<位階戦史録>ノーサンバランド -The Shining Express-

第四章

神のもとへ



 打ちつける雨が痛いほどだ。機関車の鼓動と嵐の雨音が不協和音を成し、それ以外何も聞こえない。一定のリズムで開閉され、炎の舌を伸ばして化石燃料を喰らう圧力釜が、水滴を一瞬で蒸発させて白い息を吐く。
 激しい震動の中、運転席に人のいられる場所は僅かだ。ユーヒィとアレクはマリアを守るように囲み、何とか雨をしのいでいた。ユーヒィは口の中で聖典の一節を呟いている。丸眼鏡が濡れるのも構わず、アレクは機関車の一点を凝視している。考え事をしているのだろうが、その表情は乏しい。マリアは瞳を閉じ、動かない。
 その他もさほど大差ない。運転席で、厳しい表情で速度計を睨む老人の横に巨体を割り込ませ、遠くに届かない照明の先、豪雨の向こうを食い入るように凝視するイワン。その他の『スコーラ』の男たちも、燃料をくべている男以外は、体を縮めて目を閉じている。
 もう、こんな状態が何時間も続いている。とっくに日が変わったろう。もしかすると朝が近いかも知れない。いずれも我慢強さには自信のある者たちばかりだが、さすがに忍耐の臨界に差し掛かっていた。
 機関車はカタリオリ山脈の中腹を、緩やかな坂道を下っていた。カーブを曲がるとき以外は、制動をかけることもない。機関車は持てる能力を最大まで使い、全速力で疾走していく。
 と、イワンが叫んだ。
「見えたぞ! 『ノーサンバランド』だ!」
 全員に緊張が走る。雨に視界を奪われながらも体を乗り出して闇に目を凝らせば、確かにもう一つ、疾走する列車の響きがする。ユーヒィは自分の目では確認することを諦めた。アレクが呼んでいるからだ。
「……準備はいいか、マクリントン司祭」
「はい、ブレイク準博士」
 あえて職名で呼び合い、自分の発音を確認する。大丈夫だ、緊張してはいない。やれる。
「ちょっとなに、新しい冗談?」
「僕らは結構真面目ですよ、マリア・ミラー嬢。心底震えるほどにね」
 似つかない失笑が洩れる。それが、いい顔で固定される。三人が、互いの顔を凝視している。
「どうなるか解らない。だけど、みんな生きて、もう一度三人で会おう」
「もっちろん。皇都に着いたら、おいしい葡萄酒のお店、紹介してあげるんだから」
「楽しみにしていますよ、マリア。……父なる神よ、限りない加護を、ラムーパル」
 厳粛な祈念の言葉に、二人がしばし目を閉じる。
「別れの挨拶は済んだかい、お三人。そろそろいくぜ」
 熊のような首領が、口を歪めて笑う。
 三人が、その場の全ての者が頷く。
「よし! 事こうなったら裏切りも何もねえ。みんな、思うように好きなことをやれ! 後悔しないだけ存分に暴れるんだ! ただし、リゴスキーには手を出すな。それと、生き残りたかったら皇帝の犬だけには容赦するなよ! 全てはその後だ! 旗を掲げろ!」
 真っ赤な旗。その中の髑髏と小麦が雷雨に濡れて、血の涙を流しているかのようだ。巨大な旗を掲げて、機関車が加速する。
 その先端が超特急の七号車、展望室に接近していく。
 マリアがアレクに抱きつき、唇を逢わせた。たっぷり数秒を数えて、二つの想いが溢れる。
「お願い、お願いだから……」
「解っている」
 アレクが珍しく、相好を崩した。
 瞬間、展望車の鉄柵が現れる。事前に決めた最小限の手筈通り、アレクと二人の男達がそこに飛び乗った。マリアは小さな躯を乗り出し、すぐに見えなくなる学者を目で追う。雨足が強い。ずぶぬれの少女を見やり、ユーヒィはその細い手を引いた。
「ユーヒィ、」
「アレクは大丈夫ですよ、マリア」
「うん、解ってるよ……うん」
 自分が納得できるように、何度も確認する少女。歳相応の不安げな仕草に、ユーヒィは胸を突かれる。彼女の目尻に光っていたのは、雨だけだったのだろうか。
「よーし、次はサロンだ。抜かるなよ!」
 首領の怒声が飛ぶ。レール間の距離が広くなったのか、列車間の距離が開く。
 吹きすさぶ嵐に垣間見る「ノーサンバランド」の外観は、壮麗たる優美さを無惨に打ち砕いていた。雨粒のカーテンが揺れる度、数々の弾痕が穿たれた外装、あちこちで砕け落ちた硝子窓が顕わになる。照明も灯っていない。だが、ユーヒィにはそれでも堂々と、揺るがない威厳を纏っているように感じられた。
「おかしいな」
 イワンが訝しげな唸りを運転士の老人にふっかけた。
「どうしましたい、首領」
「『ノーサンバランド』の速度が出てない。7600型だったら、たとえ何両客車を引いててもこちらをぶっちぎるぐらい楽勝だろうに」
「確かに。何かの故障でしょうかね」
「いや……超特急につけてあった二十人の見張りは、刀傷で死んでたんだったな・・・嫌な予感がする」
 その会話を聞いていた牧士と少女は、不安になって超特急を睨んだ。
 こちらの機関車がさらに速度を上げる。予定ではユーヒィとイワン達が二号車のサロンに飛び込み、その後マリアと盗賊が一人、先頭の機関車を制圧する。だが、そううまくは運びそうになかった。
 凝視していたマリアが、突然指をさした。
「見て!」
 二号車の屋根に、五つの人影。全てが漆黒の外套に身を隠し、吹きすさぶ嵐にその姿を揺らしている。だが、それも長くはない。影は一斉に外套を跳ね上げ、何処とも知れぬ深い闇へと放り投げた。その下から現れたのは、深紅の制服に長い軍刀。機関車の唸りも豪雨のうねりもはねつけて、彼らは一斉に叫んだ。

「我等は神の意志を代弁する者なり。
 即ち、我が剣は神の裁き!
 即ち、我が行為は神の勅命!
 いかなる者もこれを妨げるにあらず!
 いかなる者もこれに抗することあたわず!
 よって我等はこう呼ばれたり。
 皇帝親衛隊、オプリチーニナ!」

 イワンの相貌に驚愕が走り、ついで溢れんばかりの憎悪が、歯ぎしりになって溢れ出す。
「現れやがったな、皇帝の番犬! ここで皆殺しにしてやる!」
 複線の距離が最接近する。超特急からの激しい銃撃。イワンは抜く手を見せず長銃を構え、間髪入れず反撃したが、深紅の狩人達は闇と雨の中にその身を没した。それを追わんとばかりに、大旗を窓に投げ入れる。窓枠に引っ掛かった深紅の大旗が激しくはためく。
 弾着の衝撃に躯を庇ったユーヒィの手の中をするりと抜けて、マリアがいきなり超特急へと小さな躯を躍らせる。
「マリア!」
 止める暇もない。硝子窓を割ってサロンへ入り込んだ少女を追って、ユーヒィも尖った硝子の残る窓に飛び込む。鋭い痛みが頬をかすめる。イワンの怒声が嵐にかき消え、その嵐の音が弱くなった。客車の中に入ったのだ。
 その瞬間、肉を断つ鈍い音が耳に届く。列車の反復する震動の上に、誰かが倒れる衝撃。振り向くと、血糊がべっと
りついた壁。かつて格調高い家具だった物の残骸。濡れ汚れた絨毯、転がる三つの死体……親衛隊。まだ痙攣している。それらの中央に、刃物を持ったホワイトシルバーの髪の少女がいる。光源はないのに、濡れたその髪が光を放っていたのが非現実的で、ユーヒィは声を出せないでいた。
「ほんとはね、ユーヒィとアレクにだけは、この姿を見せたくなかった。でも、この人たちとは、あたし自身が決着を着けなきゃ、ならないから」
 少女の浮かべる、寂寞とした微笑。
「もう、隠せないよ。飾っても、あたしはあたしだから……血にまみれた女だから」
 ユーヒィは声の掛けようがない。強敵を一瞬で屠った恐怖の手練と、凄絶なまでの美しさを合わせ持つ、十六歳の少女。だがそれは、触れれば掻き消えてしまう幻影のよう。
「勝手なことばかりしてごめん。……あっち、見てくるね」
 少女は、これ以上素顔を見られるのを恐がるかのように、駆け足で一号車の方に駆けていった。
 茫然となりそうな自我を、頬の痛みが支える。手を当てると、血がついた。飛び込む時に切ったのだろう。そんなことを考えながら、少女の消えた戸口を見つめる。
 それでも、マリアはマリアなのだ。きっと、彼女は苦しみ続けているだろう。矛盾に満ちた自分の複数の側面を否定することなく、対面しながら精神を保っているのだから。私が今更、何を戸惑うことがある。それより、今は全力で目的を果たすべきだろう。それが、間接的にせよ、彼女を助けると信じて。
 奮起して駆け出す。
 ふと、頭の片隅で思う。根拠はないのだが、もしかすると。
 アレクは心の何処かで、マリアの淋しげなあの素顔にこそ惹かれたのかもしれないと。


 大公の執務室には三人のオプリチーニナと、部屋の主がいた。裁きは神の右手に委ねられてしかるべきものだが、一方的な暴力に命を提供せよとの法は存在しない。何より、死ぬわけには行かないのだ。絶対。
 覚悟を決めれば、後は熟練と才能がものをいう。そしてユーヒィは、剣を握って敗北を喫したことは皆無だった。たとえそれが、アフグラント最強の暗殺者達であっても、である。
 瞬く間に三人を切り伏せ、剣にまとわりつく生命の証を付近のカーテンで拭う。扉を打ち破った牧士の姿に瞠目したのも束の間、何事もなかったように執務机に腰掛け、一部始終を見ていた大公が立ち上がる。多少疲労した気配があるが、それでも普段との変化は少ない。
「ありがとう。だが、君が来てくれたのは意外だったよ、マクリントン司祭。まさか列車から振り落とされて、無事だったとは」
「いえ。カルム様も御無事で、何よりです」
「他の方々は?」
「詳しいことは時間が掛かりますので後ほど。ここには『スコーラ』の首領たちの力を借りて、ブレイク準博士、それにマリア・ミラーという給仕の少女が来ています」
「ミラー。そうか、ミラーという少女も乗っていたのか……そしてイワンも」
 静かに呟きながら、リゴスキー大公は瞑目した。その顔が、感慨とも諦念とも取れる、僅かな渋面になる。
「急ぎ皆と合流致しましょう。親衛隊がまだ多数残っていると思われます。お早く」
「司祭。君に渡しておきたいものがある」
 そういって大公は、ポケットから鍵を取り出し、机の引き出しを開けた。緊急の時なのに、と疑問を呈するユーヒィに手渡されたのは、ズシリと重い紙包みだった。上質の油紙で梱包され、リゴスキー家の花押で厳重に封印してある。
「それが、君にとって役立つものになるか、或いは無用なのかは、君自身が決めればいい。ただ、君がそれを手に取ることを、君の父も、私も、またその他にも望んでいる者たちがいる。本当は、きちんと理由を話してからにしたかったが、これから先どうなるか解らない。だから、とりあえず受け取って欲しい」
「父が?」
 その様な話は聞いていない。それともこれが、父や大公がいっていた、自分でなければならない理由なのだろうか。そも、これは一体何なのだろう。訳が分からないまま、それでも一礼し、服の懐に入れる。
 隣の部屋から、レールを越える震動をぬって、剣戟の響きが届く。
 ユーヒィが虚を突かれる。二号車・サロンの隣がこの三号車・特等室だ。誰もまだ、この向こうから来た者はいない。すると、隣室で戦っているのは──
「マリア!」


 ユーヒィの予想は、悪化の様相を見せながら的中した。半壊した娯楽室の中央で蠢いているのは、牧士にとっては再会したくない、だが逃避できない現実の姿だった。
 闇がカタチを取る。四つ……いや五つ。
「恐るべき手練の死神よな。だが、所詮は小娘、まだまだ詰めが甘い。どうかな、儂が天国への近道を授けて進ぜようか。魂を導く天使、クラタロスの啓示に誓ってな」
 生理的に不快な、甲高い早口の喋り。
 五つ目の影が、人質を誇示すると、残りがユーヒィの周囲を音もなく包囲した。マリアの首には短剣が押し当てられていた。無駄肉の付いた顔を近づけられて、マリアが顔を背ける。嫌悪感を誘う手の動きで少女の胸をまさぐりながら、ニーコン・マル副主教は愉快そうにユーヒィを見上げた。
「これはリゴスキー大公、お互い壮健で何よりでございますな」
「無事の再会を喜びたいが、その前に尋ねなければならんな」
「この情況に、何の疑問がありましょうや。これは異端審問なのです。教会を正しく維持するための、な。さて……マクリントン牧士、無事だったとは奇跡を賜ったか。だが、天地の位階秩序に破壊の意志を持つ輩を、父なる神はよしとされぬ。安心せい、そなたの臆病なる老父には、そなたが最後まで信仰を貫いて殉教したと伝えようぞ」
 四方に構えた聖司祭たちが怜悧に抜刀を重ねる。
 対して、くすんだ金髪に沸き立つ怒りを押し隠し沈黙する、ユーヒィ。
 拘束されながらも身を捩って、マリアが叫ぶ。
「ユーヒィ! 怒って! 命よりも大事な誇りだってあるんだから!」
「黙らぬか、売女め! 神聖なる帝国に混乱と破壊を招く、邪悪なりし末裔が!」
 副主教が少女の喉を締め上げる。ユーヒィが一瞬痙攣する。胸の前で揺れるシンボル。
 それは今、勝ち誇って暴力を振るう上位司祭たちの胸にも提げられているのだ。
「それは違うぞ、ロレンツォ・ミラーの娘よ」
 泰然として大公が語る。苦しみながらも、マリアの目が驚きに開かれる。
「人が誇りを忘れないのは、その者が己に対して、たとえ大地に這い蹲り辛酸を舐めようとも、立ち上がり続ける誓約を科しているからなのだ。むろんそれは、常に己を顧み、誇りを解き放つ瞬間を探求している魂だけが可能なのだよ─そうだな、ユーヒィ・マクリントン」
 威厳ある声に呼応して、群青の双眸が開かれる。奥歯を噛みしめて、牧士はを天に高々と捧げた。
「聖堂騎士団の長であった我が父の剣と、ユーヒィ・マクリントンの持ち得る全ての信仰心において! 至高神よ、我が守護、救世の大天使ナヌマエルよ、我に正義を示し給え!」
「おのぉれ! 邪教徒め! 殺すのだ! 真の正義を示せ!」
「我等は皇帝の御心、我等は神の御心なり。ラムーパル! 死よ、その顎を開けよ!」
 聖司祭達が口々に祈りの言葉を唱えながら、一斉に斬撃を見舞う。一つずつ正確に受け流し、躯を捻ってから寸分違わず心臓を貫く。
 一人目。
 目を剥くニーコンの隙をついて、マリアが急所に蹴りを入れる。たまらず蹲る副主教の後頭部に、思いきり振り上げた踵を落とす。無惨に鼻血が飛び散った。距離を取り、戦闘に加わろうとする少女を制して声が飛ぶ。
「マリア、離れていなさい!」
 そう言い放ちながら相手の剣を叩き折り、返す動作で頚動脈を断ち切る。同じ神を信仰する者の躯から立ち上る鮮血の噴水が天井に彩画を産み出す。
 二人目。
 二人同時に繰り出された剣を、跳躍でかわし、なんと天井に両足をつける。着地とともに唐竹割りにした司祭の脳漿が散播かれる。
 三人目。
 悪魔の如き太刀筋におののいた残りの司祭が背後を盗み見た。退路を求めたのだろうか。だが、それが命取りになった。強い衝撃が胸を一突きにした。くすんだ金髪の香りに鉄分の死臭が覆い被さる。それが自分のものだと察するまでに、彼は絶命していた。
 ……心臓の動悸が収まる頃、澄み切った精神に霞が掛かり、急に徒労感が押し寄せてきた。剣の血糊を払い、振り向く。蒼白な顔で震えているマリアに、リゴスキー大公が優しく手を置いていた。少女にとっては自分がとった行動よりも、柔和な牧士の豹変した姿が衝撃だったのだろう。
(さっきと逆になってしまったな)
 苦笑いを浮かべようとして諦める。きっと今、私は最低の顔をしているだろう。
「ユーヒィ」
「私も、マリアと同じです。もっとよい自分が、もっと他にやるべきことが、何処かに必ずある。そう願って自分を捜していた。でも、こうやってその場をしのいで生きていくだけで、精一杯の私しか、いないんです。だから」
 マリアがふらふらと歩み寄り、ユーヒィに抱きついた。溢れる涙を隠そうともせずに、泣きじゃくる。白銀の髪も嗚咽するかのようだ。
「ごめん、ごめんねユーヒィ、ごめんね・・・」
「マリア」
「自分のことしか考えてないよね。一人でいられるって、誤解と自惚れを繰り返してたんだ。でも、怖かった。失いたくなかった。あの楽しい瞬間が壊れてく、それを見たくなかったんだよ……」
「アレクを悲しませることだけは、しないで下さいね」
「ユーヒィ……」
 倒れた影がよろめきながら起き上がる。ユーヒィはマリアを抱いて屹立した。影は、血を垂れ流しながら、一号車へ向かう戸口へ太った躯を引きずる。そこへ、深紅の制服に身を包んだ青年達が現れた。ニーコン副主教は必死に手を広げながら、毅然とする牧士達を指弾した。
「おお、おお、皇帝陛下の忠実なる騎士の方々。あれなるは神の玉座に弓引く悪逆の反逆者。そして、貴公らの大敵たる悪魔の少女もおります! どうか天罰を下し、正しき神のしもべである、我が身を護り給え」
 返礼は、無言の一閃だった。復讐に燃える表情のまま、ニーコン・マル副主教の頭部は宙を舞った。
「陛下は意見を求めず。その意志を実行するためだけに、我等はここにあり」
 その親衛隊員の額に、大きな穴が空く。同時に連続する迫撃音。反撃する間もなく、その場にいた者は全て崩れ落ちた。
「ならば、ニーコン副主教とともに魂となって皇都に舞い戻り、直ちに陛下にご報告頂こう。我らは陛下の意志に拘わらず、自力で玉座を御訪問させて頂く、とな」
 硝煙立ち登る短銃を構えたまま、リゴスキー大公はそう明言した。


 列車の速度は一定に保たれている。ここには明確な意志が込められているはずだ。それが何かは解らないが。
 一号車では猿轡をされた車掌コルスキー・ノージックが、乗務員用寝台の下に身を潜めていた。躯の至る所に打撲傷があったが、これは「スコーラ」の連中にやられたものだ。それでも車掌は身なりを整え、現在まで潜伏していたことを深く謝罪した。
 大公の求めに応じ、簡単に情報の交換が行われる。他の貴族や大アフグラント鉄道副総裁の安否を気遣っていた車掌は、現在進行形の状況に溜息を洩らした。
「車掌、打開策はあるかね」
「とりあえず機関車を掌握したいと考えます。一号車から機関車の後ろ、炭水車に移るのは容易ですが、そこにどれだけの敵がいるのか把握できません。まさかとは思いますが、彼等が皆、機関車を運転できるとなると、一刻の猶予もならないでしょう。ただ、軽率な行動は避けるべきですが」
「ふむ。やはりそれしかないか。私は、列車がこんな低速を保っているのが不吉でならない。運転席を奪還し、列車を停止させてからでも、戦い方はあるからな」
「待って! まだアレクが来てないの!」
 マリアが懇願した。ユーヒィが同意する。
「もう二十分以上経っています」
「ブレイク準博士の見識と技量から推察すれば、確かにおかしい。だが」
「閣下、あたしアレクを連れてきます」
「私がいきます」
 ユーヒィが剣を握った。
「ユーヒィ、連れていって、お願い!」
「君はカルム様たちを護ってください」
「でも!」
「どんなに君の知らない一面を知ったとしても、もう率先して人殺しはさせたくないから」
「そんなの勝手よ! 押しつけよ!」
「そうかも知れません。でもこれが、私の本心です。信じて待つのもまた、戦いなのですよ、マリア」
 ユーヒィは黙って、真正教会のシンボルのついたネックレスをマリアの首に提げた。
「貴方へ、愛と微笑の天使テリエルの加護が永遠にありますように」
「ユーヒィ……」
「カルム様、車掌さん、すぐに戻ります。機関車の制圧は我々の到着を待ち、窺うだけにしておいて下さい」
 二人は同時に頷いた。
 駆け出す、振り向かずに。
 最初に「スコーラ」が襲来した時、マリアは三人でいこうといった。自分はまた、それを選択しなかった。自分は卑怯なのだろうか。そういう後ろめたさが、彼の背中を押していく。追いすがる声はなかった。
 部屋を飛び出し、サロンを抜ける。
 その時、過去に体験したことのない圧迫が轟いた。


 僅かに時間を遡る。
 嵐は凶暴に吹き荒れ、いよいよ激しくなってとどまらない。「ノーサンバランド」の姿も時折、視界の範囲を超える。それでも食いついて併走する。そして、それ以上何も出来ないことが、首領イワンをして歯がみさせていた。
「どうした、もう少し近づけないのか!」
「こればっかりは相互の線路の距離なんで、どうにもならねえ」
 老運転士が渋面を作る。
「仕方がない、もう少し狭まったら飛び越えてやる!」
「首領、そんな無茶な!」
「あの小娘にだってできたんだ!」
「小娘だから出来たんでしょうに!」
「うるせえ!」
 悪態をついて巨体を大きく乗り出す。
 と、新たな光源が接近してくる。
 それはなんと、レールとレールの間を疾走していた
 イワンは展開されている光景に、いぶかしみ、やがて茫然となった。やがて光輝の固まりは、易々と機関車を抜き去り、疾走していく。
「冗談じゃねえ。こんな修羅場で幻なんて見てたまるか」
 光は人工の物ではなかった、間違いなく。
 それそのものが発光している。
 幻惑のようにあるそれはしかし、紛れもなく、白い外套を纏った人間だった。
 光は不意に立ち止まる。何かを切り替える動作を見た刹那、抜き去って闇の中に没する。その瞬間、機関車に大きな衝撃が走った。
「首領! ポイントが変えられちまった! 併走できねえ!」
 イワンにその声は届いていなかった。驚愕に戦慄きながら、彼の記憶の綱が猛スピードで手繰り寄せられる。
 それは数年、いや数十年前。暗渠のように澱んだ部屋の只中で垣間見た……光輝たる白き幻。
「いや、幻なんかじゃない……あれは、そうかあれは! そうか、あんなものが実現したってのか! すると、あの学者は、全てを知ってこのために! こいつはとんでもなく壮大な罠だったんだ! 畜生、何でもっと早くに思い至らなかったんだ!」
「しゅ、首領ーっ!!」 
 老運転士達の絶叫が、鉄が鉄を嚼むブレーキの悲鳴が鼓膜を裂く。顔を巡らせた反帝政組織のリーダーが見たものは、機関車の向こう、眼前一杯に迫るそそり立った岩肌だった。


 轟音。
 破壊音。
 爆発音。
 轟く雷鳴を制して、天からのいかずちが降り注いだかのような、鼓膜を破らんとする衝撃の爆弾。ついで、山肌が崩壊する、連続の衝突、連続の分解。
 大きな揺動が「ノーサンバランド」を襲い、直後に災厄が舞い降りた。「スコーラ」の機関車が絶壁に衝突し、剥げ落ちた巨大な岩石の一つが、真下を通過中だった三号車を直撃したのだ。車両は飛び跳ね、客車は崩壊し、岩石はその場に留まった。
 だが、まだ停車しない。一度大地を離れた車輪は狙いすましたようにその軌道に戻った。鬼気迫る雰囲気と煙突の黒煙、排気の白煙を吹き出しながら、7600型機関車は奇跡さえも犠牲にして疾走を続ける。
 そして、稜線は途切れた。
 カタリオリ山脈を抜けてしまえば、そこに広がるのは「アフグラントの食料庫」、地平線を見遥かす草原と、大穀倉地帯である。皇都ウラジミラブルクまで続く空を遮蔽するものは、もはや存在しない。
 豪雨と漆黒の中央を、レールが、超特急がいく。


 大きな躯に護られながら、マリアは必死の思いで衝撃に耐えた。何が起こったのか想像もつかないような、大地震ともとれる床の蠕動。したたかに腰を打ちながら、それでも悲鳴だけは漏らさなかった。
 暫くして衝撃が収まり、通常走行の震動だけに戻る。マリアは護ってくれた老人に感謝の言葉を述べた。
「御怪我はありませんか、大公閣下」
「なんとかな。車掌はどうかね」
「無事です。支障ありません」
 三人は立ち上がり、体の調子を確認している。一号車・乗務員待機室は、寝台や棚が散乱し、無惨に変容していた。
「……砲撃ではなさそうだが。いかんな。マクリントン司祭たちは無事だろうか」
「それより、機関車の方が気になります。今の衝撃で運転士がやられていたら、この列車全体が危なくなります」
 マリアが直言した。が、車掌は反対する。
「この列車の心臓部が、敵の手に落ちていないわけはありません。わざわざそこへ出向くなど、大きく開かれた龍の顎へ飛び込むようなものです。大公閣下を御守りする観点からも、此処に留まり、司祭殿達を待つのが得策かと思います」
「たとえそうであっても、さっきの衝撃は親衛隊だって予期していなかったはず。何らかの隙は見つけ易いはずです。躊躇は機を失います! 大公閣下、お願いします!」
 小柄な少女の情熱が揺れる。暗き迷走の中で、強い意志と未来を信じて疑わない少女。
 老人は、遙か遠くの記憶に忘れ去っていた熱い何かを、掌の中に取り戻しかけていた。
「少女の言はありえる。第一、速度が一定ということを改善せねばならん。まさかとは思うが、陛下には我らにはない手段があるからな……車掌、行こうと思うが不可能だろうか」
「職を預かる者としては押し止めていただきたい所存ではありますが、決定事項に口を挟むことは出来ません。最大限の努力をさせていただきます」
「すみません、車掌さん」
「仕事を完璧にこなし、列車を走らせるのが我が大アフグラント鉄道社員の誇りだ。君もそれを忘れなければいい」
「は、はい!」
「よし、ではいくか」
 大公の言葉を合図に、三人は立ち上がった。
 踵を返す少女に、リゴスキーはふと旧来の友を重ねる。そう、あの日もそうだった。
 熱い本心に想いを秘めて最初に去ったのは、ロレンツォだった……。
(あの日から、我らの五十年に渡る迷走が始まったのだ)
 車掌、少女に続き、一号車の出口へ向かいながら、ふと懐古の念が沸き起こる。遠くへ来た。それぞれが求める過去と、未来へ向かいながら。
 だが。
「まだ、旅は終わりはしない」
 炭水車への扉を開く意志を、ノブを握った少女が、視線によって求めている。短銃を構え、はっきりと頷き、同意する。
 扉が大きく開かれた。豪雨と雷鳴が降り注いでくる。
 少女はいち早くその中へ消える。轟く銃声。
 リゴスキーはそれを追い、炭水車を駆け上った。泥流のような石炭に足を取られながら、機関室に飛び込む。
 そこには、呆然として立ち尽くす少女の姿があった。
「大公閣下……こんなことが」
 そこは、無人だった。めちゃくちゃに壊されて見る影もない運転席。圧力釜に詰め込まれた溢れんばかりの石炭が燃え広がっている。
「これじゃもう、制動することも加速することも出来ない……石炭がなくなるか、水がなくなるか、機関車が火だるまになるか、だけ……!」
「まさか、陛下は本当に……いや、やはり」
「残念でございます。最後までお客様に旅を続けていただきたく思っておりましたが、それも叶わぬようで」
 大公の背後で、闇がカチリ、と無慈悲な音を立てた。
 それが立ち上がった拳銃の撃鉄だと気付いた瞬間。
「リゴスキー様!」
 マリアは、大公と車掌の間に飛び込んでいた。
 ……烈風に掻き消される銃声は、届かない。


「アレク! 何処にいるんですか!」
 声のあらんばかりに叫ぶ。親衛隊も気になるが、何より落盤した岩石の衝撃が気になった。巨大な一撃で、大公の部屋の半分が通路ごと潰され、先頭車に戻るすべを失っている。寸前で圧死を逃れ、幸いにも怪我はなかった。もし、「スコーラ」が積み上げたバリケードが残っていたら、と考えて背筋が寒くなる。
 だが、それよりも今は学者の安否だった。なんとしても、無事を確認しなければならない。それが、裏切りの感情を覚えてまで残してきた、マリアへの償いだろう。
 部屋を一つ一つ確かめる。
 自分達の部屋のある五号車に入った。
 途端、冷たい風が吹く。
 風は、記憶を想起する。そう……ターンスタリムの鐘楼で、暗鬱な気持ちのユーヒィに、糾弾の言葉を乗せて届いた風。
 嵐が吹き荒れているのに、疾風が渦巻いているのに。その風は固有の主張をして、ユーヒィのくすんだ金髪を揺らした。
 牧士と学者の部屋の扉が、軋みながらゆっくりと開く。誘われるようにユーヒィはそこへ赴く。
 最初に見えたのは、燭台の灯火だった。
 風に靡いて揺れる、頼りない炎。それが、揺らめく二人の人影を映し出す。白い髪、白い声。同じ顔の造りには、何の感情も浮かばない。堅く瞳を閉じ、純白の外套を纏ったその者達は、二人とも全く同じ姿をしていた。少年なのか少女なのかも窺えない。その無個性さこそが個性というべきか。
 全く同じ人間が二人いるという表現が、もっとも適切だろう。
 床には、親衛隊、及び「スコーラ」の男達が鮮血にまみれて転がっている。その、奥で。
 開け放たれ、雨の吹きさらす窓辺に、邂逅の時と同じ、皇立アカデミアの外套を風に揺らめかせて……いや、風に抱かれながら、一人の学者が立っていた。
「アレク……」
「意外だな、一人なのか、ユーヒィ。マリアは無事かな」
 平板な声。感情が篭もらない、独特な。
「王都での乾杯という約束を反故にしなければならないのは残念だが、ユーヒィ。君がいった通り、全ての決着をつけることにしよう──僕らの未来のために」
 そういって、丸眼鏡の青年は振り向いた。コートの下から伸びた長剣が、蝋燭の炎を反射して何回も明滅する……地上に墜ちた明星のように。

────────────────────

 大規模な黒雲の大陸が、アフグラントの北西部に停滞しているらしい。夏は雨が降りにくいといわれる皇都ウラジミラブルクも、強烈な降雨に打たれ続けていた。深夜、灯火も消えている。だが、よく観察すると、商店の軒先や教会の階段、地下墓地の入口にさえ立って雨をしのいでいる者たちがいる。
 街の東、無人のウラジミラブルク中央駅の構内、待合室、停車場、そしてその周辺。そこには、少なからぬ群衆がわだかまり、冷気と雨にじっと耐えていた。
 彼らは、少なからず現在の帝政に不満を持っている被支配階級の人々だ。彼らはただ待っていた。陽が昇ればやってくるはずの、一縷の希望を待っていた。神の錫杖を打ち砕く、老英雄の再臨を、その一撃を待っているのだ。


 皇都の中央に位置する王宮。
 かつて英雄帝と老英雄が対決した玉座の間を抜け、幾つもの巨大な扉をくぐり抜けた先には、雨音さえ侵入できない絶対の保護がもたらされる。その片隅で、虚弱な青年が一人、寝台の天蓋を見上げながら恐怖におののいていた。傍らの薬を呷り、水で流し込む。
「総主教はおらぬのか!」
「ここに控えております、陛下」
 無音で擦り寄る木乃伊のような、紫の法衣の老人が、掠れた声を出した。
「来るぞ、『ノーサンバランド』が……カルムの奴めが来てしまうぞ」
「正規軍により『スコーラ』を壊滅せしめ、その上オプリチーニナをお遣わしになりながら、それでも足らぬと仰せられるか。我らの追い求めた少女も、ようやく息の根を止められようかというのに。少々、弱気が過ぎますな」
「いまだ達成の連絡が来ぬではないか!」
「この嵐ですからな、伝書鳩も落ちますて」
 泰然とする総主教と対照的に、青年皇帝は爪を噛んで、落ちつきなく眼球を動かす。一国を司る者には到底見えない、神経質で痩せこけた色白な顔。
「それよりも、この町に集結しつつある不遜な民衆達を如何なさいますかな。きゃつらはリゴスキーを慕い、五十年前の大乱をもう一度勃発させると、信じて疑いません。早急に取り締まるのが宜しいかと存じますが、いかがですかな」
「忘れたか。弾圧は反抗心をも植え付ける。賎民共の根強い抵抗に屈した王族の、なんと多いことか。だが、余は違う。この国の偉大さを全世界に知らしめ、我が王朝の血統こそが、神より与えられし正当なるものだと知らしめるまでは、戦い続けるのだ」
「神言、有り難きことかな」
「……この上待つなど望まぬ。気は進まぬが、そちの計画を承認しよう。『左天使』と『右天使』に命令を伝達しろ。照準はあっているのだろうな? そちの言葉に耳を傾け、長い時間を掛けて準備だけはしたのだからな。直撃でなければ意味がないぞ。皇帝自らが鉄槌を下したと臣民に知らしめねばならぬ。その轟きを聞き知れば、余に対する反感も雲散霧消することだろう。もっとも平和の内にな。いいか、今すぐに始めるのだ!」
「仰せのままに」
 老人は皺だらけの顔に更なる溝を作って、含み笑いを押し止めた。


 世の中には、人の考えの埒外にある現象が多々存在する。ただ、その多くがまた、人の所産物であることもまた、人の業の深さを表しているのではないかと、思うことがある。
 皇都の城壁の外には、皇都内にある中央駅へと続く操車場が存在する。そこには、かの「エルマラークの実験線」以上に、無数のレールが敷設されていて、旅立つ列車、到着する列車の脚を休める場所となっている。
 十年前、ここに黒光りする巨大な物体が設置された。
 全長約二デラキュビト(約五十メートル)、高さは七・五キュビト(約十五メートル)の鉄の長方形。車輪を持ち、四本のレールを跨いで鎮座している。稼働するらしいのだが、それが動いたところを見た者は誰もいない。
 それが二つ、城壁の南大門を守るようにして置かれていた。 
 ある者は、帝国の最終兵器と囁く。またある者は、陸上戦艦の実験だと噂した。だが、それは十年の歳月とともに風化し、意味を曖昧にされたまま、生活の一オブジェと化してていた。
 しかし、それは人間の常軌を軽々と越えて、永き眠りから覚めたのである。
 ……最初に、金属が捻れるように軋んだ。
 四本のレールに大型機関車が四台やってきて、金属の塊と連結される。煙を吐き、全力をもってようやく、僅かに移動させる。
 金属塊のあちこちに、火が灯り始めた。人間が作業するための洋燈の明かりだ。
 鉄の悲鳴は、目覚めの叫び。
 二つの怪物は、ゆっくりと手を伸ばし始めた。天空へ。神の住まいし宮殿の世界へ。垂れ込めた暗雲を越え、その向こうを手にせんがために。
 それは、神たろうとする者の巨大な剣だ。 
 やがて、アフグラント帝国最終防衛兵器・超長距離砲撃用巨大列車砲「左天使」並びに「右天使」は、僅かに間隔を開けて、暗い空へ砲撃を放った。天をも貫く閃光と、城壁をも揺るがす迫撃音を残し、二発の砲弾は闇の彼方を目指す。


 夜明けは、もうそこまで来ている。

────────────────────

 無言で切り掛かってくる。その剣筋は、親衛隊よりも聖堂騎士団よりも、さらに冷たく鋭い。ユーヒィは本気でかわす。客室の狭さが、ユーヒィの動きを阻害する。学者の切っ先が、くすんだ金髪を宙へと放りあげる。二人の間を、吹き荒れる嵐を受け舞い上がるカーテンが仕切る。それをも叩き切って、肉薄する学者。後ろは壁だ、もう逃げ場はない。
 キィン。
 澄んだ響きが高らかになって、二振りの剣が交差する。鍔で押し合いながら、ユーヒィは静かに尋ねた。
「……どうして、なのですか」
「その問いは抽象的だな。僕は、何に対して答えればいい?」
「どうして、私たちは、こんな不毛なことをしなけばならないのですか!」
 ユーヒィがアレクの腹をめがけて蹴りを入れる。防御はしたが、その勢いに耐えられず、アレクは数歩後退した。後ろの壁と白い者たち──を気にしながら移動する。彼らが動く気配はない。ただ、足許に散らばる死体と対比して、その付近だけが現実感に乏しいほど清潔に満ちていた。
 学者が猛然と追いすがる。今度はユーヒィが弾き飛ばされた。丸卓にぶつかり、その上の燭台を倒す。その火はまだ、消えない。
「……全てに答えなければ納得しないだろうな。まだ、時間はある。一つ一つ、順番にいこうか。まずは、あの滝の近くで話していて、途中になったことについてだ」
 鋭角的な突きが迫る。はねのける。剣が滑って、火花を散らす。
「今から二十年前、東方の名もない廃教会で見つかったその奇妙な文献は、皇立アカデミアはおろか、ミトラ真正教会をも震撼させる、興味深き記述に溢れていた。想像もできないだろうが、最初に発見した神学士は、その内容に絶望を覚え、禁忌とされた自殺を図り、命を断っている」
 アレクは油断なく構えてにじり寄る。後退して、僅かな間合いを確保する。それしか、生き残る手段はない。
「そこには、実在した天使、正確にはアフグラント最東部に存在したという翼人の、詳細な記録が記されていた。記録者は真正教会が構築される前の、翼人教の語り部らしいが、詳しいことは判明しない。そして、それは各地に残されたものらと同じように、伝説のまま、真正教会に取り込まれて、歴史の片隅に消えていくべきものだった・・・真実が、露見するまではな」
「………………」
「彼ら翼人は伝説にあるような、かつて高度な文明を保持していたとか、人類の上に君臨していたとかいう認識で、捉えられるべき存在ではなかった。可知世界とは、我々の目に見えないながらも、神の完全さを示すが故に、必ず存在していると考えられる、形而上学の産物なのだろう? 海、大地、植物、動物、そして人間。人間から神への段階を補填するのが天使の世界だ。そして、世界は完全となる。だがこの考え方は、人間がそう想像することによって、己を振り返り、神へ限りなく接近していくため、人間が向上していくための手段となり得るからこそ存在しているんだ」
 学者の剣が薙ぎ払った。咄嗟に受けるが、甲高い金属音を残してユーヒィの剣は折れ飛んだ。衝撃で吹き飛ばされる。戸口へ、躯をしたたかに打ちつける。そこへ、更なる突きが連続して放たれる。捻った頭を狙って剣が突き立った。辛うじてかわしている。
「最近になって西方のある動物学者が提唱し始めた論理に、『進化論』というのがある。動物はその環境に応じて姿を変え、自分が得た記録を子へ、孫へ伝えていく力がある。だから、人間のカタチは永い年月を掛けて形成されたものであり、またこれからも変化し、進化していくだろうという内容だ。当然、西方の教会では神を排除する異端として、弾圧が始まっている。だが、教会の苦労も空しく、これが大衆に浸透していくことは簡単に予想がつく。何故だか解るかい、ユーヒィ?」
 倒れた蝋燭の炎が床の絨毯を舐め、カーテンに燃え広がり始めた。
 動けないユーヒィもろとも、学者が扉を蹴り倒す。もんどりうって廊下に飛び出したユーヒィが、展望車の方へと下がっていく。
「今世紀に入ってから、産業革命は世界中に拡大した。機械文明は一日ごとに新たな時代を創出していく。鉄道も、船舶も、食事や医療にしたってそうだ。昔のような魔術や妄信はなりを潜め、人間の英知と理性の勝利ともいうべき科学文明は、加速度をつけて進歩している。そう、『進歩』と『進化』……似ている言葉だろう? 進みゆく人類にとって、新たな時代を日に日に感じている人々にとって、これほど自分達に都合のいい考え方はないのさ。僕らは必然的に、この二つの言葉を融合させていくだろう」
 炎溢れる部屋から、学者が剣を携えて歩み出す。その後を、白い者達が従う。今や外套の純白は、火事を映えて紅の階調を示している。
「だが、人間が不断に登り往くべき可知世界の階梯に、そこにあるべき存在が、既に世界の起源よりそこにあって、神の完璧を構成している、とすればどうだい? 翼人とは、神と人との間にあって、世界の完璧さを構成する一要因だといえるんだよ。つまり、人間は人間のまま、自らに与えられた世界の中で、堂々巡りをしなければならないということになる。どんなに『進歩』を繰り返しても、それは絶対に『進化』に辿り着くことはない。人間は、定められた世界を未来永劫、構成するための存在なのだから。もしも、進歩が加速し、その結果、大幅な進化はないと察知されるなら、人々は無気力と絶望に苛まれる中で滅んでいくのではないか? ……こう突きつけられたら、どう答えればいい? そしてそれは、君自身の疑問でもあるはずだ、ユーヒィ・マクリントン牧士」
 烈火は両者の歩みよりも迅速に、木造の車両内壁にまわっていく。火の粉が肩に落ちる。割れた硝子窓から吹き込む暴風が、対決の場で熱風となって吹き荒れる。
 再会して以来、絶対理解できないであろう断絶と空白が、脳裡でひしめいている。その中で、学者の意図する論理がぼんやりと「見え」始めた。
 背を向けて距離を開け、七号車・展望室に駆け込む。ここにも炎が回り始めている。壁面に飾られた剣の一つを取る。熱を帯び始めていたが、まだ持てる。
 学者達がやってきた。正面から対峙する。
 ここでリゴスキー大公と最初に対面したのは、僅か一日半前だった。その間に、なんと多くのことを通り過ぎてきたのだろう。もうすぐ、皇都にも手が届くはずだ。だが現在、旅は依然として終局を感じさせようとしない。学者が、丸眼鏡を白く光らせてたたずむ。
「君は憂えていた。手を差し伸べても変化のない世界に。改革派と保守派がしのぎを削る教会の対立に。自分の弱さを知りつつ、あの鐘楼から町を眺めてしまう己の傲慢さに。そしてそれに決して溺れることなく、最大限の努力を怠らなかった。人の判断全てが正しいという基準は何処にも存在しないが、それでも君は、本当に立派な人間だ。嫌味や世辞でなく、君のような人間達が、この世界、人間の世界を少しずつ変えてきたんだ」
「……ならば何故、私に心を偽らなければならなかったのですか。どうして、私でなければならなかったのですか」
「僕は、アカデミアの計画のために皇都から派遣され、君を騙し、接近した。だが、君と話している内に、君が包み込んでくれるような気がした。マリアもそうだ。マリアに好意を打ち明けたのは僕だ。そんなつもりは欠片もなかったのに、二人と語り合い、杯をかわし、一緒にいるその短い時間の中で、こんな何でもない瞬間が、ごく自然な気がしてきたんだ。あんなに酒が旨いと感じたのも初めてだった。身近に人がいて、こんなにも心休まる時間は経験したことがなかった。枯れきった僕の心にさえ人間の感情が宿ることを、君たちは教えてくれた」
「だったら、何故!」
 学者が剣を捧げる。ユーヒィが構えた。
 炎の床を蹴る。下段から浮かび上がる学者の剣を払う。空いた右手を、相手が剣を握る右手に見舞おうとするが、逆に左手に掴まれる。小さい手だ、相変わらず。
「……ただ、それ以上に真実は、僕に重圧を加え続けていたんだ。僕らは、人の悲しみを背負ってしか幸福になれない。そう決定された存在なんだ。そう配置して創造された。可知世界を予期できるのに、そこには決して届くことのない、悲劇の被造物」
 マリアの悲しげな顔が、眼前のアレクの冷たき瞳に映る。
 それでもユーヒィは、アレクを押し返す。
「何故そう断言できますか! 人には善くあろうとする意志がある。人には理解しあおうという欲求がある。たとえそれが、誤解と悪にまみれていたとしても、不定の未来がある限り、諦めるべきではないのではありませんか! 神は運命を、我々の知らざる不定形の未来としてお与えになったのです。だからこそ、たとえ進化でなくても、我々は皆が違っていて、お互いに完全には理解できないからこそ! 挫折と後悔を重ねて我々は、いつか理解できるかも知れないという夢を、希望を抱いて生きていけるのではないですか!」
 掴まれた手を振り払い、踏み込み、相手が繰り出す剣の先手を取って剣と炎をなぐ。華麗に舞う二つの剣が、火炎を煌めかせて幾度となく瞬く。
「あの『英雄鉄道の乱』において、英雄達と人々の揺るぎない意志が、遂に皇帝の専横に打ち勝ったのは、前進ではないのですか? 限界があるからこそ、それを乗り越えようとするのではないのですか?」
 アレクが初めて下がる。二人を取り巻く炎はいよいよ激しい。ユーヒィは息苦しさを隠し、額の汗を拭う。服に血が付いた。頬の傷が開いたのだろう。アレクはといえば、まだ鉄仮面をつけたように微動だにしていない。その後ろに無言で、白い者たちが控えている。
「……ならばユーヒィ、問おう。もし君のいう通り、繰り返す前進に何らかの意味があるとするならば、だ。仮に、君の信仰の根幹がたとえ、人造の支配機構の一環に過ぎないとしても、だ」
 学者が剣をユーヒィの心臓に突きつけた。
「それを精神の糧としてよりよく生きようとする者のために……君は人工の神を崇拝し続けていけるんだな」
 ――灼熱の熱風に、くすんだ金髪が煽られる。
 それは、自分の中の基盤を決定づける命題だった。
 自分は何処に立っておりまた、何処へ赴こうとしているのか。
 教義と自分。未来と自分。
 あえて直面するのを避けてきた。
 決着を着けるのが怖かった。
 この判断が、己の半身を削ぎ落とすことになると、思っていたからだ。
 だが。
 燃焼の轟音が遠ざかる。
 逃げ場のない状況の中、心が秘境の湖面にように蒼く澄んでいく。既に退路なく、炎の中に立ち、裏切りに晒され、生死の存亡に立たされなかったら、こんな気持ちにはならなかったのだろうか。何故だろう、次第に色々な絶望と苛立ちが、遠くなっていった。教会の括りも、父との相克もなく、純粋に友と対立して、ここにいる。躊躇いはなかった。アレクを見つめる。驚くほど落ち着いている。
 ──私は、アレクの問いを待っていたのかもしれない。
「神は、我々が望む場所に常に存在しておられます。私たち一人一人の心の中に、神はいらっしゃるのです。神の愛は無限。たとえ世界が滅亡への傾斜を辿るとしても、神は人々をお見捨てにはならないでしょう。だから……だから信仰の形はどうあれ、貴方の不信はどうあれ、私はこの道を進み、未来を信じ、茨をかき分けて前進することでしょう。弛まず、怠ることなく」
 アレクが、久方ぶりの表情を浮かべた。寂しさと、僅かな羨望。
「僕は、君が羨ましい。何故そこまで神を、未来を信じられるのか。もし、僕が全てを知る前に君に出会えていたなら、僕も君と同じ道を歓喜と共に歩めただろうに。だが、君の信仰は、無垢なる無知の産物なんだ。真実は絶望的に巨大なんだ。悲しいが、な」
 白い者達が動いた───が、牧士はその姿を捕捉できなかった。次の瞬間に、両の腕を掴まれ、そのまま燃え盛る壁面に叩きつけられる。抑えられて、背中が焼ける。絶叫が迸る。
「話を最初に戻そう。発見された文献が重大だったのは、それに呼応する『もの』がウラジミラブルクで発見されたからだ。文献とその『もの』によって、アカデミアは遂に翼人の模造品を作り出してしまった。君の腕を握っている者たちだ。だが、完成にはほど遠い。今回は『鍵』の役割を果たすことになる……君自身に関しての、鍵だ」
 能面の白い者の腕を払い除けられない。肉の、躯の焼ける異臭。白煙が立ちこめる。それでも、アレクの顔を凝視し続ける。学者は剣を構えた。
「アレ・・クゥ・・・」
「考えてみるんだ。何故、マクリントン府主教は派閥内の反感をかってまで、孤児である君を引き取り教育したのか。君に『ノーサンバランド』に乗るよう命令した真意は何だったのか。府主教や、リゴスキー大公は、何故それほどまでに『ノーサンバランド』にこだわったのか。元来ミトラ真正教会の中心地だったターンスタリムから、ウラジミラブルクへと総本山を遷した真正教会の真意は何だったのか。何故、ノーサンバランド家の土地であるターンスタリムに、天使にまつわる史料が膨大に眠っていたのか。爆走する列車から振り落とされても、僕らが無事だったのは何故だ……全てを導く回答が、今、僕の目の前に立っている。僕はそれを発掘し、完璧な調和たる位階秩序にひびを入れる!」
 学者が、無造作に剣を閃かせた。
 ユーヒィの左胸に突き立つ。鮮血の奔流が吹き立ち、学者の白い外套を染める。だが、既に痛みはなかった。
「目覚めるんだ、ユーヒィ──いや、ユグルムント・ノーサンバランド」

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 情報が無限に流れ込んでくる。だが、それを受けとめる許容量も膨張していく。

 そこは、調和の世界だった。

 最初、意識が存在を認識するのに戸惑う。自分が明確な存在ではないからだ。もちろん、自分以外の物、全ても同じく等しい。

 世界は揺らいでいる。だから、存在は相互に補填しあって、全てが「その」場所の支柱であることを確認する。調和に綻びはない。

 認識を上方に向けると、格段に膨張する情報の波が押し寄せてきた。とても理解できない。もはや認識の差は比較を不可能にする。ただ、それは不安を招かない。むしろ、偉大な安寧をもたらす。

 恩寵、

 慈愛、

 愉悦。

 そういった情報が、光となり感覚となり、存在を愛で満たしていく。知的な合一は愛の合一と直結する。

 「そこ」にあり、その全てに感謝と賛美を広げるだけで、存在は幸福に包まれるのだった。 時間の輪さえも越えて、その至福は無限に輝いてゆく。

 その「時」、感覚が下方を向いた。また、無限の情報が流れ込んでくる。

 ……人間。男。女。誕生は存在。死以降の非存在。喜怒哀楽。老人と子供。繁栄。発展。進歩。努力。対立。戦争。

 差別。支配。滅亡。前進、後退、前進、後退、前進、後退、その繰り返し。時間。未来。運命。永劫回帰。

 そこから逃れようとする者……それも、また、人間。

 存在の揺らぎが大きくなる。意識が何かを求める。そんな欲求は不要。本質で理解しているのに。「あの世界」も干渉の叶わない調和の世界。その意味において「ここ」と変わりはないのだ。そして、「ここ」には望むものがそのまま存在している。

 だが。だが。

 「それ」が視る。

 木枯らしの吹く日。紅蓮の炎を上げ燃え落ちる邸宅k。救出される幼い男の子と、乳飲み子の妹。親の姿は炎の中に消える。号泣する二人。何者かが乳飲み子を抱き、雑踏の中に溶け込んでいった。追うこともできない。

 何時しか幼子の手を引いていたのは、壮年の司祭だ。その顔は何処か、憂いに沈んでいる。

 忘却のヴェールの向こうから、知っていたはずの情報が帰還してくる。

 別の記憶。教会の前。雪の日に、並んでスープを待つ少女。何の感情も浮かべない瞳。風が吹いて、ボロボロの外套を揺らす。

 更に異なった情報。地平線まで続く塩の浮いた広大な畑の中央で、丸眼鏡を掛けた青年が寒いほどの青天を見上げている。彼の脳裡に浮かぶのは、沈黙を張り付かせて窓辺に腰掛ける老母の顔。届かない思い。そこをただ、風がゆく。

 ……知っている。覚えている。

 あの風を覚えている。そう──あの風はいつも、「私達」の空で吹いていた。

 乱れる調和。生じる混沌。補正しようと、存在の集団が感覚を広げる。上方よりの照明が愛と啓示をもって完全を保護しようとする。だが、「それ」は個を取り戻し始めていた。

(否! 否!)

 否定。破壊の宣言。脱落の自由意志。

 即ち、堕落。

 真白な世界は、柔和で完全だ。だが。

「否!」

────────────────────

「おおおおおおっ!」
 動かなくなったはずの躯が雄叫びを挙げる。
 その肩に手をおいていた白い者達の眼が見開かれる。そこから、いや口から、全身から、純白の閃光が迸って、展望室の火炎を青白く染めぬいた。やがて白い者達を構成していた仮初めの物質全てが、神聖な光に還元されていく。消失していく。
「おおおおおおおお!!!」
 彼がゆっくりと目を開く。右手をしっかりと固め、気力を振り絞る。涙が溢れる。神の意志に背いた罪悪感が、そうさせているのだろうか。眼前には、茫然として立ち尽くす学者の姿があった。叫びが途切れ、柔和な顔に戻っていく。胸に刺さった剣をゆっくりと引き抜くと、残り火のように弱々しい鮮血が溢れた。
「アレク……前に、貴方には風が似合うと、いったことがあったでしょう。貴方を取り巻く、淋しく切ない風。あの風は、私の心にも吹いていた……迷い、思い悩む時、他者という異世界の拒絶を恐れて、伸ばせなかったこの小さな掌の先に、いつもあの風は吹いていた。アレクだって、届かないと解っていたから、いつも風を見上げていたんでしょう? だって、風のように自由な心が、風に憧れたりはしないでしょうから」
「……何故だ、何故拒絶したんだ。今頃皇都からここに向けて列車砲が放たれているはずなんだ。人間は無力だ。全てが、あの皇帝の暴力によって捻じふせられてしまうんだぞ!」
「終わりではありません。ようやく、ここから始められる。あの風に、痛みに気付いたから、私はその先へと腕を伸ばす勇気を得ることが……できました」
 脳裡に再び浮かぶ雪の日の少女の姿。誤解や拒絶を恐れることなく、もう一度手を差し伸べたなら、或いは彼女は、笑ってくれたのだろうか。
「……この超特急なら、大丈夫です。自らその意志を持って、守護する者がいますから」
 焼けただれた漆黒の牧士服の懐から、一つの紙包みが浮き上がり、空中で消えた。
 ユーヒィ・マクリントンは微笑を浮かべ、従容として学者に、灼熱に揺れる右手を伸ばす。小さな手だ、だけどもう構わない。学者を不思議な光輝の球体が取り囲む。屋根が崩れ落ち、炎の勢いが増す。ボゴロレフ村の古い教会で、自分の帰りを待つ子供達の顔が頭に浮かんだ。
「ユーヒィやめろ、僕こそが、進歩を進化だと願望して止まない卑小な人間の形そのものだ! 君が代価を贖う必要はない!」
「僕も同じです……天使でもノーサンバランドでもない、弱い一人の人間だから……未来を願って、この手を差し伸べることができる。始めましょう、アレク。貴方の往く道に、神の加護があらんことを」
「ユゥヒィィィイーーーーッ!」


 一発目の砲弾が、二人の乗った七号車を直撃した。

────────────────────

 あれ、あたしどうしたのかな。頭がボンヤリしてる。大公閣下のおそばにいなきゃ、アレク達を待ってなきゃいけないのに───
「マリア。マリア」
 ユーヒィが近くにいる。でも、何処だかよく解らない。
「振り向かないで。それよりも、目を開けてみて下さい」
 いわれた通りにしてみる。
 突然、心地よい圧迫感に包まれた。マリアは爆走する7600型機関車の先頭に腰掛けていた。疾風に吹かれているのに、視界は広く、果てしなく遠い。レールの継ぎ目を越えていく連続した衝撃が、たまらなく爽快だった。
 見渡す限りの澄み切った青空。一つ二つ、巨大な雲が影を落として流れていく。百八十度、仰ぎ見る地平線から下は、光沢を帯びて揺れる大草原。波立つって触れ合って蒼々とした音楽をかき鳴らす。その中央をレールが一直線に伸びていく。
 頼もしい機関車の駆動音、空気圧搾音に何だが嬉しくなって、両足をばたつかせて白い歯をこぼす。
「いい顔ですね、マリア」
「いつもいい顔の間違い。失礼しちゃうわね」
「そうですね、ごめんなさい。でも、旅の途中に私が見たのは、怒った顔ばかりでしたから」
「そりゃ、ユーヒィが優柔不断で情けないんだもん。もっと自分から働きかけないと、女の子にもてないわよ」
「牧士だからとりあえず、そういう必要はないんですけど」
「負け惜しみはいいの」
 笑いが弾け、言葉が途切れる。しばし、空の彼方を見遣るマリア。ホワイトシルバーの髪をなでつけながら、薄朱色の瞳に雲を映して。
「いつかこんな風に、純粋に旅を楽しめたらって思ってた。誰かに迷惑を掛けないで、誰も気にしないで、大切な人と一緒に、ゆっくりと。理不尽なことで逃げ回ってばかりだったからね、生まれてこの方」
「………………」
「なんか、幸せだね。何でアレクは一緒にいないんだろ」
 意図しない涙が、頬を伝う。ユーヒィに掛けて貰ったシンボルを握りしめる。
「三人とも、もっと器用に思いを伝えられたら、こんな風になってなかったのかな……。あのね、あたし二人に逢ってから、生まれて初めて女の子らしい夢を膨らませてたんだ。アレクのお嫁さんになって、子供ができて、家の近くの教会にユーヒィがいて。そんな風に毎日生きられたら、きっと楽しかったよね。ずっとずっと、幸福でいられそう。だって、幸福なんて言葉、柄じゃなくて、歯が浮いちゃって、自分で使えるなんて、ぜーんぜん、思ってなかったんだから……でもね」
 袖で涙を拭う。それでも、笑っている。無理にではなく。
「私は風だから。気侭な夏風でいたいから。だからみんなの側にいられない。いつまでも旅をしていく。遠くへ――いつか風が止む世界まではいってみたいから」
「マリア」
 限りない青空の向こうから光点が落ちてくる。
「皇帝がみんなを滅ぼそうとしてるのね、性懲りもなく。あたしにみんなを守る力があればいいのに」
「……マリア。あなたがずっと大事に隠していた秘密を、私に分けてくれませんか。約束を果たすには、少し早いですけどね」
 眼前に閃光が走って、小さな小包が現れた。宙に浮かんだ包装がひとりでに解かれていく。中から現れたのは、一丁の短銃だった。立ち上がり、ゆっくりと握る右手。手に吸い付く感触。記憶が流れ込む。
「これって」
 夏草の線路の彼方に、人影が見えた。
 スーツを着た大柄の老人だ。僅かに頷きながら、銀の双眸が優しく見守っている。
 その傍らに立つ、顔も知らないはずの両親。育ててくれた労働者の男。自分が看取った三番目の老父。それぞれが満足げな笑顔。皆、何処かにある、風の止む世界を目指した人々。
 また、涙が溢れてしまう。口を押さえる。激しい感激。嬉しくて仕方がなくて、胸の中が温かい。だから、我慢して空を見上げる。ユーヒィが背後で、感謝の言葉を呟きながら小さく印を切っているような気がした。
 黒点が大きくなり、悪意を込めて降ってくる。
 マリアは短銃を構えた。毅然と、しかし止めどなく流れ落ちる涙をそのままにして。制服のスカートが、流れ落ちるホワイトシルバーの髪が、大きく翻る。
「アレクは、どうしてるの?」
「大丈夫、私が護っています」
「……ありがとう、ユーヒィ兄さん」


 マリアンヌ・ノーサンバランドが引き金を絞った。
 そしてそれは、またも空砲だった。

────────────────────

 嵐の空に、二つの爆発が相次いで轟いた。地上に落ちたそれは、華々しく火柱を立て、紅蓮の炎と熱波を放出した。勢力を弱めていく暴風が、それを南の空へと押し流す。やがてそこに白煙登り、雨音の導く静寂が取り戻されていった。
 その瞬間。
 青白い閃光が闇夜を切り裂いた。それは無作為に幾条も雲を貫いたが、やがて収束し、一つの長大な光線と化した。それは、大地をめざましい速度で滑り、北へ、地平線の彼方に流れていく。
 白い残映を残し、神の土地を流れる、宵の流星。
 その中で変わらず脈打つ、力強い鼓動。


 ……流星と共に、嵐は去った。惹かれるかのように大地を朝日の恵みが染め上げていく。紅色の草原が、露を帯びて瑠璃の大洋の如く輝いている。

────────────────────

 皇都ウラジミラブルク。
 太陽が昇って久しいというのに、街には死に絶えたような、沈降した空気が澱んでいた。まだ払いきれない、嵐の後の垂れ込めた雲がそうさせているのかも知れないが。民衆は無気力に座り込み、声を発することもない。
 列車砲が火を噴いた直後、皇帝は「ノーサンバランド」の反逆者を処刑したと、憲兵隊を用いて大きく喧伝した。中央駅を取り巻いていた群衆は、強制的に排除され、解散させられていった。武器で追い立てられては引き下がるしかない。彼の思惑通り、巨大な神のいかずちは、人々の叛意をあっさりと打ち砕いてしまったかのようだ。
 南大門に躯を預け、砲身を伸ばしたままの「左天使」と「右天使」の間、地平線まで続くレールにぼんやりと目を遣っていた青年が、溜息をついた。どうせ何も起こりはしないのだ。ならば、憲兵隊に捕縛される前に仕事に戻るのが得策だろう。
 そう思い、体を起こした、その時。
 甲高い汽笛が鳴った、ような気がした。
 空耳でも都合よすぎると、作業帽を被り直す。しかし。
 甲高い汽笛が、鳴った。
 もう一度、レールの方向を見た。
 黒煙が上がっている。
 汽笛が。
 汽笛が鳴っている!
「……の、『ノーサンバランド』だ! 超特急がやってきた!」
 青年は叫び、駆け出した。大声を張り上げ、市中を巡る。声は連鎖し、あっという間に爆発した。無数の足音が走り出す。
「『ノーサンバランド』が来た!」
「英雄が、皇帝の剣を払い除けた!」
「『スコーラ』も一緒だ!」
 立ち登り始めた陽炎の向こうから姿を見せた超特急は、泰然とする機関車、ボロボロの外壁、直撃したままの大岩、焼けただれた六両の客車、その全てに不思議な光輝の白き衣を纏いながら、無言の両天使が鎮守する南大門を悠々とくぐって中央駅の構内へ進入した。ある窓には、「スコーラ」の深紅の旗が力強く翻っていた。
 憲兵隊が集結する群衆を取り締まるため、街の各所で威嚇射撃を繰り返す。が、反対に興奮した人々によって攻撃され、何度も殴打される。命を落とす者さえ現れる。
 小規模な衝突は共鳴し合い、遂には街全体を争乱の渦に巻き込んでいった。兵隊の詰め所を民衆が襲う。発砲による死人の積まれた上を、職人達が工具を片手に突撃する。道のあちこちにバリケードが築かれて、争乱はいよいよ混迷を増していく。それは教会も例外ではない。真正教会の総本山、聖ニコラ・テスタ寺院にも暴動と破壊と殺戮の嵐が吹き荒れた。
「ノーサンバランド!」
「ノーサンバランド!」
 民衆は口々にに老英雄の名を呼び、突き進んでいく。
 迎え撃つ兵士達にこそ、怯えが蔓延していく。
 五十年前の熱風が甦る。
 容赦なく降り注ぐ強烈な夏の日光も遮ってしまうほど、ウラジミラブルクは沸き立たんばかりの熱気に満ち溢れ、ベクトルのない混沌で騒然としていた。混乱の収拾など、到底想像できない状況だった。


 長大なプラットホームへと進入した超特急は、まるで意志あるかのようにゆっくりと停車した。制動の軋みが聞こえなくなってから、長旅を終えた7600型大型機関車が白い蒸気を盛大に漏らす。
 半分炭化した五号車から、足を引きずって、アレクサンドロ・ブレイクが現れた。ホームに降り立ち、頭を左右に巡らす。清潔を極めた無人のホームと釣り合わない、惨憺たる有り様の車両。自分はこれに乗って、本当に旅をしていたのだろうか。根拠のない疑念が疼く。
 遠くから、暴動の喧噪と人々の足音が響いてくる。だがそれは、別世界の出来事のようだ。
 と、機関車付近から、人影が降り立った。
 目を剥く。一人は老人、もう一人は――。
 躯の至る所が痛む。だが、それを忘れる程、懸命に急いだ。目に見えているのに、何でこんなに遠いんだろう。焦りが渦巻く。そして自問する。自分は何に焦っているのだろう? あちらもようやく自分を発見したらしい。駆け出した。
「アレク! 無事だったんだね!」
「……マリア」
 あちらの方が格段の早さだ。少女が胸の中で飛び込んでくる。痛む傷を我慢して、その勢いを支える。
「よかった、本当によかった・・・」
「マリアも……」
 言葉が出ない。ユーヒィのことをどう説明すればいいのか。彼の前で積み上げた自分の、信念たるべき言葉が、無力な記憶として蘇る。それに何故、二発目の直撃はなかったのか。しっかりと抱き締めながら、アレクはいたたまれない気持ちで目を逸らした。
 マリアはそんなアレクをどう捉えたのか。優しい薄朱色の瞳で、青年の相貌を見つめる。
「ごめん。アレク、ごめんね。あたし、貴方の心の中に、ずっといてあげられなかった。それが一番大切なことだって、解ってたのに……だから今、この瞬間だけは永遠にしたい。ほんとに、そう思ってる。思ってるの……」
 耳元で囁く少女の言葉は、涙混じりなのに、まるで春の日差しのように透明で、温もりに満ちていた。
「でもいかなきゃ。全部、解っちゃったから……兄さんが、呼んでるから」
「……兄。兄とは……ま、さか」
 小さく頷く少女。
 告げられる、真実。受け入れたくなくても、理解が全身を駆け巡る。その残酷さに、目を見開く。
「こんなこということ、出来ないかもしれない。でも、それでもね────それでもあたし、短い間だったけど……あなたを愛してたよ。これからも、ずっと……きっと」
 少女は、背伸びをすると、自分の唇をゆっくり、学者のそれに押し当てた。
 結ばれる一瞬の永遠。
 それが離れると同時に、退いていく潮のように……少女の躯の感触がなくなっていく。
 必死で押さえようとするが、その腕をすり抜けて少女は駆け出した。それを目で追う。すると少し離れたホームの先に、黒い法衣の青年が立っている。くすんだ金髪に、優しげな群青の瞳。少女はもう振り向かない。その青年と共に並び、笑い合いながらゆっくりと歩み去っていく。
 その姿は次第に霞み、やがて光輝の星となって舞い上がった。雲間から差し込む天界への梯子を登るようにして、二つの光点は彼方へと飛翔していく。白い羽根が舞い散るように視えたのは、現か幻か。
 あの雲の嶺の向こうにも、風は吹いていけるのだろうか。
 ……腕に、重みが戻った。首が痛くなるほど見上げていたアレクが首を巡らす。
 焦げて汚れた白い外套の腕――それは親友の返り血を浴びていた――に抱かれて、ホワイトシルバーの髪の少女は、まるで夢見るかのように、安らかに瞳を閉じてそこにいた。微風が、前髪を静かに揺らす。細い躯が、次第に温もりを失っていく。首から提げられた真正教会のシンボル。上下しない胸には、無惨に大きな鉄砲傷が開いていた。そこを手で覆い隠す。
 頬が熱いな。
 そう感じた瞬間、頬を透明の雫が伝い、少女のそれに落ちた。


 ───真実。
 学者が全てを捨てて追い求めた真実が、腕の中で永久に眠っている。
 だから学者は、自分が涙をこぼしていることもまた、真実として認めなければならなかった。


 ガリウス歴千八百五十一年、八月十八日。
 北の大地は短い盛夏を迎えようとしていた。


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