■あるいは、遷移軌道2065              【Music Plan】


 これは私の光景、それとも錯乱が見せた狂気。
 空気のない、音のない世界に仮想の音符が乱舞している。
 光は音、粒であり波であるから。
 その遠くに傘をさした妖怪が流れゆくのを、垣間観た。

 ……漆黒の円い影が荘重な指輪のように同心円状の光を帯びていく。額に納められた宝石のように宇宙に輝くのは、銀河の辺境にあるこのありふれた惑星系の主――太陽。空気の層に遮られることなく、生まれたままそのままの凶暴な光を四方八方に放出している。
 光はやがて、影を白日の下に晒す。
 光から分離する影の円は、球となって立体と化し、
 光は闇から浮かび上がる者をプリズムに溶かし、
 青の幻想として選び出す。
 漆黒の虚空に浮かびあがる天空の珠。太陽から光速で八分という絶妙な距離が生み出した、宇宙の奇跡。真っ青に白い縞が幾重にも渦巻く、僅かに歪んだサファイア。
 地球と呼ばれる。
 その影から、小さな小さな物体が浮かんで来ようとしていた。軌道斜傾角六十五度の楕円軌道をほんのわずかな螺旋に刻みながら、見た目にはゆっくりと、実際には疾くありて。
 直径五十八センチの球体に、何本かのアンテナが付けられただけの、頼りない金属加工品。前世紀に極北の大国から打ち上げられ、たった二十一日だけ決められた電波を発信し、その後大気圏に再突入して燃え尽きた人類初の人工天体。人間が千年を掛けて構築した科学が、重力を振り切って天に背を伸ばした最初の爪痕。
 今それがゆっくりと自転しながら、地球の影を横切っていく。だがこれは最早存在しないはずだ。今はもう、遠い歴史の中にしかその姿を留めていない。
 ならば、これは、やはり、
 ――幻想なのか。
 誰が観ている幻想なのだろうか。
 地上人の科学が生み出した幻想なのだろうか。
 それともやはり……私しか観ていない狂気なのだろうか。
 「衛星」と名付けられた幻は、地球の影へと溶けるようにして消えていく。
 そして、その軌道を追うようにして、
 ……いや、その軌道をゆっくりと踏み外すようにして、複数の人工物が星海を渡る。
 無骨な多面体を二、三個組み合わせたような奇形の魚。
 重力下においては全くもって非合理的なその形状はしかし、至る所に軌道制御用の小型ノズルが備え付けられ、大気圏外の機動に適応することだけを目的として建造されていた。ただ虚空に於いて自由に動けさえすれば存在目的は達せられるだけの、無骨な。
 背後に付けられた巨大なバーニアは、先程の噴射でその目的の四分の一を使用してしまった。あとは決められたところで減速し、帰還の際に同じプロセスを繰り返すだけの代物だ。
 巨体の下部には、凶悪に尖ったロケットがいくつか、小判鮫のように配してある。それが推進機の類でないことは、船体基部とロケットとの接合部の意図的な悪意をみれば一目瞭然だった。
 無言で鎮座する破壊兵器の頭頂部には、千九百年代初頭の無声映画の一場面をあしらったエンブレムが刻まれている――円い顔にしかめっつらを浮かべた老人の顔と、その左目に叩き込まれた弾丸。その下に陽気に書き込まれている文字、


 "Welcome to the Moon!"


 ――地上に住まう人間にとって地球と月との歴史は、十九世紀までは神秘の領域、二十世紀の科学を用いた革新、そして二十一世紀に悲劇的な断絶として語られている。
 千九百六十年代の到達と、
 千九百七十年代の挫折と、
 二千二十年代の再挑戦と絶望。
 そして遂に彼らは、月が無限の恵みを与えてくれる存在でないと認識するに至った。それまで秘匿され一部の国家の機密とされた、もっとも近くにいるもっとも遠き隣人の存在は、度重なる戦闘と地表への被害によって公にされた。
 つまり――月の裏側に、人間とは違う知性体が暮らしている。
 発達した独自の文化を形成している。
 彼らは、人類に対して良い感情を抱いてはいない。それどころか、月探検を妨害し、幾度となく悲劇を繰り返し、最近では地球の静止軌道付近に出没して、人類の営みを妨害するまでになった。まるで地球に人間を封じ込めようとするかのように。
 巨大な人工衛星が都市部に落下し、未曾有の大惨事が発生すると、SF作家によって何度も描かれたフィクションが、人間にとって著しく不毛な現実になった。
 そして、人類は月を仰ぎ見ることを止めた。
 月を憎むようになった。
 宗教も慣習も遠き禁忌と成り果てた。
 過去数千年、数万年に渡り、
 太陽と比肩する天の守護者とされてきた夜空の白い星は、たったの数十年で憎悪の対象になったのだ。
 あるべき歴史の客観性は感情によって簡単に書き換えられてしまった。
 ホモ・サピエンスは、他者の構築した文明との融和を早々に諦めた。月は冒険の対象ではなく、征服すべき野蛮な蛮族の住処にまで堕ちていった。信じられないような暴論が、光の網目を通じて全世界で語られた。平和な時代にあれだけ熱っぽく語られた異文明との接触の未来は、危機感によっていともあっけなく葬り去られた。
 時は充ちた。
 人類による鉄槌を、人の科学の勝利を、人の世の永続を。
 声高に叫ばれる中、戦闘のみを目的とした宇宙船群が、かつて夢と希望を抱いて冒険者が航海した同じ道を通って、母なる星の唯一無二の随伴者へ。
 かつて死の国とも黄泉ともいわれた小さな衛星へ。
 その懐には、月面を掘り進んで炸裂し、連鎖反応によって地中深くまで掘削する殲滅兵器をやさしく抱いて。
 ――そう、私はその形を覚えている。
 それは過去に観たものに相似だから。
 一番最初に人間が月に降り立とうとしたあのちっぽけな船にそっくりだから。

 そしてそれを、私自身が撃ち落としたのだから。

 地月間に結ばれた虚空の血路には、もはや遮るものなど皆無。科学は死への恐怖をその物理法則によって超克する。今となってはもう、戦地に赴く彼らに方向転換の手段すら与えられていない。
 ギロチンの紐は切り落とされた。
 夢や幻想を燃やし尽くす為に、地上人の希望が、私達にとっての絶望が、列を成して虚空を進む。その先にあるのは、千年の時を経てもその貌を変えることなく等しく、太陽の光を浴びて純白に輝く、まあるい、大きな、月。
 ――だがそれは、
 人類が誰も気づかないぐらい、月で待つ人々にすら悟られないくらい、
 ほんの少し、ほんの少しだけ――欠けている。
 ………………。
 それは、ただただ、
 悪夢のように美しい光景で。

 ――こんな。
 見たこともない、聞いたこともない、はずの、
 こんな光景を幻視するようになったきっかけは多分、あの事件の最中だった。
 永遠亭に人間と妖怪とが協力して攻め入ってきた、あの永遠の夜。
 私が幻想郷に暮す者として知られるようになった『昔話』だ。
 師匠の秘術によって偽りの満月を浮かべた夜、愚かにも迷いの竹林によって散々時間稼ぎをさせられたあいつらは、それでも丑の刻になる前に永遠亭に辿り着いた。私が知る限り、私自身以来の訪問者だったはず。
 姫の力によって千年以上も時のない静謐さに包まれていた隠れ家は、火のついたような騒ぎだった。
「……戦うと死んじゃうかもよ? 私みたいに健康でも利口でもないあんたはさ」
 かつてない防戦体制で奇しくも有史以来の生気に満ちた永遠亭のさなか、因幡てゐがそう笑ったのをよく覚えている。
 私とは違う地上の兎。
 いつも意地悪く笑っていて、自分では絶対に損をするように立ち回らないのだけど、何故だか完全には嫌ってしまえない不思議な存在。
「大丈夫だよ。私は月で鍛えられたし、ここに来てからも相応に役に立つように言われているのだから」
「ふぅん。真面目なんだね」
 そう答える私はその時、すごく興奮してた割に、とても平坦な感情だったのを覚えている。多分、月でもそうされるように、戦いに臨む兎たちへ処方される薬を飲んでいたからだろう。ある程度の人工的な狂気は戦闘の恐怖を和らげるし、自己を脅かす本物の狂気に精神を穢されることもなくなるからだ。その頃の私は、それを至極当然のことだと思っていた。
 だから……てゐの呟きの意味をちゃんと思い出したのは、ずっと後になってからだ。
「じゃあ、なんでこんな所まで来たのさ。月にいようが地球にいようが、やることが同じだとしたら」
 ――でも、その時あの子が本当にそう独白したかどうか、記憶がなんだかとてもあやふやで。あやふやであって欲しくて。私は今に到るまで、てゐにその真偽を確かめてはいない。
 

「穢き所に、いかでか久しくおはせん。」
 そう聞こえたのちに、閉ざされた扉は一枚残らず開き――

 そして。
 無限へと続く廊下に、人間と妖怪は姿を見せた。
 千年前より変わることない決まり文句、姫を迎えに来た月の使者たちへと対峙する時の為の言葉を、私は叫ぶ。
「――遅かったわね! 屋敷にある扉の全ては封印されたわ。もう、姫は連れ出せないでしょう?」
 紅白のやたら目出度い格好の巫女が呆れたように肩を竦めた。
「犯人はこいつかしら? ただの兎みたいだけど」
「さぁねぇ。取り敢えず倒してみたら? どっちにしろここにいるはずだし」
 近くに並んで浮かぶ紫色の妖怪も、付き添う従者たちも、激戦をくぐり抜けてきたようにはみえない。永遠亭がこんな奥まで他者の侵入を許したことは無かった。これまでは。危惧していた月の使者ではなかったけれど、その脅威の大きさに私は興奮を高めていく。
 どうやら博麗の巫女と妖怪の賢者は、私の師匠が地球全土にさえ及ぼした「地上の密室」の秘術を感覚的に感じ取り、その意義も意味も考えずにここへ翔んだらしい。
 大昔に妖怪の軍勢が月へ攻め行ったというのは聞いたことがあったし、壮麗な月の術によって完璧な返り討ちにあったのも知っていたから、殊に妖怪については見縊っていたのは事実だ。今にして思えば私の態度もやたらと大きかった。
「とにかくなんとかしなさいよ。よくわからないけど」
「勿論満月のことよ。よくわからないけれど」
「ああ、欠けた月の事? それはね、私の師匠のとっておきの秘術なのよ。判るかしら?」
「判る訳ないじゃない。なにも説明されてないのに」
「――そうよね。説明なんて騙される者に必要なわけないじゃないの。それに、満月を無くす程度の術なんて、とっておきでも何でもない」
 いつの間にか、背後に師匠が浮かんでいた。
 妖怪と巫女の視線が厳しくなるのが見て取れた。
 師匠に敬意を払いつつ、なんだか馬鹿にされたようで、私は一層興奮する。羞恥と狂喜の入り混じった危険な感情。目を赤く爛々と輝かせて。
「霊夢……こいつが犯人だわ、間違いない」
「そう? ……そうかしらね……?」
「さぁ、この歪な月を元に戻してもらいましょうか!
 妖怪の傘で指弾された師匠は、尊大に、だけどたおやかに微笑んでいる。
「それはまだ早いわ。今、この術を解く訳にはいかないの。時のないこの場所が後悔と失意で満ちる時間まではね。――さて、ウドンゲ。荒事と狂気は全てお前の仕事でしょ? ここは任せたわよ」
 そう言い残して、師匠の姿が闇の奥へと掻き消える。
 私は胸を張って答えた。師匠がもう聞いていないと知りつつ。
「お任せください。閉ざされた扉は一つも開かせません」
「逃げたって一緒よ。どうせ、こいつを倒して追う事になるんだから」
「そうねぇ。それにこいつ倒しても満月は戻らなさそうねぇ」
「ふん。お高く止まるのもそこまでよ。あなた達に全て見せてあげるわ、月の狂気を!」
 巫女が訝る。
「月の狂気?」
「月に来た人間を狂わせた催眠術。あの人間は弱かったわ」
 私は思い出す。
 太陽神の名前を授けられた宇宙船が、月の上空で木っ端微塵になるその様を。
 銀色の花火となった地上のちゃちな乗り物へ、仲間たちと嘲笑を送ったその時間を。
 紫色の賢者が目を細める。
「……こいつ。危なそうね」
「月は人を狂わすの。人は月に狂うの。妖怪だって例外じゃないわ。そう、月の兎である私の目を見て狂わずに居られるかしら?」
 私は根拠のない自信に胸を張る。
 狂気にとりつかれていたのは自分だというのに。
 私はピストルのように指を付き出して叫ぶ。

 赤眼催眠―――

 指先から離れた弾丸が、奴らの視界で揺れながら包囲する。見えている時に回避すれば見えていない時に死のタイミングに踏み込み、不可視の領域を見切って飛び込めば自動的にチューニングして視覚から敵を追い詰める、月の兎の狂気の弾丸。
 一秒ごとに生存可能な空間を破砕する技。
 私の目を見なければ催眠には屈しないが、私の放った攻撃は空間をただ真っ直ぐ飛翔してこめかみを撃ちぬくだけだ。
 一瞬驚いた人間は一歩後退し、
 妖怪は不敵に笑って傘で空間を薙いだ。
 その先端が指示する通りに、黄色の鎌鼬があらぬ方向から飛来して私に迫る。
「………!」
 妖怪の従者か――!
 それにしては、殺気どころか気配も感じなかった。
 私は一瞬不意を突かれたが、定石的に視線を黄色の妖怪に投げる。瞳の中に残像を焼き付けて、相手の脳が処理をしている間に敵の視覚へ飛び込む、月の兎の擬似的な瞬間移動。
 だが。
 敵は残像に気を取られることもなく、出現した私に直角的な軌道で対応していた。回転しながら円盤のように猛襲するそいつの動きを腕を交差させて止める。多くの尻尾を生やした金髪の妖怪の瞳に意志の光はない。まるで、とっくの昔に月では使われなくなった、電子頭脳に指示を受ける機械兎のよう。
 感情もなく、余地もなく。
 数値を代入すれば答えが導かれる計算式そのもの。
 地球の技術に、月のそれとの相似を覚えて戦慄する私。
 私が誘導する弾丸はすでに全部、床や天井や襖へと弾着していた。
 人間と妖怪に一撃を加えることもなく。
 あとから届いた連続する轟音が、私の大きな耳をめちゃくちゃに揺さぶった。
 黄色の妖怪の肩越しに、それを使役する紫の女が見える。
 凶悪で妖艶な笑味を浮かべていた。
 浮かぶ恐怖を増幅された狂気が抑制する。
「どいて!」
 指の先から伸びる鋭利な爪で私の首を執拗に狙っていた被使役者を渾身の力で蹴り飛ばし、再度視線に力を込めた。

 生神停止――――

 刹那、
 すべてが止まった。
 時間は止まらない。私の力では時間を止められない。
 ただ、光の波の調節によって、秒速三十キロメートルの光すら、鼓動を感じさせる音さえもが止まったような錯覚を対象に与えるだけの術。ただし理由は奴らの外界にあるので、超越者であってもこの錯覚を初見で躱す手段は理論上存在しない。神的存在が外界に超自然的な力を行使するとしても、時空に干渉するには一般相対性理論の鎖を解く猶予が必要だから。
 案の定、動きが止まった。
 すかさず全方位に弾幕をばらまく。再び永遠亭の回廊が殺気で埋め尽くされる。
 停止解除、
 同時に呼び戻された使役獣が、賢者の周囲で私の攻撃を打ち払う。
 私と距離を保ちながら霊術の札を構えていた巫女が、突然現れた攻撃を素早く潜り抜ける。
 だがそこは、
 そこには。 
 慎重を期し、幻影を多重化して接近した私の、まさに眼前で。
 驚きに大きく見開かれようとしたその両のまなこを逃さぬように、
 両手で彼女の顔をしっかりと握りしめた私は、
 瞳の奥の眼底の、網膜の一番刺激を受けやすい中心部に。
 赤色の狂気を叩き込んだ。
 紅の憎悪を叩き込んだ。
 私の心の奥底から吹き上がる激怒を叩き込んだ。
 復讐、復讐、これは復讐だ。
 浄土たる我らの月、真実の月へと踏み込み荒らし殺した人間への。
 お前にも月の狂気をくれてやる。
 あの人間たちがそうであったように。
 これから月を訪れようとする者、月に手を伸ばそうとする地上の者全てに、月の恐怖を敷衍するために。
 そう。
 月はすべてを睥睨するのだ。
 かつてそうであったように、これからもそうであるように。

 狂視調律――――

 私は真っ赤に輝く瞳で巫女を見据えた。
 視線で射抜いた。貫通させた。
 彼女の脳髄に、私自身ですら直視できない狂気の幻影を焼き付けるために。

 調律、調波。
 チューニング。つまみを撚る。
 同期。同期。
 互いの右手同士が掴み合うように、
 狂気が人間へ抵抗もなく流入する。
 そのはずだった。

 同期完了――視界が鮮明になる。

 なのに私は鏡の前に立っていた。
 真ん丸の満月のような、巨大な銅鏡。
 長大な天の龍が彫り込まれ、穢れて醜い自分の姿を余す所なく曝け出す姿見。
 地上には存在出来ぬ、月の魔法鏡。
 自分の姿はくっきり映しているにも関わらず、その向うからまるで幻燈のように浮かび上がる宇宙と地球と、その衛星軌道上。
 死の綴られる世界。
 月へ向かって見た目は一直線に、本当は巨大な曲線を描いて飛ぶ地上人の戦闘宇宙船団。そこへ、私によく似た姿の兎たちが雲霞の如く群がり、攻撃を仕掛ける。
 真空を切り裂く死の弾丸が、宇宙船の船殻を容易にぶち抜き、中にいた人間もろとも細切れにしていく。巨大な宇宙船がくの字にへし折られ、濡れた雑巾の如く捩じ切られる。友軍の被弾を心配して丸く小さな舷窓から必死に外を覗く地球人の瞳を、虚空を舞う月の兎の紅い瞳が捉えた瞬間、人間は脳髄を沸騰させ、脳漿を飛び散らして文字通り弾ける。狭い船内は狂乱状態になるがそれも束の間。さらなる攻撃が宇宙船全体を襲い脆い船壁が破られると人間が面白いように真空へ吸い出されていく。
 だが、これまで月の民との戦闘を繰り返すたびに、地上人の技術は加速度的な進歩を遂げていた。恐るべきことに相手を撃墜する攻撃兵器はもはや、月の民に比肩するまでになっていた。
 宇宙船から放たれた無数の小さな星が、さらに小さなノズルを噴射させて宇宙兎の集団を追尾する。漆黒の闇に光る無数の赤い目はそれらを視認した瞬間、彼女の体からその頭は永久に失われた。燃えるもののない空間ではレーザーは着弾するまで視認できない。頭部だけを燃やした兎の死体は己の首を探すように虚空を滑っていく。
 機械のセンサーさえも狂わせる兎の瞳だが、全自動化された殺人兵器を捉えることができない。それは、カメラアイのレンズに刻印された強力な呪印のせいだった。宗教の意味が希薄化しても、人は他人を呪う技術を進歩させていた。恐るべき穢れと業の深さだった。
 愚かにも警戒して一瞬集合してしまった兎たちに、アインシュタインの短い数式を刃にした人間の巨大な炎が叩き込まれる。反応物が疎らな宇宙とはいえ、それは依然として太陽にも等しく、多くの兎たちが輝きの最中に消えていった。
 無音のはずなのに、そこには仮想の音が乱舞していた。
 戦場にあるべき音が空間に響いていく。
 ただ無計画に、無造作に。
 一つ一つが命の音だ。
 命が潰れる音だ。
 兎たちの攻撃を掻い潜って防衛戦を抜ける傷だらけの宇宙船。血塗れになった兎の一人がありったけの念力を金属の塊に叩き込む。同時に、力を放出しすぎた月の生き物が躰の内側から爆ぜる。どの兎も投薬で狂気にたぎっており恐れを表情に浮かべない一方で、人間たちは奥歯を噛み締めながら断崖絶壁のワルツに恐懼している。
 それでも、どちらも同じ色の赤い血が丸くなって凍結して、無数の新たな星になる。
 地球と月の間に望まれぬスペースデブリが量産されていく。
 ――これはなんだ。
 知っている。
 観たことはない、無いはずだけど、知っている光景。
 これは戦場だ。私が故郷や友人たちを裏切って逃げ出した戦場だ。自分もこうなることを知っていて、私は逃げ出した。よりによって憎むべき蒼の世界に。同じように月を裏切ったいにしえの罪人を頼ることになるとも知らずに。浅慮と恐怖が私をここに立たせていた。
 それなのに、魔法鏡に映った自分は安易な狂気に逃げ込み、その光景を直視しながら平然としている。顔をそむけることすらしない。自分がこうならないと知っているから? 安逸に守られているとしっているから?
 そもそもどうしてこのような光景を観なければならないのだろう。
 何故、こんな光景を観ているんだろう。
 これは幻視か。幻覚か。それとも現実か。
 その区別すら狂気に炙られてつかなくなってくる。
 ただ、目が離せない。大きな耳が兎の声を、仮想の音を捉え続ける。
 ひとつ、またひとつ、命が音を響かせる。壊れていく。腐っていく。無計画に。何のために――

 その時間、一秒にも満たなかったはずだ。
 だが、それですべてが決まった。
 意識が現実の空間と時間に回帰した私と巫女は、一瞬空中で呆然と見合った。
 お互いの顔を見つめていた。
 その瞳に映った幻視をもう一度確認したいかのように。
 だが、妖怪にとってはそれで十分だったようだ。
 黄色の妖獣が背中を羽交い絞めにし、妖怪の賢者が大きく傘を回転させて振りかぶった時、私は抵抗は出来なかった。
 打たれる瞬間、遠くなったはずの死を朧気に感じた。
 一撃で昏倒させられて転がった私の周囲で、人間と妖怪が会話するのがぼんやりと聞こえていた気がする。意識が遠のく間際のことだ。犯人とか、自殺とか。地上人が使う言葉がお節介にも耳の奥へと入ってくる。もう私にはそれらを否定する気力もなく。
 私を支えた狂気が遠ざかるのが解った。それが怖かった。
 それでも結局、私は死ななかった。死んでいない。永夜の事件が終わって、それ以降もいろんなことがあったけれど、私の意識はまだここにある。
 因幡てゐが人間にもたらすという幸運の雫が間違って私に零れていたのかもしれない。私は人間ではないのだけれど。でもそのかわり、掴みとってしまったあの破滅的なビジョンは鮮明に執拗に、時折脳裏に浮かんでは私を苛んでいる。同じ光景を観たはずのあのおめでたそうな人間は今も、死のビジョンを私と分かち合っているのだろうか。そんな素振りはなく、それを確かめるつもりもない。もう一度あの幻視を観なければならないと知っているから、もはやあの技を人間に掛けるつもりもない。
 私は愚かな上に臆病だった。
 
 彼岸花が揺れている。風が吹くたびにうねっては流れていく。
 これも、狂気が心の奥で反芻されるたびに、よく観る景色。
 竹の花すら無数に咲き誇った、あの六十年目の春の記憶だ。
 無限とも思える真っ赤な曼珠沙華が海へと続く大河のように連なった再思の道で、紅い髪の死神はなんと語っただろう。今はもう、あまりよく覚えていない。
 ただ、あの事件のあとで師匠に教えてもらったのは忘れない。 
 レイセンとは、幻想郷があるこの人間の国が他の人間たちと戦争した時に、海を超えて戦った戦闘機の名前だったのだと。
 狂気の兎が偽の月を背にして空を舞い、敵を撃ったのと同じように。
 だがしかし……果たして本当にそうなのか?
 私は月を護る戦争に参加していたのか?
 アポロを撃墜したのだろうか。
 アポロは侵略だったのだろうか。
 永遠亭で永遠の姫を守るために、博麗霊夢や八雲紫と戦ったのだろうか。
 かつて師匠は姫を迎えに来た使者を殺したといった。いっていないかもしれない。どちらか分からない。私は師匠と同じ罪を負ったのかも知れない。そうでないかもしれない。それでも私には、記憶と幻視の区別が付かない。
 脳裏の光景はそれを正しいといい、もう一方の思い出がそれを拒絶する。
 私は何処であっても、まことの戦場を見る前に月を逃げ去った卑怯者なのだと。

 どちらも正しいような。

 どちらも間違っているような。

 ああ。
 私を育み私に絶えぬ狂気を植えつけた母なる月よ。
 もし私の狂気がこの視界全てを歪ませてしまえるのならば。
 今もこの先も、歪んだ幻視しか見えなくなってしまっているとしたら。
 もう決して真を掴みとれないとするならば。
 もっと大それた、もっと恥知らずな、そんな幻視に指が届くようになりたい。
 そう思う。
 どうしてそう思うかといえば、私はもう否応なしに、幻想郷にたくさんいるくだらない妖怪の中のひとりになってしまったから。妖怪だと思われていても別に人間を襲うでもない、へんてこな兎として暮らし始めたのだから。連環する幻視が私を世界に、そのように繋ぎ止めている。穢土たる地球圏の引力を抜けるには、ここにいる妖怪兎の狂気は脆弱すぎた。弱々しすぎて、消え去ることを選べないくらいに。
 でも。では。
 ここにいる私って誰なのだろう。
 今の私が一体どこにいるのかさえ、正直よくわからないのだけど。
 また、因幡てゐが笑っている。
「――またそんな馬鹿そうな顔をして。賢い兎に騙されちゃうよ?」
「あんたにいわれたくないわ。私を好き好んで騙すのはあんただけだし」
「わたしに騙されているうちが花かもしれないよ」
「……そうかもしれないな」
 今度、あのお説教好きな閻魔様に出逢うことがあったら……あまりなくていいけれど……もしあったとしたら、聞いてみようと思う。
 もう届かない故郷の真なる月と、この地球の、この幻想郷の理がもし同様ならば――
 月の兎が戦争で命を落としても、あの真っ赤な曼珠沙華たちのような花を咲かせることは可能だろうか。
 狂気に満ちた紅い瞳のそのままに。
 そしてそこから逃げ出した私は一体どんな花になるのだろう。
 咲けるのだろうか。

 大気のない冷たい宇宙に死の光が充ち満ちている。
 星にはなれぬ小さな閃光、ひとつの光はひとつの命。
 彼岸へと響きゆく仮想の音符だ。
 曼珠沙華だ。
 そこには今も計画がない。
 私の音も流れない。

 私はイナバ。
 鈴仙・優曇華院・イナバ。
 月で生まれた地球のイナバ。
 餅をつくでも跳ねるでもなく、地球から月へと至る遷移軌道のその最中で、誰に伝えたところでどうしようもない幻視を夢見る、狂ったイナバ。
 時折にしか鎌首をもたげない罪の意識に苛まれる愚かな兎。
 地球の船と兎たちが戦争を連鎖させていくめくるめく死と清浄のビジョンを眼前にして、その凄まじい旋律に今も一人、繰り返し繰り返し――耳を澄ます。