■ かざねしま 〜風音島〜


 思い出した。
 今。たった今。

 施錠された心を、潮風が優しく溶かしていく。私の髪をひっきりなしに翻しながら、虚空へ飛び去る者達。彼らの世界を中心にして、ためらいという名の扉が、錆びた音を軋ませて開いていく。
 体全部に満ち満ちてくる歓び。陸の上では砂漠の水溜りのように蒸発してしまう充足が、静脈と動脈を行き来してる。
 私を運ぶ、この船が、穏やかな波が、横手に続く巨大な橋が、遠くに霞む小さな島々が、そしてその中の一つが。鮮明な感覚としてそこにあった。
 それを刻印するのは、まるで音を立てるかように強烈に肌を焼く盛夏の光。
 もう、魅了なんてされない。偶然になんて負けない。そう誓って生きてきた。でも、此処は、此処だけは違った。この場所に、この夏に、私は「私」を置きっぱなしにしたまま、生きていたことに、気付く。ここは決して壊れない貯金箱。飽きることのない遊び。尽きない夢。枯れない花。
 ・・・開幕ベルが鳴り響く。潮風の歓喜は高らかな歌になって、何度も何度 も、私に流れ込んでくる。脳だけじゃない。感覚器官すべてが作り替えられていく。洗い流されていく。「私」になっていく。

 だから。
 思い出した。
 今。たった今。
 私は、一年間ずっと待ってたんだ。
 この夏を。この世界を。
 そして、この私を。

 ・・・その時、何処かで、微かに風鈴の音が鳴った。チリン。何処かで。
 確かに。
 チリン。
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 本州と四国を陸続きにしてしまった巨大建造物・・・瀬戸大橋を横目に見ながら、フェリーは一時間弱の旅を続ける。巨大な橋を、海を計る物差しに見立てて対比するならば、この狭い海に縮尺を合わせたサイズの船だから、海上を滑る時間も、積載可能な車両の数も、さほどではない。
 だが、八月第一週ということもあってか、コンパクトな航海はそれなりの盛況を見せていた。車載デッキには何台もの車やトラックが肩を寄せ合うように、というより多量の荷物を無理矢理押し込んだ倉庫のように雑然と並んでいる。その車の持ち主達は、船着き場の待合室と大差無い船室でそれぞれ輪になり、田舎に持ち帰る土産話に花を咲かせている。
 潮風吹き抜ける甲板では、我先にと駆け込んだ子供達が、据え付けられた望遠鏡を覗いたり、白く泡立つ波頭に見入ったり、瀬戸大橋を見遥かしたりしている。
 小学校中学年ぐらいの姉弟が、強い風圧を受けながら、転がるような笑い声を挙げていた。飽きることなく走り回り、一箇所にとどまることがない。船旅は初めてなのだろうか、ゆっくりと上下動を繰り返す甲板それ自体が娯楽であるらしく、先行する姉が弟を導くようなかたちで、子供達の冒険は展開していた。
 姉の方が、ふと、立ち止まる。
 彼女の視線の先、甲板の突端、海上に突き出そうかとする舳先の部分で、一人手摺にもたれて佇んでいる女性がいた。低い背丈、子供のような横顔、大きな目。少女、と呼んでさしつかえ無いかもしれない。が、そうとは断じられない何らかの雰囲気もまた、その女性は纏っていた。肩に届くかもしれない短めの髪は、押さえる右手の間をすり抜けて、大きく翻っている。海と空、鮮やかな青の世界に映える、純白のワンピースが、風をはらんだカーテンのように揺れ続いている。 と、その女性もこちらに気付いたようだ。今度は本当に子供っぽい微笑を浮かべている。
 姉も、追ってきた弟も、その様子に安堵したらしく、嬉々として近寄っていった。姉弟は、我先にと手摺に手を掛けた。眼前にそびえる巨大な橋を並んで見上げていると、ふと女性が呟くように言った。
「・・・すごいよね。まるで、空の蒼と海の碧を分ける水平線みたい。ね、そう思わない?」
「・・・・・・・・・」
「ごめん、ちょっとわかんないか。・・・あなたたち、姉弟でしょ?」
 二人がどちらが先とも無しに頷く。
「今から、里帰りなの?」
「ううん、わたしたちいまから、海の家にいくんだよ」
 姉がはにかんで頭をかく。
「はじめてなんだよ」と、弟。嬉しそうに笑うその顔だちは、姉にとてもよく似ている。
 女性は、そんな二人を羨ましそうに見比べている。
「・・・・懐かしいな。私もね、あなた達と同じ歳の頃、初めてこの海に来たんだよ。とっても楽しくてね、それから毎年来てるんだ」
 そういって女性は目を細め、風の向こう、そろそろ見えてきた目的の島の方角へと視線を投げた。姉の方もそれに倣う。弟は、しかし、風に煽られる女性の横顔を見て、笑うのを止めた。そして、あたかも解けないパズルを与えられたかのように、女性の顔を見つめ続けていた。

 それから、十分後。
 その女性・・・野下遊弥(のじもゆうみ)は、島の港から大きく突き出た防波堤の先、小さな灯台の元に立っていた。乗客と荷物を入れ替えたフェリーが通過していく。あの姉弟の家族は、この島では下船しなかった。船は、いつも通りの旅を再開し、徐々に小さくなっていく。
 スクリューが海水を撹拌する音が、ひっきりなしにコンクリートの岸壁に打ち寄せる波の音に飲み込まれても、遊弥はその場に立ち尽くし、海を島を眺め続けていた。潮風は優しく抱擁するかのように、遊弥の光を帯びた黒髪を静かに揺らしている。
 遠くに立ち昇る入道雲。直射日光が、肌をジリジリと焦がす。
 次第に、小さな体の内側から、震えが湧いてくる。抱きかかえた旅行鞄を強く両手で押さえてしまう。唇が、自然と言葉を紡ぎ出す。
「・・・帰って、きたんだ・・・・・」
 足が動き出す。気持ちの高揚と共に、歩みは見る間に早くなり、遂には駆け出した。長い堤防を駆け抜け、船着き場を横目で見ながら、アスファルトの道へ。久しぶりに履いたサンダルは、褪せた群青の道路を踏む度に、皮膚を擦って熱くなる。もどかしくなってサンダルを脱ぐと、今度はアスファルトの熱さに足の裏が悲鳴を上げて、その場で二度三度飛び跳ねてしまう。そんなこともまた、微笑みの理由になる。
 結局そのまま、また走り出す。
 風景は記憶そのままの、何一つ変わらない夏のカタチ。油蝉はジイジイと鳴き続け、高く立ち昇った積雲の向こうから、鴎が数羽、影を落として飛び去っていく。水田と畑の中央を伸びる農道の左右には、背筋をピンと張って誇らしげに立つ向日葵が並び立って、まるで遊弥を迎える儀仗兵のようだ。それだけでは、勿論ない。青田へ水を引く貯水池へ、人の気配を感じた蛙が飛び込む音。海が直接見えなくなっても、都市の空気とは比べものにならない程、潤った空気。そして、それら全てを、「それら」として存在させている、白い日光。
 夏、そのもの。
 いつもの夏の中を、遊弥は駆け抜けていく。クルクルと回り、軽快なステップを刻みながら。
 曲がり角に立つ、朽ち往く木製の電信柱にそっと触れると、次は小さな郵便局の古びたポストに目を輝かせる。誰も通らない、静かな町並み。側溝からこちらを窺う子犬達。周囲を取り巻く雑木林から聞こえてくる、知らない鳥の囀りも。

 チリン。

 遊弥の足が止まった。視線がある一点を指したまま。
 勢いよく成長する木々に飲み込まれるように、周囲の森と同化していくかのように。廃虚と化した寺が、ある。屋根の崩壊した門にはしぼんだ朝顔が群生し、その奥は、離れていても水気を帯びた苔の香りが伝わってきそうな程、薄暗くなっている。
 遊弥は、一瞬だけ目を伏せると、やがてまた、傾斜のつき始める道を駆け始めた。

 坂の途中に、その家はある。
 木造、茶褐色の母屋の隣には、物置小屋があり、そこと繁茂する竹林の間の周囲五メートルぐらいの空間に、ささやかな農園がある。
 一人の老婆が、豊かに実った西瓜の間を通りつつ、丹念に雑草の芽を摘んでいく。
「おばさん」
 老婆がゆっくり腰を上げ、声のした方を振り向いた。麦藁帽子のつばを上げ、目を細め、今度は大きく目を見開く。
「・・・遊弥ちゃんかい?」
「ただいま、おばさん」
 老婆は持っていた道具やら雑草やらを放り出すと、危なっかしい足取りでこちらに駆け寄り、遊弥に飛びついた。遊弥も少し力を込めて抱き返す。老婆の体は、汗と土の匂いがした。
「よく来た、よく来たねぇ、遊弥ちゃん」
「・・・・本当はね、早くに連絡してから来ようと思ってたんだ。でも、ちょっと驚かせようと思って・・・・ごめんね」
「いいんだよ。毎年来てくれてるんだから、心配なんかしないよ。そんなこと、気にしてないから」
「ありがとう」
 老婆は体を離すと、皺だらけの笑顔を遊弥に近づけた。
「いやあ、それにしても遊弥ちゃん、背格好も顔も、全然変わんないねぇ」
「おばさん、そのイヤミ聞きあきたよぉ。毎年会う度それだもん。こう見えても二十二になったんだから、私」
 膨れっ面で応じたのは、逆効果だったようだ。
「それ、その顔。最初に来たときと全然変わらねえ」
 遊弥は更に怒ってみせるが、やはり維持できない。結局、また二人で笑い合う。
「三、四日御世話になるつもりだけど、いいかな? 畑も手伝うし」
「何言ってるんだい。遊弥ちゃんがいたいと思ってくれれば、何時までだってでもいてくれればいいんだよぉ」
「いつもわるいな」
「アタシにとっては、遠慮してくれる方がもっと迷惑だよ」
 老婆は帽子を取ると、遊弥を手招きした。
「立ち話もなんだし、冷たい茶でも出すから。西瓜はまだ冷やしてないけど、夕方には食べられると思うからねぇ」
「その前に、お風呂、貸してもらえる? 潮風あびて、肌ベトベトになっちゃった。少し裸足で走ったしね」
「・・・遊弥ちゃんらしいねぇ」
「いいですよーだ。と、今日、おじさんは? 生け簀?」
「そうだよ。ま、日暮れまでには戻ってくるから」
 母屋の方へ向かった時。

 チリーン。

 遊弥は、縁側の方を見た。張り出した廊下の天井から、七羽の鳥を型どった黒ずんだ風鈴が釣り下げられている。時折、風に吹かれると、鳥達は翼を打ち合わせ、澄んだ金属音を響かせるのだった。
「・・・・・・・まだ、持っててくれてるんだ」
「遊弥ちゃん達がくれたものだからね、大事にしてるよ。今年だって、七月に入ってから出したんだ」
「そう・・・・」
 遊弥はしばらくそこで立っていたが、風鈴がもう一度鳴るのを聞いてから、母屋の玄関に足を踏み入れた。

 暗い部屋の中央に、永い年月を経てくすんだ大黒柱がある。その上には神棚が鎮座しており、その左横で振り子時計が時を刻んでいる。
 振り子の反復を、遊弥は見つめていた。
 コチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチ。
 時計の文字盤は鈍い光沢を放っている。
 でも、何故かその数字は意味を失っている。
 振り返す振り子。繰り返す時間。
 規則正しい音が、逆に時間を遠ざけていく。
 その魔力に捕らわれていくかのように、鈍い光を徐々に失っていく遊弥の瞳に、大きな影が映った。
「・・・・おばさん?」
 もたれていた壁から身を起こす。が、老婆の姿は視界に入らないまま。縁側の方から声がした。
「そのままでいいよ、遊弥ちゃん。旅で疲れたんだろ。飯時になったら起こしてやるからさ、少し寝てな」
 遊弥は重い瞼をゴシゴシこすると、ゆっくり立ち上がった。
「ちょっと散歩してこよ。このくらいの移動で疲れるなんて、私も年取ったかな?」
 自然と左腕を見やる。そこにはかすかに、腕時計の日焼け跡。
「・・・・・時計、忘れて来ちゃったんだ」
 遊弥は梁に掛かる壁時計を、もう一度見上げた。それが時間の全てであるかのように、規則正しく機能する、古びた刻の護り手。
 コチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチ。

 コチッ。

 サンダルが弾いた小石が、苔むした庭石に当たった。
 蝉時雨鳴り止まぬ夕刻、遊弥はあの廃寺にいた。無意識に忍び足で進むと、落ち葉や枯れ枝を踏む乾いた音が、周囲の雑木林に吸収されていく。樹皮に触れると、水分が粘っていた、ような気がした。
 朱の陽光に染まった本堂を通り抜け、中庭にはいる。手入れのされないまま林立する落葉樹と、繁茂した雑草を、しかし、踏み分けた跡が微かに残っていた。遊弥は沈痛な面持ちで、それを辿っていく。
 庭の壁際、崩れている土塀の前で、その跡は消えていた。
 そこには、綺麗に掃き清めらている小さな墓があった。小さな土盛り。その前には燃え尽きて久しい線香の灰。左手の中指がそっと触れると、灰色の粉になって、途端に土に還ってしまった。
 遊弥はスカートのポケットから線香を取り出した。そこでふと気付く。
「マッチ借りるの、忘れちゃったな」
 そして、胸のポケットに手をやる。出てきたのは百円ライター。表情が更に翳る。
 線香に火をつけ、供える。辺りに線香独特の香りが充満していく。
 遊弥はゆっくり目を閉じ、手を合わせた。

 チリーン。

 風が吹く。まっすぐに上がっていた煙が揺らめく。遊弥の顔に髪が掛かる。
 誰かが笑っている。クスクス。
 ・・・遊弥はゆっくり目を開けた。
 視界の端で、赤が回っている。
 泰然と立つ大楠の根に隠れるように立つ、くすんだ赤い風車が、時折回っていた。その色は、夕日の紅が染み込んだ場所にあっても尚、その空気を赤茶色に錆びさせたまま、静かに澱んでいた。
 誰かが笑っている。クスクス。
 風車佇むその楠の幹の陰で、白いスカートが揺らめいたのは、現か幻か。
 それが何なのか、遊弥は問おうとした。だが、その問いを発した瞬間に、言葉ごとこの世界に取り込まれそうな気がして、立ち竦み、押し黙っていた。

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 白い夢を、見た。

 雨が降っている。
 黒光りする欄干に手を置いて、年老いた住職が目を細めていた。その視線の先では、苔むした庭石と、数人の少女達が、皆一様に雨に打たれていた。
 屈み込む少女達の前には、出来たばかりの小さな墓と、供えられた五輪ほどの野花。少女達の顔は、雨で濡れたのか、涙で汚れたのか判別がつかなくなってしまっていた。
 そんな少女達から二、三歩離れて、幼い遊弥が立っていた。ずぶ濡れになりながら、しっかりと口を結び、泣いてはいなかった。
 雨音が強くなると、少女達の嗚咽も高まる。

「・・・・わたしは、泣かない」
 遊弥が呟くと、雨が一層強くなっていく。
 それでも遊弥は、泣かなかった。
 決して、泣くことはなかった。
 泣かなく、なった。

 それは、本当に幸せな時間だった。
 少女達の夏と交差した、真っ白な子猫の命。その子は本当に突然、現れた。でも、理由なんて誰も欲しがらない。真新しい風鈴が澄んだ音色が響く庭で、埃と汗と歓びにまみれて、皆は転げ回った。口々に取り交わされる、純真無垢な約束。
「みんなで、この子の世話をしようね」
「さんせい!」
「約束だよ。これからはみんな、ずっと一緒だから、ね」
 そこにいる者は誰もが、永遠に友達でいられる筈だった。
 筈、だった。
 別れも、突然だった。道路に飛び出す子猫。走り込む乗用車。
 タイヤの悲鳴が蝉の合唱にかき消されても、その場に動く者はいなかった。

 そして、雨が降りだした。
 猫の亡骸を、皆で寺の境内に埋めた。
 でも、遊弥は泣かなかった。
「泣いてたらだめ。だめだよ。だって、泣いたってネコはかえってこないもん。泣くの、やめようよ。・・・やめようよぉ」
 そして、泣くのをやめた。 

 白く、苦い夢だった。

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 既に、陽は高く昇っていたが、遊弥は寝間着姿のまま、縁側に腰掛け、扇子を軽く揺らしていた。頭上のあの風鈴は、微かに揺れてはいるが、音を立ててはいない。ただ、物置小屋が日光を遮断しているから、そんなに暑くはなかった。手元にあるコップを持ち上げ、麦茶を一口、喉に通す。生温い水分が、全身に満ちていくと同時に、肌から汗が吹き出るのが感じられる。勝手口の門に蔓を巻いた朝顔の花が既に萎み始めていた。
 菜園の手前で、昨夕拾ってきたあの赤い風車が鈍い赤のまま立ち尽くしている。 老婆が、買い物篭を提げて現れた。
「あれ、まだ寝間着でいるのかい」
「・・・嫌な夢、見ちゃったんだ。もったいないよね、折角遊びに来てるのに」
 身を起こそうとする遊弥を、老婆は優しく制した。
「いやいや、学校やら何やらで、疲れが出てるんだよぉ。日がな一日、ぼーっとするいい機会だって。向こうじゃ、そんな暇無いんだろ」
 遊弥は素直に頷き、腰掛け直した。老婆は何度も「そうした方がいい」と呟き、それから買い物に出掛けることを告げた。
 背を向けた老婆に、遊弥の声が飛んだ。
「・・・・あの、おばさん」
「何だい」
「京香達、来た?」
「ああ。二週間ほど前にね。本家の墓参りと、ウチに挨拶だけして。日帰りだったみたいだよ・・・そうそう、遊弥ちゃんの事も言ってたよ。しばらく連絡してないから、会いたいってさ」
「・・・・・・・・・・・」
「ネコの墓に行ったんだろ? アタシも一緒に掃除したんだよ」
「そう・・・ありがとう」
「あっちじゃ、同じ大学行ってるんだろうに、顔合わすこと、無いのかい?」
「・・・お互い、忙しいから」
 遊弥はそれ以上、口を開くつもりはないようだった。老婆は再び歩みだし、去った。
 まだ、風鈴は音を立てない。
 扇子はゆっくりと揺れている。油蝉の大合唱が続く中、遊弥は時折混ざる茅蜩の、カナカナという鳴き声が気になった。

 その日の、晩。
 少し暗い蛍光灯の下で、三人が、卓袱台を囲んでいた。一人は老婆、一人は遊弥。そしてもう一人が、この家の主である老海夫。
 主人は寡黙な男だった。そうして、人生を生きてきた。それが、喜びの表現であり、怒りであり、悲しみでもあった。だから、用事のあるとき以外は誰も話し掛けない。だから、食卓に会話は無い。箸が食器に当たる音が、断続的に続いている。
 食事は、御飯と味噌汁、白身魚の煮付け、それに漬け物。白身魚の小骨が歯茎を引っかくことが多い。遊弥はなるべく、御飯と一緒に飲み込むようにしていた。そんな事でも気にしないと、理由を知っているとはいえ、この静寂は重すぎた。
 口の中の物が喉を通り過ぎてから、ゆっくりと茶碗を置く。気を付けたつもりだったが、コトンと音が揺れた。
「おじさん、おばさん・・・・あのね」
 主人は小さな盃で冷酒を舐めていた。視線を落としてゆっくり咀嚼していた老婆が、中断して顔を上げる。
「あのね、私、考えてる事、あるんだけど・・・・」
 遊弥にしては、歯切れの悪い口調だった。
 老婆は、茶碗を持ったまま、優しく遊弥を見る。向かいに座る遊弥の前には、茶碗と汁碗がきちんと並べてあり、その上には箸が揃えてある。
「・・・何だい、遊弥ちゃん」
「えと、あのね、その・・・・」
 主人が自分で銚子から酒を注ぐ。
 老婆の微笑みは絶えることが無い。無言で遊弥の言葉を待っている。
 また、暫くの沈黙。
 遊弥は視線が合わせ難いのか、下を向き、意味も無く両の手を組み合わせては、ほぐす動作を繰り返している。跳ねる、動悸。頭の中を、正座した臑から伝わってくる畳の目が、ゆっくりと覆っていく、イメージ。言葉に、ならない。
「・・・ごめん、やっぱり、何でもない」
「そうかい」
「ごめんね」
「いいんだよ、遊弥ちゃんが話したい時話してくれれば、ねぇ」
 老婆はそう言うと、空になった食器を片付け始めた。少し頬を赤くした遊弥が、黙ってそれに倣い、立ち上がる。主人は、少しだけ遊弥の方を見やり、それからいつもの調子で、黙って酒を呷った。

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 三日目も晴天だった。
 大きな浮輪を持った遊弥が、坂道を駆け下りていく。白いTシャツに赤いスカート、ビーチサンダルという出で立ち。Tシャツの下に、スカイブルーの水着が時折透けて見える。
 真っ直ぐ、真っ直ぐ。時折軽快に跳ねながら、駆けていく。振り仰ぐ青天井の彼方には純白のかつぎを纏った雲の嶺が立ち並ぶ。駆け抜ける土塀の向こう側、黒々した林の樹陰には人気も無い。木霊する足音、応じるようにかき消える蝉の声。上気した躯全部が、充ち満ちていく爽快感を味わっている。だから、歩調を緩めることなく、全力で疾走していく。二分ぐらい走ると、家々に遮られていた視界がパッと開ける。潮の香りが押し寄せ、火照った全身を包み込む。自然と、口元に笑みがこぼれる。
 白い砂浜。
 誰もいない、小さな砂浜。
 元来あまり人の立ち寄らぬ島である上、もう海水浴のシーズンは終わろうとしていた。あと一週間もすれば、渚は海月たちの領域になってしまうだろう。浜辺茶屋も閉じてしまった、淋しい砂浜。
 それでも、遊弥にとっては毎年訪れなければならない、懐かしい光景であり、理想的な海のカタチでもあった。
 白砂に踏み込むなり、サンダルを脱ぎ捨てる。誰かが置き忘れた、褪せたビーチパラソルの陰に荷物を置くと、何度も何度も深呼吸した。
「さーて、二日も損してるんだから、取り返すぐらい泳ぐぞぉ」
 準備体操もそこそこに、遊弥はTシャツに手を掛けた。と、その時。

 チリーン・・・。

 視界に、白い物がはためいている。
 羽根? ・・・いや、スカートだ。
 弓の如くに反った砂浜の向こうに、小さな防波堤。その先に、こちらに背を向け、麦藁帽子を押さえて海を眺めているらしい、女の子の姿があった。
 遊弥は風に弄ばれる髪を押さえながら、その子を見ていた。暫く、見ていた。 自然と、歩み始めていた。
 何故だろう?
 どんな娘なのか、もっとよく見てみたかったのかもしれない。何故、一人でポツンと佇んでいるのか、その訳を知りたかったのかもしれない。でも、そんな事は本当はどうでもいいのかもしれない。ただ、遊弥が確かに持っていたのは、何時か、何処かで触れたことのある筈の、微かな予感だった。でも、どうしてそれを持っているのか。
 何故だろう?
 ・・・サンダルを履き直して、ごつごつした岩肌の防波堤に登る。ゆっくり 近づく。と、あちらも遊弥に気付いたようだ。帽子を押さえたまま、こちらを向いた。
 遊弥は・・・

 最初にこの島を訪れたときの、驚嘆と歓喜。

 始まる、また、始まる。

 何処までも続く記憶の風景。

 夢の中でも、決して届かない想い。

 夏が巡る度、掌の汗に浮かぶ憧憬。

 偶然という名の、優しくて無慈悲な南風。

 封印したつもりの、何か・・・・。

 そして、次の自分へと導いてくれる筈の、何か。

 ・・・一瞬の後、我が目を疑った。
 少女は端的に見て、人間ではなかった。十二、三の年頃の子供と何ら変わらない躯を持ちつつ、である。顔の横にあるべき耳が頭の上にのっかっているのだ。そしてそれは、多分誰がどう見ても、猫の耳のように見えるのだった。長い黒髪に、淡いクリーム色の大きな耳。おまけに、白いワンピースの下からも、光を帯びた尻尾・・・そう、それはきっと尻尾なのだろう・・・が揺れていた。
 そんな少女が、風に抱かれながらこちらを見、笑っている。
 遊弥は、言葉を失っていた。茫然としていた。
 今度は逆に、少女の方がつかつかと歩み寄り、円らな漆黒の眼で遊弥をジロジロと見た。そして、ふたたび笑うと、突然遊弥に抱きつき、その胸に顔を埋めた。
 あっ、と小さく息を洩らす遊弥。
 途端に、強い潮風が、二人を包んだ。
 少女の帽子が、宙に舞う。
 何時の間にか、遊弥も少女を抱き返していた。布の感触の向こうから、小さな躯の温もりが、鼓動が伝わってくる。遊弥の目の前で、猫の耳がピクピクと動く。 遊弥は、茫然とした表情のまま、何度も何度も、回した両手に力を込めた。
 ・・・二人の向こう側、穏やかな海を貨物船が行く。そしてその向こうには、 長大な橋が悠然と聳えていた。
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 あなたはどうして、此処にいたの?
 どうして、海を見ていたの?
 あなたはずっと、一人なの?
 ・・・私、みたいに?
 あなたは、夢? 郷愁という鏡から立ち登る、陽炎でしかないの?
 聞きたい事は、無限の砂粒の様に湧き出してくる。
 でも、こわくて、聞けない。
 いつも偶然訪れては、シャボン玉みたいに弾けてしまう、私の幸福。「あなた」の理由を聞いてしまったら、また、失ってしまう。そんな気がして、声を飲み込む。
 あなたが、此処にいる事が。私の腕の中で、ずっと温かい事が。それだけが、現在という楔に繋ぎ止められた、私の全てだから。だから、あなたが何かなんて、私は構わない。この瞬間を凍結して、あなたを、無くさない。もう、失う為の幸せなんて、要らない。
 きっと、何年も何年も掛かって、私の所へ戻ってきて、くれたんだよね。
 私と一緒に、歩いてくれる?
 私と一緒に、願ってくれる?
 言葉を返して、くれないの?
 ・・・それでも、いいよ。
 わたしは、ずっとこうしてる。この一瞬を永遠にして、此処にいるよ。
 そう、きっと、やっと・・・私は本当の夏に巡り逢ったんだ。

 風が、海の吐息が、私達をさらっていく。
 時間が、崩壊していく。

 お願い、これからは、ずっと一緒だよ。
 きっと、だからね。
 きっと。
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 祭。祭が始まる日、実際に祭が始まっていなくても、祭は既に始まっている。祭を前にした気分の昂揚、祭への準備。次第に膨らむ喧噪、耳慣れないが懐かしいお囃子、そして夕暮れ。
 祭が始まると、人々は酔いしれる。
 そして、人々は祭に魅了される。
 そして。

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 人気無い炎暑の島を、二つの夏が駆け抜ける。何の屈託も無い笑顔二つ、明確な影を落として、まるで踊るように、まるで競い合うかのように、歩調を重ね合わせて。そう、あたかも、純白のキャンパスに、青空色の鉛筆を走らせていくかのように。

 テトラポットの上を走る二人。麦藁帽子を被った少女が、重力を無視するかの様に次々と飛び移っていく。遊弥も俊足だが、足元の入り組んだコンクリートと、そこまで打ち寄せる波に、どうしても慎重になる。と、先行する少女の姿がフッと消えた。弘法も筆の誤り、河童の川流れ、いやこの場合は猫に小判か、なんて悠長に考えている暇はない。案の定、隙間に落ちたのだ。
 血相を変えてそこを覗き込むと、少女はコンクリートの突起に腰掛け、絶え間なく上下する海面と、その周辺に群れる小魚達をじっと見ていた。遊弥は一度溜息をつくと、そのテトラポットの空間に響くように、力一杯両手を打った。
 反応は一様だ。魚群は敏感に反応して岩陰に逃げ込み、少女も一瞬肩を震わせた。その後、遊弥に向かって不服そうな表情。プイッと顔を背ける仕草に、遊弥ははにかんで、手を差し延べていた。

 島に一つしかない雑貨屋。ペンキの剥げた冷蔵庫に並ぶジュースの瓶。愛想のいい店主が栓を抜いて渡してくれた。
 両手に二本の瓶を持った遊弥、ニヤリと笑って後ろにいる少女に向かって振り返り、いきなり両頬に押し当てる。少女はまさに飛び上がらんばかりに驚いて、危うくジュースがこぼれそうになる。
 それから近くの神社の鳥居に寄り掛かり、二人で飲みながら、また笑う。少女はこういった味覚が初めてなのか、中身が無くなった後もしつこく瓶を傾けていた。また遊弥にとっても、懐かしい味だった。子供の頃の様に、空の瓶に唇を押し当て、吐息を吹き込むと、客船の汽笛のような、低温の響きが耳を打った。

 老婆の家の勝手口。音を立てないように静かに押し開けて、畑に侵入する。畑の端、物置の軒下には井戸があり、青銅色のポンプから流れ落ちる水は、大きな桶と、その中で冷やされている西瓜に注がれている。
 びしょびしょの西瓜を抱きかかえ、振り向く。
 少し開いた勝手口から、帽子を外した少女が真剣な顔でこちらを見ている。頭の上で猫耳が、二、三度ピクピクとはねる。
 遊弥は背中を母屋の方に向けながら、ゆっくりと歩いた。縁側をチラリと窺うと、老婆は安楽椅子に寄り掛かり、扇風機をつけっぱなしにして昼寝をしていた。
 急いで勝手口を抜け、戦利品を少女に見せる。少女は、食べ物である事は判るらしく、上下左右からまじまじと眺める。あまりに離さないものだから、遊弥はそれを少女に任せ、ついでに少女の特異な耳を隠すように、帽子を被り直させる。そこで尻尾の方を思い出し、取りあえずどうしようもないので、結局気にしないことにした。自分は大きな浮輪を持ち直し、少女を促して歩き始めた。

 島の反対側にある海岸めざして、今度は坂道を登り始める。森の中を行く山道だが、沿道には大きくて古びた別荘やら、山中の段田などが点在するため、きちんと舗装されてはいる。だが、木々に日差しを遮断され、空気が冷たくなってくると、少々薄気味悪く、それでいてまた好奇心を煽る、そんな雰囲気が充満していく。
 水滴のついた蜘蛛の巣、目を凝らすと至る所で蠢いている黒蟻の行列。風に応じてざわめく樹々の声。有機的に結合し、背中を滑り落ちる冷や汗の源になる、一つ一つのオブジェ。
 脇道。アスファルトの途切れる辺りから、森の奥まで沼が湛々と満ちている。ちょっとした物音・・・そう、小さな足音に反応して、何かが水面ではね、大きな波紋が広がっていく。それが何者なのかは、決して判らない。判らないからこそ、何かの存在、棲息が、不気味な説得力でもって示されている。
 足早にそこを立ち去ると、今度は、常緑樹を左右に従えた小さな社が現れる。が、何らかの建物がある訳ではない。小さな鳥居があり、その向こうに、何の変哲もない一つの花崗岩が祭られていた。ただ、誰が御世話しているのか、陰湿な場所にありながら、苔一つ付いておらず、樹々の天蓋の隙間から漏れた光芒が当たって、柔らかい輝きを溜めていた。初めて見た場所ではなかったが、遊弥はその光景の新鮮さに足を止めた。膝を着き、手を合わせる。
 少女は不思議そうに、その様子を眺めていた。
 ・・・それにしても、その場所には五感を刺激する豊潤な情報が満ち満ちていた。街で生活している時には、森の色が無限に近い種類の緑で構成されている事を、思い出したりするだろうか。日陰に差し込む光の暖かさを、人の躯はずっと記憶していられるのか。アスファルトの上を沢蟹の群が横断する。湧き水のせせらぎ。つけっぱなしの誘蛾灯に何千という虫が密集する。いや、それらを一つ一つに分けて理解するのも、無意味な事だろう。当たり前の環境が
崩壊してから現出する、当たり前の世界の中央。
 ようやく坂道が下降線を辿り始めた頃、鬱蒼とした森の切れ目から、再び紺碧に近い色の空と海が見えた。そちらからの風に誘われるように、どちらからともなくまた、駆け出していく。下り坂が、二人の背中を押す。

 遊弥の目的地は、砂浜ではなかった。
 小さな港を横切り、岩場へと足を踏み入れる。砂浜と違い、磯には多種多様な生物がそこかしこに暮らしていた。遊弥と少女が通り過ぎると、磯陰では海牛が揺れ、イソギンチャクが触手を引っ込める。安全な場所へ逃げ込む小魚や蟹に、一瞬目を奪われる。
 大きな荷物と小さな足場に苦労しつつ、岩場を慎重に越えていく。少女も西瓜を大事そうに抱えながら、器用にバランスを取りつつ、足を運ぶ。
 ちょっとした悪戦苦闘の末に岩場を越え、夥しく群生する藤壷を気にしながら、小さな岩のトンネルを抜けた。するとそこは、さながら秘密基地と呼ぶにふさわしい、自然のドームだった。
 天井は何処までも高い青空、そして流れていく積雲の城。周囲三百六十度を岩肌に囲まれ、外海から此処を見ることは出来ない。直径二十メートル程のドームに打ち寄せる波音が反響する。狭くはあるが、真白な砂浜もある。波は横穴から流れ込むようだ。絶え間なく砂を洗う潮は、文字とも思える波跡を残しては消えていく。遊弥は砂浜に飛び降りると、もどかしいようにサンダルを脱ぎ捨てる。それまで砂浜の周囲の岩に張り付いていた数多の船虫達が、突然の侵入者に慌て、蜘蛛の子を散らすように海に岩陰に逃げてしまう。まるでそれを追うかのように、遊弥は服を脱ぎ捨て、水着姿になって海に飛び込んだ。
 綺麗なフォームのクロールで泳ぎ、あっというまにドームの端まで辿り着く。両端で大きく水をかき、立ち泳ぎをしながら、反響する声で少女に呼び掛けた。
 突っ立っていた少女はきょとんとして遊弥の方を見ていたが、やがて帽子を取り、西瓜を丁寧に砂の上に据えると、ワンピースを下からたくし上げ、一気に全部脱いだ。
 遊弥が一瞬、息を呑む。
 少女は耳と尻尾を除くと、人間となんら変わり無い、生まれたままの姿でゆっくり海に入った。そして、大きく息を吸うと水中に没し、暫くしてから遊弥の横に現れた。岩肌に手を掛け、大きく息をつく。肩にまとわりつく黒髪。水を弾く大きな耳。頬を赤らめてはにかむ・・・総ての仕草に、遊弥の鼓動は軽く弾み早鐘を打ち始める。同性が見ても引き込まれる程の可愛らしさ。手を伸ばして抱き締めたい衝動に駆られている自分に、気付く。
 ほのかな朱に染まった頬を隠すように、遊弥が海中に潜行する。追うかのように、少女が再び泳ぎ始める。水中で指と指、影と陰が交錯し、水をかく手が生み出す水泡が、吐息のそれと混じり合い、一緒になって揺らめく陽光へと向かう。光が、碧が、黒が、白が、二人を取り巻く総ての色の要素が、化合して意味を失っていく。その中で、二人は飽きる事無くじゃれ合い続けていた。

 夕暮れ。
 ドームのような形状を持つ場所なので、西の空へ帰還する太陽の姿は早くも消えかかり、ゴツゴツした岩壁に囲まれたそこは、海面も含めて大部分が、暗い蔭に隠れてしまっていた。影の縁になる白砂には、割られて厚い皮だけになった西瓜が無造作に置かれ、満ちてきた潮に二度三度と洗われている。影に入っていない岩肌は、元来錆びた鉄のように赤味がかった部分もそうでない所も皆、平等にオレンジ色の洗礼を受けていた。そしてその一角に、服を着た二人が座していた。
 膝を抱えた少女を、遊弥が背後からしっかり抱き締めていた。少女の細い肩に顎を乗せ、独白するように呟き続けている。
「・・・・・・・私、泳ぐのが上手な猫、初めて見たよ・・・・・・普通、猫って濡れるの嫌いな筈なんだけどね・・・・・」
 音を立てずに、フフフと笑う。
 少女の麦藁帽子が、突き出した岩にひっかって揺れている。時折吹き通る心地よい風が、幾分肌寒さを纏って、少女の大きな耳を撫でている。
 右手を砂地に降ろして、砂をなぞる。水分を帯びた、ざらざらと柔らかい感触。瞬時に思い出す。この心地よい記憶は、ずっと変わらないまま、「私」のなかにいる。それをまた、確認する。
「・・・・・・夢の中を生きるって、こんな感じ、なのかな。時間がね、止まっちゃってるんだ・・・・あなたと、逢ってから。もうずっとね、ずっと今まで、こうして生きてきたんじゃないかって・・・・・」
 夕日色の世界にあって尚、綿のように白い少女のうなじに、遊弥の髪が掛かる。肌が重なり合うと、躯に浴びた潮がネトつき、しっとりと熱を帯びていく。
 遊弥は目を細め、ゆっくりと、躊躇うように言った。
「・・・・・私、ずっと・・・・・ずっと、ここにいようかな・・・・・だって、私・・・・・・」
 続く言葉を、遊弥は継げなかった。少女が遊弥の腕を優しく振りほどくと、立ち上がった。 
「どうしたの?」
 遊弥の問いにも少女は答える兆しさえなく、歩いていく。答えを風に返すかのように薄暮の空を一度仰ぎ見ると、そのまま岩のトンネルへと消えた。
 たかだか、一分も立っていない。だが、刻は流れている。確実に。
「あ・・・・・」
 茫然と立ち上がった遊弥は、今自分が発した言葉の意味も把握できないでいた。驚きと空白とが、頭の中を埋め尽くしていく。次第に強くなる風は、今はっきりと冷たい。あの麦藁帽子が、遊弥の足許で静かに揺れていた。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 祭が始まると、人々は酔いしれる。
 そして、人々は祭に魅了される。
 そして・・・人々は、祭が終わるという事を、忘れる。
 それでも。
 祭は、終わる。
 終わって、しまう。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

「ただいま」
 広い玄関に元気の無い声が響いたのは、陽もとっぷり暮れた頃だった。出迎えた老婆がそこで見たのは、大きな浮輪とサンダルを右手に持ち、泥だらけの裸足のまま立ち尽くしている遊弥の姿だった。何を考えるといった風でもなく、じっと足元を見ているらしい。
「遅かったねぇ、遊弥ちゃん」
「・・・・・ちょっと、はしゃぎ過ぎちゃって。あちこち走り回ってたから」
「そうかい」
 老婆はふと、遊弥が後ろ手に、小さな麦藁帽子を持っているのに気付いた。いくら小柄とはいえ、遊弥が被るには小さすぎる。視線を上げて、湿った髪で隠された娘の表情を、もう一度窺う。 
「・・・・そのなりじゃ、かわいい姿がだいなしだよ。すぐに風呂使いな。泥をよく落としてから行きな、もう沸いてるからさ」
「・・・・・・ありがと、おばさん」
 遊弥は機械的に身繕いを始めた。
 老婆はそれ以上何も言わず、炊事場の方へ消えた。

 狭い風呂だった。無数の傷が入ったステンレスの浴槽に浸かると、小柄な体躯の遊弥でさえ、窮屈に思われた。
 水面に天井の白熱灯が映っている。昼間の海面に輝いていた太陽・・・そんな事をぼんやりと想起してしまう。別に、思い出したくないのに。
 そういえば、最後の、あの子の顔、なんだか少し淋しそうだった、のかな。
 早々に記憶が、霞掛かっていくのが判る。
 また、いつもと同じ、なのかな。
 上気した頬を伝って、水滴が水面に落ち、波紋を広げていく。
 ・・・あれから、島を走り回って、少女を狂ったように探した。出会った 時と同様、消えた理由なんて無いのかもしれない。それとも、やっぱりあの猫娘は、盛夏の幻だったのかもしれない。否定的な予想が幾つも脳裡をかすめる中、遊弥は必死に走り続けた。
 結果はやはり、否だった。
 日常生活において、どんな苦境に立たされていても、こんなに疲弊することはなかった。心にポッカリと穴が開くという表現が、適切に援用されるべき状態だった。
 顎を伝う雫がまた、水面を打つ。二度、三度。
 それが湯気なのか、それともそれ以外なのか。確認するのが怖かった。指一本動かしたくはなかったが、何度も何度も湯をすくい、顔にぶつけた。何度も、何度も。

「おばさん、風呂空いたよ」
「そうかい」
「ちょっと、電話借りていい? 明日戻るんで、弟のとこに連絡しとかないと」
「いいよ」
 力無い足音が廊下を軋ませてやって来た。電話台の前に立つ。そこで、動かなくなる。電話台には前年までの黒いダイヤル式の電話ではなく、留守番機能付のプッシュホンだった。
 座敷の方から老婆の声が飛んでくる。
「ああ、その電話ねぇ。こないだ知り合いが来た時に、置いていったんだよ。そんなハイカラなもの、使うことは無いって言ったんだけど、折角くれるって言うし、ねぇ」
 遊弥は、電話機を見ていた。まだ。
「どうした、遊弥ちゃん」
「・・・・・私の部屋の電話に、似てるなって思って」
 遊弥は無意識に、浴衣の襟元を合わせ直していた。あの古めいた柱時計が、錆びた音色で、ゆっくりと八つ刻を打った。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 トゥルルルルル。トゥルルルルル。
 ガチャ。
『はい、遠藤です。只今呼び出しておりますので、暫くお待ち下さい』
「・・・・・・・・・」
 オルゴールが有名なポップスのフレーズを流している。一度、曲が流れきるのに、約十秒。またリピート。
「・・・・・・・・・」
 三十回ぐらい聴いたろうか。
 ガチャ。
 あちらが受話器を取った。
「・・・・もしもし、裕明? 私、遊弥だけど・・・・」
 プツッ。
 ツー。ツー。ツー。ツー。ツー・・・・・。
 受話器を持った手が、凍り付いていた。

『・・・じゃ、遊弥そいつと別れたんだ。ほんっと、災難だったね』
「ううん、わたしも悪かったし。それにさ、いま思うとね、なんかビョーキに罹ってたみたいだったんだ、きっと」
 違う。そんなんじゃ、決してない。
『そーよ。もっと早くに別れるべきだったんだって。恋愛なんてむやみに傷つくってまでするもんでもないよ。人の心なんて、ほんっと移ろい易いもの、でしょ?』
「そだよね。なんか、みどりってばさとってる」
 何処にでも溢れてる陳腐な言葉。バカな追従。嫌な私。
『それよか、就職の事どうするの? 仲間内で決まってないの、アンタぐらいだってのに、なんかのんびりとしちゃってさ』
「だいじょぶ、大丈夫。なんとかなるって」
『そりゃ、遊弥のことだもん、誰も心配なんかしないわよ。でもね、遊弥っていつも一人でなんか抱え込む時、あるじゃない?』
「・・・・・・・」
『人に弱みを晒すことが出来るのも、ありだって。強がってるばかりじゃ、いつか折れちゃうんだから。強そうな人は特にね』
「・・・これは、何かの陰謀だな」
『へっ? 何が?』
「あのみどりが、ここまで真面目なことを言うとは・・・いくら貰った?」
『ほぉらぁ、そうやってまた茶化すぅ』

 やっぱり電話は、好きじゃない。嫌な思い出が多過ぎるから。

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 柱時計が、九つ刻を打った。
 老婆が廊下に出る。と、電話台の脇で、遊弥が蹲っている。膝を抱えて、顔を伏せて眠っている。
「こんな所で寝たら、風邪ひくよぉ、遊弥ちゃん?」
 少し揺さぶってみても、起きそうにない。右手には、あのくすんだ紅色の風車がしっかりと握られている。乱れた髪が掛かるその顔には、微かに歪み。苦い夢路を旅する遊弥を思って、老婆は大きな溜息をついた。

 チリン。チリーン。

 風鈴が鳴っている。
 目を開けると、暗い天井が微かに見えた。仄かに香る、畳の匂い。
 ゆっくりと起き上がる。自分は客室で布団に入っていた。また老夫妻に迷惑を掛けてしまったらしい。腕時計を見ようとして、付けていないことに気付く。子の島に来てから、幾度同じ誤りをしたことか。私はそんなもの、忘れる為に、此処に来た筈だったのに。
 遊弥は本当に泣き出しそうになって、掛け布団を乱暴に被った。

 チリーン。チリーン。

 風鈴が鳴っている。
 遊弥は、ふと耳をそばだてた。何かが、気になる。何故だろう?
 もう一度、上体を起こし、全身で何かを感じようとするかのように、躯を強張らせる。暗闇に、次第に目が慣れていく。何処からか入ってくる隙間風が、静寂を纏ったまま、遊弥の髪を揺らす。

 チリーン。
 あるいは、少女の囁き。クスクス。

 遊弥は跳ね起きた。浴衣を脱ぎ捨て、鞄から引っぱり出した服に躯を突っ込む。乱暴に障子を開け放ち、瞬時に玄関を飛び出す。
 家の付近に街灯はない。ただそのかわりに、本来の夜の守護者、満天の星空が煌々と輝いている。海からの風が、竹林の腕を擦り合わせ、川の流れ行くかのような乾いた音を絶え間なく響かせている。
 遊弥は裸足のまま路面に飛び出し、それからサンダルを履いた。もう片方の手には、あの麦藁帽子。大きく肩で息をして、周囲を見回す。ガサッ。物音を察して、俊敏に反応する。誰もいない。いない。落ちついてから、肩を落とす。道路に背を向け、帰ろうとした。

 チリーン。

 母屋の方で、また風鈴が鳴った。
 遊弥はゆっくりと顔を上げ、ゆっくりと振り返った。
 昼間と同じように、人懐っこい笑みを浮かべて、少女は道の中央に立っていた。スカートから伸びる尻尾が、夜風の仕業か少女の意志か、柔らかく左右に揺れている。
 遊弥はまた、空白が頭を占領していくように思われた。だが今回は、状況がそれを許さなかった。少女はくるりと回れ右をして、軽快に歩き始めた。勿論、遊弥も今度は見失うわけにはいかない。頭を振って我を取り戻すと、少女の後を追い始めた。

 こうして、夜半の行軍が始まった。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 少女は道を逸れ、森の中、獣道を歩き始めた。遊弥もそれに続く。前方をいく少女の先に明かりは皆無で、また遊弥の辿っていた道も、森に溶け込み消失していた。必然的に、遊弥にはもう、少女を追うという選択肢しか残されていない。おまけに、斜面はいよいよ峻険さを増し、足場は悪く、時折雑草の葉が向臑に切り傷を付けた。
 いったいどのくらい歩いたのか、遊弥自身判らなくなっていた。とにかく、永い時間だ。ただ疲労が、全身をあてどもなく循環し続けている。時折、自分がしている事を、把握出来なくなりかけてしまう。その度、歯を食いしばって自我を奮い起こす。
 少女はといえば、まるで平地でも歩くかのように、平然と歩みを進める。繁茂した草むらで鳴く蟋蟀が、二人の足音に応じて営みを止めた。静けさが、獣道を発端に、徐々に拡大していく。
 坂が、幾分緩やかになった。
 その為か、あるいは静寂に耐えられなくなったのか・・・暫くの後、遊弥が歩きながら、ぽつぽつと呟き始めた。
「・・・・・答えてくれなくてもいいから、判ってくれなくてもいいから、私の話、聞いてくれるかな」
 当然、返事は無い。遊弥は続けた。
「・・・・父さんが死んだ時はね、意味が判らなかったんだ。小さすぎて。でもね、冷たくなった父さんに触れてみて、なんだか、何かが抜け落ちたような、そんな気がしてた。父さんがいなくなって私はね、頑張ろうと思ったの。だって、母さんが一人で私と弟の面倒を必死でみていたもの。どんなに辛くても、母さんは弱さを見せなかったし、何より優しかった。私は、目的の無いまま、将来の夢も希望も気にしないで、三人で生きていくことに全力だった。母さんだけには、迷惑を掛けたくなかった。それが当然だと思ってた。
「物心ついた時にはそうやって生きていた。だから、京香のお父さんが最初にこの島に連れて来てくれると言ってくれた時、断ろうと思ってたんだ。一人だけ楽しい思いしちゃダメだと、思ってね。でも、母さんは私に、出掛ける事を勧めてくれた。あの、いつもの笑顔で。
「初めての訪問で、私の、それまでの人生観がぐらついた。だって、頑張らなくても楽しいことが、そこにあったから。最高の夏だった。偶然を発見する度、幸福と祝福が押し寄せてきた。心配がいらない世界。私は家の事を半分本気で忘れる程、夢中になった。本当に楽しかった・・・ あんな事が起きるまでは」
 遊弥は目を細め、暗い櫟の幹を掴んだ掌に力を込めた。
 廃寺の墓標の記憶がインサートされる。
「・・・・・この島でも、私は突然の死を経験したの。そして、思い出した。私は、楽しんでいてはいけない。私は頑張って、生きていなければならない。向こうから幸せはやってこない。だから・・・私は泣くのを止めようと思った」
 皮肉そうに微笑みを浮かべる。
「でもね・・・・・この島は、何時だって私を誘惑してた。心の中にね、蜃気楼みたいにふわっと湧き上がるんだ。もっと楽しい、素晴らしい事が待ち構えているんじゃないかって。何時の頃からか、私の中で、偶然の出会いを求めて止まないもう一人の幼い私が待ちぼうけしてたんだ」
 坂道がまた急勾配になり始めた。息が荒くなる。
「そんな、カタチにならない熱望を抱え込んだまま、私は毎年この島を訪れるようになっていた。何年か後に京香のお婆さんが亡くなって、京香の家族が此処に来なくなってからも、私は、この夏の中央にいた。最初の年に知り合ったおばさんとおじさんが、滞在をいつも快く勧めてくれたから。赤の他人なのに、いつでも笑顔で迎えてくれるんだ。母さんは、年に一度の事だからって、甘えた私の言葉を頷き続けてくれた。でも・・・・・もう、それがただの避暑じゃなくなってたなんて、母さんに判る分けないよね。
「本当はね、私だって判ってるんだ。こんな所に来ても、乾いた街を彷徨っていても、本当は何も変わらない。自分が、一つ一つ辛い決断をして、後悔して、希望を持って、挫折して、そうやって喜びを掴むんだって。逃げてるのに、言い訳は要らない。・・・・・そう、その通りだった。でもね、私は勝てなかった。いつしか、私はこの夏の島を切望するようになっていた。夏が終わる度、その想いは強くなった。きっと、この島には、幼い頃封印した自分の分身、真実の自分がいて、夏の間だけ、本来の姿に戻れるんだって」
 歩調が鈍くなっているのがよく解る。声に自嘲が篭もっていく。
「家族三人で、頑張って生きていくことは、それでも私の中の不文律だった。実際、私にはそれしか無かった。でも、あの風鈴の鳴り響く、虚ろな夏の幻を目指して歩く、私もいる。そしてそれは、少しずつ大きくなっていったんだ。
「それがね・・・・・大学に入ってから母さんが死んで、弟が自活を始め、あっという間に結婚しちゃった時、それまで必死に頑張ってきた自分の根拠が、突然無くなっちゃった。これからは自分のために生きていけばいいんだって、ようやく気付いたんだ。でも、私は頑張る生き方しかできないから・・・それでも頑張ろうとして、一人で空回りして・・・・おかしいよね。
「信じられないぐらい荒れて、できもしない恋に焦がれて、騙されて、それでも周囲に弱みだけは見せなくて、ただ時間だけが過ぎてく。ひがな一日何もできなくて、カーテンの色が変わるくらい煙草を吸ってさ。でも心は焦ってばかり。暗い部屋で私は、何度も、何度も自分に幻滅した。ずっと変わらないものなんて絶対存在しないって、嫌になる程納得させられているのに、此処にくれば、永遠にあの私がいるなんて、そんな儚い妄想にすがって生きる私に、幻滅した。本当に、最低だと思った。本当に、嫌いなんだ、自分が!」
 そう言い放って、手近な幹を拳で打つ。
 その拍子に、ぬかるむ泥に足を取られ、ひっくり返った。転倒し、何メートルか転げ落ちる。
 前方をいく少女の影が止まる。
 遊弥は木の幹に躯を預け、肩を押さえて立ち上がった。
「本当はね・・・・今年は来るの、やめようと思ったんだ。きっと、わたしはまた、仕方のない甘えを繰り返すだけだから。でも、日差しが強くなるにつれて、夏の魔力は確実に私を捉えてしまった。そして・・・・・・こんな私なのに、それでもこの島、この風は今年もいつもどうり、優しく私を迎えてくれた」
 遊弥は、終わり無き山道を見上げる。少女は前進を再開したようだ。強く打ったのか、躯のあちこちが痛む。それでも、苦痛を堪えて、努めて明るい声を出す。
「あなたに出会って、一瞬だけ、あの懐かしい子供の頃の記憶を、取り戻せたような気がしたの。何も心配しないで、時間を気にしないで、過ごすことが出来た。それが何故かは解らない。いつもの幻想なのかもしれない。でもね、この感覚を明日に忘れてしまうとしても、私は、嬉しかった」
 一歩一歩、確認するように、土を踏み、張りだした根に足を掛ける。
「明日、家に帰ることにしたんだ。・・・・・おばさんの家に住もうなんて、やっぱり気の迷いだって、自信は無いけど、そう思ったんだ。だって、だって・・・・・・・・」
 歩調が早くなる。
「だって私、負けたくない。負けたくないの! あの小さな、幸せな自分に憧れながら生きていくのは、もう嫌なの! 自分で、納得のいく生き方がしたい。あの自分に、笑い返せるぐらい幸せになりたい。だから、また迷走を繰り返すとしても、頑張って頑張って、そうやって生きていきたい! そうでないと、私・・・私を永遠に捕まえられないから!」
 少女が立ち止まった。普段は絶対口にしない激情の奔流に押し流されるように、遊弥は一気に道を駆け登った。
「私、あなたの思い出と一緒に、これからも頑張っていけるから! だから!」
 そして、少女の脇に立った時・・・
 絶句した。
 森は途切れていた。遊弥と少女は、切り立った崖の先にいた。眼下には、数十メートルはあろうかという断崖から、水平線まで、黒い海原が広がっている。そこには島々も点在していない。ただ、悠然として広がる海、それだけ。穏やかにうねる水面は、蒼い星空の鏡のように、きらきら輝いている。そしてその星空は、全天球を光輝で埋め尽くし、中央には一際強く流れゆく天の川が、立ち昇る成龍のように世界を威圧している。それは、圧倒的な光景だった。
 魂を抜かれたかのように茫然とする遊弥の手から、そっと麦藁帽子を取ると、少女はそれを被り、それからゆっくりと崖の向こうに足を踏み出す。勿論、足場は存在しない。が、少女はフワリと立った。空中に立った。そして、遊弥に向かって、微笑んで、手を差し伸べる。
 遊弥は、もはや人知を越えた光景に、唯一人言葉も無く、夢魔に誘われるかの如くに、少女の小さな手に手を重ねた。ゆっくりと、遊弥の躯が浮かび始める。何処までも高く、上昇を始める。島が、海が遠のく。地球を、世界の果てを越えていく。
 少女は優しく、胸元に遊弥の顔を抱き寄せた。悦びの顔、更に崩れて、遊弥の頬を一粒、涙がこぼれ落ちる。それはやがて、周囲を取り巻く星星の眷族に加わった。
 二人を取り巻くのは、穏やかに見守る星達の囁きだけ。心配も抑制も、もう二人を邪魔することはない。
 少女の鼓動を全身で感じながら、乳白色に濁っていく意識の中で、遊弥はようやく思った。

 そう、今、この瞬間だけは、言葉は要らない。
 この暖かさだけを忘れずに、生きていけたら、それでいい、と。
 だから、このまま・・・。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 強い日差しの中、遊弥は右手で直射日光を遮りつつ立っていた。目の前には放置され朽ち果てた軽トラックが一台。嘗ては荷台に子供達の夏を運び、島中を疾駆したであろうその姿は見る影もなくぼろぼろに錆び付き、赤茶けたホイールにはタイヤがついていない。塗装の剥げた車体には、蝉の抜け殻が落ちずに残っている。永い永い夢を見た後、大人になった蝉は、その短い大人の時間で、広大な大人の世界で、一体何を見たのだろう。いや、子供の夢と大人の現実、その子にとって、どちらが幸せだったのだろう。遊弥は、ふと考えていた。
 背後で、炎の音がする。パチパチ。
 用水路の脇で、刈られた雑草の山が、焚き火にくべられていた。乾燥した茶色の草は、炎の舌に舐められる毎、赤い命を燃やして灰へと変わっていく。
 近寄って、腰を下ろす。日光とは違う、這い回る熱が、肌を舐め回る。
 何となく、あの少女を思い浮かべる。猫のように無邪気で、気まぐれで、かわいかった、猫娘。あの子は・・・逢っていた時、不思議にも気付かなかったのだが、遊弥は彼女を知っていた。知らない筈は無かった。
 そう・・・彼女の姿は、最初にこの島に来た時の遊弥自身の姿だった。そういう、幻だったのか。
 何故、気付かなかったのだろう。
 左手に持っていた、鈍い赤の風車を眼前に差し出す。風は無く、回っていない。
 すっと、目を細める。
 でも、蝉の微睡み続ける夏は終わったのだ。少なくとも、私の夏は。
 ・・・一瞬の後、風車を火中へ投じる。すぐに呑まれ、他の灰と見分けがつかなくなる。
「遊弥ちゃん」
 振り向くと、遊弥の荷物を持った老婆が立っていた。
「そろそろ船が着く時間だから」
「・・・・・ありがと、おばさん」
「例によって、見送りにはいかないよ。あたしも歳だからね、泣いちまうかもしれない。火も見とかないとね」
「そうだね」
 淡泊な会話だな。遊弥は荷物を抱きながらそう思っていた。ただ、何を口にすればよいのか、いつもにも増してよく解らない。
 と、普段は目を伏せがちに喋る老婆が、真っ直ぐ遊弥の瞳を見て、優しく呟いた。
「・・・・・・・もしも、遊弥ちゃんが、本当に此処で生きていく決心がついたんなら、夏だけじゃなく年中この島を愛していけると思ったんだったら、いつでも帰っておいで。あたしも旦那も、ずっと待ってるからね」
 予期せぬ言葉に戸惑う。目の前の、皺だらけの笑顔が滲む。我慢出来ず、顔をくしゃくしゃにして老婆を強く抱き締めた。
「・・・・ありがと・・・・ありがとう、おばさん・・・・・」
「ああ」
「・・・・・きっとまた、戻ってくるから・・・・・」
 油蝉の鳴き声が強くなる中、二人は暫くそうしていた。

 フェリーは訪問時と同様、様々な車種で鮨詰めになりつつあった。誘導員が大声で整理しているのを横目で見つつ、タラップを渡る。
 甲板に上がると、駆け回る子供達とすれ違がった。その様子を見ながら、潮風に吹かれる髪を掻き上げて、微笑みを浮かべる。と、見知った顔を見つけた。行きの船であったあの姉弟だ。あちらもほぼ同時に気付いたらしい。遊弥の方へ駆け寄ってくる。
「こんにちは」と姉弟。
「こんにちは。また会えたね。海の家はどうだった?」
「すんごく楽しかった! あのね、キャンプファイヤーとか、花火とか、海水浴とか、本当にたくさん、たくさん遊んだんだよ」
 身振りを交え、勢いづいて言葉を並べる姉。表情がころころ変わって忙しい。それが一段落ついたところで、今度は大人しい弟が言葉を紡いだ。
「あの・・・」
「ん? なぁに?」
「お姉ちゃんは、たのしかった?」
「ええ、モチロン。いろんな事ありすぎて、言葉に出来ないくらい」
「そう・・・・・?」
 何か失礼な事を言うと思ったのだろう、姉が弟をたしなめる。
 遊弥が軽く手を振る。
「別に構わないよ? 何々、言ってみてよ」
 弟が躊躇いがちに、そして怪訝そうに言った。
「お姉ちゃん、行くときと同じ、さみしそうな顔してる」
「えっ」
 遊弥は虚を突かれた。
「そう・・・・見える?」
 弟は、素直に頷く。姉が、遊弥の心境が変化したのを見てとり狼狽した。
「おねえちゃんをこまらせちゃ、だめっ」
「だって・・・・」
「ううん、いいんだよ。怒らないで・・・・私も、そう思うから」
 最後の方は、自分に言い聞かせるように、微かに呟いた。
 すまなさそうにしている姉弟をなだめ、後の再会を約束してから、キャビンに入った。多い空席の一つに、小さく腰を下ろす。
 意外な言葉は、少し衝撃だった。子供は感じとりやすい生き物だと理解しているものの、正確に遊弥の心境を言い当てられ、正直寂しくなった。
 結局、何も変わりはしない。ただ、頑張るだけなんだ。
 右手を軽く握りしめて、開く。
 静かに、目を閉じる。もう、風が吹くこともない。

 チリーン。

 幻が聞こえる。未練はあるが、振り切れるもの。私はもう、いつもの私。

 チリン。チリーン。

 だめだ、もう考えてはダメ。私は帰るの。夏以外の季節に。

 チリーン。

 呼んでる。それでも、私を呼んでる。
 遊弥は目を開けた。断続的に聞こえ続ける、あの風鈴の音。
 耳を塞いだって関係ない。何かを呼び覚ます、大切な音色。
 この島といつもある、澄んだ青銅の響き。
 どうして、鳴り続けるのだろう。どうして、鳴り止まないのだろう。
 耐えられなくなって・・・或いは誘い出されるように、遊弥は甲板へ出た。
 船上と桟橋、双方で出向の準備に慌ただしくなっている。デッキから見おろすと、見送りの人々がまばらに立ち並び、係員がタラップを収納しようとしている。
 唐突に、強い潮風が吹いた。少し煽られて、遊弥は手摺にしがみつく。

 チリーン。

 そして、遊弥は見た。
 立ち並ぶ人々のはずれに、空気のように、そっといる。
 南風に、吹かれてはためく、白いワンピース。麦藁帽子に顔は隠れているが、見間違えようがない。たなびく長い黒髪。胸に当てられた小さな右手には深紅の、新鮮な赤の風車。五感総てがあの感覚を、もう一度・・・もう一度、繰り返す。
 この世界すべてが、遊弥の躯全体に還ってくる。
 風車が、勢いよく回る。
 出航の銅鑼が鳴り響く。
 フェリーが、高らかに汽笛を鳴らす。
 少女が、こちらを向き始める。
 そして、遊弥は・・・。
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 初めての、夏の記憶。
 歓喜を満喫し、この時間を永久に自分のものにしたいと心の底から祈念した、あの夏。
 私は、私達はおばさんと知り合った。見ず知らずの私達を、おばさんは、まるで孫のように可愛がってくれた。私達は、色々と面倒を見て貰ったお礼に、島に来ていた行商のお爺さんから、かわいい風鈴をお金を出し合って買い求め、おばさんにプレゼントした。七羽の小鳥が羽根を打ち鳴らして澄んだ歌声を上げる、そんな素敵な風鈴。
 それをおばさんの家の軒先に釣り提げたとき、永い幻惑は始まった。

 この夏はやっぱり、偶然から始まったのだから。
 きっと私はこれからも、迷走して生きていくのだろう。
 頑張っていく自信は、ある。もう負けたくない。でも、この島、この清冽な青空に夢を描く力のない私はきっと、私じゃないから。矛盾する二つの私を抱えて、私は生きていく。
 それがきっと、私そのもの。そう、思う。
 あの子との出会いは、私を大きな鏡の前に立たせてくれたんだ。
 だからやっと、今ならなら解る。
 風鈴が鳴る度に、私は思い出す。

 そう・・・風鈴はずっと鳴り続けるんだって、事を。
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 何処をどう走ったのだろう。もう、覚えていない。
 遊弥は荒い息を吐き、膝に手をついていた。
 廃寺の片隅、小さな墓の前。
 樹々の間を行く風が、遊弥の短髪を揺らす。
 一時そうしていたが、やがて墓を、その向こうに揺らめく何かを見据えて、遊弥は静かに語り掛けた。
「お別れ、言いに来たよ」
 少し強い風が吹く。
「・・・・・あなたは、あの猫の生まれ変わりでも、幼かった私の幻影でも、増して私の幻想の産物でもない。この夏、この島にいた、一人のあなた、私の大事な友達、なんだから」
 すっくと立ち、頭を巡らす。そこには、胸の前で麦藁帽子を抱いて、大きな猫耳をピクピクさせながら、少女がこちらを見ながら立っている。その顔には、今まで見たことのない、素朴で自然な喜びが溢れていた。昨晩・・・あるいは遥か未来か、遠い過去か・・・少女がそうしたように、遊弥は胸元で少女を抱いた。
「大事な、沢山の思い出をありがとう。私、今この瞬間、此処にいられたことを、今までで一番、本当に嬉しく思ってるんだ・・・・だから、きっと」
 遊弥は、鮮やかな緑の葉の隙間から落ちてくる夏の青空へと視線を投げた。
「きっと、いつも夏を探すよ。もう届かなくなっても、日常生活の中に迷い消えてしまうかもしれないけど、それでも、きっと。

「ずっと、あなたを探すよ。

「また、見つけだすよ。

「・・・・・・だから、今は」

 そう、風鈴は鳴り続けるのだ。
 だから、今は。

「だから、今は・・・・・さよなら」

                                            ー おわり ー

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