■ 或る妖怪の死 ■
皓々とした満月の夜。
森を縫うようにして蛇行する一筋の獣道。
草を分け崖に沿い、いまにも消えそうになりながら続くその線を追って歩いていくと、やがて幅が一メートルぐらいの清流に突き当たる。
せせらぎがかしましい喋り声を岩に瀬にぶつけあう場所に、苔生した倒木が掛かっている。
大雨が降って土石流となって押し倒したのか、誰かが人為を持ってそうしたかのかは定かでない。どうやら倒れた後に渡り易いよう枝を打たれているらしいのは見て取れた。幹の上には人獣の足跡が残っているのが窺える。
丸太橋を越えた向こう側にはこちら側と同様に、か細い道がその身をくねらせていて、更なる森の奥へと続いていく。
遠くから狼の遠吠えが聞こえてくる。
闇に梟の真ん丸な瞳が光っては消える。
そこは整備された道ではない。
本来は意味のない斑な空間だっただけのかもしれない。
ただ――
川にその橋が架かったことによって、いかな闇の中であってもそのルートが完全に消え去ることはない。
☆
……他の妖怪たちがそうであったように、彼女が自分についておおよその把握を終えた頃には既に、彼女は十全として存在する妖怪であった。自分の姿が普通の人間、より具体的には人間の少女とほとんど大差ないものであることを彼女は自然に受け入れ(そもそも「彼女」という認識だって当該の姿でなければ成立し得ない指示語であろう)、同時に妖怪としての本性、衝動が自分を常に突き動かしていること、他方それが自分の理性を脅かす程のものではないことも確認した。彼女は地に立って世界を見回すが、それと同時に空を舞って世界を俯瞰できることも並列的に認識していた。彼女が彼女としてそうある時点から、彼女には欠落がなく、外見上精神上の特徴があり、己を表現する言葉を宿し、他人の視線を感じ取る社会性を持っていた。少なくとも己の出発点を否定するようなことはなかったし、人間のように無垢という弁解を纏って時間とととも学習する貧弱な存在でもなかった。
あるべくしてそこにあった、彼女は或る一人の妖怪であり、その点で云えばありふれた妖怪といえた。妖怪という言葉そのものが近年になって現れた人間の造語であることを鑑みて言い換えるならば、彼女は個体としての自律的なモノであった。
ただ――
どうして自分がそこにいるのか、とか、
何故人間の少女を模しているのか、とか、
そういう些細な違和感を抱え込んだまま、彼女は永い時間を存在し続けた。
だから、敢えて彼女が他の者と違うということを挙げるとするならば――
そう、きっと、彼女は自分についてよく考える程度の妖怪であった。
永い間、彼女は己が本能のまま人間を襲っていた。
惑う人間を狩って本能を満たし、暴虐に抗する人間を打ち倒して自身の身を守る。それは何百年にも渡って明文化されぬまま機能し続けたルールであった。身を任せることが快楽であり必然であった。身体的精神的に己を満たす手段でもあった。
どのくらい前だったろうか、恐らくは近年になってから……そう、二百年とは経っていまい。
妖怪と人間は策謀して日本のある地域のある場所に、主として概念と認識から成る結界――博麗大結界を作り上げた。妖怪は文明的に発展する人間社会に於いて非合理的な存在として駆逐されつつありおり、他方従来からの生活を守ろうと文明的保守を選ぶ人間としても、本来天敵であるところの妖怪との取引が身を守るための選択肢になりうるものだったからだ。勿論、それは人間の賢者と妖怪の賢者による策謀であって、そこに住まう人間たちすべての賛意を得たということではなく、また妖怪にしてもそうであったろう。妖怪の立場にしても、人間から認識されなくなることが自身の存亡に繋がるなどという話を鵜呑みにする者はなかなか現れなかった。通念としては当然であろうけども。
つまりこれは、何をどうしようとも自分の従来の生活に支障をきたすことがないというのであれば、好き勝手にすればいいという追従型の黙認であった。少なくとも妖怪たる彼女はそう思っていた。事実、結界があろうがなかろうが、彼女の生活に変化はなかった。人を襲い、人に怖れられる関係は続いた。
それからしばらくして、幻想郷を吸血鬼が襲撃するという出来事があった。
その場に暮らす誰しもが肌身で感じる程に強力な魔物によって蹂躙された幻想郷だったが、博麗の巫女――人間を護る象徴とされた一種の呪術的贄――によって吸血鬼は封印された、らしい。外向きには幻想郷に住まう妖怪たちによって滅多打ちにされたということだったが、まぁどの立場にも主張はあろう。
永年に渡って強大な力を保持する彼女としては、自分の領域を侵すことがなければ別に動く必要もないと考えていたし、結局のところそういう事態も起こらなかった。そもそも幻想郷は概念の結界によって構成された「空」の入れ物という設計であり、物理的な空間に関しては不自由するべくもない。誰か必要とされる場所は歴史的関係を無視してもとよりそこにある、または発見されるのが通例である。妖怪が人間を攫うせいで人間が爆発的に増えることもない。よって、妖怪同士が相争う必要など元々存在しないのだ。何故、泰然と構えていないのか。妖怪は個であると同時に場所であり現象である。そうしているだけで人間は闇に怯え、また闇に誘われる。それが妖怪の有り様であろう。大昔に月に攻め入った妖怪の賢者といい、ここには自分を主張しすぎる妖怪が多いのは何故なのだろう。
彼女はそういう、妖怪たちの一種の躁鬱のような性質を、若干疎ましく思っている傾向にあった。
だからだろうか、幻想郷の住人としては珍しいことに、彼女は酒を好まなかった。
ことさら他人と関わるのを避けて生きてきた彼女のもとに、件の賢者が訪問してきたのは、吸血鬼の事件が終わって程なくしてからだった。
「貴女も幻想郷に住む妖怪なのだから、妖怪たち皆で取り決めたこの新しいルールに参加していただくわ」
金色の髪と紫の服をまとった、強大な……力比べをするつもりはないが、自分を脅かすかもしれないぐらいには力強い……妖怪の少女は、そういって笑った。以前に逢った時はこのような姿をしていなかった気もするが、以前の姿を思い出させないぐらいには説得力と威厳と妖気とを放つ少女であった。まあ、おおよそ妖怪が合議したなどといっても、実際はこの妖怪がほぼ全部を取り計らったに違いない。おそらく現在の幻想郷でもっとも我の強い者でもあろう。
無碍に断れもせずに嫌々ながら話を聞けばそれは、妖怪と妖怪、また妖怪と人間、場合によっては人間同士が争う場合の闘争方法の様式だという。より華美で、より無駄で、より精神的な圧迫を旨とする、まるで見世物のようなシステムだった。
何故このようなルールを制定したのかと尋ねると、年老いた賢者はニッコリと笑って言った。
「人間と妖怪が対等みたいに戦えるから……というのはまあ、建前。長く見知っている貴女だから教えるけど、本当の所は、この世界の消費を活発に循環させるためなの。これから先、幻想郷はどんどん大きくなっていくことになるわ。世界を計算する式が爆発的に速くなり、世界を記録する電脳が爆発的に大きくなるから。そんな時、あっという間に消費されることもなく、他方、一方で常に一定のペースで使い続けられる、そんな浪費の方法を考えたの。この戦いの儀式は外の世界ではかなり古びているから向いているのよ」
要するに、幻想郷はこれからどんどん拡大していくことになるらしい。その一方で人間も妖怪も消費の領域の分布が定量的に定まっているので、消費されない部分が現れては荒廃することを賢者は憂いている。適度の浪費が文化文明には必要なのだ。
説明された彼女にしてみれば、何故そこまで人間の発展様式におもねる必要があるのか不思議だったのだが、従来通り、自分の生活を脅かすことにならないのであれば別に反対する理由もなかった。それに、これまでの妖怪同士の激突は概念の存亡と上書きを懸けた必死なもので(負けた妖怪という現象は、統合され歴史上の言葉となりやがて消える)、わざわざ異論を唱えてここで賢者と事を構える必要性を覚えなかった。
「まもなく、妖怪たちがルールのある異変を起こすようになるわ。一方で博麗の巫女やその他の人間がそれを退治するように動くでしょう。それ自体が神事だと考えて貰ってもいい。祭事を失った思惟はそれはそれで無残なものよ、いろいろとね……いずれ、貴女の順番も巡ってくるかもしれない。その時はよろしくね」
それはまっぴら御免被りたかったが、言葉にはせず。
暇つぶしに自己のアイデンティティを塗り込めたスペルカードを作り、会敵すれば作法に則って戦う――という約束をして、彼女は賢者を帰らせた。
その後、いくつかの異変が起こった。
最初の吸血鬼と別の者なのか、或いはそうでなかったのかは定かではないが、真夏に幼い吸血鬼が赤い霧を出して幻想郷を冷え込ませるという事件。次に、寝惚けた亡霊が春を独占するという事件が発生し、幻想郷は長く氷に閉ざされた。満月が割れた後で、その月が偽物だったりやたら夜が長かったりした傍迷惑な出来事もあった。
妖怪たちが起こす事件はどうやら、新顔のお披露目を兼ねているということに彼女は気づいた。幻想郷が広がるというのは、幻想郷に於ける要素の多様性を示しているのだと。日本語は縦に書かれ横に書かれ漢字や平仮名や片仮名や間違った英語で書かれ、異国の食文化すらも次々と持ち込まれる。確かに消費の循環は増えるだろうが、本来世界を区切るために設置した結界は機能不全になってしまわないのか。自分はシステムの維持をことさら望んでいるわけではなかったものの、急激な変化には若干の懸念があった。
賢者は一体全体、これを望んでいるのだろうか。
だけどその一方で、彼女の有り様はこれっぽっちも変化しなかったので、特段文句をつけることもなかった。疑問がわだかまるとしても、相互に不干渉でいられるならそれで良かった。
やがて六十年に一度の周期でやってくる、花の事件が発生した。幻想郷が季節を無視して様々な花で彩られる異変である。これは外の世界で多数の死者が出ているという理由がはっきりしているので(しかし結界の影響で毎回数年の誤差が発生するともされていたが定かではない)、長命な彼女が驚くこともなかった。懐かしくも見慣れた光景である。案の定、動きまわっているのは歴史を知らぬ人間や幻想郷に来たばかりの妖怪だったし、それらの人々に自分の居処が分かるはずもなかったので、彼女はいつものように静かに暮らしていた。
すると珍しいことに、花の異変の終盤に、彼女の寝床を幻想郷担当の閻魔が訪問した。何をしたわけでもないしこれから何をするつもりもないのだから、青天の霹靂であった。
「皆が善行を積んでいるかどうか巡回していたのですが、そういえばこのあたりに貴女の館があると思いだしたので訪れてみたのです。音沙汰と天罰は忘れた頃にやってくるというでしょう」
暇で気紛れな閻魔もいたものだと思ったが、妖怪の賢者と同じように古くから自分のことをよく知る数少ない一人であるし、否応なく今後も付き合いがあるので無碍には出来ない。一応歓待すると、閻魔は顔をしかめていった。
「……我が道を行く、自分をきちんと規定するというのはよいことですが、型にはまりすぎて何事をするのも億劫になるというのもまた事実です。馴れ合えというのではありませんが、他の妖怪の動向を知り、時には長いものに巻かれて、己を第三者的に振り返るのも必要なことですよ」
大きなお世話だと思ったが、それが仕事の人に指摘したところで埒があかない。
「そう、貴女は少し自分について考えすぎる。健全でありたければ反応のある誰かに波紋を投げかけることが必要なのです。自己完結が一番怖いのですから」
何やらよくわからない説教を垂れて閻魔は帰途に着き、自分はいつも通りの生活に戻った。実力行使で裁判を受けさせられるということはなかったので、自分は閻魔の御眼鏡にかなう生活をしているのだろうということにしておいた。次に会うのはそれこそ地獄の法廷で充分である。
翌年は、異変の起こらない静かな年だった。
その頃から幻想郷は天狗の活動が活発になり、新聞ブームが沸き起こったので、他の人々がどのような暮らしをしているかがあまりタイムラグ無しに知れるようになった。勿論、天狗らしい誇張と主観を差し引いてはいる。
人も妖怪も、相変わらず相互の関係性構築に勤しんでいて、やたら忙しそうに思えた。人間と妖怪のいままでの境を取り払わんかとする勢いに感じられる。何故、自分のように過ごせないのだろうと、彼女は不思議に思っていた。
異変といえばもうひとつ。
その頃から、妖怪が幻想郷の人間をあまり襲わなくなっているという話も聞いた。博麗大結界を越えてしまう運の悪い人間を処理することで、従来の妖怪の本性を維持できるかららしく、幻想郷に住まうもの同士はもっぱらスペルカードルールにて紛争調停が行われているのだという。妖怪の賢者の計略は上手く機能しているみたいだ。精神的には高度に発達した文明と表現できなくもないけれど、結局贄が変わっただけで、どこか奇形化したシステムに感じられた。
もっとも彼女は従来の生活様式を変化させていないから、夕暮れの闇に潜んで人間を狩り続けていた。彼女が本気になれば抵抗できる者はいないし、気づかれることもなかった。妖怪が現象であることを守り続ければ、博麗の巫女ですら気づくことはないのだ。
……ある時。
また妖怪の賢者が訪ねてきて、彼女に異変を起こさないかと持ちかけてきた。
「最近では紅霧の異変以前からの古株妖怪も幻想郷の表舞台に復帰しているわ。私は月と再戦する手回しをやっているし、だからきっと、そろそろ貴女の出番ではないのかしらと思っているの。格だって能力だって、今までの誰にも負けないでしょうし、巫女を出し抜いて更に静かな環境に組み替えることだって、貴女には可能なはずよ」
腹黒い賢者の目論見を差し引いても嘘偽りはないように思えたが、どうしても乗り気にはなれなかった。他の妖怪のように自らを主張するつもりはなかったし、愉快犯的に異変を起こす気力もない。目的のための手段として異変を起こすということが無駄に思えて仕方なかった。それに、今の博麗大結界の機能を考えるならば、必要とされる者共は程無く幻想郷を訪問するだろう。妖怪の賢者たちはそういう風に設計しているはずである。
「……そう。そうかもしれないわね」
彼女の指摘を妖怪の賢者は否定しなかった。そして無理強いすることもなかった。ただ、少しだけ涼やかな瞳に憂いを浮かべただけ。
一方で、彼女は妖怪の賢者に注文をつけた。人里にある旧家で転生を繰り返す少女が、新たな幻想郷縁起を執筆するらしいと、天狗たちの新聞に載っていた。もしそれに自分のことが書かれているならば、それを削除して欲しいという依頼である。
自分の情報が書かれたところで人間がどうこうできることはないのだけれど、まるで自分自身が自明のことのように、カタログ的に列挙されているという事実が受け入れがたいものだったから。一人ぐらいは本当に正体不明な妖怪がいても構うまい。彼女はそういった。
妖怪の賢者は首肯し、その依頼を請け負った。
――これが、彼女が妖怪の賢者と言葉を交わした、最後の機会となった。
☆
燦燦と陽光降り注ぐ森の道を、規則正しいペースで錫杖の音が響いてくる。
僧形のなりをした小柄な人影。地面にしゃりん、しゃりんと金属を打ち鳴らして。
頭には大きな菅笠を被り、その表情を窺うことは出来ない。
やがて、僧侶は川に差し掛かる。
急流でもなく深くもない小川だが、そのまま渡るとしたら裾を濡らしてしまうだろう。
だが、その場には橋が掛かっていた。
鼓の背を逆にしたように緩やかな弧を描く小さな木製の橋。小なりとはいえそれなりに立派な橋だ。どのような大きさであろうとも、きちんとした形を保ち人が渡れる橋を維持するというのはそれなりの事業となる。人足も資金も必要だろう。だが、周囲に里もなく人通りもない。どのような人がどのような意志で、このような場所に橋を架けたのだろう。
僧侶は危険の有無を確かめることもなく同じペースで橋を渡り始め、その中央で川の上流を見上げてみた。
小さな滝から落ちかかった水が、ざぶざぶ渦巻いてと豊かな水量を湛えている。近くの樹々から急降下したカワセミが、ひょいと岩魚の稚魚を咥えて岩場に留まるのが見えた
。木漏れ日が落ちてきて、太陽のかけらが水面でカーテンのように揺れる。
僧侶はしばらくその光景を眺めていたが、やがてまた同じペースで歩き出し、対岸の獣道を辿り始める。
一旦歩き出せば未練がましく振り返ることもない。
打ち鳴らされる錫杖の響きは、折り重なった樹々の葉に吸い込まれて、黒衣の者が遠ざかる前に静寂を取り戻そうとしているかのようだった。
☆
妖怪の賢者と言葉を交わした直後あたりから、彼女は体調を崩し始めた。
体調が悪いといっても、人間のように頭痛だとか風邪を引いたとか熱を帯びたとか、そういう類のものではなく……いわば、視力の悪い者がメガネを外した時に一瞬喪失する現実感とのギャップを感覚的に感じるという、そういうたぐいのものである。自分の手のひらを見た時に、これが手のひらであると認識するその境界線が時折、緩む――または、ぶれる。
若干の違和感が彼女を包み込む。
これはなんだろうと思いながらも、その感覚はいつも長続きしないので、彼女は放置したままで暮らしていた。
果たして翌年、新たな訪問者たちが幻想郷を訪れた。
しかしそれは妖怪ではなく、歴史に名を残す神々だった。
新聞を読むと、妖怪の山に降った神々はすったもんだの末に神社を鎮座させ、配下の巫女神に信仰を集めさせているという。翌年には天人の暇つぶしで起こった天候不順、その一環として起きた局地地震に便乗し、使われなくなった旧地獄に巨大なエネルギーであるところの人工の太陽を投げ込んだりもした。脳の足りない鴉が飲み込んだにしても、いずれは優秀な者たちによって使い道が検討されることを前提とした話であった。これは明らかに神の祭事であり、また政治であった。
呼応するかのように空飛ぶ宝船が幻想郷に飛来し、人里近くに寺となって舞い降りる事件も発生する。妖怪を保護するという風変わりな尼僧が住職だとはいえ、仏教の伝播力は凄まじく、長らく行われていなかった仏法の行事が人里のあちこちで復活するといった事態も起こっていた。森の中の苔生した地蔵にまで清掃が施され、お供えがされていた。
更には、幻想郷の内外でも知らないものなどない仏法の保護者(実際のところはそれをカモフラージュにした道教の仙人だったらしいのだが、従来からの支配的歴史認識に比すればどうでもいいことだ)すらも幻想郷に現れて、それら宗教者同士が対話をするなんて言う椿事すら起こった。
博麗神社にあるのは宗教ではなくてシステムだったから、外界での有り様と同じ様で幻想郷に直接干渉しようとする宗教者たちが己の権益と信仰を広め始め、それが自然と浸透するのは必然のことだった。妖怪の賢者はこれらの事態にほとんど不干渉だったから、これは賢者が望んだ展開だったのか、どうなのか。確かめるすべはなかった。宗教者たちはそれぞれが強力だったが、妖怪の賢者がそれらに対抗できないほど力がないとは思いたくなかった。妖怪的に。
結局のところ、人間はいかに文化文明を得ても「里の人間」という地域的なポジションを剥がされることはなかったし、妖怪やそれにまつわる人外たちがいくら増えたとしても、幻想郷のポテンシャルはそれらを内包して余りあるものだった。設計者の先見の明が示された結果であった。
一方、彼女の病状は日に日に悪化していた。
当然ながら痛みも苦しみもない。ただ、分離されゆく違和感が彼女を苛んでいた。
彼女はこれまで罹患したこともなく、生活様式を変えることもなく、ただ淡々と暮らしてきただけだった。他の妖怪たちがより文化的に、社会化した環境を形成する一方で、彼女はトラディショナルな生活を守り続けた。妖怪が場であり現象である時代そのままに。だから食事もきちんとこなしているし、外出もしている。
にもかかわらず、薄れゆく自己の認識。
そういえば――妖怪の賢者にも誰にも、長く会っていない。
自分は言葉すら喋っていない気がする。いつからだろう。
こんな時間は遥か大昔にもあった筈なのに、いまになってどうして気になるのだろう。試しに声を出してみようとして、やめる。きっとそれはどうでもいいことだ。今更確かめたとして何になるというのだろう。恐怖もなく後悔もない。当たり前だ、自分は人間ではないのだから。ただ――ゆるゆるとした泥濘のような喪失感に全身を侵されていく。
ある夜、彼女は夜空を舞っていた。
里に向かい、闇に紛れて人を攫うために。
何年も何十年も何百年もそうしてきたように。
と。
黒ぐろと眠る広葉樹の森の上で、灯火がこちらに向かって真っ直ぐ飛んでくるのが見えた。妖怪――いや、人間だ。
白と赤のおめでたい格好。夜風に煽られて頭の上の大きなリボンが揺れている。
恐らくは、幻想郷でもっとも有名な人間――博麗の巫女。
妖怪と見れば問答無用で退治することになっているシステム。
行灯を吊り下げて何処へゆくのだろう。
妖怪は身構えた。ポケットの中から使ったことのないスペルカードを取り出し、空中に静止する。妖怪として人間を襲うのは当然のことだ。まして、幻想郷の妖怪としては博麗の巫女に対峙するのは義務のようなものだ。それが仕組まれた構造であったとしても、今の彼女はわざわざそれを否定する気力もなかった。妖怪が妖怪である必然として、遭遇戦を避けるつもりもなく、彼女は巫女の行く手を遮った。
のだが。
博麗の巫女は気づくこともなく彼女の脇を通過した。
ただ枯れ尾花を揺らす風のように。
――そうして彼女はそこでようやく、自分の死期を悟った。
……横たわっていたのか、椅子に座っていたのか、空を舞っていたのか。
もう区別することが出来なかった。
あれからすぐだったのかもしれないし何百年経ったのかもしれない。
あらゆる境界が曖昧になって、彼女を構成していたものは静かに飛散していた。或いは、わだかまっていた。彼女の核はどこかに残っていたのかもしれないが、今となってはもはやどうでもいいことだ。今までと同じように。
嘗て彼女が一人で暮らしていた場所も、郵便受けに刺さったままの新聞も、全ては霞の中に消え、森に飲みこまれていくのだろう。
彼女はもう永く永く永く、充分に永く生きてきたから、今度は今まで見送ってきた命の流れに自分が流されていくだけ。その瞬間まではとどまり続ける、ただそれだけ。死と生の境がやたら曖昧な幻想郷では、自分の欠片が何処かに引っ掛かってしまうのかもしれない。橋に引っかかった流され下手な土左衛門の骸みたいなのは少しだけみっともないなと思った。
今はもう大昔になったあの時、妖怪の賢者に聴いた話をゆっくりと思い出す。
世界の浪費ための世界、その浪費。リソースの撹拌。結局は自分もそれに取り込まれていただけなのだ、きっと。
幻想郷に住まうということ、幻想郷に関わるということは、否応なしに誰かに消費されるということ。
そして、誰にも認識されなければ存在しないのと同じ事。博麗の巫女に感じられないということは、自分は既に妖怪ではなかったということになる。
妖怪の有り様が変わった時に、旧来の妖怪に固執しすぎていたから、自分はいつの間にか妖怪ではなくなっていたのだ。妖怪でない妖怪はただそこにあるモノであって、誰にも使われないリソースであるから処分されて、どこかで砕かれて土に帰って、或いはそしてまたいつか、自分と似たような妖怪が幻想郷に現れるのかもしれない。幻想郷のシステムは広汎だと思っていたけれど、実際は結構ギリギリの状態で稼働していて、大きな概念のショック……それは思想かもしれないし、言葉かもしれない……によって崩れ去るぐらいの脆弱な、孤独な子供のようなものかもしれない。動き出した以上、安定的に稼働を制御できるようなものではないのかもしれない。だから妖怪の賢者はあのように立ちまわったのか。幻想郷に住まう人々はどう思っているのだろう。博麗の巫女は。
――嗚呼、それもまた、それもまた詮なきことだ。
嘗て妖怪であったかもしれないが、今は妖怪ではなく去りゆくのみの自分が、今更何を思いめぐらすことがあるのだろう。
苦しくもなく悲しくもない。後悔もしない。
ただ一人消え去っていくだけの自分が。
光も闇もない無に近いその場所で、妖怪の最後の認識が閃いたのは。
思い出したのは。
この千年誰にも呼ばれることのなかった、自分自身の名前だった。
☆
早朝の森の奥深く。
水源は枯れ、遥かな昔に清水を湛えていた小川の痕跡が、今は痛々しく赤茶けた筋としてだけ、そこにある。
木材だったのか倒木だったのか、明らかに繊維のなれの果てにみえる黒ぐろとした物体が散乱している。
此岸と彼岸の境界がなくなれば、橋はその役目を終える。
年輪に刻まれた記憶すらも、放射線測定で得られる時間の鍵すらも有限である。
まして人間や妖怪の架けた橋などは刹那といって何の不足があろう。
そこに再び水が溢れ、誰かが橋を架けたとしても、それはもう失われた記憶とはなんの関連もなくなっている筈である。
そのように回っているのだ、この世界は、きっと。
――天に敷き詰められた灰色の雲が一段と押し下げられてくると、大気は冷たく凝って、森を白い霧で覆い始めた。二度と晴れないような錯覚を覚えるような、呼吸したら溺れてしまいそうになるほどの濃い霧。それが、太古に道だったかもしれない場所、誰かの足跡だったかもしれないカタチ全てを覆い隠していく。
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