「魂の境界」



 時満ちて 虚ろになりし 我が器 華の匂いを くめど空しき



「なんて綺麗な花……」
 己の存在を失おうとしていた西行寺幽々子は、ただ茫然とそれを見上げていた。
 何も存在しなくなった時間と空間の狭間で、一本の桜が咲き誇る。
 かの妖樹……西行妖が満開になろうとしていた。
 風が吹くたびに空気が桜色に染め上げられる。
 大気は怨念のような霊力に満ち、飛翔していた。
 七色の蝶となって乱舞していた。
 最後の時が移ろい始めようとしていた。
 ……八雲紫は幽々子との盟約に従って、博麗大結界を穴だらけにした。
 それが自らの存在自体を無にする結末と知りながら。
 幻想郷中の春を集めてもまだ満足しない西行妖は、外界からも春を吸い上げ始めている。幻想郷内に至っては、もはや春だけには飽きたらず、そこに住む人や妖怪や森の木々すらも取り込み、桜の花に還元していく。
 もちろん、己の存在と賭してそれに抵抗する者もいた。
 だが、結界の恩恵を失った者達にとって、それは儚い行為でしかない。
 ある者はニヤリと笑い、
 ある者は悔しさに絶叫し、
 又ある者は世の無常に己の価値観を問いながら。
 全てを飲み込んで、西行妖は咲き誇る。
 その一部始終を、幽々子はここでずっと見ていた。
 幽霊城の姫として安逸な日々を過ごしていた時の安らかな感情も、西行妖の復活に全てを注いだ闘争の猛りさえも疾く去りて、あるのは一刻ごとに失われていく事物への追想だけ。
 西行妖が完全に開花を迎えれば、そこで全てが終わる。
 幽々子の存在も、西行妖さえも消え果てる。
 全ての因果が断たれ、ただただ虚無だけの世界へと辿り着く。
 己の望みはこれだったのだろうか?
 桜の嵐を見上げながら、彼女は自問自答する。
 妖忌の諦念を、妖夢の想いを断ち切ってまで自分が為したことの結果が、この結末なのか?
 自分で選んだことにも拘わらず、今だに悩んでいた。
 ――懊悩?
 それは、懐かしい感情だった。
 人間にしか芽生えるはずのない感情。肉体のみが孕む妄執という檻。
 自覚する。
 そう……あの瞬間。
 自分が自尽した時のことだ。あの時も今と同じ気持ちでいた。きっとそうだ
 自らの刃で腹をえぐり、誰もいない場所で仰向けになっていた。
 自分の選んだ場所。
 そこには今と同じように、一本の桜の花が満開で、桜花を自分に向かって降り注いでいた。
 腹からは鮮血が止めどなく流れ落ち、死装束を染め上げていく。
 もう自分は助からない。死に向かって流れ落ちていく。
 今まで数々の人間をあっけなく葬り去っていった時のように。
 そう思うと、虚脱と共に、自尽を決断した時に断ち切ったはずの迷いが湧いてくる。
 あの瞬間、自分もまた人間だったのだと強く認識したことを、思い出した。
 滑稽な話だった。
 生と死の境界上にいてこそ、人間はおのずと輝く。
 だが、その瞬間は人に一度だけしか訪れない。だからこそ、人々は繰り返し悟っては滅び、輪廻転生の世界を巡るのだ。それは生によって自らを護っても、死によって自らを隠しても揺らがない真理。それを今、この巨大な化け物の下で幽々子は感得していた。自尽して以来、再び同じ境地にたったのだ。
 だが、もはやどうしようもない。
 最後に辿り着いた真理と共に、この桜吹雪と共に、今度こそ自分は消え失せる。
 この世界……幻想郷の全てを道連れにして。
 三千世界に於けるもっとも大きな罪を抱いて。
 西行寺幽々子を取り囲んで蝶が舞う。
 あの時もそうだった。
 自分が流した血の池に惹かれた蝶が何頭も何頭も、どこからともなく舞い降りてきては、紅い暖かい瑞々しいそれを吸っていた。
 夢幻の光景だった。
 生と死の境界線上でしかなしえない極上の美の世界だった。
 それを楽しめるのは、それを成し得た者だけだった。
 西園寺幽々子は、極上の孤独を手に入れた。
 己の全てを投げ打って。


 ………死んでいた頃に使っていた扇子を思い浮かべる。
 あれはどこに行ってしまったのだろう。
 妖夢がいればすぐに解るのに。



「……幽々子様、お茶が入りましたよ〜」
「ああ妖夢、そこにいたのね。探していたのよ」
「もう、また無理難題を押しつけるつもりでしょう」
「無茶なことしか頼まないから大丈夫よ。無理ではないわ」
「もお」
「でも、妖夢がいてくれて助かっているのよ」
「そうでしょうか?」
「今は嘘をつく理由がないわ」
「今は、ですか……ま、いいんですけどね」



 ……そういいながら笑っていた妖夢は、もういない。
 こんなに綺麗な桜なのに。
 妖夢と一緒に見たかったのに。
 ――無数の蝶が舞っていた。
 乱舞していた。
 その中に……一頭だけ、
 一頭だけ、違う動きをしているものがいる。
 それは、 他のものとは違う輝きを帯びていた。
 それは、昔使っていた扇子のようにも見えた。
 それは、一陣吹いた風に揺れる、桜の花のひとひらにも見えた。
 それは、昔妖夢と回して遊んだ、風車のようにも見えた。
 それは、ゆっくりと、
 ゆっくりと、
 西行妖に向かって舞い飛んでくる。
 世界の中心へ向かって。
 世界の全てを祀る為に。
 紅白の衣を纏って。陰陽の祭具を携えて。
 世界にただ一つ残った、希望という名の蝶が舞う。
 幽々子は消えゆく意識の中でそれ、ただただ、綺麗だと――
 綺麗だと、そう思っていた。



 此花に 独し身罷る 死人嬢 魂まつれ 紅白の蝶



(初出 東方最萌トーナメント)

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