古結界



 窓を覆うカーテンを少しだけ開けると、灰色の空から相も変わらず綿雪が舞っている。ここ数日、夜中に吹雪いて日中は小康状態という日が続いていた。冬の到来が遅かった分だけ雪が多い気もするが、ほぼ平年通りの状態だ。
 ただ、少し静かすぎる。幻想郷全体が何かに備えて、敢えて沈黙を守っているような。
 だからなのだろう。
 森近霖乃助は、変わりもしない外の様子を気にしては、何度も何度も窓の外を覗き込む。何かを待つかのように。
 年の瀬も大詰め。今日の夜を越せば年が明けるというのに、師走のあの押し迫った空気が微塵も感じられない。
 溜息をつき、薄暗い香霖堂の奥に設置された椅子に座り直す。外界から流れ込んだ暖房器具がオレンジの光を灯している。その前で読みかけの本に目を落として……それでも、何処か気がそぞろになってしまう。
 予兆、だろうか。
 眼鏡を掛け直し、もう一度目を落として。
 ページを数度捲って。
 しばらくして。

 カラン……

 暗い店内の向こう、ドアが僅かに開く。
 冷気と雪が静かに吹き込んでくる。
 ただ、それだけ。
「……お客様ですか? 申し訳ないのですが、当店は冬季休業に入っていますので」
 そもそも客など来ないにもかかわらず日頃から練っておいた常套句を口にしながら立ち上がる。
 来訪者は入ってこない。
 怪訝に思い、近寄って扉を押し開ける。
「君は」
 戸口には、一人の少女と一体の人形が立っていた。古代の衣装を纏った白い髪の少女には見覚えがある。彼女が肩を貸すのは、武者鎧を纏った真っ赤な髪の等身大人形。躯のあちこちに大穴が開き、項垂れたままの顔は髪に隠れて見えない。双方とも傷だらけだった。
「……突然、ごめんなさい」
「いや、構いはしないが、その」
「清弥が、貴方に相談してみろっていったから」
「清弥? ……まさか」
 白き少女――そらが、人形を抱き直してその顎を持ち上げる。赤い髪を分けて現れたのは、見慣れた少年の顔だった。ただ、人の肌ではなく、木彫のように冷たい表情。その中で、両目だけが変わらぬ眼光を湛え、鋭い視線でギョロリと動く。
「清弥なのか」
「あの、清弥に……椅子を」
「解った」
 二人を中に招き入れると、店主は背もたれの大きな洋風の椅子を持ち出してきた。そこに清弥を座らせる。自律運動はしないものの、頭を預けたことで視界は真っ直ぐに霖乃助を捉えることとなった。
 そらは頭や肩の雪を落とし、清弥も同様に払ってから、椅子の傍らに立って頭を下げた。
「ありがとう。清弥の分もお礼、します」
「客人を持てなすのは家人の義務だよ。だけど、今は礼よりも説明の方が嬉しいんだが」
 そらはしっかりと頷く。
「清弥、本当はもう少し自分で動けるんだけど、あんまり動くと壊れてしまうって。もう力が、あまり残っていない。私を助ける為に、ほとんど魔力を使ってしまった」
 霖乃助は座るのも忘れたのか、そのままカウンターに凭れ、そらに話の続きを促す。
 そらはゆっくりと語り始めた。博麗神社から出た後の顛末を。
 ――成り行きで「そら」と呼ばれることとなった自分、異界の住人である御諸空夢が、どこからやってきたのか、ということ。
 異世界での責務を果たし終える前に、自分でも知らぬ間に時空を渡り、この幻想郷に迷い込んでしまったこと。そこで、清弥と出会ったこと。
 清弥と二人、博麗神社の居候になったこと。
 秋の終わり頃、空夢を迎えに来た使者・氷雨追沫によって、博麗神社とそこに縁のある人が傷ついたこと。それが原因となって、霊夢と決別し里に向かったこと。そして、人間の守護者によって里入りを拒絶されたこと。
 雪の中、清弥の隠れ家で幾日も過ごしたこと。再び来襲した氷雨のこと。
 清弥がいかなる事情によってか、人形師アリスと一緒にそらを追跡し、その結果不幸なことに清弥が致命傷を負ったこと。清弥が死んだと認識したそらが無意識のうちに、異界の力である巨大な八龍を呼び出してしまい、異界とこの世界を繋ぐ通路を広げてしまったこと。
 アリスが、瀕死の清弥の魂を拾い上げ、清弥の躯を使って作り上げた人形にそれを封じ込めたこと。
 アリスと武者人形、それに魔理沙も加わった異界行。
 そして……激闘の末、御諸空夢からそらを取り戻した清弥が、いまだ修復されていなかった次元の通路を通って、幻想郷に帰ってきたこと。
 多分、闇世界が崩壊してしまったこと。
 ――――――。
 話術に長けてはいないそらだったが、人形となった清弥の顔を繰り返し見ながら、言葉を選び、わかりやすく話そうと努力していた。霖乃助は質問せず、我慢強く静かに、そらの話を聞いていた。
「……今、清弥はアリスに作られた人形になってるから、アリスの魔力がないと動けないん、だって。でも、清弥を動かしてた繰り糸が切れちゃったから、清弥はどんどん動けなくなっていっちゃってる。このままだと朽ちてしまって、もう一度、今度は本当に、死んでしまう」
 言葉の端々に恐怖をちらつかせながらも、そらは事実を断言する。目を落としながらも、ある種の覚悟を秘めた表情。
 そらの言葉は重く、だが決然としている。
「清弥は、わたしを取り戻せればそれでいいって思ってた。本当なら清弥はあのまま死んじゃっていたし、わたしも違う世界で与えられた使命を果たしているはずだった。だから、こうやってもう一度会えて、この場所に帰ってこられただけですごく幸せだって。それは間違いじゃないと、思う。清弥は約束を守ってくれた。わたしじゃできないことを叶えてくれた。本当に嬉しい。でも」
 拳をぎゅっと握りしめる。透けるほど白い肌が赤く滲む。
「でも……わたしはやっぱり、いや。もうそれだけじゃ駄目。清弥ともう一度離れるのは、絶対に、いやだから」
 座り込み、清弥の膝に縋り付き、見下ろす霖乃助の視線をしっかり受け止める。
「清弥と別れたくない。別れない。ずっと一緒にいる……清弥は世界を超えて、わたしを迎えに来てくれた。だったら、たとえそこが死の世界でも、わたしは清弥と一緒にいる……ううん、そんなところへは連れて行かせない。わたしは清弥と一緒にいる。二人で生きていく。他の誰にも邪魔はさせない」
 二人から風が吹き付ける幻想を、霖乃助は感じ取る。
 ――これは、炎の瞳だ。
 吹き上げる熱気はあまりにも眩しい。
 姿形は博麗神社で見たあの可憐な、透明な印象の少女そのままなのに、心のかたちが全く違ってしまっている。清弥が人形となったのと引き替えるように、人形が人間に転生したとしか思えない。
 灼熱だが狂乱ではない。
 冷静に、ただ確固たる意志を宣誓している。
 霖乃助は清弥を見遣る。
 動けない人形の瞳に宿る意志もまた、同じ色をしていた。清弥自身も最後の瞬間まで諦めはしないのだろう。それがたとえ、どんなに不可避な運命であろうとも。
 青年は大きく息をつき、想定される事実を告げた。
「アリスは恐らく、一旦は傀儡となった清弥を解放する……いや、放棄することによって、清弥がアリスの人形ではなく、清弥自身の判断で動けるようにしたんだと思う。その異世界で何が起こったか解らないが、清弥がそらを救うにはそれが正しい方法だったのだろう。だけど、人形師に捨てられた人形は、魔力を失いただの物質に還るだけ。これは魔法の理だ。まして、幻想郷の魔法は遣い手のオリジナルがほとんどだから、一度捨てられた人形に別の魔力を吹き込むなんてことが出来るとも思えない。そもそも、人形を魔法に使う奴なんてアリスぐらいしか思い当たらない」
「………………」
 そらは神妙に聞いている。
 穏やかに燃える瞳。
 霖乃助ですら、ほとんど目にしたことがない。
 ――いや、
 もし唯一あるとすれば、それはあの――。
「多分このままだと、魔法によって歪められた清弥の魂は死の門を潜ることすらなく、幻想郷を構成する幻想に還元されてしまうだろう。この世界は僅かばかり豊かになるだろうし、残ったそらは常に清弥を幻想郷のここそこで感じることが出来ると思う。でも、それはもう生命ではない」
 そこまで言って、霖乃助は自分の感情に気が付いた。
 ……僕は迷っているのか。
 これから先を伝えれば、幻想郷にとって不利益になるどころか、博麗の巫女にすら文字通り弓を引くことになろう。幻想郷の幻想が構成する自分が、己が存在する世界を害しようとしている。普段ならば傍観者の立場を決して崩さない僕が。
 迷っている、あるいは。
 ……むしろ、
 惹かれているのだ。
 自分では決して持つことのない、清弥の意志に、そらの情熱に。
 この二人は、もう既に僕らとは違う存在なってしまったのかもしれない。もし運命というものがあるとするなら、彼らを在るべき場所に導くのは僕に与えられた役目なのだろうか。
 霖乃助は再び、大きく息を吐く。
「……だから、清弥たちが二人でこの先も存在する為には、幻想郷を律する理を超えなくてはならないだろう。それはつまり、守護者を払い除け、世界の壁――博麗大結界を超えるということ。その意味は、お前たちにも解ると思う。今まで誰もそんなことは考えなかったし、これから先もないだろうが」
 弾かれた様に顔を上げ、清弥の顔を窺うそら。初めて、二人の瞳に緊張の波が走った。そらは、冷たい清弥の手をぎゅっと握りしめる。清弥は瞳だけを動かし、そらを見つめる。そらはそれに答え、悲しげに瞑目し、そして霖乃助に向き直った。
「……道があるなら、私達は行く。それに、どちらにせよ私達は、己の故郷をはみ出している。私は自らの責務を放り出して、しまった。もう戻るところなんて、ないから。清弥がいるのなら、どこだっていい」
 ――それは悲壮な決意だ。
 刹那が輝く瞬間の美だった。
 森近霖乃助は深く頷き、開けるべきではない一つの秘史を語り始める。
「……かつて、この地がまだ幻想郷と呼ばれていなかった遠い昔。己の力を持って浄土を目指し、博麗の巫女によって封じられた人鬼がいた。成就されなかったその幻想は、いまも幻想郷のある場所で眠っているんだ」
 雪の降る大晦日、
 人形と少女に向かって、
 店主が静かに語るのは、
 遙か九百年の昔に、
 太陽を射抜こうとして悪鬼と化した一人の武者の伝承――。


 数時間後。
 香霖堂のドアベルが再び鳴った。
 今度は幾分勢いをつけて。
「なんで、つごもりだってのにこんなに客が多いんだ。閉店中の看板は出し忘れていないはずなんだが」
 部屋の奥から鬱陶しそうに出てきた霖乃助は、閉まった戸口の前で突っ立っている真っ黒い少女を見て、ぽりぽりと頭を掻いた。
「……珍しいな。こんなに寒い日に現れるとは」
「まぁ私にもいろいろと事情があるからな。突然の来客には白湯の一杯も出して欲しいぜ。気付けというなら酒でも歓迎するが」
「それが人にものをねだる態度か」
「ぶぶ茶漬けはご遠慮するぜ」
 霧雨魔理沙は雪を落とすこともなく、箒を担いだまま突っ立っている。よく見れば、黒い服のあちこちが焦げたり裂けたりしている。が、霖乃助は詮索することなく、無難なお茶を注いだ湯呑みを手渡した。
「……うまい。なんだか久しぶりに旨い茶を飲んだ気がする」
「心に余裕があれば、出がらし五回目だって旨く感じられるさ」
「いや、それは使いすぎだろう。こっちは正真正銘の地獄を見てきたんだから、一番茶ぐらい出してくれてもバチは当たらないぜ」
「地獄、ね」
 口調は明るいものの、目深に帽子を被った魔理沙は真っ直ぐ向こうとしない。
「どうした。なにか言いづらいことでもあるのか」
「……なんで、そう思うんだ?」
「あからさまだろうに。こんなに歯切れの悪い魔理沙は一月の雪割草なみに珍しいぞ」
「七月に七草粥を食べたくなる時もある」
「それはただの天の邪鬼だ」
「ああ、それよりも香霖、これからちょっと五月蠅くなるかもしれないからな。年の瀬だっていうのに弾幕の相手をさせられる可能性がある」
「あらかじめ断りをいれるなんて、魔理沙らしくないじゃないか」
「まぁ今年も押し迫ってるからな」
 明らかに様子がおかしい。
 声を掛けなければ、黙ってお茶を啜るばかりの魔理沙。霖乃助は溜息をつき、カウンターの内側に回って自分専用の椅子に凭れ……それからぽつんと呟いた。
「……さっき来たぞ。清弥とそら」
 がばっと顔を上げる魔理沙。
「嘘だ」
「嘘じゃない。よく床を見ろ。お前が来る前に散った雪の後が残ってるだろ」
 魔理沙は自分の足下を急いで見回した。表情が劇的に変わっていく。湯呑みを投げ出さんばかりにして、カウンターから乗り出してくる。
「あの二人は何処へ行った?」
「ここじゃない場所へ、というところだ」
「……………!」
 慌てて飛び出していこうとする魔理沙を、清弥が引き留める。
「待て。二人はもう、自分で道を選んだんだ。幻想郷を超えてでも、二人で一緒に生きる道を。実際にあるかどうかは知らないけどな。ただ、魔理沙が追いかけても何も出来ないのは間違いない」
「だけど」
「彼女に頼まれたよ。追ってきてくれた魔理沙や、清弥に機会を与えてくれたアリスには感謝してると伝えて欲しいと。もう一度会いたかったって」
「……………………」
 少女は再び、とんがり帽子に表情を隠す。
 霖乃助はカウンターから出て、それを優しい目で見る。
「魔理沙……お前、何か隠してることがあるんだろう? この間に来た時といい、挙動が不審だったからな。清弥やそらに対して、後ろめたいところがあったんじゃないのか」
 肩をびくっと振るわせる。
「……そんなわけ……ない……」
 言葉とは裏腹に、尻窄みになる言葉。
 ほんのり涙が混じっていく。
「まぁ過程はどうあれ、結果的に今も、二人は一緒にいるんだ。魔理沙もそれまで否定する訳じゃないんだろ? なら、そろそろ本来のお前に戻っていいんじゃないのか」
「……………………」
「もちろんその前に、相応の懺悔はしておくべきだと思うけどな。次のイタズラの限度を知っておく為にも……安心しろ、他の誰にも言いはしないから。特に霊夢とかには」
 そういうと、霖乃助は魔理沙の帽子を取った。金髪の少女がゆっくり顔を上げる。まなじりに溜まっていた大粒の涙が、時間差で左右の頬を伝った。
「……ごめん……ごめん、なさい……」
 そのまま霖乃助に縋り付き、泣きじゃくる霧雨魔理沙。秋の紅魔館で悪魔と交わした契約……感情的な判断が延々と強いた良心の呵責が、止めどない涙となって全て流れていく。もちろん、霖乃助は真の理由をしる訳ではないが、普段はけっして弱みを見せずに人一倍の努力を続けるこの少女の小さな真実を、人よりも多少知ってもいる。ウエーブの掛かった金髪を撫でながら、青年は戸の向こうの雪道を思い浮かべた。
 ――さてさて。
 そろそろ僕も、出立の準備をしなければならない。

      ☆

 アリスを攻撃した白い少女の傘が、次いで自分へと振り下ろされる。
 自分は更にその上から切り落とそうとした。
 時間が引き延ばされ、楼観剣が相手の傘を切り落とす瞬間……その時間推移を観察する。だが、発生したエネルギーの方向までは制御していなかった。スローモーションは書き換えられない記憶を紡ぎ、斬り飛ばされた傘の上部は縦回転しながら、驚いた表情の少年へと飛んでしまう――。
 ……魂魄妖夢は目を開けた。
 薄暗い書院の中央で座禅を組み、あの瞬間の出来事を何度も想起する。本当は心を鎮め、からっぽにして瞑想に浸ることが必要なのかもしれないが、妖夢は座禅の正式な方法をしらなかったし、なによりスカートで胡座を組むのが妙に落ち着かなかった。別に瞑想だからといって胡座が必須という訳でもないのだが、真剣なことを考えていても微妙に抜けた発想になってしまうのが、妖夢の未熟さを端的に表している。 
 あまつさえ、追い打ちに胃がぐぅぅと鳴る。誰もいないのに赤面し、こっそり呟く妖夢。
「おなか減ったなぁ」
 半分が人間というのも不便なものだ。しかし、彼女の主は幽霊であるにも関わらず食欲旺盛なのだ。食への欲望が死んでも変わらずだとしたら、人の魂はほとほと救われない。
 これ以上は集中出来そうもなかったので、傍らに置いてあった双刀を持つと、障子を開けて外に出る。つかず離れず白い半霊が付いてくる。
 ここは、八雲紫の屋敷。
 建物に沿うように作られた廊下を歩いていく。よく手入れされた庭は雪化粧されていて、今も変わらず雪が降ってくる。板張りの床に薄く氷が張っていて、靴下の妖夢が歩くとうっすら足跡が残る。冷たい。
 妖夢は小首を傾げる。
 八雲藍やその式である猫又の橙の気配がしない。屋敷は無人のようだった。いったい何処へ行ってしまったのだろう。
 とりあえず、居間に向かう。
「あの、魂魄妖夢ですが……いらっしゃいませんか?」
 返事はない。
 ゆっくりと戸を開ける。と、炬燵の上に大きな蜜柑が幾つも入った籠があり、その脇に達筆な文字で手紙がしたためられている。
 妖夢は音を立てないようにして部屋に入り、その文字を目で追う。
『魂魄妖夢殿へ
 急ぎの所用が出来た為、橙を伴ってしばらく屋敷を離れなければならなくなりました。妖夢殿の邪魔をするのも悪いので声は掛けずに往きます。そう時間が掛かるとも思いませんが、不在の間はご自由に過ごされるとよいでしょう。奥は主人の私室ですので立ち入らぬようお願いします』
 何処までも気の利いた妖狐だ。妖夢は思わず頭を下げてしまっている。
 と、文章には続きがある。
『……忠告というのは差し出がましいかもしれませんが。根を詰めるばかりでは回り道になることがありますので、少し気分を和らげることもまた選択肢ではないでしょうか。……この部屋にある四角い箱、これは我が主が外界との隙間から拾い上げてきた機械というものなのですが、使う物の念を拾って望むものに近い映像を見せる娯楽です。もしよければ、試してみるのも一興でしょう』
 妖夢は真正面を見る。
 確かに、四角い箱が鎮座している。灰色の硝子が嵌め込んである不思議な形の物体だ。脇には出っ張りやダイヤルみたいなものも付いている。
 手紙の最後には、妙にかわいらしい字体で「てれびの使い方」と題された手順が大雑把に示してあった。最後に『みかん食べてね、とっても甘くておいしいよ』と付け加えてあった。これはあの猫又の文章なのだろう。性格そのままの文字だと、妖夢は小さく微笑んだ。
 いまいち乗り気ではなかったが、今は他にすることもない。書かれたとおりにスイッチを引っ張ると、硝子の部分に灰色の砂嵐のような絵が浮かび上がった。ザーという雑音が無為に続く。次いで、ガタガタとダイヤルをひねってみる。灰色の画面になにやらぼんやりと映像が浮かんできた。ブラウン管に顔を近づけていた妖夢は、よく分からないので離れ、炬燵に足を入れて蜜柑を手に取る。白い霊魂がその後ろでぷかぷかと浮かんでいる。
 蜜柑の皮を剥きながら、妖夢はテレビを凝視する。映像が徐々に鮮明になってくる。
 あれは……森だろう。
 上空から捉えた森の映像。
 一面の銀世界に、動く影二つ。
 雪の降りしきる森の道を、誰かが歩いている。
 誰かが、二人きりで歩いている。


 霖乃助に教えられた方向へ真っ直ぐに飛ぶ。すると、穏やかに舞っていた雪は、進行方向より次第に激しく吹きつけ始めた。
 清弥を抱いていたそらは上手く飛ぶことが出来なくなり、仕方なく森へ降りていく。だが、林とはいっても広葉樹はほぼ全て葉を落とし、雪を遮る術はない。山肌の斜面を、積もった雪の表面すれすれをそらは登っていった。
 清弥の躯が重かったが、それよりも自分から空を飛ぶ力が失われていくような気がした。自分もまた逃亡者なのだから、創造者の庇護を受けられなくなり、その恵みを失ってしかるべきだろう。現在はまだ、御諸空夢としての力が残っている。ならば、今の内に辿り着かなくては。清弥を連れてこの雪肌の斜面を登るのは不可能だ。
 吹雪のその向こうへ飛んでいく。
 一直線に。
 ……どれほど登ってきたろうか。
 山肌に張り付くようにして凝り固まった針葉樹の森が眼前に現れた。一様に雪の反物に覆われているものの、尖塔のように尖った木々は一目で見分けがつく。
「あった」
 そらは雪を刺激しないようにゆっくり、その中に飛び込む。
「清弥、道が見える? 雪が積もってるけど」
 そらに釣り下げられるようにしていた清弥がかくんと顔を起こし、ぎょろりと目を動かした。何かを見つけたのか、ある一点を凝視する。
「……わかった」
 そらはそちらへ方向転換する。
 程なく、梢によって構成された暗いトンネルのような道が出現した。巧妙に隠されていたが、そこだけは確実に道になっている。獣道でも人工でもない。鬼が大きな口を開けたような、地獄へ続くような暗い穴。
 生暖かい逆風が吹き付けてくる。
 これ以上飛んでいくのは難しそうだった。
「清弥、ここからは歩きみたい」
 清弥は頷かないが肯定はしている。そらには解っている。
 大穴の縁に降り立つと、思った以上に急勾配だった。そらは白い息を吐きながら清弥に肩を貸し、覚悟を決めて登り始める。
 森の中だというのに、まだ夕暮れだというのに、洞窟を歩いているような暗さ。重苦しい雰囲気に包まれている。僅かに差し込む光は灰色に濁っていて、余計に心細さを沸き立たせる。足下は砂利と砂が入り交じり、歩きにくいことこの上ない。足の覚束ない清弥を担いでいるから、幾度となく転んでしまう。綺麗だった腕は擦り傷だらけだし、顔も雪と埃とにまみれて汚れている、それでもそらは、土を掻き、上方を目指し歩いていく。
 清弥の目がそらを見遣る。
 自嘲の感情に揺れているのがよく分かる。
 だが、そらは笑って首を振り、
「清弥、大丈夫?」
 答えがないのをしっていてなお、何回も声を掛ける。暗がりの中で僅かに光を帯びる清弥の瞳を覗き込む為だけに。
 そうしてまた、斜面を歩いていく。
 もはや道ではなく、崩れる崖を登っているといっても大袈裟ではない。上方から吹く生暖かい風も勢いを増す。
 それでもそらは清弥を負ぶって、歯を食いしばって登っていく。斜面の一部が崩落して転がり落ちても、繰り返し登っていく。
 絶対に諦めない。
 その一念だけが、彼女を突き動かしている。
 ……背後がぼんやり明るくなり始める。
 同時に、覚えのある寒気が清弥のうなじに吹き付ける。これはあの闇の海で、海の底から救いを求めていた、迷える魂――
 そらは振り返った。
 清弥の躯の周辺を、青白い霊魂が幾つも浮遊している。傷ついた人形の躯のあちこちに、未練ある思念が食いつき、憎悪を以て入り込もうと企てているのだ。
 清弥の精神が小さく苦痛を漏らす。
「清弥……!」
 そらが必死で魂を遠ざけようとするが、夏の夜の虫の如く湧いてきりがない。そらは無力だった。
 動けないままの清弥の瞳がそらを促す。
 ここで立ち往生しては、幽鬼たちの思うつぼだ。清弥はおろか、そらまで飲み込まれてしまう。先を急ぐ以外に手だてはない。
 そらは泣き出したいのを我慢して、汚れた裾で涙を拭きながら、再び斜面に向かう。
 世界全てが自分たちに敵意を抱いている。
 そう感じられてしまう。
 ――理解はしている。二人でいる為に互いの世界を裏切ったのは自分たちなのだ。
 でも、やっぱり辛い。
 清弥が苦しんでいるから。
 歯を食いしばって、そらは必死で登っていく。
 清弥の感触だけを頼りにして。


 苦闘の末、悪意の森を抜けた。
 天には夜の帳が落ちている。
 そらは激しく息をつく。膝が震える。
 指先の皮がむけた両手で、清弥を担ぎ直すそら。清弥を襲う霊魂たちは姿を消していたが、躯の至る部分が崩れ始めている。
「……ここ?」
 そらの呟きに、清弥の瞳が一瞬動く。
 崖の中腹にある踊り場のような場所だ。
 目の前には朽ちつつある鳥居が一つ。千切れた注連縄。その左右には、古い狐の像が二つ、対になって鎮座している。
 その向こう、崖を彫り込んだような長大な階段が天へ続いている。頂上がどこにあるのか見えない。このまま垂れ込めた灰色の雲すら超えてしまいそうな。
 雪は落ちていない。遙か彼方から舞い散るのは見えているのだが、透明な障壁によって遮断されているかのようだ。社や階段の周囲は荒涼とした赤い岩肌がむき出しになっている。
 血豆の出来た足を引きずりながら、そらが再び一歩を踏み出した。すると、鳥居の上方から威厳に満ちた声が降ってきた。
『ここは禁域である。立ち去るがよい』
 弾かれたように周囲を見回すそら。
 清弥は顔を上げ、鳥居を睨み付ける。
『ここは太古の昔に封じられた、けっしてほどけない呪詛の眠る場所。その歴史すら今は失われようとしている。結界を封じた博麗の巫女の伝承からも抜け落ち……この記憶は眠ったまま時間の狭間に落ちていく定めの場所なのだ。境界を操る我が主が、それを見守っておられる。何人もこれを侵してはならない』
 凛とした少女の声だ。
 そらは答える。
「私達は、この奥にある伝説の弓を求めて来た。その伝説も聞かされている。いいえ……伝説ゆえに、その邪悪な力を求めてきた。たとえこの世界に害を成すことになったとしても」
『私が博麗の巫女であれば、お前のその言葉だけで結界の狭間に落としている筈だが』
 博麗の巫女という言葉に一瞬ひるむが、それでもそらは食い下がる。
「たとえ願いが叶わなくても……私達はそれを求める。私達が一緒に生きていくために、呪われた力でもなんでも使う。それが私達がここに来た、唯一の目的なのだから」
『………………………』
 声の主はしばらく押し黙った。
 そらは反応を待つ。
 やがて、
 鳥居の上方に、幻影のような姿が揺らぎつつ浮かび上がる。金色の髪を二股の帽子にしまい込み、青と白の道服を纏った少女が浮かんでいる。背後からは同様に金色を燃やす、豊かな毛並みの八尾が広がっている。両手を裾にしまい、検分するかの如く少女と人形を見下ろしている。
 マヨイガの住人、八雲藍だった。
「このような日にこのような場所に訪れるのは常人ではないと解ってはいるのだが、その真摯な言葉は人間のそれでも妖怪のそれでもない。そして、複雑な魂の色を持つ……妙な客人ということなのか」
「………………」
「この先の闇は更に深いが、それでも構わないと? 我らですらこの先がどうなっているかは知らないが、その恐怖を超えて往くと?」
 そらは頷く。
 迷いなく。
「藍様ぁ、あのお兄さんの顔、知ってるよ。前に香霖堂にいたよね」
 場違いな明るい声が流れた。
「これ橙、出てきてはいけないといっているだろう」
「あ……ごめんなさい、藍様」
 藍の後ろから、猫耳の少女がひょこっと顔を出した。今日は主人と同様の道服を纏っている。好奇心一杯という無邪気な顔だ。
 清弥の目が同意の光を浮かべる。そらはきょとんとするばかりだが、清弥の瞳は悪い感情を浮かべていない。心持ちが少しだけ軽くなった気がした。
 藍は一つ咳払いをすると、重々しく頷いた。
「まぁ……橙と知己であるのなら、これもまた縁だ。元よりここの呪詛は幻想郷に於いてもっとも根深いものの一つ。なればこそ、紫様も害を成さないように気を払っておいでだったのだから。お前たちが望むものが容易に手に入るということでもないだろう……。
「進むがいい、求める者達よ。お前達が自ら選び取る試練、我が主に代わって見届けよう。己の強き意志が何を成せるか、示すがいい」
 そういうと、八雲藍とその式・橙は、上空へと登っていく。
 道は示された。
 そらは小さく頭を下げる。
 清弥の瞳は鋭く輝く。
 そして、二人は一歩を踏み出す。
 鳥居の向こうの、果てなき無限階段へ。

      ☆

 その年最後の夜が幻想郷に訪れていた。
 再び強くなっていく吹雪。
 山々へ森へ、あまねく世界へ吹き渡る。
 その、広大な森の一角。
 元はありふれた小さな池だった場所、今は闇の世界へと続いた大穴――その奥で。砂塵の中の星のように、がちかちかと何かが微かに瞬いた。
 それからまもなく。大穴から、雪舞う天を切り裂く光線が二度三度と放たれ、最後に二人の人影がもつれ合いながら飛び出してきた。
 あちこち傷を負ったアリス・マーガトロイドと、天使の剣を振るう氷雨追沫だ。
 二人は突如現れたフランドール・スカーレットの破壊行為から逃れつつ、今まで戦闘を展開してきた。混乱の最中、乱戦を繰り広げていた霧雨魔理沙の姿は見えなくなってしまっていたが、アリスと氷雨は死力を尽くして戦い続けている。もっとも、実力差ではアリスが劣勢なことに今も変わりはない。
 戦いは熾烈を極め、互いに切り結びながら、気づかないうちに遂に世界の境界を越えてしまっていたのだ。
 振り下ろされる剣をグリモワールで受け止めるアリス。もう使役出来る人形も呪符も残り少ない。グリモワールにも食い込んだ剣の後がくっきり残っている。
 それでも人形師は、歯を食いしばって剣を払い除ける。
「……あぁ、幻想郷まで帰ってきてしまったわ。あんたも律儀にここまで送ってくれなくてもいいのに」
「貴女がたが通ってくれたおかげで、道は踏み固められ、私一人でも容易に世界を渡ることが出来るようになりました。それについては感謝をしましょう」
「あらそう。もう連れ戻す相手もいないのだから、さっさと自分の世界に帰りなさいな」
「そうはいきません。この世界からの来訪者が、私達の世界を混乱に陥れ、傷つけてしまったのだから。主様は再び私達を導いて頂けるでしょうが、憂いは断たなければならないでしょう。貴女方は、闇をもって光を汚した罪の償いをすべきなのです」
 氷雨は剣を十字に構え、天を突く。
 叫ぶ。
「……さぁ、主様の意志をなさんとする『私達』。ここに来たりて闇の地に充ちなさい!」
 それが合図だった。

 ドドドドドドドド……

 蟲の群れが這い回るような、おぞましげな轟きが幻想郷を伝う。
 アリスは危険を感じ、次いで悟った。
 この後何が始まるのかを。
「まさか……!」
 アリスが急いで飛び退いた瞬間、闇の大穴から無数の氷雨が、無数の「そら」が……堕天使を模した数限りない天使人形が、まるで間歇泉の如く噴出した。
 彼女たちは天を指す氷雨の剣に導かれ、夜よりも更に深い闇と化した後、幻想郷の四方八方へと広がっていく。それは空を覆い、叢雲となって大気すら蹂躙する侵略者。
 フランドールによって破壊された世界から、世界同士を繋いでしまった穴を渡って、幻想郷に吹き出してくる。
 破壊の意志のみを携えて。
「なんてことを」
 雪風がつむじを巻き、
 吹雪が吹き渡る中。
 絶望に浸るアリスの前で、淡々と、しかし勝ち誇る氷雨。
「審判の時は来たれり――幻の想いが集う陽炎の如き小さく脆弱な世界よ、己の原罪に従いて消え失せなさい!」

      ☆

 清弥とそらは、暗く長い階段を登っていく。
 足の動かない清弥を抱きかかえるそらも、満身創痍でうまく歩けない。一段上がるのに数秒を要する時もある。だが、立ち止まることなく、一歩一歩ゆっくりと登っていく。
 岩肌に挟まれていたはずの階段は、いつしか切り立った崖を伝うようになっている。地獄から吹き上げる如き風が二人を煽る。吹雪が上下左右から二人をなぶる。落ちたら多分、底などない奈落への永久落下がまっている。
 大口を開けて獲物を待つ漆黒の闇。
 なるべくそちらをみないようにしながら、そらは清弥を抱いて足を進める。
 先程の亡霊達は糸を引くように付いてきていた。もはや払い除ける力もない。清弥はおろか、そらにもまとわりつく。生者の温もりを求めているのか。躯がどんどん重くなっていく。
 闇の中で火線が飛ぶ。
 一つ飛ぶと、一つが呼応し、
 あとは乱戦になった。
 清弥とそらが、ゆっくりとそちらを見遣る。
 ……あれは、幻影なのか。
 闇の向こうで、火矢を射掛ける二つの陣営がいる。そのただ中を切り結ぶ鎧武者達。首が刎ねられ、腕が飛び、怒号と悲鳴が戦場に充ちていく。
 と、今度は散発的ではなく、数百騎という鎧武者の陣が大地を轟かせながら抜刀し、敵陣へ殺到する。
 すると、敵の陣では木材を繋いだ柵の向こうから、鉄砲の陣を並べ立てて一斉射撃で応戦した。勇猛果敢な武者達が、ただの一太刀も浴びせることなく、無為に死体の山と化していく。
 そらはあまりの惨状に目を伏せ、階段を必死に登っていく。
 その頭上を大きな砲弾が飛び交う。西洋から入ってきた巨大な砲を打ち合う。昔からの侍と、洋装をした兵士が、野太刀と銃剣で斬り合う。混乱の時代。戦争が近代化していく時代。
 周囲の山々が姿を変えていく。
 いや――
 山だと思ったのは、まるで山脈を想わせる巨大な鉄の戦艦の群れで、闇の中に稜線を描きながら海を渡っていく。曳航弾が飛び交い、着弾する毎にその影をくっきり描き出す。炎を上げながら落下する飛行機。船腹に魚雷が命中し立ち上がる巨大な水柱。
 その向こうで一瞬閃光が光り、
 現世のものとは思えない巨大で圧倒的な雲がむくむくと膨れあがっていく。全てを飲み込んでいく。大気が震えていく。
 清弥とそらは、その全てを感じながら階段を登り往く。
 蓬莱の歴史、戦の歴史。
 今までも、これからも、多分未来も。
 その中で失われなかった幻想が昇華して、この山奥に幻想郷を形作っている。
 しかしながら、博麗の巫女によって封じられたこの結界は、九百年にわたってその悲しき歴史を眺め続けてきたのだ――決して叶わぬ救いの願いと共に。
 浄土は遙か遠く、ここは救い無き穢土。
 その片隅を、安らぐ場所を失った二つの魂が登りゆく。
 儚い希望を目指して。


 ようやく。
 永遠かと思われた階段は終わりを告げた。
 朽ちて歪みながらなんとか立っている最後の鳥居を抜けると、そこは峻険な山の頂上で、吹き上がる蒼白な霊気に包まれていた。
 闇が轟きながら、天を流れていく。
 吹き上がる魂が炎となって乱舞する。
 鋭い気流が白い糸を引いて荒れ狂う。
 地獄そのものだった。
 清弥の赤い髪が、そらの白い髪が、引き裂かれんばかりにバラバラに煽られている。
 二人が見つめる視線の先。
 鎧武者が立っていた。
 熊の様な体格の男だった。
 鎧や袖には折れた矢が突き刺さったまま。
 兜の鍬形も片方が千切れ飛んでいる。
 右手には大弓を持ち、地に突き立てている。
 背を向けていて顔は見えないが、天を睨み付けているように伺えた。
 清弥とそらは、彼をじっと見つめる。
 と、武者は二人に気づいたのか、ゆっくりと振り返る。
 その顔に、清弥の眼が一際大きくなる。
(………オヤジ)
 果たしてそれは、記憶に懐かしい養父の顔だったのか、どうだったのか。一瞬だけ歯を見せて笑ったような気もしたが、それは清弥の願望だったのかもしれない。
 武者は厳しい表情を残して、ゆっくりと消えていく。後には、蒼白い光を纏って地に立つ亡霊の弓だけが残った。
 人形そのものだった清弥の躯に、最後の力が込められる。軋みながら、自分の足で立ち、歩み寄る。
「清弥!」
 心配するそらに、大丈夫という風に頷いて、清弥は弓へと歩いていく。そらは悲痛な表情でそれに従う。
 今まで愛用していた弓よりも、なお一層強弓だ。自分にこれが引けるだろうか。
 手を近づけ、一瞬躊躇って、
 握りをしっかりと持つ。
 瞬間、清弥の躯に無数に入った疵があちこちで裂け始める。中から蒼白い霊気が吹き出し、弾ける。弓から入り込んだ怨念が、清弥を食い破ろうとして体の中で藻掻いている。
 清弥の顔は苦悶しない。人形だから。
 肉体に痛みはない。
 だが、清弥の魂は絶叫する。自分を苛む怨念の激烈に。
 そらはただ泣きながら清弥に縋り付く。
 だが、もう後には引けない。
 清弥の瞳はなお清冽で、
 雪と埃と涙で汚れきったそらの顔を優しく捉えている。
 その瞳の色がなおも変わらないから、
 そらは清弥を信じられる。
 清弥がいる、ただそれだけを信じている。
 そして――
 二人は揃って嵐の夜空を見上げる。
 天上の彼方に朝日が差す瞬間を待つ。
 東方に登る太陽を射抜いて、
 この小さくも甘い楽園……幻想郷の理を超える為に。
 二人の未来を掴む為に。

      ☆

「この刻を、待っていた」
 闇の中に桜色の鬼火が二つ――
 一層艶やかに浮かび上がった。
 冥界に咲く椿の園の、その中央、
 無数の蝶が群がるその中央。
 満面の笑みを扇子の向こうに隠すのは、永遠に美しき咎を流離う、亡霊の美姫。
 ――西行寺幽々子。
「生きながらにして死に、死の怨念を放って生を掴まんとする、澄み切った魂の持ち主たちよ。あなたたちに相応しいのは解脱ではなく、永遠に輝く魂の虜……さぁ、境界を越えて我が元に花を手向けよ……二人仲睦まじいまま、とこしえの世界に誘って差し上げよう」
 その瞳は妖しく、冷たく。
 揺れる。
「そう――ここが長き旅の終着なれば」