「水の中のエルフ」



 僕はいつもの場所へ向かっていた。
 ソフィやリエールと歓談する、エルフの森への入り口だ。
 思えば、この付近への逗留も長くなっている。
 気儘な旅の途中とはいえ、一箇所にこれだけ留まるのも珍しい話だ。二人との会話でも話題に出ることがあるけれど、エルフ達の多くは人間に友好的じゃない。皮肉にも二人の兄であるジックがその典型例だ。
 その要因が元来どちらにあったのかは定かではないけれど、横たわった柵(しがらみ)は人間社会の中でも見えてくることがある。だから、あえて刺激しないように早くここを立ち去るべきだとは思っている。
 思っているのだけれど。
 ただ、今はまだ。
 あの二人の笑顔の、優しい誘惑を諦められそうもない。
 偶然にも初めて出会えたエルフがあの二人だった僕は、人生に於いて相当分の幸運を使ってしまった気がしている。


 森の中にちょっとだけ開けた場所。
 いつも二人が腰掛けて談笑する切株の上に、リエールが一人で立っていた。
「あれ、リエール一人なのか」
「ソフィ一人の方が良かった? なんか下心見え見えね」
 リエールがにやにやと笑っている。
「そんなこといってないだろ」
「解ってるって。手が早そうなくせに意外と生真面目なんだから」
 訊けば、ソフィは一人で村の頼まれごとをしているという。
「私も手伝えばよかったんだけど、ちょうど入れ違いでね。用事自体はそんなに時間掛からない筈なんだけど、あんたが一人待ち惚けしているのも可哀想だから、まぁ待っておいてあげようかなと」
「リエールは時々優しいな」
「時々で悪かったわね」
「いや、その時々加減がいいんだけどな。リエールがソフィみたいに毎日優しかったら調子狂うだろうから」
「嫌味なの?」
「褒めてるんだよ」
 リエールはちょっと溜息をついて見せて、それからにっこり笑った。
「……でも、普通の女の子ならソフィみたいにしていたいと思うのは解るわよ。実際は、少しずつでも変わっていってしまうもの。私だって小さな頃とは違う。人間の女の子だってそうでしょう?」
「そうだね。人間だといつの間にか成長して突然大人の女性になったりするから、驚くかもしれないな。姿も変わるし」
「あんたが旅人とかやってるからじゃないの」
「そうでもないと思うよ。人間は大人になる時間が短いからね。ソフィみたいに特段物腰が優しい子でなくても、リエールだってその、女の子って感じがするからさ」
「別にフォローはいらないわよ。ソフィは特別っぽいのよ。私や……お兄ちゃんが入れ込んじゃうくらいにね。それにさ、あんたの言葉だとエルフ全体が未成熟っていう意味にも取れるんだけど?」
「違う違う。言ってみればエルフは、長い時間を掛けて濾過した川の水のような、純粋な種族だなって思ってさ。容姿も思考もね」
「なんだか恥ずかしい言い回しねぇ……エルフはただ頑固なだけよ」
「いいイメージで想像するぐらいは許して欲しいよ」
「それならさしずめソフィは川の中で光る結晶ってところかしら?」
「さすがに僕でもそこまでは言えないよ。歯が浮いちゃって」
「ソフィも聴いたら真っ赤になるだろうなあ」
 その時。
 周囲を取り巻く茂みの一角がガサガサと音を立てた。
 僕は旅人の習慣として立ち上がり、リエールはナイフに手を掛ける。
 あちこちを飛び回り、森を掻き乱すような音が響き渡る。
「狼だろうか?」
「賢い獣はあんな音を立てたりしないわよ」
 一瞬の後――
 飛び出したのはいきり立った大柄の雄鶏だった。
 つづいて、葉っぱに塗れた、緑の髪のしなやかなエルフの娘。手には抱え込むように大きな籠を持っている。
「ソフィ!?」
 雄鶏は僕とリエールの中央を駆け抜け、大きな翼を広げて木々の梢に飛び込もうとする。見た目と反比例して敏捷な動きだ。
 それを一目散に追うソフィ。
 速い。
 びっくりするぐらい速い。
 エルフは俊足だという話を聞いてはいたけれど、いつも穏やかなソフィが疾走する姿はあまりにも違和感があって、僕は一瞬だけ反応に困ってしまった。
「ソフィ、どうしたのっ」
「ああリエール、その子を捕まえたいの!」
 走りながら叫ぶソフィ。
 リエールは事情を察したのか、ソフィとは別の方向に走り出した。リエールも又、ソフィに負けず劣らず俊足だ。
「これお願い!」
 ソフィが投げ捨てた籠をリエールが指差す。
 僕がそれを拾い上げると同時に、ソフィはスカートが翻るのも構わずに手近な大樹の枝に手を掛け、一回転して樹上に飛び上がり、枝から枝へと軽やかに飛翔していく。
 僕は籠を持って二人を追いかけようとしたけれど、その姿はすぐに森に溶け込んで消えてしまった。僕自身も脚力には自信があるつもりだったけれど、あの二人にはとても敵わない。奥へと続いていく二人の声と羽音と葉擦れの音を頼りに、必死に樹上を見上げながら森を走っていく。
 時折、張り出した木の根に躓きそうになりながら。
 二人の影すら踏むことも出来ない。
 エルフは森の種族なのだというのを再認識させられる。
 一旦深くなった森の暗さが、向こうで明るくなる。
 これ以上いくとエルフの領域に入ってしまうな。
 頭の中でジックの敵意ある視線を思い出した、その時。

 ドボーン!

 何か大きなものが水没する音、けたたましい鶏の鳴き声に加えて、リエールが大声で僕を呼ぶ声がした。
「――はやく、こっちこっち!」
 息せき切らしながら、森を抜けた。
 森を割って流れるせせらぎ。
 その中央で、暴れる雄鶏を必死に抱きとめているソフィがいた。
 リエールが岸辺で、僕に指を差している。
「その籠にあいつを閉じこめちゃってよ!」
 小川といっても腿の半分ぐらいまでしか深さはない。水は透明で、底で逃げまどう魚の姿が見えた。
 僕が籠を開けると、びしょ濡れになったソフィがこれまたずぶ濡れの脱走者をその中に放り込み、入り口を塞いで紐で閉じた。変わらず羽音を響かせているが、こうなっては一巻の終わりだろう。
「……ああ、ありがとう。助かったわ」
「よく捕まえられたね、ソフィ。引っかかれなかった?」
「大丈夫よ。ただ何とかしないと、って必死だったから……でも、リエールやあなたがいなかったら捕まえられなかった。この子を運ぶようにっていうお仕事だったんだけど、思った以上に暴れん坊で逃げられちゃったわ」
 リエールは近くの幹に刺さったナイフを引き抜いて鞘に収めている。武器の投擲や大声で鶏を捕獲しやすいように誘導したらしい。
「この子が飛びやすい場所を探していたの。川を飛び越える時はどうしても飛ばなきゃいけないから。飛び立った瞬間に捕まえたわ」
「雄鶏相手なら、地上を走ってる時よりも、飛行距離の少ない空中の方が行動が把握しやすいのよね、実は」
「川には落ちちゃったけどね」
 ソフィの後を継いで、リエールが説明する。
「でも、相変わらずソフィの瞬発力はすごいわね。実際には相当難しいわよ、怒った雄鶏を捕まえるなんて」
「僕じゃ絶対無理だな」
「ううん、そんなことないわ。それにあなたやリエールが手伝ってくれたから出来たのよ。ありがとう。すごく嬉しい」
 僕の手を握って満面の笑みで喜ぶソフィ。
 緑の髪が水分を帯びて、雫が滴っているのも気にしないで。
 さっきの活動的で凛々しいソフィも、今の艶やかなソフィも、今まで見たことのない姿で。
 その底知れない微笑みに、僕は言葉もなく見とれてしまう。
 腕を組んだリエールが、そんな僕らをニヤニヤ笑いで見ている。
「ソフィ……喜ぶのは良いけれど、びしょ濡れのせいで体の線が出ちゃってるわよ。ほらほら、その豊かな胸なんか特に見事に」
「え……きゃ、きゃあああああああああああああああ」
 同じ顔をした娘の言葉の意味を察知しすると慌てて胸を押さえて、水の中に座り込むソフィ。
 川の中から不思議な光が浮かんできて、ソフィの周囲を飛び回り始める。
 精霊も又、エルフの姿を楽しんでいるのだろうか?
 リエールが言う。
「これがさしずめ、『川の中で光る結晶』って奴かしらね」
「……違いない」
 僕とリエールは顔を見合わせ、それから吹き出して遠慮無く笑った。
 何のことだか解らないソフィは、自分を抱いたまま頬を赤らめ、きょとんとしている。
 その表情もまた、僕の見知らぬソフィだ。


 ……ああ、やっぱり。
 もう少しだけ、ここを離れたくないと思う。
 この二人と、この二人を取り巻く世界をもっと知りたいと思う。
 願わくば……ゆっくりと流れゆくエルフの時間が、僕のこの些細な欲望を許してくれるように願うばかりだ。


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