聞いて、大人しく山奥の塒にお戻りなさいな。生憎と不吉な出来事は間に合っているわよ」
「そういう割にはちゃんとお茶を出してくれるのね」
「ほうじ茶よ。大体、お客様を無礼に扱うような巫女は失格だと思うのよ。たとえ呼んでなくても、さっさと帰って欲しくてもね」
「あ、このお漬け物なにー? 美味しそう」
「これ橙、それに手を付けてはいけない」
「何でですか藍様」
「それには巫女の皮肉が籠められているからだよ」
 お茶に添えられたぶぶ漬けを珍しげに観る猫又の橙と、それを心配そうに見つめる妖狐の八雲藍。この二人はいつも一緒にいる気がする。毎度毎度変わらない光景。妖怪にそうそう変化があっても困るけれど。
「あら、普通に美味しいのに。食べないの? 私が食べちゃうわよ」
 霊夢は大きな口を開けて漬け物を奥歯でぽりぽりと噛みしめる。その様子に、橙は今にも口の端から涎を零さんばかりに見とれていて、保護者を自認するかのような藍はおろおろと橙を押し止めさせているのだった。
 紫は優美な目元を糸のように細めて、自分の連れを見守っている。
 ――博麗霊夢にとっても、これら顔なじみの妖怪たちとの付き合いは、それなりに長いものになってきている。
 あれはもう何年前のことになるだろう。幻想郷に訪れようとしていた春を根こそぎ奪おうとした、破天荒な計略が巡らされたことがあった。冥界の住人が暖気を独り占めしようとしたことによって、斯界は皐月になっても雪が降り続き桜の開花も訪れない。仕方なく原因を探りに出た霊夢とその知人達の活躍によって、幽雅で能天気な強奪者の企みは砕かれることとなったのだが……話はそれで終わらなかった。
 首謀者が冥界の住人であったがために、霊夢は本来往来できない生と死の境界を潜るはめになったのだが、その際に境界に皹を入れてしまったらしく。霊夢の仕事には境界を書き直すことも含まれてはいるが、世の摂理そのものである彼岸此岸の境目を修繕する能力までは備えていなかった。
 そして、修復が可能な存在として霊夢が紹介されたのが、この八雲紫なのである。
 おおよそあらゆる境界や結界に干渉できる、強大無比な力を持つ大妖怪。
 霊夢はおそらく元来の事件そのものよりも苦労して、ようやく紫の住まう里を尋ねた。
 その際、紫を守護して霊夢を妨害したのが、紫の式神である八雲藍と、八雲藍の式神である橙。
 目の前でじゃれ合っている様子からは想像もできぬ激戦を潜り抜け、ついに紫と対峙した霊夢だったのだが――結局その後、紫が霊夢の頼みを聞いた兆候はなかった。それが証拠に、緩くなった境界を人や霊が楽に移動するようになり、幻想郷には幽霊が頻繁に出没することと相なった。
 最初は事の流れにやきもきしていた霊夢も、最後には匙を投げてしまった。無事に春は戻ってきたし、幽霊はいくら増えようが所詮は幽霊である。総体として幻想郷に影響を与えられないだろう。もともと、境界があろうが無かろうが魂は御盆には戻ってくるものだし、顕界に飽きたら冥界に戻りもする。幻想郷に四季折々の花が一斉に溢れた別の事件でも幽霊は膨大に現れたが、結局なにかしらの害があるわけでもなかった。巫女の威信が揺らぐかもしれないけれど。そんなものがあればの話だが。
 もっとも。
 霊夢個人にとっての肝要な問題は別次元にある。
 様々な事件を起こしたその妖怪たち自身が、何故だか知らないけれど、退治されたあとで退治した霊夢を気に入ってしまい、ことが解決した後に博麗神社を訪問するようになるのが通例と化してしまっている点、である。まさに入れ替り立ち替り、足繁く。現状がまさにそれだ。
 なんという帰結。
 それが巫女だからなのか自分の資質なのか、霊夢当人には推し量るすべが無いし、さしたる興味も無いのだが……本来、神社は神に願う人間のためのものであって、得体の知れない人間や、まして妖怪のための施設ではない。人間の里では妖怪神社とまで陰口を叩かれているらしいし、霊夢にとっては幽霊増加よりも余程、迷惑極まりない話だった。
「……そんな目で睨んでも帰らないわよ。今日は目的があるんだから」
 霊夢の頭の中を覗き見たかのように、紫がたおやかに笑う。
「なら早く言いなさいな。今日は何の陰謀? どうせまた私を利用したり引っ掛けようとしているのね」
「もう少し待つといいでしょう……そうね、夕闇が闇に呑まれる時間まで」
「まだ結構時間あるじゃない。私は仕事してるからね」
「さっきまで昼寝してたくせに」
「覗き見は嫌われるわよ」
 紫は答えない。
 暮れなずむ空を見上げたまま、目を細めている。
 落ち着きのない橙を見守りつつ、藍は主の顔をうかがっている。
 夕刻も過ぎようかと云う頃になっても、紫は空を見上げた彫像のように喋ろうとしない。
 霊夢は呆れたようにふっと息をついて、社務所に向かった。
 夕方の仕事といえば、本殿に向かう参道に並ぶ灯篭に火を灯すこと。
 これもまた、どこかの人間のため。
 神はそれ自身が多く光である故に、人工の光を自ら望むはずもない。
 それぞれの蝋燭が柔和な光を投げかけ始める頃になると、群青の天鵞絨によって紅の要素は完全に取り除かれ、拭われた夜空には天の川が脈々と光の水を通す。無数に点在する星々の、何千年何万年前の光。
 階段の一番下から仕事を始めた霊夢は、鳥居を潜って最後の灯篭に火を灯すと、手にしていた太い蝋燭を吹き消して、首をいたわるように肩をほぐした。
 東の夜空を仰ぎ見る。
 満天の星空を威圧しながら、いつものように巨大な月が登り始める。
 今日は満月だ。
 山肌を撫で、地をこそぐように冷めた白光を放つ月。群雲が月のなだらかな曲線を少しだけ隠している。
 月が天頂へ昇るほど、森は黒くなっていく。
 霊夢は空気の冷たさに、少し身震いした。紛れも無い秋の冷気を感じる。
「……解った。お月見をしにきたんでしょう。でもお神酒も御団子も、多分あんたたちの分はありませんからね」
「お酒なら間に合っているわよ、気持ち的に千年分ぐらいわね」
 夕刻以来、久方ぶりの紫の声。
 冷たい。月光よりも醒め切った吐息で。
 それを呪詛といえば、そうなのだろう。
 少女は月を望んで、月を呪う。
 悪し様に睨み付ける。
「私たちの力の根源だけど、でも、私たちにはなにも分け与えない、そんな場所よね」
「どういうこと?」
「博麗の巫女でも気づかないのなら、他の人間が察知することなんて出来るはずが無い」
 紫は霊夢に並び立つ。
「でも、事件ならおおよそ博麗の巫女の範疇ですものね、頼るのは仕方ないわ」
「大雑把ね。雨が降るのは必ずしも雷神様のせいじゃないし、湖が凍るのは氷精だけの仕業でもないわ」
「でも、事件を解決するのは、博麗の巫女と相場が決まっているのよ」
「……納得できないんだけど」
 霊夢は不承不承、夜空の月を仰ぎ見る。
「いいお月様じゃない。でもまあ、あんたと月絡みの事件に関わると碌なことにならないってのは最近わかってきたつもりよ。踊らされるのも大変なんだから」
「大正解ね。やっぱり、博麗霊夢の言うことはいつも正しいのよ」
「都合のいいようにいつも言うことが変わるのが嫌なのよね、妖怪は」
「自分の都合で行動が変わるのが人間じゃないの。特に白黒の三角帽子魔女とか」
「あれはまあ……特殊な人間だから」
「特殊でない人間なんて幻想郷にはいないわ」
 月を射ぬく視線、境界の妖怪。幽霊のようには執着を捨てられないらしい。毒々しい色の爪が光る指で、傍らに立っていた御供の妖怪を呼んで見せる。
「おいで、橙」
「はい、紫さま」
 猫耳をつけた少女が八雲紫の肩にちょこんと乗る。
 その背後には、両手を袖に隠して人を模した九尾の妖狐が控えている。
 八雲紫は既に、夜を睥睨する妖怪の顔をしている。
「霊夢、私の準備はいつでもいいわ」
「私は行くとはいってないわよ。特に今夜はそういう気分じゃないし」
「貴方の選択が、全て正しいの。それに解けた結界は直しておくべきだしね」
「……私を嵌めようとしているんじゃないの」
「あら、そんなのいつものことじゃない」
 紫はにっこりと笑う。これ以上無いくらい爽やかな作り笑いだ。
 普通の人間ならば絶句してしまうぐらいの、恐怖の笑み。
 それでも霊夢は躊躇していた。
 もう一度、月を仰ぎ見た。
 いつもの月。
 人間を惑わし、妖怪に力を与える、いつもの。
 本当に普段と何ら変わらない月。
 誰かが隠したりとか、誰かが制服を企んだりしない、浄化されきった。
 いつも事件がある時は、言葉にならない直感や肌をざわめかせる予感がある。だが今はそれがない。微塵も感じられない。
 だから……人間は、妖怪に尋ねる。
「なんだか解らないものを探しに行くなんて、こんな不毛な話はないわよ。夜には限りがあるのだから」
「いつもと同様じゃない。だったら、時間など止めればいいのではなくて? そのくらい簡単でしょうに」
「時間だって、止まったり遅くなったりするのが動いてる人だけなんてつまらないじゃない」
 紫は一瞬霊夢の顔をまじまじと見つめたが、口元を扇子で隠しているのでその意図は誰にも掴めなかった。
「……なら、もしこのまま放置して、穴の開きそうな幻想からやがて手におえない混乱へと昇華したら、貴女は一体どう責任を取るつもりなのかしら」
「そうなったらどうにかするわよ。結界周辺はおおむね一方通行なのだもの」
「そうかしらね?」
「多分ね」
「巫女の方が妖怪よりもよっぽど不精で胡散臭いわね」
「お年寄りの樹に空の重さや火事の心配をさせるのが間違っている気がするわ。適材適所という言葉はもっと尊重されるべきだと思うの。特に最近はね」
「だったら――諸法実相、精妙な心の中心に止まる月にだけ祈りなさい。たとえいつであれ、貴方に成すべき唯一のものは多分それよ」
 言葉遊びで時間を稼いでも、月はどんどんと中空へ登っていく。
 霊夢にもなすべきことは分かっている。
 ただ、また再び八雲紫の要請であるというところに引っかかっているだけ。
 博麗の巫女とはどうして、事件を察知するのが後になってからなのだろう。そういう決まりごとになっているのだろうか。あらゆる事件はどうせ最後には手元に届くというのに、自分が動き出すのはいつも最後の方なのだから。
 もし――
 過去に未来に、または何処か別の場所に、妖怪退治なんかを適当に仕事にする別の博麗の巫女がいるのなら聞いてみたいなと思う。
 あんたはどうなのかと。
 私みたいなこんな風に呑気でいられるのか、どうか、なんて。
「ふう。まあいいわ、あんたの悪だくみに乗ってあげる、今回もね」
「悪だくみなんて心外だわ。私は幻想郷をなるべくこのままの姿で置いておきたいだけなのよ」
「このままで、ねえ。あんたは理屈と屁理屈との境界をちまちまと弄っている方がよっぽど似合っていそうだけど」
「ようやく霊夢らしくなってきたわね。でも、あるべき姿なんて誰にもないものよ」
 ……どうせこんな気分では、月見をする気にもなれないし、声を掛けられて放っておくのも寝覚めも悪い。布団の中で事件に遭遇するよりは、少しでもいい夢の為に努力する方が前向きかも知れない。
 黒と、白と、空と、翠、
 表象だけに終わったあの昼間の、夢幻残滓を捕まえるためにも。
 そう考えるに至って、ようやく博麗霊夢は決心したのだった。
「これが博麗の巫女のあるべき姿なのよ。……で、結界が解けそうになっているのは何処かしら? やれやれ――」
 霊夢は、月の見守るハイコントラストの森を見澄ました。
 人間と妖怪を描いた艶消しの影が、月に照らされて境内に大きく伸びていく。
 夜風が真赤なリボンと大きな傘とを揺らしている。
「――どうやら今夜も、永い夜になりそうね……」

      3

 妖魔夜行。
 人間と妖怪が、闇夜に浮かぶ。
「夜もそれなりに楽しいものね」
「あんたらはおおよそ闇夜と親しくしてるんだから当然じゃない。それに、楽しいかどうかは相手によるものよ?」
「先入観だわ。対する人によって喜びが変わるなんて、本当の同行とは言えないわ」
「あんたは人じゃないでしょ」
「人っていう言葉は便利すぎる。応用が効き過ぎるし、簡単に書けるし、帯に短いし」
「だから人はどんどん増えるのよ。妖怪が簡単に増えてもらっても困るもの」
「人間が増えすぎる方が実際は面倒が多いものだけれど」
「増えすぎたらきっと、人って言葉を使わなくなるわよ」
「卓見ね」
 昏い群青に染まった天の帳の下、月光を浴びながら飛ぶ少女たちは、使命感を帯びた様子を微塵も感じさせず、さながら夜空の散歩といった呈。
 昼間は夏の残り香がしていたが、夜になるともう秋の気配しか感じられない。
 眼下には、蛍のように不思議な光が蠢く幻想郷の大地。
 一部に悪名高き、魔法の森の上空だった。
 蟋蟀や松虫の鳴声が、風に乗って響いてくる。
 でも、あの茫洋とした光は実際のところ、虫ではない。
 霊と付き合う宿命が職業ともいえる巫女の霊夢には、容易に見分けがつく。
 あれこそ、お盆を過ぎても冥界に帰らなかった幽霊だ。前世の記憶も薄れ、単なる興味から顕界を見物して回っている浮遊霊。直接人に害を及ぼすわけではないが、霊が普通に彷徨く状態が正常とは、とてもいえない。いえないのだが。
 全く――
 眼前の妖怪がきちんと依頼を聞いてくれなかった帰結の現れだ。ただ、冥界への門を無理やり潜りぬけた霊夢にも責任の一端はある。糾弾しきれていないのも自業自得だった。問い詰めたところでまともに請け合う妖怪ではないが。
 霊夢は苦々しく紫を睨み付けるが、紫は受け流しているのか気づいていないのか、澄まして夜風を楽しんでいる。
「いっそ今夜も偽物の満月だったらいいのにね。妖怪が妙に漲ることもなく、あんたも枕を高くして寝るしかないでしょうに」
「それこそ問題よ。本当の満月が予定通り登らなければ、人間の力が強くなりすぎる。硝子だって巧く加工すれば、炭の高圧縮結晶のように輝くものよ」
「そんな非常識なこと出来る人間がいるのかしら」
「出来るわよ、人工は好まれないけどね。ま、幻想郷全体に紅い霧を出したり、春を根こそぎ集めたりするよりは難易度高いんじゃないかしら」
「どっちも迷惑極まりない話だけどね。あんたみたいに」
「あら、私自身が迷惑を起こしているわけじゃないのよ」
「よくいうわ」
「でもまぁ、今日は捜し物にはいい夜よ。この分だと春はとても良い感じになりそう」
「そういえば、あんたは毎年冬眠するんだったわね。冬の寒さを遣り過ごして春の恩恵を受けようなんて、虫が良すぎると思わない?」
「虫が良すぎるわよ。だから良いんじゃないの。蜘蛛の巣に寄ってくる馬鹿な虫みたいで」
「ああもう、いちいち何云ってるんだか分からないわ。意味不明なのは霖之助さんの話と書庫にある漢文の書物だけで十分よ」
「巫女なんだから漢籍ぐらい読めないと駄目じゃない。神降ろしの次は写経でもやるべきかしらね」
「神社で巫女がお坊さんの真似なんて、滑稽を通りすぎて自分に憐憫を催しそうだわ」
 くすくす微笑む紫の隣で、八雲藍が蔑むようにこちらを見ている。
 ああ。
 妖怪と喋るのは苦痛ではないものの、少し疲れると霊夢は思う。
 妖怪の精神構造が人間とは根本的に違うというのは勿論あるのだろうが、それよりもそもそも、霊夢自身が集団行動向きではない性格なのである。博麗神社を訪れる訪問者が賑やかであるためあまり顧みられないのだが、霊夢は一人の時間を積極的に楽しむ傾向にある。喉が乾けば井戸の奥の冷たい水を、風が吹けば揺れる髪の繰り返しを楽しんでいる。おそらく、人が来なければ来ないで、延々と一人で生活していることだろう。孤独を辛く感じない性質なのだ。それは、寂れた神社の巫女を勤められる資質の一つなのかもしれない。
 そんな自分がどうしてこのように人妖問わず少女達に弄られなければならないのだろう。
 宗教家のカリスマというなら、願いを携えてくる普通の人間がひっきりなしに訪れて、神社の賽銭箱には山積みの御賽銭が貯まっているべきだろうが、残念ながらそういうことはない。山麓にあるもう一つの神社がどうなのか、昨今確かめてもいないけれど。
 もしかして、博麗神社それ自体が妖しい存在を呼びこんでいるのだろうか。
 それなら少し問題な気がする。
「あはははははははは」
 周辺を飛び回っている八雲藍の式、橙の甲高い笑いが耳をくすぐる。
 この場の誰よりも無邪気な声。少々耳障りなくらいに軽快に響く、鈴のような。
「こら橙、なんて下品な笑い声だ。はしたないからやめなさい」
「でも藍様、紫様と三人で夜にお出かけなんて初めてかもしれないですよ? なんだか楽しいー」
「紫様がいらっしゃるからこそ、行儀はよくすべきなんだ」
「でも、でも……あ、こんどはあっちー」
「………………あれは放っておいていいの? 紫」
「ええ。まったくもって良い夜ね」
「あっそう」
 夜空を縦横無尽に猫が飛翔する。
 その背後を九本の尻尾を持つ狐が追いかけている。
 化け猫の橙は、満月の夜の散歩に酔い痴れているようだ。
 実はさっきからずっとこうなのだ。なるべく視界に入れないように努力をしていたものの、霊夢はこめかみにぴりぴりと走る頭痛を押さえきれない。
「ちょっと尋ねたいのだけれど」
「いいわよ。許してあげる」
「なんで今夜は御供を二人も連れているのかしらね。悪目立ちして仕方ないわ」
「藍は私の式神ですもの。それに、橙だけを家に残しておくのも可哀想でしょう? 折角の夜だというのに」
「あの二人のお陰で、すでに結構遠回りさせられてる気がするんだけど。あんたが結構せかしたからこうやって何の準備もせずに出て来たって云うのに」
「急がば回れというじゃない」
 くるくるくる。
 橙が転がるように回転しながら、夜空を飛びまわっていく。
「だったら私も回ろうか?」
「霊夢がそうしたいのなら止めないわよ。回転巫女なんて霊験あらたかじゃない」
「冗談すら通じないのね」
「面白くない冗談なんて存在してはいけないの。それに、遠回りしないと目的地なんて分からないでしょう? 侵入者が直接旗を立ててくれるならそれに越したことはないけれど」
「そんなことをするのは人間だけよ。お月様にすら旗を立てるなんて普通は考えられない。月は本当は死んだ人達がいくところなんだから」
「月まで行ってきた巫女がいうことじゃないわね」
「あまり思い出したくはないけれどね」
 一呼吸置いてから、霊夢がそっと呟く。
「――そういえば、前にもこうやって満月の夜を翔んだかしらね」
 紫は口元を愛用の扇子で隠して黙したまま。
 そういう、答えか――
 博麗の巫女は、隙間の妖怪から視線を剥がした。

 森の上空を飛んでいたら、その最中に小さな灯が見えてくる。木々に隠れるようにしてひっそり立つとんがり帽子の屋根。誰が見ても隠棲した魔女の住処だが、持ち主はいっぱしの店だと公言してはばからない。丸い窓からは淡いクリーム色の光が洩れ、突き出した煙突からはパイプから登るかのようにしてリング状の煙が登ってくる。今夜は如何わしい稼業に勤しむこともなく在宅らしい。年中そうやって隠棲していてくれたら迷惑を被る人々が大いに減るに違いないのだが。
 「……それで。そろそろ捜し物ぐらい教えてくれたらどう? ヒントを探すにしても、私の視界には空とお月様と森と、魔理沙の家しかないんだけど」
「安心しなさいな、相変わらず貴女の目は確かだわ。その中にちゃんとヒントがありますもの。勿論、霧雨魔法店以外でね」
「今すっごくとっても安心したわ」
「それはなにより」
 何事もなくとんがり帽子をやり過ごす。今夜に限ってはもう、面倒くさい奴の参戦は勘弁して欲しいものだ。
「ということは、お月様はもう散々面倒だったから、今度は空ね。きっと私に向いていると思うの」
「どうしてそう安易な方向を選ぼうとするのかしら、この人間の守り手は」
「話が早いほうが好きなのよ」
「でも残念、不正解よ。私が探して欲しいのは……樹よ」

 脳裏に何かがひらめく。
 翠の予感。

 咄嗟に口を付くのは、予感とは正反対、いつもの憎まれ口。
「木って、下には山ほどあるじゃない」
「山じゃないけどね。森だし」
「そうじゃないわ。木を見て森を見ないって諺はあるけれど、実際には森しか見えないわよ。この闇夜に、この徒広い森の中から特定の木を探すっていうの?」
「ノーヒントでね」
 頭痛がする。
 妖怪桜の件が盛り上がった割には有耶無耶で終わったり、紫の桜の下で閻魔様にとくとくと説教されたり、思い出せば樹木がらみの事件にはあまりいい思い出がない。先日も、妖精が神社の裏手で新たな住処にしたらしい古木を見つけられなくて、魔理沙に馬鹿にされたのだった。木にまつわる神様を重点的に祀る訓練をしたほうがいいのかしら、などと。
「あんたは幻想郷の何処でも視てるんでしょう? 今回もどうせ場所を知っていてわたしをけしかけているのね」
「そうだったらもっともっと回りくどくするわ。私はただ感じただけ。睡眠と覚醒の境界線上で。樹精なんて普段は気にも留めないから、こうやって引っかかったということはそれなりの存在のはずよ。だから貴女が見つけ出すの」
「巫女的にいえば、役割的に逆だと思うのだけれど」
「そう思うならもっと訓練して高利得アンテナにしなさいな。外惑星からでも直接受信できるぐらいの」
「とびきり変わり者の河童にでも立てて貰うべきかしらね。直径が四十メートルぐらいある、電波のお皿。最近の外界ではそういうので鷹匠が鳥を使うんだって霖之助さんがいってたわ」
「ちょっと情報が古いわね。今飛んでる隼は三羽めよ」
「別に鷲だって駝鳥だっていいけれど」
 ――ああもう。
 この、煙に巻くが如き妖怪との遣り取りが常ではあるけれども。
 一方で霊夢自身も事件の発端から解決に至る手順をきちんと計画したことなどあろうはずもない。どちらにせよ、今は例によって夜の幻想郷を見て回るより他はないらしい。
 もはや魔理沙の家は森の中に飲まれてしまった。
 黒ぐろとした森は甘い夢幻のように、海の無限のように連なる。
 月光と、そこに掛かった雲により、あちらこちらで影を揺らしながら。
 いつものように早々になんとなく、向こうから手掛かりが出てきてくれると良いのだけれど……。
 霊夢は腕組みしながら、スクロールする下界を眺めるのだった。
 気流の中で揺れながら。
 大気の上を跳ねながら。

 森の中に人や獣が踏み分けた道があるように、空にも風が常時吹き通す道がある。
 それは森林のさなかを流れる川の上空にあって、落葉樹が伸ばした枝々の手によって導かれていた。すぅっと高度を下げた霊夢が風を切ると、紅葉を始めたばかりの葉の一端が風にまかれて月夜に舞い上がる。その様子を見た橙が、同じように翔んではまた笑い声を挙げた。
 左右の木が高速で流れ去る。全く似通っていないのに、一瞬だけ竹林の壁と見紛う。本物が偽物になり、紛い物が真実すら帯びる――幻視の夜。
 霊夢は迷いを振り払うように、冷気を帯びた夜風に目を盛んにしばたたかせながら、風上を薮睨みした。
 この先は川が二つに割れ、ひとつは大きな湖に流れ込む。
 湖のほとりには一軒の大きな洋館が建っている。例によって揉め事を増やしたくない霊夢は即座に反対側、さらに森の奥へと進む道を選んだ。
 後続の妖怪たちは拒否する様子を見せない。
 霊夢は飛行速度を上げ、木々の間へとその身を投げる。
 森林に隠された小川に沿い、幻燈の影絵のように流れていく幹たちの向こう、右方に広がる湖のパノラマを見遣り続けながら。人間と妖怪の奇妙な一団は飛行を続けていた。
 樹陰の向こうから落ちてくる月光を、自分の形をした影が刳り抜いている。
 しかし、なんと重い森だろう。
 夜の空気にアイロンを載せたような酸素の濃さ。
 森羅殿、すなわち閻魔庁の別名だ。壮厳たる森に地獄の役所を見て取る言葉を当てた過去の才人はさぞ想像力に富んでいたのだろう。呼吸をするだけで苦しくなる錯覚を覚えて、霊夢は少しだけ息を止める。
 前方からまた、葉が虚空を流来する。
 今度は杉の葉。
 まだ枯れていない。刺さったらそれなりに痛いだろう。懐に隠した退魔針を意識する。
 落葉樹が続く森のさなかで一体どこから飛来したのか。ちょっと気になって背後を見たが、紫は気にした様子もない。橙は先ほどと同じように空中の蛇行を続けている。
 むしろ主の殿を務める八雲藍の方が、つぶさに監視するかのごとく霊夢の一挙手一投足に反応して飛行位置を変化させている。
 霊夢はそれがちょっとだけ面白くて、わざと大きな振りをしてみせる。
(真面目なのは悪いことじゃないけれど、妖怪向きじゃないわよね)
 ……藍は妖孤というそれ自身として霊格の高い妖怪なのだが、八雲紫は藍を完全に使役し、さらに藍の力を最大限に引き出すことの出来る式を完成させている。藍は紫に抗うことはできないが、それは強制力だけではなく、精神的にも紫に心服しているるかららしい。
 そんな絶対の存在である紫が自らの力を揮わず、事あるごとに巫女に助言や指南を与えるのか。
 霊夢が藍についてよくしらないのと同じように、藍もまた霊夢の仔細を承知している訳ではないだろう。紫ほどに言葉を交わさないしその必要もない。それこそ、彼女の主人以上には。博麗の巫女が、人間に極少数顕れる特別な存在であるぐらいにしか考えていない。それ以上は必要ないからだ。
 多くの妖怪にとってそうであるのと同じように。
 だからこそ、紫と対等に言葉を交わす霊夢を苦々しく思っているのかもしれない。霊夢としても放っておいてくれた方が有り難いに決まっているのだが、何しろ八雲紫の考えることである。そこに従者が口を挟む余地はきっとない。
 若干哀れなことだが、式の使い手が回答を式に問うことはない。式ならばまだマシで、加減乗除の記号ぐらいにしか思われていなかったりして。
(最近はなんだか、紫自身も複雑な「式」みたいだけどね)
 幻想郷最高の演算機能を持つ長命の妖怪たちはやがて、不可視の幻想郷を動かす式そのものに成りゆくのかもしれない。霊夢の脳裏にくだらない妄想が浮かぶ。常識的な珠算ぐらいしか出来ない彼女でも、数学は常に理想的に最適化されるべきものだということは知っていた。
「う」
 目の前に古い水楢の幹が迫っていた。
 慌てて上空に退避する。
 あまりにもくだらないことを考えていたせいだ。霊夢は珍しく反省した。 
「どうしたのかしら。珍しく熟考中?」
「私が物を考えないと思ったら中間違いよ」
 自分の背後上空で、紫が隙間に腰掛けて微笑んでいる。
 この妖怪が、計算を間違うことがありえるだろうか――
 霊夢はほんの少しだけ、疑問の根を地下に伸ばした。
「藍様ぁ」
 一時足りとも警戒を崩すまいとする藍に対して、こちらも藍の式であるはずの橙が、甘ったるい声で呼びかけている。
「……あ、ああ、橙どうした」
「どうしたじゃないですよ。何回も呼んでいるのに」
「すまない、少し惚けていたようだ」
「もぅ。ね、みてみて、あれ」
 橙が指差す地上を見ると、森の狭間、木々の間に白く輝く道が見えた。
 まるで人間の血管のような、樹形図のような輝き。星々のように瞬いている。
「あれも幽霊? すっごく輝いているけれど」
「あれは本当の蛍のようだ」
「あんなに一杯の蛍、見たことない……」
「年々増加しているみたいだ。綺麗だとは思うが」
「でも、多すぎると、ちょっと怖いね」
 確かに、少し多すぎる。
 鏡面に新月の星空をそっくり映したとしても、これほどまでには輝かないだろう。
 しかも、
 光は、ゆっくり――
 いや。
 加速度的に増えていくではないか。
「藍様、あれっ!」
 地上を流れていた光の河が、途中で折れ曲がり、巨大な光の樹となって立ち上がった。
 集う光が輪郭を滲ませながら、さらに天空へと聳え立っていく。
 上空から声が降ってくる。
「光の樹だわ。まさかこれじゃないわよね」
 霊夢が祓串を抜いて構える。
「さて、どうかしらね……橙、こっちに来なさいな」紫の声だ。
「藍様」
「紫様のところへ戻りなさい。そこが一番安全だ」
「は、はい!」
 両手を袖に隠した藍が霊夢と同じ高度に並ぶ。動作が幾分人工的なものに変わった。八雲紫の式が行使され始めたのだろう。
 褐色の護符を抜いた霊夢は、すべての雑念を投げ出して巫女としての職務にだけ徹することにする。切り替わりが早いのは自覚しているが、そうなると今度は自分の自意識を疑いたくなってくる。自分を博麗の巫女として動かす計算式は、一体誰が為したものなのだろう、などと。
 ああ――また不要なことを考えている。
 妖怪と夜を遊ぶなんて、やっぱりろくなものではないわね。
「お前の出番は無いぞ、人間」
「心底そう願いたいものね」
 夜空を制す眼前の光の大樹は、その異様を急速に膨張させながら、人間と妖怪を包み込まんとしていた。

      4

 綴れ織りのトタン屋根のような闇の森を睥睨しつつ膨れ上がっていく巨大な、淡い光。
 朧に霞みながら、風で揺らめきながら。
 それは立てた扇子を左右へゆっくり開いていく様にも見えた。
 夜風に吹かれるたびに、泡沫の如き光を振り撒いている。
「こういうのを人の夢というのかしら。抒情とさせる幻影よね」
「確かに、未知の現象に己の抱くぼんやりとした印象を重ね、わざわざ不吉に捉えるなどと愚かな真似をするのは、人間だけだろうな」
 皮肉を篭めた口調の八雲藍の姿は、先程までよりも何処か希薄になっているように見える。ありていにいって幽霊と変わらぬ存在感だ。霊夢は軽く目を擦って、上空に陣取った八雲紫を振り仰いだ。
 小柄な橙を肩に乗せ、虚空にたゆたう紫は、微笑を湛え眈々としている。
「急かして連れ出しておいて、自分は高みの見物を決めこむ気なのね。お賽銭も入れないくせに」
 睨み付けるも紫は答えない。
 藍もまた同様だ。
 妖怪との腐れ縁は減る気配すらないだけに、まともに腹を立てるだけ損だということは霊夢もよくわかっている。
 憤懣やる方ない様子で広がっていく光に向き直り、懐に手を差し入れて――そこでやっと気づいた。
「……あー。大事なもの神社に忘れてきちゃったじゃない!」
「虫除けかしら?」と紫。
「違う!」
「なんであれ、虫除けの方が役に立ちそうだけれど」
 前方の輝きが加速度的に増した。誘蛾灯の揺らめきがスポットライトの鋭利にとってかわる。
 光の樹から伸びた巨大な枝が八本指の手のひらと化し、眩しさに目を細める霊夢を握りつぶそうと、四方八方から包囲を開始した。
 霊夢は握ったままの護符に念を篭めて、接近する魔にかざす。
「散!」
 互いを飲み込む二匹の蛇のような印が夜空に描かれたかと思うと、突き出した霊夢の手を中心に渦を巻く疾風が発生して、光塊を切り刻んだ。
 巨人の手は一瞬でばらばらになり、
「蛍?」
 大気の塊に押し流されていく明滅は、無数の蛍の集合体だった。
 そして、闇の中を飛び交うのは蛍だけではない。
 羽虫、巨大な蛾、蝗――羽を持つありとあらゆる蟲が大気を覆い尽くさんとしている。
 四方八方に飛びまわっているのに、その動きは統率が取れていて不自然だ。
「夜を舞い空を蠢く者たち、わたしの言葉に耳を傾けるといいわ――」
 メゾソプラノ。声と共に光輝の中心からわき上がる、少女の形。
 それは人間ではない。
 緑の髪の少女を模した、妖怪という夜の彷徨者。
 彼女を中心にして、一端散り散りになった蟲が明快な意思を以って再び集う。
 地上からは森をも超える巨大な百足が龍のように立ち上がり、天空からは月さえ覆い隠す雲霞の大集団が迫ってくる。
 その蠕動が、その羽音が、海嘯のようにドロドロと地を轟かせる。地が揺れる。
「これ全部、虫なの」
「あまり見ていて気持ちのいいものではないな」
 霊夢は虫を毛嫌いする性格ではないものの、無数の虫が空間を覆うことへの生理的嫌悪感からは逃れられず、少しばかり顔をしかめている。藍も表情は変えないものの、肯定するように頷いた。背後から紫の声が聞こえる。笑っているようだ。
「ね、いるでしょう? 虫除け」
「ああほんとうね。森全体で無差別に焚いて全部燻り出したい気分だわ」
「人間って本当に極端な思考しかしないのね。目的の樹まで燃やしてしまうつもり?」
「何の事件も起きないのもむかつくけれど、蟲の大群なんてはなからお断りだもの」
「そうねぇ」
 蟲の大群に包囲されても、人間と妖怪の会話が一向に終わらないのを見て、景気よく登場したはずの襲撃者は両手を振り上げて不愉快そうに罵った。
「ちょ、ちょっとちょっと! 目の前にこーんな大妖怪が出現しているのに、無視するなんて酷いんじゃない? しょぼくれた人間と妖怪の分際で」
「……洒落なの?」
「洒落かしら」
 霊夢と紫は顔を見合わせて首を傾げた。
「洒落じゃない! もういいや、蟲にたべられちゃえ」
 中性的な相貌の妖怪少女は、蛍の柱が差し伸べた枝の上に立ち、霊夢と藍に指先のスペルカードを突き付けた。
 周囲を飛行する蟲が光球となって列をなし、直角に方向転換しながら二人へと殺到する。摩擦熱で燃え上がったかのように蒼い炎を上げたのは、妖怪が好んで遣う霊化攻撃――妖弾と化したからだ。儚い蟲の命を蝋代わりに、悪意そのものが爆ぜて人間の命を付け狙うのだ。
「下手な鉄砲数打ちゃ当たるって言葉、考えた人尊敬するわ!」
 巫女は先程とは違う色の護符を四方に向かって投擲する。それらは一定距離をおいて神代文字の描かれた蒼い障壁となり、直方体を描いて霊夢を覆い隠した。妖弾がいくら近づいても、霊夢に近寄ることが出来ない。壁に阻まれてむなしく燃え上がるばかりだが、何しろその数が尋常ではない。霊夢の周辺はさながら蒼炎の篝火といった様相を呈している。
 一方、八雲藍に襲いかかった蟲は、まるでホログラムを引っ掻くかのような有様で、一向に実体を捉えられなかった。思考能力のない蟲だけに、いつまで経っても攻撃の無為さに気づこうとしない。
 それはまた、攻撃を指示する少女の器量をも示していた。
 愚かな敵を哀れむように、藍は一直線に蟲使いの少女へと近づいていく。
「あ、あれ? なんで……」
 己の攻撃がさっぱり効果を成さないことを、少女が慌てる間も有らばこそ。
 雲霞の大集団も、龍のような百足の集合体も、少女が逃げ込もうとした蛍の光の柱もすべて透過して、藍は少女の眼前に屹立した。これでは逃げようがない。藍の腕が無造作に少女の首根っこを掴む。
「うわぁ、……お、お前、なんかおかしいよ」
「失礼な奴だな。私は完璧だぞ。紫様の式神なのだからな」 
「式神? あいつが本体なのか」
「ああ、云っておくがその浅慮は早々に撤回した方がお前のためだ」
 果たして、妖弧の言葉が哀れな少女の耳に届いたかどうか。滲んだ月影のさなかに浮かぶ妖怪を攻撃すべく蟲に指示を出したその指が、何者かに掴まれた。
「ひっ」
 なんと、空に不自然な裂け目が発生していた。無理矢理手を突っ込み、引き剥がしたかのような、虚空の裂き瑕。そこから伸びた赤黒い、鮮血で斑に染められたような人の手が、少女の腕をがっちり握って離さない。
「な、なんだよ、これ」
「飛ばなきゃ火に飛びこむこともないのよ。でも蟲じゃねぇ――」
 紫が目をすっと細めた。
「そこまで!」
 結界を解いた霊夢が、抜いた祓串を紫に真っ直ぐ向けている。
 同時に八雲藍が霊夢と主人の間に割って入る。視線に妖怪の獰猛さをむき出しにして。
 八雲紫は微笑を絶やさぬまま。
 周囲を蛍と羽音が乱舞する異様な光景。光が通り過ぎるたびに三者三様の表情が浮かんでは消え、紫の肩に座った橙が少し身を固くしている。
 最初に口を開いたのは妖怪の賢者だった。
「妖怪退治は巫女の務めよ。少しばかり私もでしゃばったけれど、貴女に止められるとまでは思いもしませんでしたわ」
「あんたがやると容赦無さすぎるからね」
「たかが妖怪でしょう? 今まで妖怪と見れば見境なくぶっ飛ばしてきたくせに」
「まあ、一寸の虫にも五分の魂よ。こんなでっかい虫の魂なんて大きくて、散らかったら片付けるのが面倒だわ。ねぇ。繰り返し何度も退治するなんて大人気ない」
「巫女が大人とは片腹痛い」
 藍の皮肉を霊夢は聞き流すが、捕獲された虫の妖怪はコクコクと何度も頷いている。それはもう哀れになるぐらい必死に。
「……まぁ何度も湧く虫も悪いけどね。迷惑だし」
「仕方ないじゃないか! 虫なんだから。虫だって生きてるんだから! 放って置かれてもそのうちさっさと死ぬし」
「それはもう。たかだか1.5センチだからねぇ、五分の魂」とは紫の弁。
「ああ、それじゃ大きくても知れてるわね。やっぱり退治しようかしら」
「またセンチ換算! もう禁止にしてよ!」
 ひとつ息をついて紫が扇子をパチンと閉じると、虚空に湧いた混沌の隙間は白昼夢のように掻き消え、妖怪少女の戒めは解かれた。同時に式は開放され、八雲藍の姿が現実感を取り戻す。森の至る所から集結した虫たちもまた、三々五々と生活圏へ戻っていった。仮初に光の大樹を構成していた蛍が清流を目指して散ったため、暗黒のような森が一時、電灯に燭された聖誕祭の樅の木のようにデコレーションされていった。
 霊夢が首の骨をポキポキと鳴らす真似をする。
「まったく、何もする暇がなかったじゃないの」
「何にもする気なかったくせに」
「持ち合わせが少ないのよ。誰かさんが無意味に急かしたからね」
「まぁまぁ、お互いに落ち着いて……どちらにしても争いごとはよくないよね。うんうん。ささ、私もねぐらへ」
「頭の良い虫が学習することはあってもいいと思うぞ。閻魔様もきっと喜ぶし、魂もその分膨らんで一石二鳥だ」
 逃げ出そうとした襲撃犯の首魁が、再び妖狐に首根っこを掴まれて、手足をバタバタとさせた。霊夢がその怯えた瞳をじっと覗き込む。
「さて、あんな派手な攻撃を思いついたのは、森の中で珍しい樹でも見つけて興奮しちゃったからでしょう? 案内ぐらいはなさいな。でなければ今度は森に噴霧式殺虫剤でも振りまくわよ」
「ひぇぇ」
「……私よりよっぽど物騒じゃない。化学物質は環境にやさしくないのよ」
「やさしい自然なんてどこにも無いわよ。それにそう思うんなら、霖之助さんのお店にいって買い占めることね。そう多くはないみたいだから」
 霊夢と紫はそれぞれ、まるで妖怪と人間のような表情をした。

      ☆

「おっきな樹……」
「全くね橙。立派で素晴らしいわ」
 開放されるなり這々の体で遁走した蛍の妖怪を無視して、人間と妖怪たちはその大樹を見上げている。
 背は三十メートル弱。節榑立った幹は翁の顔面のように歴史を刻み、枝は逞しく筋肉を備えた醜男のように天を衝く。尖った葉を茂らせた様は一つでれっきとした峰のようで、張り出して絡み合った根は今にも歩き出しそう。深海の奥に棲むという混沌の王者をも連想させる堂々さであった。幹の中央には大きな洞があいていて、風が吹き込む都度、何事かを喋るかのような低音を鳴らしている。
 霊夢はノックをするように、幹をコンコンと叩いた。くぐもった反響が耳朶を打つ。
「結界を越えてきたのはこの樹なのね」
「間違いないでしょう。多分、外界において何らかの原因で倒れてしまったのでしょうね。でもそれは多くの人に予期されうるものではなかった」
「もう外に、こんなに古木の杉なんて残っているとは思われてなかったのかもしれないわね。幻想郷にならこれに比類する樹も幾つかあるけれど」
「一時はニュースになっていた頃もあったようね」
 紫が隙間から取り出したのは、外界の古新聞だった。蓬莱の南方に浮かぶ巨木たちの島で、有名な杉が倒れたという話題が小さく載っている。樹が倒れたことが話題になるほどに、歴史を刻みし者たちは少なくなっている。この樹がどこ由来のもので、何故幻想郷に渡ってきたのか。古びてごわごわした新聞紙の時間から、外は更に歴史を刻んでいるのだろうか。それは引き続く人間の歴史なのだろうか。
「まぁ、樹の心が幻想郷に馴染めば問題ないでしょう。ここでなら塩土翁にも届くかもしれないし。裂けた結界の穴も見つかったから、貴女が修繕すればこの事件は終わりね」
「たまにはあんたも働きなさいな、式神や私ばかりを動かそうとしないで」
「私には帰って休むという仕事があるのよ。だいたい、夜は寝る時間ですものね」
「妖怪の言葉にも身の程というものを知るべきよ」
 たおやかに笑う紫。空中での位置と同じ場所に八雲藍が控えている。
 その姿が一瞬だけ二重三重に歪みだぶり、干渉波的なノイズが趨る。
 一瞬だけ。
 元に戻る。
 その場にいる藍にも橙にも、紫自身も気づかない、他の何者にも見えぬはずのない現象。
 ただ、博麗霊夢にしか察知しえない。
 少しだけ眉をひそめて。

 ――そうか――違うのか。

 霊夢は再度、訪問者を見上げて、その幹に手を当てる。
 遠い昔、誰かが何処かでそうしたのを真似るように。
 (私が『ここ』で探しているのは、この樹じゃないのね。でも、だったら、私は今、いったい何処にいるというのだろう)
 ふとすると、せせらぎの音を求めている。
 ここより流れいでて、自分を何処かへ導く水の流れを。
 迷い子の自分を有るべき場所へと連れていってくれる、その幻想の音を。
 ……二千年の歴史をその身に刻み、向こう千年生きるために幻想郷に根を下ろした蓬莱の巨木。その樹陰を超えて視線を登らせてゆくと、月光の下に巨大な浮浪雲が掛かり、山脈をも眼下に従えるが如き幻想の大樹すら想像させて。
 博麗霊夢は東よりの風の冷気に、体の内よりくる僅かな震えを感じた。

      ☆

 迷いの竹林のその奥の。
 沈黙という衣を纏った日本屋敷の庭園で。
 今宵も遥かな故郷を仰ぐ姫がいる。
 遠くからは月を遠ざける例月祭のお囃子。兎たちが餅を撞く杵の響き。
 水の中のようにくぐもって聞こえてくる。
 優曇華の盆栽は今日も実を付けぬまま黙して枯れてある。
 さざめく竹の葉擦れのその上空。
 真ん丸い月の中に、人間と妖怪の影がある。
 神社の方角へと飛び去ってゆく。
 二つの影が重なったり遠ざかったりするその様子が、まるで月を目指した人間のちっぽけな船のようで。
 着陸船と指令船のランデブーのようで。
 姫は凝った息を小さく吐いて、月光に身を委ねていた。

 ここは東の山奥の彼方に有る、小さな小さな世界――。
 霊的で観念的な結界によって守護され、外界からもおおよそ完璧に遮断されている。
 だが一方で不思議なことに。
 外の世界で失われた動物や物品や、場合によっては人間や妖怪が、この場所では色濃く息づいている。
 歴史から隔絶されて。
 だからきっと。
 ここは理想郷にあらず、ただ数多の幻想が夜に昇華する場所。
 だから、きっと。

 遠く東の果ての山奥のこの里を、思慮深き日本人はそっと――幻想郷と、呼ぶ。