朧辻



 中秋の月祭を数日後に控えた青空の日。
 霊夢と清弥は、里を目指して短い旅の途についていた。

 森の小径を歩いて、ほぼ一日。
 山の季節は移ろい易い。ほんの僅かの冷風が吹き抜け始めると、木々は慌てるかのように赤や黄色の衣を纏い始める。もちろん今はまだその気配もないが、清弥は狩人という職業柄、風の感触の変化を肌で敏感に感じている。動物達の生活様式が変わるのもこの季節――秋は狩りの季節でもあるのだ。しかしまだ、強烈だった夏の残り香も依然として混在している。
 いつも通りの弓と矢筒を揃え、大きな荷物を背負い込んでいる清弥の前を歩くのは、いつも通りの姿ではない霊夢。普段は大きなリボンで上げている髪をまっすぐに落とし、典型的な巫女装束と千早を身につけている。もちろん、中身はいつも通りの霊夢だが。
「……ねぇ清弥さん、なんか喋ることないの?」
「もう喋り尽くしたよ」
「そらさんと一緒ならいつまでもぺちゃくちゃ喋ってるのにね。それも清弥さんから一方的に。飽きてる振りしてるでしょ」
「そんな器用なこと出来るかっ」
 霊夢の指摘にそっぽを向く。霊夢でなくても、誰かと二人きりで長い時間いると気疲れするものだ、と思う。だから霊夢が自分を誘った時にこうなることは解っていたし、霊夢にも一応は説明したのだが――旅の供には不向きだぞ、と。
「あーたいくつたいくつたいくつたいくつ。足の裏ばかりが痛いから、いっそのこと逆立ちで歩きたいものね」
「逆立ちは『歩く』っていうのか?」
「たいくつー」
「………………」
 やっぱり解っていなかったのだろう。

      ☆

 ――今回の霊夢の里行きを知ったのは、ほんの一日前のことだ。
 その日清弥は、森のほとりの道具屋・香霖堂を尋ねていた。例によって霊夢に起因するつまらなく面倒な遣いである。店主である森近霖乃助は読書の邪魔をされて迷惑そうにしながらも、清弥を追い払おうとはせず、二人はしばらくの雑談に興じていた。
 霖乃助はとみに博識な青年で、どんな話題を振ってもそれなりに面白い切り返し方をしてくるので、清弥としても比較的話しやすい相手だった。自分に歳の似た(実年齢は定かでないが、たとえ外見上だけであったとしても)同性の知人であればなおさらである。もっとも、彼の言説の正誤に関しては、清弥の乏しい知識ではとうてい判断できないので、大概は黙って頷くしかないのだが。
 霖乃助は、霊夢が毎度毎度いいだす無理難題に呆れながらも、きちんとした対応をしてくれた。どうやら清弥とその同行者が博麗神社に居候を始めてからというもの、霊夢自身が香霖堂をあまり訪れなくなったことを喜んでいる様子だった。彼の本音がどこにあるかはさておいて、過去には霊夢が呼び込む災難で店が破壊されることもあったらしいので、同情はしておこうと思う清弥である。
 そうして話が霊夢について及んだ際、霖乃助が中空を睨んで首をひねった。
「……そういえば、そろそろ十五夜なんだな……霊夢は祭のことを覚えているんだろうか」
「祭?」
「ああ。例年ならいつもの調子で魔理沙やら、得体の知れない奴らと気楽に酒飲んでるんだが、今年は祭の年だからな。博麗の巫女は里に下りて、祭の準備をしなくちゃならない。里では巫女の訪問自体が祭でもある」
「俺の里じゃ、月祭に巫女が来るなんて聞いたことないぞ。博麗の巫女なんて縁遠くて、話の上だけかと思ってたし」
「巫女の祭は毎年ある訳じゃない。幻想郷にいくつかある里が数年から十数年に一度、持ち回りでやっているのだから。お前の年齢なら知らなくても不思議はないよ。まして巫女がきちんと仕事しなかったら、里の人間は待ちぼうけ」
「さすがにそんなことはないだろ、神事なんだし」
「霊夢が真面目に仕事してると思うか?」
「霊夢は、ああみえて結構」
「真面目か? 常に?」
「…………………」
 いつぞや目撃した、縁側で涎を垂らして昼寝をしている霊夢の姿が脳裏に浮かんだ。よりによって。
「断言できる自信がない」
「……博麗の巫女が今の代になってから巫女が里に下ったかどうか、僕もよくしらないんだけどな。別に関係ないから」
 鼻に掛かった眼鏡を押し上げて、カウンターの向こうの霖乃助は開いた本に目を落とそうとし……ふと、清弥を見上げる。
「恐らく霊夢はお前に、里に着いてくるように誘うと思うが……ついて行かない方がいいと思うぞ」
「? 何故だよ」
「行ったら解るが……多分、お前もうすうすとは気づいてるんじゃないかと、僕は思ってるけどな」
 肩を竦める霖乃助に対して、その時の清弥は怪訝な表情を浮かべるしかなかった。 
 ――そして。
 霖乃助の予想はほぼ完全に的中した。
「あああああああああ、わぁすれてたああああああああああああ」
 店から戻った清弥の話を聞いた途端、霊夢は大慌てで旅支度を始めたからだ。そして店主の予想通り、霊夢は清弥を誘った。
 清弥自身、孤独な森の生活をしていた頃から、再び人間の里を訪れたいという欲求が疼いていた。故郷を出て森に入ってからも、冬籠もり等の準備もあり、完全に人と隔離して生きてきたというわけではない。自分はまだそこまで優秀な山の民ではなかった。が、自分でも度し難い感情に揺られて、なるべく下山しなかった経緯がある。人界は近くて遠き故郷だった。
 博麗神社に居候を始めてからも、衝動と云うべきその思いは幾度も首をもたげていた。そらや霊夢達との生活に馴れていく中で、それははっきりとした切欠にならないままでいたのだが。
 しかし、今回霖乃助の話を聞いたことで逆に、清弥は里行きの心づもりを固めた。里で執り行われる未知の祭の様子にも興味があったが、むしろ霖乃助の忠告が腑に落ちず、些細な感情の反発を生んでいたからだ。妙な形で背中を押された感じだった。
 霊夢には旅の同行者として自分は不的確だと一応の忠告はしたし、それについて不安もがないわけではなかったが――どちらかといえば神社に残すそらと、留守番を頼まざるを得なかった魔理沙の方がひたすら心配だった――それはさして大きな障害にはならなかった。
 ただ、急な出立と複雑な想いが結果的に小旅行を更に味気ないものにしてしまっているのは間違いない。望んでいた人界への帰還だが、自分で無為に遠くしてしまっている気がした。

      ☆

「やっぱりさ、霊夢は空飛んでいくべきだったんだよ。俺が追っかけても半日で里までつくだろ。森の手前で降りれば解らないって」
「そういうものじゃないのよ、これは行事なんだから」
「普段のいい加減さからは考えられない言動だな」
「なによ、そらさんの前だけでいい格好ばかりしてるくせに」
「俺はお前とは違うよ」
「廊下の雑巾掛け、そらさんがいないと二往復少ないわよ」
「霊夢が炊くご飯に芯が残ってるのと同じようなもんだよ」
「歯ごたえがある方が、筋肉の成長には効果的なのよ。老化は努力で防げるのよ」
「わけわかんねぇ」
 もう憎まれ口の応酬でしかない。喧嘩にならないのは、不毛なことをお互いに認識しているからだ。その辺は魔理沙と違って殊勝だった。
 ――険悪な沈黙が幾たびも繰り返される内に、森が徐々に明るくなってきた。霊夢の装束が、光を帯びてぼんやりと輝くかのようだ。
「よぉぉぉぉぉぉやく、到着ね」
「里までもうちょっとあるんじゃないのか?」
「迎えが来てるわ」
「何処に?」
 霊夢は応じず、姿勢を伸ばして歩いていく。
「俺はどうすればいいんだよ」
「私の後ろを歩いてなさい。黙っていれば何もされないわ」
 妖怪が襲ってくるんじゃあるまいし、その表現は的確じゃないだろと口の中で反論しながら、清弥は霊夢の後を追う。
 やがて、森は切れ……二人は再び日の光に包まれた。黄昏の褐色だった。
 緩やかに勾配のついた平地の両側は、青から黄色へとまさに色を変え始めようとしている、稲田が連なっていた。もう少し経てば、秋の風と共に黄金の波が寄せては返すようになるのだろう。
 村境付近に小さな祠があって、地蔵菩薩が祀られていた。そこに人だかりが出来ている。大きな幣帛を持った神主らしき老人を先頭に、贄役の童子が籠つきの輿にのせられている。真っ白い顔で、真っ白い着物で。その後ろには、大夫の面を着けた村人衆が道の左右に並んで座り、声が掛かるのを待っている。子供達は手に手に稲穂代わりの薄を持ち、里芋を初めとする収穫されたばかりの作物……神饌物が備えられていた。
 博麗の巫女はそこまでゆっくりと歩くと立ち止まり、自らの玉串を捧げ持った。祭の行列は彼女の膝元に頭を垂れる。
「参りました。貴方が祭主ですか」
「いかにも。永きに渡ってお待ちしておりました、博麗様」
 霊夢は頷き、
「では、村へ」
 人々は一斉に立ち上がった。
 響く轟き。砂埃が舞う。
 行列がゆっくり、ゆっくりと動き始める。

 しゃらん!

 乙女達が持った五十鈴が清冽に響く。
 霊夢と、その背後の清弥を取り囲むように、右に左に、白い登りがたてられて風になびいていく。頂点には白黒の太極図が描かれている。
 鉦太鼓とお囃子がゆっくりとしたテンポで調子を取り、物言わぬ仮面達が踊りながら先導する。
 籠の中の童子は役目からか、彫刻のように微動だにしない。本当に命を捧げた後であるかのよう。
 烏帽子と白い直垂を付けた祭主は、これも能面のような表情を浮かべている。
 行列は稲田を過ぎ、村へと入っていく。
 清弥の住んでいた里よりも一回り大きい。また、文化も進んでいる感じがする。
 ただ清弥には……この神事が静寂を押し広げ、人々から生気を奪っているような気がしていた。祭主が大きく幣帛を振るたびに、右に左に人々がひれ伏し、博麗の巫女を拝礼しているように窺える。それは人間に対するものではなく、山から下りてきた神に対する接し方だった。
 その恐れおののく瞳が、清弥にも向けられている。彼らは清弥を、博麗の巫女の妙な従者として認識しているのだろう。
 山からの来客は神か、さもなければ妖怪なのだ。清弥の村でもそれは変わりなかった。
(まるで葬列だ)
 清弥は暗澹とした気分になっていた。祭という言葉からは連想できない光景。
(霖乃助はこれを知っていたのか)
 舌打ちしそうになって、押しとどめる。
 それでも今は、祭の最中なのだ。
 彼ら普通の人間にとっては、何年かに一度の神聖な儀式。半端者が自分の感情でケチを付けるわけにはいかない。
「………………ん?」
 村を見回す清弥は、暗がりの軒下に居並ぶ村人達とは距離を置いて、一人の少女が立っているのをみつけた。影でよく見えないが、白い髪、青い服を纏って、巫女に礼を取らず毅然と立ったまま。霊夢を、そして清弥を眺めている。
 一瞬、清弥と目があった。
 少女は射抜くような視線を向けると、長い髪を翻すようにして建物の影に消えた。
「なんだろあれ」
 この祭に反感を持っているのだろうか。清弥の思い過ごしかもしれないが、並ぶ村人にはない高貴な雰囲気をも備えているような人物だったように思える。
 足が止まりかけて祭礼の列に遅れそうになり、慌てて戻る。深く考えても仕方がない。どうせ自分には解らない里の事情だろう。
 目の前の霊夢を、もう一度眺める。
 半眼のままゆっくり、ゆっくりと村の中央へ進んでいく霊夢は、見知った勝手気儘な少女ではなく、正しく神の代理人……カンナギの形をしていた。


 東の森の切れた場所から始まった祭の列は、村の大きな通りをくまなく練り歩いた後、祭主……村の長の屋敷へと辿り着き、その歩みを止めた。
 霊夢は上座の一番奥の部屋に通され、村人達の様々な祝詞や舞いを披露された。ただ霊夢自身が何かをしたり、要求されたりということはほとんどない。
 博麗の巫女に付き人がいるという仕来りは元来無かったようで(それはそうだろう)、マレビトたる清弥は、霊夢がいる部屋の隣で待機させられていた。歓待という表現にはほど遠く、あからさまな待遇の違いに清弥は辟易とさせられた。
 やがて日が沈み、おおよそ満ちようとしている月が静かに昇ってきた。
 全ての祭礼が終わると、博麗の巫女が通された部屋の四方の扉が閉ざされ、四本の大幣帛によって封印された。
 同時に村中のあちこちで大きな篝火が焚かれ、押し黙っていた人々に歓声が戻ってきた。村人達にとっての本当の祭の夜が始まったのだ。酒を楽しみ、収穫物を楽しみ、交合を楽しむ。まるで望月がやってくる前に今生の快楽を楽しんでしまおうとばかりの、奔放で原始的な祭が。


 ドンドンドンドン。
「おーい。清弥さんいるー?」
 飾られた幣帛のむこうの襖が叩かれている。
 村中から景気よく聞こえてくるお囃子をぼんやりと聴いていた清弥は、扉の向こうの声にやる気なさそうに答えた。
「いるけど」
「こっちきてよ」
「儀式中なんだろ」
「そんなのわかんないわよ。もう誰もいないじゃないかしら。みんな祭を待ってたんだものね。ほら、お宮があれば中に入ってる物が石ころでも有り難がるじゃない。あれと一緒。なんでもいいのよ」
 いつもの調子の霊夢だった。清弥は溜息をついて、渋々と霊夢のいる部屋に入った。
 堆く積まれた捧げ物の後ろで、霊夢がだらしなく足を投げて座っている。
「あー。妖怪と弾幕ごっこしてる方が気楽でいいわね。肩こっちゃって」
「霊夢でも肩こることあるのか」
「そういう気分にはなるわね、間違いなく」
 遠くからお囃子が響いてくる。
 四方の蝋燭が静かに灯る中、清弥はおそるおそる、霊夢に訊いてみた。
「あのさぁ、霊夢」
「なに?」
「なんか……この祭、霊夢を厄介払いにしてるみたいなんだけど」
「そうよ」
「え?」
 霊夢は裾でごしごし拭っていた人参をぽきりと囓りながら答えた。
「誰だって面倒なことはしたくないものよ。山からあやしい神様が降りて来なければ、わざわざ相手になんてしないもの。博麗の巫女は人間のための巫女って訳でもないわけだしね……私、たまには普通に里に下りることもあるけれど、その時はみんな普通だもの」
「じゃあなんでこんな祭が」
「本当の満月は人にも強すぎるから、満月になる前にハレの日を行って抵抗する……だったかしらね。それから、人々が徘徊する夜は妖怪につけ込まれやすいけど、こっちには博麗の巫女がいるんだから、夜に外で遊んでいても大丈夫だぞ、っていうのかしら。こんな日でもないと、たとえ里の中にいても神隠しにあっちゃうでしょう」
 自分の養父のことがあるので、清弥は神妙に頷かざるを得ない。
「そのほかにも理由は色々。いろいろあった方が人間は強くなれるみたいだから。まぁ、私達の役目はおおよそ終わったようなものね。あとは神社に奉納する馬を連れて帰るだけ」
「馬って……博麗神社に馬小屋なんてなかったぞ」
「十五夜前後の頃だけ。終わったらまたここに返しに来なきゃならないわ。面倒くさいけど」
「ふぅん」
「ねぇ、清弥さんもお腹減ってるでしょ、食べなさいよ。どーせ終わったら村の人達が自分で食べて、残ったら捨てちゃうんだから。いくら清弥さんがいるっていっても、全部は持って帰れないわよ」
「あ、ああ」
 供え物を食べるというのは何となく気が引けたが、さっきから腹の虫が盛んに暴れているので、草餅に手を伸ばした。
 固くなったそれは、久々に食べる人界の味だった。なかなか飲み込めずに、御神酒で喉を無理矢理通す。胸を叩きながら。
 ――祭囃子が、やたら遠い。
 清弥は瞳を閉じ耳を澄ます。どこか悲しく、懐かしく聞こえる。
 思い出していた。記憶でなく感覚を。祭の形は違えど、里にいた頃の自分の居場所はあの熱気と清濁の混在した雑踏だった。
 だけど、狩人だった養父はどうだったろう。
 山から帰ってきては、今日清弥に向けられたような畏怖と嫌悪の視線を受け止めなくてはならなかったのだ。同じ人間なのに妖怪に対して向けるような、そんな瞳。
 ただ待つしかなかった自分は、余りにも幼かった。だから厳しくも優しかったオヤジの表情はおぼろげにしか覚えていなくて、大きな背中と煙管の香りばかりを脳裏に刻印している。包み込むような、でも何処か寂しそうな背中。あの姿の意味を、自分は感じ取れなかった。オヤジはいつもどんな目で自分を見ていたのだろう。帰るたびに背が伸び、姿を変えていく自分を。
「………………」
「どうしたの、清弥さん」
「……霖乃助がいってたんだよ。お前は里には行かない方がいい、多分霊夢が誘ってくるだろうから断れってな」
「なにそれ、酷いわね。当たってるところがなおさら悔しいじゃない」
「自覚はあるのかよ」
「不幸を分かち合うのも大切なことなのよ!」
「不幸と思ってないくせに」
 清弥の囁きは届くことなく、霊夢はぷくっと頬を膨らませて……それから横を向く清弥をじっと見つめる。仕切直しをするように殊更に、歯を見せて笑いかけて。まるで清弥の瞳を覗き込むかのように。
「じゃあ、清弥さんはどう思うのかしら? ついてこなければ良かった?」
「俺は……」
 答えようとして、咄嗟に言葉が出ない。
 取り繕う表情すら浮かべられなくて……今一度、祭囃子に耳を澄ます。
 何を悟ったのか霊夢は一つ頷き、それから悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「今日は真面目風なのね。でも、あれをみてもそんな顔してられるのかしら?」
「…………………?」
 清弥が首を巡らした先には、いつの間にか僅かに開いた障子の隙間。そこからいくつも輝く大きな瞳が縦に並んでいる。みしみしと鳴る障子、こそこそと囁き合う声。
 一瞬で合点した清弥は、すばやく駆け寄ると障子を開け放った。
「こらっ」
「ヤバイ、逃げろ!」
 わああああああああ――
 蜘蛛の子を散らすように逃げ出したのは、まだ年端もいかない子供達だった。十を数える子から幼子まで様々。逃走が間に合わずに泣き出す子供さえいる。
 清弥は手を組んで威嚇はしていたが、もちろん破顔している。大人達の繰り広げる祭の闇に乗じて、勇気ある子供達は博麗の巫女を覗き見ようと肝試しを敢行したのだろう。清弥だって身に覚えの数十はある。大人の仕来りを破るのが子供なのだから。
 祭の日に宿った命が祭を次代に伝える。その祭とは儀式だけでは当然ない。厳かな神事や微笑ましい悪事の継承は、生まれては死んでいく人間にとって至極当たり前の、時の導きの連環なのだかあ。
 物陰から依然こちらを窺っている清弥は、霊夢の了承を取ってから声を掛けた。
「こっちに来ても良いぜ。森や狩りの話をたくさん教えてやる――ただし、お父さんやお母さんに内緒に出来る奴だけな。秘密なんだから」
 顔を見合わせる子供達にとって、森よりの異人の誘惑は、待ち望む異界への扉だった。

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 どんどんどどん どんどんどどん
 しゃん しゃん しゃんしゃんしゃん
 どんどんどどん どどどんどん

 夜の祭は村中に拡散していた。
 水紋のように寄せては返している。
 切れ切れに流れる雲の向こうで朧な月が大きく微睡んでいる。地上には至る所に篝火が焚かれている。揺れる炎が闇と交わり、行き交う人々の影をまた揺らす。
 家々や畦道に延びる影も朧。
 笛や太鼓や笙の音も朧。
 道徳や秩序を失った人々の垣根もまた、朧。
 祭は渾然一体となって、混沌と成し月光と熱気を化合する。昼には昼の祭があるように、夜には夜の祭がある。

 どんどんどどん どどどんどん

 その影の中にたとえ異形が潜んでいても、誰も気づきはしない。今日は特別な祭なのだから。神聖と汚濁が入り交じる日なのから。
 行き交う人々の間を歩く少女がいる。金髪に赤いカチューシャ、フレアスカートに赤い靴。右腕でトレードマークの魔導書を抱き、左腕に小さな仏蘭西人形を抱いている。
 魔法の森の魔術師、アリス・マーガトロイドである。
「まあ、いつもにもまして騒々しいわね。にぎやかなのも嫌いじゃないけれど、あまり好きでもないわ。人間がますます莫迦に見えてしまうから」
 祭は人間本来の精気を高めると共に、人間にまとわりつく精霊達の活動も活発にする。アリスの瞳には、篝火のまわりで銀河のように渦を巻く精霊達の姿が映っていた。彼らが森に満ちて力を蓄え、妖精や妖怪に力を注ぐ。人間というのはつくづく業の深い生き物だと思う。
 里には人間の結界が張り巡らせてあったが、入り込むのは容易だった。彼らの結界は害意を及ぼす者にしか働かない。そしてアリスには人間を襲う気などさらさらない。妖怪を敵としか認識できない人間の盲点だった。
 影と炎とで混沌とした辻を歩いていく。
 途中、人間と幾度もすれ違うが、彼らは決してアリスに気づかない。アリスの魔力に因ると同時に、祭の及ぼす魔力でもあった。
 人間が己に及ぼす自己催眠。
「……ちょっと頂こうかしら」
 道端に並んである酒樽には濁った酒。自分のグラスを懐から取り出し、ほんの少しだけ酌んで飲み干す。人の血よりも好みの味……上品ではないのが少し気に掛かるけれど。
 里に下りてきた理由の大半は月夜の気紛れだったが、もしかすると例の――香霖堂で遭遇した少年がいるかもしれないという期待もあった。彼がどういう理由であのちっぽけな店にいたのか解らないが、森を生業とする狩人でも普段は人界にいるのが普通だろうし、闇雲に森を彷徨っても見つけられはしないだろう。もちろん人間のテリトリーから遠い場所で暮らす人間達もよく知っているが、あまりに風変わりな連中ばかりなので、普通の少年と関わりを持つことなんて考えられなかった。当人達が聞けば「まじまじと鏡を見るといいぜ」などと呆れること頻りだろうが。

 どんどんどどん どどどんどどん

 祭太鼓が打ち鳴らされる。
 祭の中央から遠ざかった場所で、アリスは雑踏に酔いしれる。人外の者だからこそ、闇と光の境界線上に存在していられる。人外だからこそ、自分の存在に気づかない人間を嘲笑して愉しめる。なにか悪戯をして帰るのも悪くない。祭が終わって彼らは懊悩するだろう。人妖が入り込んで及ぼした取るに足りない、しかし決して解けない難問だけを残されて。それを想像するのもまた愉快だった。
 そう思いながら、ふと、
 ふと、
 ――視線を上げる。

 どんどんどどん どどどんどん
 どんどんどどん どどどんどん

 舞曲の旋律が高まっていく中、
 人々の往来が早まっていく中、
 傘が立っている。
 ……いや、傘を差した人影が立っている。
 雨も降っていないのに。
 炎にあぶられるように、
 月光からその目を隠すように。
 人々の影を選んで入り込むかのように。
 番傘を広げて、こちらに背を向ける。
 アリスは凝視する。
 主に答えてグリモワールに光が灯る。
 傘がゆっくりと動かされ、
 ゆっくりと、
 ゆっくりと動かされて、
 その姿が……傘持つ少女の横顔が一瞬だけ露わになる。
 「…………見つけた!」
 アリスの右足が荒れた路面を蹴り、
 フレアスカートが風を孕んで舞い、
 番傘が闇の奥へと溶け込むように消えた。
 だが、人間の誰もそれに気づかない。
 気づくわけがない。
 今は祭なのだ。人妖が限りなく接近する魔性の夜なのだから。

 どんどんどどん どんどんどどん
 しゃん しゃん しゃんしゃんしゃん
 どんどんどどん どどどんどん

 祭囃子が遠くなっている。
 闇の中にいくつもの篝火が点在している、遠く星座のように。村全体が暗くなっているのは、月を覆った雲が増え、幾分厚くなっているからだ。
 六地蔵が並ぶ村境あたりで、傘の少女は歩みを止めた。アリスもそれに習い、地面に音もなく降り立つ。
 その距離二十尺あまり。アリスの魔法ならば確実に捉える領域だ。
「……諦める程度でも重要な能力なの。相手の精神をわきまえれば助かるるかもしれないわ。人形にはそれが出来ない、だからバラバラにされるんだけれど。あんたは人の形かしら……それとも?」
 声を投げつける。
 少女は開いた傘を背負い、背を向けたまま。
 その貌を隠したまま。

 どんどんどんどんどんどんどんどん……!
 どんどんどんどんどんどんどんどん……!

 アリスは人形を地面に投げた。
 ぐったりとしていた人形は途端に命を吹き込まれ、一度地を蹴ってアリスの胸元にまで浮かび上がる。眼球のない美貌や、アリスとお揃いの衣装が、蒼白い光を放ち始める。
「……さぁ、影法師をぬぐい去ってあげるわ」
 アリスが舞い、
 人形が舞う、
 刹那――極太の直線が人形から放たれた、
 紫電を帯びて少女に突き刺さり、
 弾かれた!
 舞い上がった少女が水平に倒した傘が、アリスのレーザーを四方八方に乱反射し、周囲の稲田を波立たせる。
 蒼白く閃光が明滅し回転する傘を映し出すが、少女は傘の影にうまく隠れて表情を窺わせない。
 人形師がスカートの裾を上品に摘んで自身を一回転させると、人形の数が三体に増え、それらが時計の針よろしく規則正しく光線を放つ。今度は直線ではなく、三日月のように優雅な曲線。限りなくゼロに近い漸近線、中心点はもちろん標的足るべき少女だ。

 どどん! どどん! どどん! どどん!

 一本目の光線が傘の中央に直撃、
 二本目の光線が隠れなかった右肩を掠め、
 三本目の攻撃が二つに纏めた長いおさげの片方を虚空に切り飛ばす。
 「天よ」
 誰にも聞き取れない少女の呟き、
 傘の向こうから天空へ直上に細い腕が伸ばされ、
 それが無音の天龍を召還した。
 光が音に追いつけないのだ。
 アリスが咄嗟に指を差し、主を護るべく飛び出した人形の一つが犠牲となって落雷を受け止め蒸発、
 神鳴りを追うように続く無数の氷柱の列がアリスを襲い、
 アリスは本を激しく捲り……いやむしろ、本自体が主人のために適切な頁を開いて、そこに描かれたスペルカードが輝き出す。
「操符『パペットナイツ』!」
 呼び出された仏蘭西人形達が、一斉に抜刀する。ある者は頭上に突貫して氷柱を切り払い、ある者は人形師の近衛にて鉄壁の守護者となり、ある者は傘使いの少女に向かう。

 どどん! どどん!
 どどん! どどん!

 祭の喧噪が最高潮を迎え、
 風すらも熱気を孕む月祭の夜、
 アリス・マーガトロイドは確信していた。
 見間違いではなかった。彼女の瞳は魔法の瞳。見た目を変えても魔法に嘘はつけない。
 雲が晴れ、ひととき闇の衣を奪い去る。
 アリスの魔法が、謎の少女の反撃が、人間に気づかれることないまま、祭に妖しき花を添えている。
 月が描き出したその陰影、
 傘が覆い隠すのを止めたその少女の顔、
 美しい造型が狂気の笑みに歪んだその形。
 彼女はアリスが追う謎の少女――アリスがあの少年から読みとった記憶の中の、泉の中に立ち尽くす少女と、寸分違わぬ顔をしていた。
 在原清弥の大切な少女、そらと同じ顔を。

 どどん! どん! どん!
 どん――― 

 ――それからしばらくの後。
 太鼓の音は小休止を告げ、雲がまた月を覆い隠し、闇の勢いを強めていった。まるで目撃した真実に満足した誰かが、ゆっくり目を瞑るかのように。

────────────────────

 森の中を歩いて一日、見慣れた道を清弥は帰っていた。日の照っている間に博麗神社に辿り着けたようで、安堵に胸を撫で下ろす。
 手綱にも一日で持ち馴れた。村から預かってきた葦毛の馬はかなり人慣れしていて、よく訓練されてもいた。乗らずに引いて帰ってくれといわれた時は舌打ちしたが、少なくとも里に向かう時よりは気楽な帰路だった。
「……ま、霊夢もいなかったしな」
 霊夢は村を出るといつもの格好にさっさと着替えて、空を飛んで帰ってしまった。来る時とは大違いである。この役目を押しつけるために自分を呼んだのだと合点がいって、してやられたと思う反面、霊夢らしいと苦笑させられた。
 一つだけ不思議なことがあった。祭の明けた翌日に、村はずれの六地蔵の首が全部落ちていたのだ。一時村は騒然となった。妖怪の侵入であれば穏やかでもいられないだろうが……ただ、なにやら考えていた霊夢が村長と群衆に話をして村は平静を保ったのだった。博麗の巫女の霊験はさすがといえたが、霊夢は「最後にいらない苦労させられちゃったわ」とぼやいていた。
 霊夢の神妙な表情が気に掛かった。祭の往路に見掛けた謎の少女の件も告げてはみたものの、霊夢の表情はさして変わらなかった。
 ともあれ。
 考えることもあったが、やっぱり里に下りて良かったと思う。純粋に楽しいこともあったし、お土産も沢山貰った。ただそれが従来の、山から里への帰郷とは異質だったことは間違いない。
 だって、今は――。
 ……森がまた、徐々に明るくなってきた。
 道が真っ直ぐになり、見慣れた狛犬の横も通った。もうすぐだ。
 顔を上げる。
 梢の隙間のその向こうに、博麗神社の階段が切れ切れに見えてきた。階段を登り切ったところにある一番大きな鳥居の下で、こちらをじーっと見つめていた緑の巫女服の少女が両手を握り締めて立っていた。
 思わず大きく手を振った。
 弾かれたように顔を上げた少女が……そらが、おっかなびっくり階段を駆け降り始める。その横に立っていた白黒の魔法使いは腕を組んで神社方面に消え、既に帰宅していた紅白の巫女は肩を竦めてその後を追った。いつも通りの光景。いつも通りのひねくれた言葉の遣り取りが待っている。その想像にうんざりとさせられる反面、どこか安堵した気持ちにもなる。
 だって今は、
 ここが自分の居場所なのだから。
 足取りを速めながら、清弥は大声で呼びかけた。
「ただいま、そら!」