手紙 〜あるいは、白翼戦記エルマラーク 外伝〜



 ……涼しげな風が吹き、真白なレースのカーテンが揺れて、机の上に開いたまま放置されている分厚い本のページをいくらか捲った。高原の風はやや冷たいが爽快で、初夏の陽光は優しく心地よい。その場にいる者を夢の中へ誘うには十分すぎる条件だった。
 豪奢とまではいえないとしても、庶民一般が客をもてなすには不必要なほど整った部屋だ。鈍い光沢を放つ調度品。壁に掛けられた有名な画家の風景画、部屋一面に敷かれた赤い絨毯、等々。だがもし初めてこの部屋を尋ねる者がいるならば、彼が一番最初に驚くことは、この部屋―――そしてこの部屋を含めた広大な屋敷の主が、眼前の大きすぎるベッドに物憂げに転がっている一人の少年であるということ、だろう。
 年の頃、十五歳ぐらいだろうか。顔は少し丸く童顔で、体は華奢というより、貧弱なまでに痩せている。簡素なものとはいえ、貴族の纏う衣を身に着けてはいるが、あまりに似合っていない。むしろ違和感だけがまとわりついているかのようだ。 風がまた吹き、彼の黒髪を揺らすと、彼は閉じていた瞳をゆっくりと開き、テーブルの上に置いてある手紙の方へ視線を投げた。
 風が吹き、
 ……その手紙がふっと空中に舞い、ぱらぱらと秩序を失って床に落ちた。
 少年はそれを拾うでもなく、ゆっくりと視線を天井に向ける。
 風の音に混じって、微かに鳥の囀りが聞こえた、ような気がした。
 ――幻聴か? 或いはそれは、汽車の警笛ではなかったのか?
「……エルマラーク、か」
 ふと、少年の口から、そんな言葉が洩れた。


『親愛なるギリイニム・クォス・メリリーム公太子殿下へ
    少しばかりの忠告を含めて


 先日行った最後の講義に於いて、貴方が私に対して疑問を呈した非常に難解な質問―――すなわち、「英雄」という存在は人民にとって必要か、不必要かという命題に、己の思惟によって少しでも爪を立てることが出来たでしょうか? あの時、私が貴方にこの問いをそのまま突き返したのは、貴方が安易な解答を欲しており、それはすなわち、貴方自身がこの問いに対する逃避の姿勢を示していると感じたからです。物事を見聞してそれに疑問を抱く者は、その問いに関してあくまでも真摯な立場を貫き、首尾一貫した知的欲求を抱き続けなければなりません。解答は次の疑問の扉としてしか存在してはならず、そこに落着を画策する者はもはや、言葉を弄する権利を失うことになるでしょう。
 共感によって感情を慮れば、貴方の望みを類推することは用意です。しかし貴方が生まれながらにして王族という、外見上「英雄」として望まれる立場にあることが、その言い訳としてまかり通るわけではありません。たとえ貴方がそれ自体に負の感情を抱いているとしても、です。だからこそ、私への質問により、また私の安易な解答によって自分の満たされぬ欠如を埋めようとしてはならないでしょう。古来より教師とは、答えを授ける者ではなく、道を見出す方法を仄かに照らす者であるべきなのですから。
 さて、ならば改めて問いましょう。貴方の主観に於いて、「英雄」とは一体何者なのですか? それは、認めたくないが成立しなければならない存在、自分の外側に対象としてありながら、内面に憧憬として絶え間なく存在しているものなのでは、ないですか?
 私は二年前、祖国の皇立アカデミアからメリリーム公国へ、貴方の顧問教師として着任した頃―――自分の研究が学内で確固とした地位を確立していなかったこともあり、精神は無様なまでに乱れ、あろうことかこの職を体の良い左遷と感じていました。不純な考えとは知りつつも、他人の欠点ばかりが見えてしまうのです。
 そんな時出会った貴方の第一印象は、平易にいえば、貴方自身に対して臆病である、というものでした。あの頃の己の様は今も、記憶に触れるだけで顔から火が出る思いであり恥じ入るばかりなのですが、それでもなお、そのような要素が今だ貴方の一部を占めていることもまた、厳然たる事実なのです……』


 軽快なステップで鐙を踏み登り、馬上の人となった少年……ギリイニムに、女性の召使いが駆け寄った。
「一人でのお出かけは危のう御座います、殿下。今、侍従の仕度をさせておりますので、御出立はもう暫くお待ち願います」
「その辺を駆けるだけだよ、構わないでくれ」
「しかし、大公様に申しつかっておりますので」
「ならば父上に知られなければよい」
「……承知致しました。ではせめて、これをお持ち下さいませ」
 駆け寄ってきた侍従の一人が、短銃の入ったベルトを差し上げた。
「………………」
 ギリイニムは一瞬嫌悪に顔をしかめたが、黙って受け取ると、光沢を帯びた栗毛の騎馬の馬主を巡らした。
「あまり西側へは行かれますな。あの辺りは『首なが』の縄張りですので」
 幾度となく聞かされた警告に背を向けたまま、手を挙げて返答する。間断なく手入れの行き届いた庭園を抜け、灌木の門をくぐった頃、何時集まったのか、屋敷中の召使い達十数人の唱和が聞こえてきた。
「いってらっしゃいませ、公太子殿下」
 少年はもう一度顔をしかめたが、ガンベルトをしっかりと身に着け、手綱を握ると、「はっ!」との掛け声と共に馬の腹を蹴った。
 駿馬が軽快なリズムのステップと共に、素晴らしい速度で大地を蹴る。緩やかな斜面は一面、ライトグリーンの海だ。草原の中央を、少年は駆け下りる。
 冷たい風に目を細めて、激しく揺れる前髪を気にしながら、ギリイニムは前方を見上げた。眼前に広がる無限に広い青空のスクリーンに、壮大なザカースタリム山脈が鎮座しており、その左方向、西側に黒々とした針葉樹の森が広がっている。彼は掛け声と共に、そちらの方角へと進路を変えた。

 ―――何故、僕はこんなことをしているのだろう。

 先程の出立の様子―――公太子として生まれてこのかた、それこそ無限に繰り返されてきた光景なのに、少年は自分自身に対して強い違和感を抱いていた。
 ふと、胸ポケットに視線を遣る。そこには先程の手紙が丁寧に折り畳んで入れてあった。そこに記された、整った書体を思い出すと、まるで連鎖するように、丸眼鏡を掛けて微笑む青年教師の顔が想起され、それがまた、少年の憂鬱に拍車を掛けるのだった。


『……そもそも、王とは財産の集中により発生した存在でした。より多くの物を統括するには、より多くの力が必要なことは、いうまでもありませんね。不公正を是正する為、より大きな不公平としての王政を、人は遙かな昔より受け継いできました。その本質の正邪を一概に判断することは、誰にも出来ないでしょう。
 必要悪、という言葉は私も嫌いですがしかし、王政のように多大な弊害を生みながらも、結果的に文明の発達を支え貢献してきたものは数多く存在します。たとえば、貴方がまた嫌悪する武器に関しても、同様のことがいえるでしょう。もはやいうまでもありませんが、人間の文化の発展に必ず平行して、殺戮手段の進歩がありました。人は人を守る為、人を殺し、自分が生きる為に他の生物を殺し、そして愛や正義を目指して自分自身を殺し続けてきたのです……』


 遠くから、鳥の鳴き声が響いてくる。或いは、近くなのかもしれない。
 ギリイニムは馬を止め、周囲を、頭上を見回す。
 既に鬱蒼とした針葉樹林の奥深くにまで入り込んでいた。この高地に避暑に訪れて一週間、それ以前にも何度か通った道だ。自分の位置は把握しているつもりだ。
 ただ、あの「首なが」のことを思えば、慎重に成らざるを得なかった。
 慎重に慎重を期する。己の行動に隙があってはならないのだから。
 そんなに激しい運動をしたわけでもなく、馬にも乗り慣れてはいるのだが、いつの間にか肩で息をしていた。過去に大病を患って以来、どんなに運動しても体力が定着せず、非常に疲れやすい体質になってしまっていた。食も細い。ただ、本人はハンディキャップを晒すのを非常に嫌っている為、どんなに苦しんでも弱音を吐くことはなかった。
 木々を吹き抜ける風が、吹き出る汗を瞬時に冷たくしていく。
 もう一度、鳥が鳴いた。今度は確実に近い。思わず腰の短銃に手が伸びる。その冷やかかな銃把を握った途端、一瞬にして視界が暗くなる。

 幼い時、偶然見てしまった処刑場。
 打ち抜かれる囚人の頭。
 飛び散る鮮血。


 ……勢いづいて浮かび上がる忌まわしい記憶を、猛然と首を振って追い出すと、ギリイニムは再び銃をホルスターにしまった。
 嫌な感触が、手の中に残っている。
「……守る為に殺すのは、欺瞞にしか思えませんよ、先生。たとえそこに、正義があろうとも」
 そう小さく吐き捨てると、少年は前方を睨みつけたまま、暗い森の中をまた、ゆっくりと進み始めた。
 馬の小さな嘶きが木々の囁きに吸い込まれ、掻き消えていった。


『……私は先程、王族と英雄を同類項のように扱いましたが、それはあくまでも概念上のことでしかありません。良き王はいつの時代にもその登場を望まれるものですが、実際の所それは通俗的な民衆の願い、理想の枠組みでしかありません。王自身にその自覚がなければ、実行は叶わないでしょう。立憲君主制は、別手段であってその回答には成り得ません。 王が英雄足るべき条件を挙げてみましょう。まず第一に、近世から現代に至る思想の流れの中に於いて、神権政治はその正当性を失っているわけですから、自分も人間の一人であることを自覚することが必要でしょう。そして第二には、自分が国権の中でもっとも重大な責任を負った者であり、しかしながらその重圧に決して潰されてはならない存在であるということを自身に刻印し続け、それを踏まえた上で決断を下さなければならないのです。ではもし奇跡的に、王がこれを遵守し続け、少しでも善政を敷き、構成に至るまでの評価を受けられたなら、それは英雄と呼べるのでしょうか?
 残念ながら、それには否、と答えるよりほかありません。それはある意味で錯覚なのです。端的にいうなら、英雄とは恒久的に存在することは不可能なのです。もし事を為した英雄がそのまま英雄たろうと望んだ時、人々が英雄に英雄のままあって欲しいと願う時、英雄は良き王、良き決定者、良き為政者、また良き支配者へと転化しなければなりません。
 過去の英雄達は、英雄たろうとしてそこにあったわけではないのです。誰も彼もみな、自分の信念の為に生きた。それを垣間見た者が、英雄として彼らを語り継ぐのです。その言葉が広まって、人々は希望と共に英雄の新たなる到来を待つのです。だけど、その「英雄」が現れることはないでしょう。未来は無です。そこに干渉できる者は、誰を待つこともなく、自ら行動できる希有の者達だけです。 私達は、同じ情報をそのままで他人に伝える方法をいまだ持ちません。或いは、その方法は神の御手のみということも出来るでしょう。だからこそ、伝聞の形で、書物の形で巷間に流布されていく英雄の存在は、先鋭化し、何者にも侵されがたい対象と化していくのだと思います。望めば望むほど遠ざかるが、しかし存在しなくてはならない、あって欲しい人間……神ならざるからこそ、その欲求は膨れ上がっていくのでしょう。
 こういえば、貴方はきっと、英雄とは形而上的存在だと思われることでしょう。私の本来の研究課題が、「形而上の生物学」だということを思い出されているかもしれません。確かにこの学問は、私の精神構造に大きな影響を与え続けています。
 逆にいえば、決して望むべくして現れないからこそ、英雄の存在は絶えることなく、人々共通の思惟に浮かび上がり、その足を踏み鳴らさせるということも出来ます。陳腐な表現しか思いつかず、私には文才が欠如していることを承知した上でいえば、英雄は我々が望めばそこに、確実に存在しているのです……無論、貴方自身の心の奥底にも』


 ギリイニムは舌打ちしつつ、馬を全力で疾駆させていた。あの時、森でやはり見つかっていたのか……それとも、森に入る前に気づかれていたのか……あるいは森自体が奴らの罠だったのか。自分では計算し尽くしたつもりだったのが、愚考でしかなかったのか。
 ただ今は、それを反省している暇はない。
 一人と一頭は、針葉樹の森を抜けた途端、三羽の鳥の襲撃を受けた。鳥とはいえ、この高原地帯の生態系ピラミッドでは間違いなく頂点に立つ、獰猛で狡猾な猛禽類である「首なが」なのだ。虚空の断崖に住まい、集団で大型の哺乳類を遅い、その肉を喰らう。勿論、人間を標的に選ぶこともある。
 追い込まれたギリイニムが馬を走らせているのは、何もない開けた草原である。しかもあちこちに点在する突き出た岩の塊が、慣れた手綱捌きを持ってしても少しずつ馬脚を乱し、スピードを落とさせていく。そして、「首なが」達は低空を滑空して迫る。まさに死神の狩猟場のような場所だった。
 それでも、ギリイニムは取り乱すことはない。
 意を決して、顔をしかめることなく短銃を構えた。
『……自分が生きる為、他の生物を殺し……』
 師の言葉を、そして自分自身への怒りを奥歯で噛み砕いて、少年は銃を構え、後ろを振り返った。
 まるで獲物を抱き殺そうとする熊のように大きく翼を広げた「首なが」二羽が、視界を覆おうとしていた。
 躊躇わず、トリガーを引く。
 重い衝撃の後、胴体に直撃を受けた一羽が落ちた。
 馬の激しい疾走に揺られながら、一時手綱を放し、素晴らしいバランスで素早く示談を装填する。
 二羽目の「首なが」の足、鋭い爪が少年の右手の甲を掻きむしる。致命傷には至らないものの、鮮血が顔に飛散する。
 咄嗟に第二弾を放つ。「首なが」の頭は落とした西瓜のように砕け散る。
 だが、傷を負った右手は反動と激痛に耐えきれず、思わず銃を取り落としてしまった。痛恨の想いで握りしめる拳。激痛。又溢れる、紅。 群れ最後の一羽が、一旦攻撃を中止して、蒼く高い大空に舞い上がる。ギリイニムは、傷ついた手に構うことなく、もう一度手綱を取り、馬を走らせる。
 が、瞬時に思いとどまり、手綱を強く引いた。怒濤の勢いで駆けていた馬が大きく嘶き、前足を二、三回空中で振り回して止まった。
 この場合は少年の機知を賞賛するべきだろう。凡人で在れば、そのまま命を失って然るべき場所だ。
 目の前には空があった。
 崖だったのだ。
 「首なが」の目的は獲物を追い落として、確実に食料にすることだったらしい。そして、旋回を終えた「首なが」は攻撃態勢に入り、こちらを狙って滑空を始めている。逃げ出したところでたかが知れている。奴の狩りは最終段階なのだから。
 ギリイニムは覚悟を決めた。
 馬を降り、その尻を軽く叩く。駆けだしていく馬。「首なが」は方向修正をしない。鋭利な嘴が一瞬煌めく。一直線にこちらに突っ込んでくる。
 少年は荒い息を無理矢理静め、冷や汗を感じ、唾を飲み込んだ。
 それでも瞳を閉じることはない。 
 ……こんな自分が嫌いだった。
 人に次の王として、良き継承者として、その資質から先代を越える英雄を求められて。
 求められればそう振る舞うことができる自分。
 自分の欠点ばかりが見えてしまう自分。
 公太子として振る舞う自分を、虚空から見つめ直す本当の自分。
 ――いやそれは、本当に「本当の自分」なのか? 自分の欠落を覆い隠しているだけではないのか? だったら、この拭い去れない違和感は、一体なんだろう?
 自分は成長し、時に晒され、器でもない王の座に、自分を押し上げていく。
 だけどそれは、自分がしなくてはならないことなんだと、理解してもいる。
 こんなにバラバラな自分は欲しくない。
 能力も責任も、欲しくはなかったのに。
 それでも。
 それでも。
(僕は、生きなければいけない)
 友として共にあってくれた青年教師が、苦笑する―――幻を見た。
 迫り来る敵を睨みつけ、腕を前方に差し出して、彼は絶叫した。
「うああああああっっっっ!!!」
 ズバァッ!!
 少年の両手が、弾丸の如き「首なが」の首をしっかり掴んだ。瞬間、「首なが」の首が伸びて、少年の肩口を深く突き通す。溢れる熱い赤の噴水。
 奥歯が欠けた。それほどにしっかりと噛み締めつつ、少年は死の鳥の首をひねった。ボキ、という嫌な音が、感触と共に伝わってきた。
 全身に衝撃があった。少年に気づく暇を与えぬ間まま。
 少年の体が、空に舞った。


『……英雄が人民に必要かどうかは、その時どきの人民が決めることであって、あなたが気に病むことではありません。この問題は、私の使ったずさんなレトリックで到底証明できるものではなく、またその様々な状況も、英雄を発生させる要因として考慮に入れなければならないからです。
 思うに英雄とは、風のようなものではないのでしょうか。求めれば求めるほど、その本質を感じることは困難であり、しかしながら普段、何処にでもある普遍の存在として。
 私は貴方に、英雄を指向して生きることを決して望みはしません。高すぎる理想が人を堕落させ、世の混沌として変質していくのを幾度となく見ているからです。ただ、自身の認めるべき所を知り、純粋な疑問を抱き続け、拒むべき悪を排除し、もっと貴方自身を目指してください。それは一番困難な道であり、又貴方が嫌い、貴方が切望する「英雄」に出会う為の、もっとも過酷ながら近い岐路を貴方に示すことになるでしょう。今はまだ、貴方という敵に負けない戦いの日々を、強く生きられますよう、切に願っています。
 これを読む頃、貴方はあの心地よい、山奥の離宮にいることでしょう。私は多分、かの超特急「エルマラーク」に乗り、本国への帰途を辿っていることと思います。どうか、貴方との再会が、互いの学識と友情を深める、更なる機会となりますように。貴方と学んだ二年間は、私の最良の宝石の一つです。素晴らしい生徒に、幸多からんことを。

 良き友にして、殿下のささやかな導き手を自認する者
                      アレクサンドロ=ブレイク』
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 ―――闇。


 一面の闇に、二人の者が立っていた。
 一人は少年。ギリイニム。
 もう一人は、少女。真っ白な、長い髪に煌々たる光を宿らせて。
 やがて、彼女は手を広げ、輝き始めた。
 神々しい光を放って。闇を光に帰していく。
 その背に、十二枚の純白の翼を背負い。羽毛が、無数に舞い散っている。
 少年は不思議に思った。
 それほど神聖に感じられる存在が、その瞳が、何故か灰色に曇っている。悲哀に潤んでいる。
 どうして?
 どうして?
 少年は手を伸ばす。
 少女は、やっとそれに気付く。
 ゆっくりと、翼を広げる。涙が落ちて、波紋を広げていく。
 光が――
 目が眩み、白濁していく意識の中で、少年は気づいた。
 涙が広げる少女の足下で、


 銃を構える少女がいた。
 能面の戦士達が、虐殺と跳梁を繰り返した。
 戦場に蠢く鋼鉄の巨人がいた。
 白いマントを翻した賢者が、道を指し示していた。
 戦場にうずたかく積まれた戦士達の躯があった。
 次々に火を噴く、列車砲の列があった。
 崩れ落ちる教会の尖塔があった。
 炭化した人の腕が、天を望んで空へ伸ばされていた。
 荒野の真ん中を、超特急が駆け抜けていった。
 革命の旗が、無数に翻っていた。
 巨大な都市が、炎に包まれていた。
 無数の光が、ヤコブの梯子に導かれて、天空へ還っていった。


 燃えさかる炎と、無数の剣が輝いていた。
 そしてその中央に……大人になった自分が立って、いた。

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 警笛の音がした。幻聴ではない。
 ギリイニムはゆっくり、目を開いた。数年ぶりに目覚めたような、理由も無しに感じる、そんな感覚。風が冷たい。体が軋み、動かすことが出来ない。ただゆっくりと首を回した。
 崖の下、数メートル下の突き出た踊り場のような場所に、自分は引っかかっているらしい。見上げれば壁面の横に筋が入り、地上へ繋がっているようにも見える。上の方から馬の蹄が地面を引っ掻く音も聞こえる。主人を慮ったのか、そう遠くまでは逃げなかったらしい。左手に未だ、首の骨を折った「首なが」の死体を握りしめていた。食い込んだ指をゆっくりと解くと、音もなく落下し、消えた。
 もう一度、汽笛が鳴った。
 目の前に広がる大渓谷に沿って、線路が敷設されている。今、その線路に、長大な列車が姿を現せた。先頭の機関車は白い蒸気を絶え間なく吐き出し、動輪を激しく回転させている。まるで一頭の巨大な生物のように。ここからは見えないが、その最前面には、鶴橋と白い羽根をあしらったヘッドマークが、その超特急の偉容を示していることだろう。
「エルマラーク……間に合った……」
 少年はぽつりと呟き、
「……それでも、僕は……いいえ、」
 それから、微笑んだ。
「また会いましょう、先生」
 ……少年の頭上に一枚の純白の羽根が舞って、何処かへと飛び去っていく。
 自分がこの後ずっと、自身と「英雄」との間で揺れ続けなければならないこと……それをこの時、当然ながら彼は知らない。


 戦争と血の波が大地を覆うかの如き、かの「民権革命」より約二十年を遡った頃の話である。       

                                       <了>

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