神魔綺譚



 ――初めに、天と海があった。
 仄暗き天球と黒くうねる海。
 遙か彼方の真っ直ぐな水平線が境界となっている。
 大気の全てに潮の香りが充満している。
 ただ、それだけ。
 アリス・マーガトロイドはその荒涼とした世界を独り、高速で飛翔していく。
 脇に抱えるトレードマークのグリモワール。反対の手には十字の板を組み合わせて作られた人形操作の手板。そこから伸びた数本の細い絹糸が、時折微かに光を帯びる。
 糸が牽引している大きな影は十間ほど離れてゆらゆらと揺れている。それは主よりも背が高く、無骨な人形だった。直立したままの姿勢で主に付き従っている。
 穏やかというよりは、生物の気配が皆無な世界。幻想郷に充溢する人の気配や獣の呼気、妖精らの精気がまったくない、魂の抜け落ちた、閑散とした世界。普段何気なく暮らす幻想郷がどれだけ豊かな世界なのかを、まざまざと実感させられている。
 穏やかな波が、進行方向からゆっくりと押し寄せてくる。
「こんな不気味な場所、初めてね。甘くない闇、虚無の満ちる混沌、そして深い『海』……」
 風を切るアリスが一人ごちる。
 ……やがて、世界に変化が訪れた。
 水平線上に一つの影。
 アリスは速度を速め、そこに接近する。
 そして、違和感を覚える。
 海から突き出る様に建っているのは、
「鳥居……?」
 朱塗りの巨大な鳥居。三階建ての洋館ほどもあろうか。柱に波が打ち寄せ、漣が揺れる。
 何かの前触れだろうか? 警告?
 アリスは注意を払い、己の魔力を高めながら、その間を潜っていく。
 ―――――。
 耳鳴りのような違和感を覚えた。
 万華鏡を覗き込む瞬間の、あの無数の自分を幻視する感覚。急速に自分が統合されていく錯覚。胸を押さえ、息を飲む。一瞬目を閉じてしまう。
 再び開けると、後ろの鳥居が小さくなり、再び空と海との寂しい世界が続く。
 ただ……何かが明確に違っている。
 空がじわり、明るくなっていた。太陽のような強くも優しい光ではなく、画用紙に落とした薄い墨汁をネガポジ反転したような、落ち着かない明るさ。鳥居を潜る前とは、世界の有り様すら違う気さえわき起こる。自分が異端で侵入者であるという違和感が胸を締め付ける。
 それでもアリスは飛び続ける。
 朱塗りの鳥居は、その後何度も現れた。彼女はそれに導かれて一直線に飛ぶ。潜るたびに明度は高まっていく。だが、海の黒さは依然として変化しない。この明るさは光ではないのだろうか? 水だって光を通せば色を変える。この海は、それを完全に拒絶する。
 ある鳥居を超えた時だった。
 水平線に新たなものが現れた。
 極細で視認するのも難しい、糸くずの如き一本の黒い線が、水平線から直角にどこまでも伸びている。上限があるかどうかも分からない。陽炎の様にゆらゆら霞んでいた。
 ただ、波はそこから広がっているようにもみえる。考えてみれば今まで潜ってきた鳥居も、そこへ真っ直ぐに連なっている気もする。
 もとより目指すべき目的地など知らない。アリスは怪訝に思いながらも、そこを視界の中央に据えて飛行を続ける。
 と、無音状態だった魔力が頭の奥でいきなり弾ける。危険信号が明滅する。
 背後から急速に接近する何か。
 もちろん、容易に想像できる。
「……もう来たの。早いわね」
 呟きながらアリスは、世界を超えているのだから時間の在り方も違っていて不思議ではないな、と思い直した。とはいえ、現状はあまり意味を成さない仮定だが。
 背後をちらりと振り返り、海面すれすれまで高度を下げ、全速力で逃げる。風圧で、海原に白い航跡が残っていく。
 何かがきら、と瞬いたのが始まりだった。
 一瞬の後、無数の魔法弾がアリスのすぐ横に弾着した。アリスの通った場所を正確にトレースして水柱が立ち上がる。襲撃者はまだ暗い闇に紛れ、上空から盛んに攻撃を仕掛けてくる。アリスは水煙をかいくぐり、逆にそれに身を隠しながら飛び続ける。かわしきれない直撃弾だけは普段使っている小型の少女人形に防御させ、全面的には相手にせずただ前方へ、前方へ。繰り糸に繋がれた黒い人形は微動だにせず、ただ、アリスの挙動に付き従っている。
 しかし、ここには身を隠す場所がない。
 更に、アリスは襲撃者の方が速度で遙かに上回っていることも理解している。純粋な速さであいつに勝てる人間など、少なくとも幻想郷には存在しない。今だ目的地すら見えない現状で、どこまで逃げられるか自信はない。作り物の心臓が少しだけ早鐘を打つ。と、背後に今までと違う光輝がちかちかと瞬いた、
「まさか」
 アリスが思わず振り返った瞬間、
「恋心『ダブルスパーク』!」
 嫌になるほど聞き慣れた声と共に、二本の巨大な光の柱が現出し、海面すれすれを抉りながら迸った。
 圧倒的な魔法力、熱と圧力と破壊。世界すら振動させる脅威。地平線まで光を及ぼし、海原はのたうち回るが如く乱反射する。
 アリスは動かなかった。反射的に意志的に、双方の意味で。二柱の光芒はアリスの左右を轟音と共に通過していた。もし動いていればどちらかの攻撃で炭化物のなれの果てになっていただろう。
 ようやく光輝が収まったものの、一瞬動きを止めてしまったアリス。その隙を逃す追っ手ではない。
「彗星『ブレイジングスター』!」
 レーザーの軌道を正確に二等分したその中央を、今度は巨大な光の塊が直線的にぶつかってくる。きらきらと星屑を振りまきながら、直下の海水を蒸発させ、水蒸気を纏って。その威力は一瞬毎に増大していく。
「もう! 加減って言葉が無いんだから!」
 やむなくアリスは、左手の手板を操作した。
 いままでぴくりともしなかった人形が、人形師の指先の動作一つで命を吹き込まれたかのように動き出し、主人を護るべく盾となってその前面に躍り出る。胸の前で腕を組むと、正面に巨大な魔法陣が展開され、そこに巨大な魔法彗星が激突した。
 七色の光が四方八方にまき散らされる。
 拮抗する二つの魔力が押し合う。
 海水がそこだけへこみ、周囲に巨大な波を立てる。
 光のヴェールの向こうで、箒に乗った襲撃者――霧雨魔理沙が、前傾姿勢のまま壮絶な笑顔を浮かべていた。
「……なんで逃げるんだよアリス。お前には尋ねなきゃいけないことが沢山あるんだ」
「おあいにく、午後は予定が色々詰まってるのよ。勿論優雅にティータイムの時間も取ってあるわ」
「先方には悪いが全部ドタキャンしてもらうぜ。とりあえず最初に、その趣味の悪い人形について聞かせて貰おうかな」
「話すことなんて無いわ」
「手を出すな、と釘を刺したよな」
「……………………」
 魔理沙の突撃を防いでいる人形。
 それは、異形の武者人形だった。古の戦装束に身を包み、手甲から胴鎧、爪先に至るまで黒檀のような黒塗りで揃えてある。頭からは毒々しい緋色の髪が腰辺りまで伸びている。背には禍々しい形の弓を背負い、顔は般若の如き悪鬼の仮面で覆われていた。顔に掛かった緋色の髪は滴る鮮血にも似ている。
 ぶつかり合う魔法の壁の左右から、少女たちは挑発的に怒鳴り合う。
「……お前の人形には前から色々言いたかったが、今回のは最悪にもいろいろ程がある。やっぱ言い訳を聞く前にこの水の世界の奥底に沈めてやるぜ」
「さっきは話を聞きに来たっていったくせに、あっさり発言を翻して、矛盾もいいところね。それに、わざわざこんなおかしな世界まで来てマイペースなんて感心するけど。思い違いで善良な隣人を撃ち落とす前に、周囲の状況を把握した方がいいんじゃないの?」
「何処に突っ込めばいい? 思い違いか? 善良か? それともお前の腐った脳味噌か」
「あいにくだけど脳味噌なんて下品なものはこれっぽっちも持っていないわ。霊夢の神社に行けば年季の入った糠床ぐらいはあるかもしれないわよ」
「ご託はそれまでだぜ」
 魔理沙が奥歯を噛みしめる。歯を剥いて笑う。纏う光が更に膨張し、危険な乳白色を帯びてくる。水面に浮かぶ油膜のようにきらきら輝く。攻撃の途中で魔力を上乗せしているのだ。展開する魔法の均衡が破れ、アリスの人形がじりじりと押されていく。
「せめて後腐れなく、跡形もなく吹き飛ばしてやるぜ……!」
 一点突破を試みる魔理沙、
 アリスは糸をくいくいと動かし、武者人形はその手をじりじりとずらしていく。
 均衡が崩れるその一点、
 人形は腕を伸ばし、突貫してくる魔理沙のエネルギーを斜め上方に逸らす。
 火炎のようなオーラを残しながら、四十五度の角度で打ち上げられる魔理沙。アリスは少女人形を召喚して、魔理沙の周囲で二、三ほど自爆させる。魔理沙はそれを読んでいたのか、爆発に巻き込まれない程度にくるくると立ち回り、再度急降下。銀河もかくやという魔法弾が展開され、アリスは再び回避行動、そして逃げ出す。
「きちんと勝負しろ!」
「暇じゃないっていってるでしょ!」
「問答無用!」
 強力な人形を従えながら、アリスはそれを積極的に使おうとはしていない。魔理沙には、それもまた癇に障る。
 魔法使いが再び最接近し、人形師の胸ぐらを掴む。グリモワールで敵の顔を押しのけようとすると、空いた手で押さえつけられる。
「顔を殴るのは優雅じゃないからな」
「分かってるじゃない」
「だから、二度と見なくてすむように吹き飛ばすっていってるだろ」
「冗談じゃないわ」
 揉み合いながら二人は落ちていき、少し海面に当たって白い風花を吹き上げ、再び上昇したところで――
 次の鳥居を潜っていた。
 一瞬、今までにない強い光に包まれ、
 そして、
 それが、出現した。
 初めに気づいたのはアリスだった。
「……魔理沙、見なさい!」
 いわれるまでもなく、魔理沙もそれを振り仰ぐ。自分が巨大な影が包み込まれていたからだ。それを視認するなり、思わず口をぼんやり開けてしまう。
「なんだよ、これ」


 巨大な塔。


 海上に建つ巨大な構築物。
 先刻アリスが遠方で見たのはこれだった。
 基底部は鳥居と同じ、しかしスケールの全然違う極太の朱塗りの柱で支えられている。
 天を仰いでも、塔の果ては見えない。雲でもあればスケールも分かるのだろうが。
 見る限り構造は円柱らしいが、電離層から見る地球のように巨大すぎて全体を把握することが出来ない。無論、幻想郷にこのような巨大建築物は存在しない。
 アリスは塔を眺めながら、急上昇を始める。
「待て、アリス」
 魔理沙も追撃を始めるが、塔の威容に圧倒されたのか、今までの勢いがそがれている。
 塔を観察していたアリスが、嫌悪感を含んだ視線で疑問を呈する。
「なんか、変じゃないの……これって」
 異常なのはスケールだけではなかった。階を登るにしたがって、塔自体の建築方法が変わっていくのだ。日本風から始まって、欧風に、ゴシック調に、ローマ風に、ギリシア風に、中華風に、メソポタミア風に。整合性無きグラデーション。それらは一定の建築思想に基づいて構成されてはいない。まるで杉に桜を接ぎ木したかのような異様さ。それが単一の塔の形に無理矢理整えられている。突き出した柱はその用をなしてない物も多い。
 あいも変わらず黒い海原が、下方に遠ざかっていく。 
 一向に近づかない塔の最上階付近だけが陰鬱に明るい。
「塔全体を照らすには、あまりにも弱い光ね……」
「アリス、お前はどこにいくつもりなんだ」
「知らないわよ、わたしにも」
 憎まれ口が、急に尻つぼみになる。
 答える必要がなくなったからだ。
 急ブレーキを掛けたアリスを見て理解したのか、さすがの魔法少女もアリスの横に滞空せざるを得なくなった。
 二人の上方に、白い少女が浮いていた。
 ゆっくりと、ゴンドラに乗って降りてくるように、荘厳に、威厳を湛えて。
「またあなた方ですか。弱き者たちよ」
 傘の代わりに両刃の長剣を握り、旅装束は白い貫頭衣に変わっていたが、能面の表情に個性を感じる。
 そらを追って……いや、そらを迎えに幻想郷を訪れた少女。氷雨追沫。
「ここは、一体何なのよ」
 アリスの問いに、氷雨は目を閉じて答える。
「此処こそ、唯一無二の世界。罪を犯して間違った方向へ進むこともなく、ただ最初の目的に従って綿密に正確に設計され構築され、今もなお成長を続ける世界。主様の意志を学び続け、一瞬ごとに完璧へと進む世界」
「訳が分からないわね」
「外界の住人には分からないでしょう。ここが創られゆく意味など。こんなにも作り手に愛される世界はどの次元にも存在しない。私たちはその愛を常にこの身で感じ、この身で答えている。皆、満ち足りているのです」
「ご託はいいぜ」
「魔理沙に同感だわ」
「訂正。お前と同じ考えなんて虫酸が走る」
「それにも同感しておくわ」
 アリスは武者人形を油断無く待機させながら、少女にじりじりと近寄っていく。
「まぁ、私は別にこの世界がなんであろうと、知ったことじゃないわ。それよりも……あんたがが連れて行ったあの女の子はどこかしらね。彼女を訪ねてわざわざここまで訪問したんだけれど」
「……そらのことか!」
 魔理沙は一瞬で合点がいったようだが、アリスは答えず、氷雨をしっかと睨み付ける。
 白き少女は静かに答える。
「あの方は、この世界に於いて特別な力と仕事を授けられた者。今も主様の愛に答えるべく、己の定めに従っていらっしゃいます。主様にも想定外の事故によって、あなたがたの世界に迷い出ではしましたが、今は未練を断ち、本来の場所においでになります。我らの世界の完成の為、再び記憶を呼び覚ますようなことは許しません」
「勝手な言い分だぜ。そらがこんな、暗くて何もない場所を好きになるわけないじゃないか」
「本来の愛は全ての概念を超え、運命を縛ってなお歓喜を挙げる至高の境地。たとえ俗界の記憶が愛おしくても、その身に刻まれた生命誕生の契機こそ、全ての存在がまず第一に従うべき理念なのですから。あなたがたも出生の仕方はどうあれ、正邪はどうあれ、愛を持って生を受けたはずなのだから、理解出来るのではないですか」
「……よくいうわ」
 アリスが自嘲気味に小さく呟いた。魔理沙はそれに気づかない。
「よく解らんが、そらがここにいるというのなら、当然連れて帰るぜ。なんだったらあんたの主に文句と断りを伝えてやってもいい。アリスを消し飛ばすのは向こうに帰ってからでも遅くないからな」
「無為なことです。主様はもとより、あの方は姿をお見せにならない」
「やってみなきゃ分からないだろう」
「彼の世界の神域で起こったことを繰り返すだけです。しかもここは我らの世界。排除はすなわち存在の抹消を意味します」
 氷雨の言葉を聞いたかのように、塔付近から急速に雲がむくむくと湧き上がってくる。
 いや――
「あれ、雲じゃないわ!」
「今気づいたのか、三秒ほど遅すぎるぜ」
「強がりだけは変わらないのね」
 雲だと思ったのは、空を舞う無数の少女たちだった。どれもが白い髪、白い衣、両刃の長剣。そらと全く同じ顔をした少女たちが何千、何万と湧き上がり、氷雨追沫を中心に侵入者たちを取り囲んでいる。あまりに多すぎて、大気に白く甘い吐息が満ちている錯覚すら覚える。
 言葉以上に、二人は内心緊張していた。たった一人の氷雨に、魔理沙とアリスは完膚無きまでに負けているという事実。しかもここは幻想郷ではない。退路はない。
 それでも魔理沙はスペルカードを引き抜き、四色の魔法球を周囲に浮かべる。
 アリスは繰り人形を遣いながら、グリモワールのページを捲り、全方位に注意を払う。
 仮面の武者人形は力無く中空を漂い、主人の命令を待っている。
 そして――氷雨は表情を変えることなく、剣を振り下ろす。
「招かれざる異邦人たちよ。主様の偉大な愛を、意志の尽きるその瞬間までに知ることを願いなさい」

      ☆

      ☆

 存在がその始源の一点を認識することも、終局の瞬間を把握することもない。有と無の境界線は、それだけ明確に分かたれている。
 その存在もまた、自分の始まりを明確に認識したわけではなかった。いつ自分が発生したのかは分からない。
 ただ、それは幸福だった。
 上方から溢れてくる光が、自分の全てを証明してくれるから。下方にいる全ての存在が、自分を媒介として賛美を続けるから。天から地へ、無限に続く階層世界。それは、自分がその一部であることに無上の幸福を感じていた。
 永遠に続く学習社会。
 究極の美しさ、位階秩序。
 その存在は天上を仰ぎ、愛と賛美を絶え間なく歌っていた。


 いつの日にか、自分は闇の中にいた。
 何故、自分は零落してしまったのだろう。
 疑問に感じる。
 あれだけ感じられていた天上よりの愛が、今は遠い。それでもうっすら僅かに感じられる。当然だ。無くなってしまうはずもない。ただ、遠くなってしまっただけのこと。
 光の中に包まれていたときのように、その存在は賛美と愛を歌う。だが、自分の祈りは天に届いているのだろうか。自分より下の者たちからの訴えも響かない。だから、自分から発せられる照明もまた弱いのではないか。人間のような弱き感情ではなく、純粋に知的な疑問がわき起こる。自分の力が絶対的に弱くなっているのではないか? それが、天上から自分を遠ざけたのではないだろうか?
 もっと、天上へ愛を送りたい。
 もっと、天下から愛を感じたい。
 己の力を増せば、もといた場所に帰れるのではないだろうか。いいえ、実はここはもといたのと同じ場所で、自分の愛が弱くなっているが故に全てを感じにくくなっているのではないか……そうに違いない。
 では、この闇の中で愛を、光を増すにはどうしたらいい?
 ……天上は、似姿として我をお造りになられた。ならば、自分も愛の結晶という似姿として下の者を創ろう。この無の世界に、正しき位階秩序を再現して、その全体で天上へと愛を送ろう。そうすれば、より強い光を持って我を、我らを照らしてくれるだろう。
 ――そうして、その存在は闇の中で世界の構築を始めた。
 愛を持って自分の似姿を無限に創る。
 天へ向かう位階秩序を再現する。
 それは愛による自由意志の発露だった。
 こうして、闇の中に一つの巨大な塔が創られた。
 極小でありながら巨大な世界が、愛とともに産声を挙げた。


「……そういうことだったのね」
「――来訪者の多い日ですね。何方ですか」
「名のない者が他者に名を尋ねるどころか、名を与えるとはどうかと思うけれど。トマス・アクィナスに従って、三つの位階と三つの階層から名を取りだしてあげてもいいのよ」
 闇の海の中央に立つ巨大な塔。
 もっとも天に近き、その最上階。
 塔世界の住人さえ足を踏み入れられぬ神聖なところ。
 限りなく透明に近い、水晶のように透き通った柱廊の中央に立つ少女が振り返る。いや、正確には少女の成りをしているだけかもしれない。性的徴候を感じさせないその顔は、氷雨追沫やそらと呼ばれていた少女と同一だったが、より柔和でありながらより神々しい、感情を欠落させてなお愛に満ちた、まさに人間離れした風格を備えている。長い白髪も、緩やかに巻き付いた衣服もサンダルも、頭のてっぺんから足の先まで穢れ無き純白。瞳は閉じられているが、隣人に向けるような顔は真っ直ぐに侵入者を捉えている。
 柱の後ろから影を伸ばしてきたのは、幼き少女だった。
 蒼い髪、赤い瞳、紅い爪。
 目を細めて不敵に笑う。
 神聖な場所に似合わない邪悪な存在。無垢という名の罪。満月の紅魔。運命の導き手。
 レミリア・スカーレット。
 彼女の背後には絶対従者、十六夜咲夜が静かに控えている。
「我にこの場所での名前はありません。我はただ力無く、天を喜ばせるために存在する者」
「それが孤独な神様ごっこの言い訳ということかしらね。でも、人には誉めてもらえない遊び方だこと。堕落した天使こそが悪魔という、西暦千二百十五年の第四ラテラノ公会議は証明されたのだから、歴代の教父たちはさぞ喜ぶでしょう」
「幼い悪魔よ、ここは貴女がいていい世界ではありません。ここは欲望でなく、邁進すべき無辜の目的を持った愛に満ちる世界」
「愛という欲望に満ちた世界、の間違いでしょう? 孤独に震える魂が、寂しさを紛らわす為に作り上げた妄想。幻想へ昇華することもなく、闇に還る定めの場所」
 レミリアは一歩、二歩と、この世界の主へ歩みを進める。足音が賛美歌よろしく輪唱しながら広がっていく。
「……かつて、天から追放されたことを認められないあなたは、己の力を誇示する為にこの世界を構築したわ。神の業を真似て、人間の歴史を繰り返すもっとも簡単な手段として、天へと届かんとする塔を選んだのね。それぞれの時代に自分を模した人形を無数に住まわせ、見せかけの位階秩序を形成する為に」
「この世界に不実など存在しません。私を捨てることによって幸福に満たされ、全てが連関して愛を歌う、完成されゆく世界なのですから。天上の方も我らの愛を喜んでいらっしゃいます」
「ところが、あなたの尊大な自己意識に反比例して、あなたの力はそれほど強大でもなかった。世界を形成するにはほど遠い、限定された力。だから目を閉じ、闇をまさぐり、無作為に力を引き寄せた。自分の願いを達成する為に必要な、強力な力を。そしてそれはすぐにみつかった――当然よね? 『それ』は自分を引き上げてくれる手をずっと待っていたのだから。闇の海の奥底で、少しだけ鎌首をもたげて、静かに、静かに」
 夜の王女が立ち止まる。
 彼我の間には数段の階段。
 名も無き天使は首をさげ、
 レミリアは面白そうに見上げている。
「あなたはなんの疑問を持たずに『それ』を引き上げ、この世界を構築した。それとも、今だに自分の力だと誤解しているのかしら? 閉じたままの瞳では見られないものもあるでしょうに」
「たとえ闇から来るものであっても至高なる光に翳せば、冷たい衣を脱ぎ捨てて暖かい愛に包まれもしましょう。吸血鬼、貴女のように絶え間なる邪念を以てしかささやかなる運命を垣間見られない哀れな者でなければ」
「わたしは、神以外に『世界』を守り維持する者を身近に知っているわ。その子はお仕着せの愛には無頓着だけど、決して誰をも拒絶したりしないもの。だから周囲に、人妖を超えていろんな者が集まってくる。山奥の小さな世界は日に日に豊かになっていく。あなたの創ったこの世界とはうらはらにね」
「ならばなおさら、我らに悪魔が干渉するべきではないでしょう? この世界が貴女になんの影響を与えるというのですか。ここはただ、我らの愛を増幅し、愛を天へ送る為だけの、純粋で善良な世界なのだから」
 レミリアは後ろに手を組み、こっそり秘密を打ち明けるように無邪気な笑みを浮かべる。
「建前だけ聞けばそうなんだけれど……いろいろあってそうもいかなくなっちゃったのよね。それに、どうしてもってせがまれたから妹も連れて来ちゃったし。あの子、わたしほど聞き分けがよくないから」
「……どういうことですか」
 紅い悪魔の微笑みが可憐に咲く。
「聡明な天使様……あなたはご存じかしら? 中途半端な楽園が、焦熱地獄にも似て紅く燃えてしまう運命を」

      ☆

 魔理沙とアリスは、絶望的な戦いを繰り広げていた。それでも戦いになっているというのが彼女たちの驚きだった。同じ姿形をしていても、白い少女たちの能力にはそれぞれ差があるらしい。氷雨よりも圧倒的に強い存在がいないのは救いだった。
 が、それも比較論でしかない。刻一刻と、異邦人たちは傷を負っていく。
 魔法弾をばらまきながら敵を寄せ付けない魔理沙と、少女人形によって斬りつけるアリスが、偶然背を合わせて睨みを利かせる。アリスの武者人形は主に防戦に立ち回っている。決定打となる魔理沙のスペルカードは既に種切れだった。出てくるのは憎まれ口ばかり。
「なんで、お前と一緒に戦わなきゃいけないんだよ。私はお前をぶっ飛ばす為に追ってきたってのに」
「それはこっちの台詞よ。あんまり近寄らないで、黒く淀んだ汗の臭いが堪らないわ」
「そっちこそ、不気味だからへんてこな人形をうろうろさせるなよ。造形で言えば向こうの奴らの方が美しいぞ。まぁ、そらとそっくりなんだから当たり前だが」
「魔理沙に美的センスを語る趣味があったとはね」
「私は全身が最先端だぜ」
「なによそれ」
 天使が上方と下方から斬りかかってくる。上からの打ち下ろしを武者人形によって剣を受け止めた瞬間、下方から飛来した剣が繰り糸を切り払った。
「しまったわ!」
 今まで俊敏に動いていた武者人形はがくんと力を失い、ただの物体と貸して遙か下方へ落下していく。魔法球から続けざまに放たれるレーザーで少女たちを追い払った魔理沙がアリスに怒鳴る。
「おいアリス! 何やってるんだ、あの人形は……」
「分かってる、分かってるわよ! 追いかけるに決まってるでしょ。手塩に掛けた人形なのよ」
 だが、周囲は無数の少女たちに囲まれて、逆に身動きが取れなくなる。じりじりと包囲網が狭まっていく。一斉に剣を構える。身を護る手段すら残り少ない。四方八方から串刺しにするつもりか。
「あぁもういいわよ、主人を見捨てる人形なんかに未練はないわ」
「………………」
 やけっぱちなその言葉の端に強がりを感じて、魔理沙はアリスの顔を覗く。
「おいアリス、あの人形、本当は」
「待って!」
 人形師が弾かれたように顔を上げる。

 コツッ……

「なんだよ」
「何か、聞こえない?」
 争乱に震える大気の向こうから響いてくる、
 それは確かに、
 聞こえる、

 コツッ、コツッ、コツッ、コツッ……

「あぁ、聞こえるぜ……」
 肯定した魔理沙も、音源を探して首を左右に振る。
 少女たちがじりじりと近寄ってくるのに。
 必死で、怯えるように。

 コツッ、コツッ、コツッ、コツッ、コツッ、コツッ、コツッ、コツッ、コツッ、コツッ、コツッ、コツッ

 それは規則正しい、
 何年、何十年、何百年と正確に時を刻む、
 秒針と分針のワルツ。
「時計の、運針の、音」

 クスクス……クスクス……

 それに、幼い少女のあどけない笑いが重なっていく。
「ヤバすぎる」
「何がよ……」
 魔理沙すら恐怖を覚えるその肩越しに、耳打ちするその甘い声。
「やっと一緒に遊べるね、魔理沙」
 次の瞬間、

 ブオォン!

 魔理沙とアリスの周辺を、巨大な炎の刃が一閃した。
 微笑みながら胴体から飛び出す、無数の少女たちの首、首、首。叩き折られた同じ数の剣が、炎を乱反射して闇に舞う。
 そして、一斉に点火。
 無数の命が劫火に灼かれて火炎の虹を形成する。炎の魔剣は吸った命の数すら物足りないのか、そのままの勢いで背後の塔を袈裟切りにした。巨大な塔の一部が爆炎に包まれ、柱や壁などの構築物がばららばらと崩落を始める。それら全てが紅蓮の炎に包まれていく。
 もはや戦闘ではなかった。
 一方的な虐殺、単純な破壊。
 まるで砂山を足で蹴り崩すようにあっさりと、命あるものも無きものも等しく、炎になめられて黒い消滅へと飲み込まれる。
 逃れる術はない。
 吹き付ける熱風に煽られて、呆然とする魔理沙。
 唾を飲み込むアリスが、震える声で呟く。
「なんなの、これ」
「……フランドール・スカーレット」
 それは、幻想郷のタブー。
 燃えたぎる世界を背景にして、小さな少女のシルエットが浮かぶ。右手には禁忌の黒炎剣・レーヴァデイン。背中に輝く虹色宝石の翼。金色の髪、紅の瞳。
 そして笑う。牙を剥いて哄笑する。


「キャハハハハハハハハハハハハハハハハ!」


「愚かな……」
 世界の創造主は愁眉に憂う。
「わたしたちの世界では妹を解放してあげられないの。危険だからね、いろいろと。だけどここなら大丈夫。いろいろ溜まったストレスも解消してくれるだろうし」
「原罪のない世界においてもこのように振る舞うとは……貴女の罪は重いですよ」
「鏡を持ってくればよかったかしら? 無理矢理にでも瞳をこじ開けて、お前自身の罪を脳裡に焼き付けてあげたのに」
 レミリアの口調に刃が混じる。
「罪? ただ一心に愛を願い、絶え間なき努力によって天を仰ぐ行為の何処に罪があるというのですか」
「その傲慢さゆえに、お前が天界から追放されたとはあくまでも認めないのね。大体ね、力を誇示する為に天に届く塔を建てるなんて、愚かな人間でも数千年前に通り過ぎた、もっとも愚鈍な行為の一つだってしらないの? まぁそれは趣味の問題としてあげても良いけどね」
 紅魔の瞳が静かな怒りに紅く燃える。
「だけど、そのありえないほどの愚昧さが、一人の少女に呪縛の如き熾烈な運命を強いているわ。この塔世界の基部を護る為に、一方で光の力を付与され、もう一方で闇の海の力を継承させられている。その中央で小さな魂は震え、迎えが来るのを今も待っている。
「わたしはあまり卑小な存在の運命に手を加えたりはしないのだけれど……彼女には多少の縁もあるし、なによりわたしは彼女が、彼女たちが自分で運命を選び取る瞬間が観たい。こんなに愚昧な親によってその生の終焉まで左右されることなくね」
 堕天使と吸血姫の間に、見えない緊張が高まっていく。
「それに、お前が闇の底から引き上げた者は、日の本の根本を揺さぶる、封じられし大魔縁の一つ。このまま放置したら、幻想郷にまで悪影響を及ぼすかもしれない。だから、このまま闇に還って貰うわ……お前共々ね」
「どうあっても、我に無益な害をなすつもりですか」
「最後まで目を閉じたまま光の眷属を自認するつもりだったら、己の全てを以てそれを証明するがいい……愚かな堕天使」
 レミリアは紅い霧を纏い、背中の小さな翼を大きく広げる。その向こうから、純白の光翼が立ち上がる。
 天使はレミリアに向き直り、一瞬だけ額にしわを浮かべた。次の瞬間、背中に巨大な六つの羽根が展開する。それは白くなく、漆黒に濡れて闇を呼ぶ。
 二人は翼を羽ばたかせ、静かに上昇を始めた。どこまでも高く、遠く登っていく。
 そして、
 同時に叫ぶ――


「『スカーレット・ディスティニー』」
「『ERGO SUM LUX(わたしは ひかり)』」


 その世界の頂点で、二つの究極が激突した。
 一方は純白、一方は真紅。
 あまりに強大すぎる閃光は、塔全てを飲み込まんとする勢いだった。破壊だけのビッグバン。破綻していく論理。音はない。


 こうして――
 その未熟で不完全な世界は完成を見ぬまま、早すぎる終局の日を迎えた。