龍の首の玉


       1

「……あら、貴方みたいな人が来ることもあるのね」
 箒を持った霊夢は境内のさなかで呆れたようにいった。
 無垢な少年の駈足の如く、空が蒼くなっていく時刻のこと。
「そりゃ、来ることもあるわよ。ここは神社なんだしね」
「それはまぁそうだけど」
「そもそも、私がここに来たとは限らないじゃない?」
「それを言い始めるときりが無いわよね。無駄話は嫌いじゃないのだけれど」
「いいわ。じゃ、私が何をしに来たか解るかしら?」
 来訪者が機嫌よく尋ねるのに対して、博麗神社の巫女は片方の眉を少し上げ、答える。
「あまり縁起のよさそうな話じゃなさそうね。幽霊注意報かしら。西高東低の」
「まだ木枯しの季節には早いと思うだけれど」
「じゃぁ、腹痛に気をつける? 七草粥の食べ過ぎとか」
「それは注意するまでもないわねぇ。大体あれは春に食べるものでしょう?」
「でも、桔梗には気をつけたほうがいいと思うのよ」
「そこまで先回りしちゃうのなら話は早いわ」
 来訪者は腰に手を当てて笑った。日輪のように屈託の無い笑いだ。
「私のおかげで、あんたは大変な目に遭うわよ。重々覚悟することね」
「そんなのいわれなくたっていつものことじゃない。覚悟なんかしたことある?」
「ないわね。いつも適当だもの」
「そうそう、適当でゆっくりがいいの」
 少女達は二人して笑いあう。
 鏡面のように平らな水面に落ちた水滴が、王冠のように波を立てて波紋を広げていくかのように。
「さて、忠告はしたし、私はいくわ」
「どこへ? 帰るんじゃなくて?」
「さぁ何処かしら。よく解らないわ。本当は眠っていたいだけなのかも」
「実は眠っているんじゃないの?」
「多分それ正解」
 あまりにも屈託の無い訪問者の微笑みに、霊夢は一つだけ尋ねてみたくなった。
「ねぇ、もしかして私、」


 風が吹き、
 そのとき、
 一羽の鳥が背後から飛び立ち、
 影が落ち、羽音が乾き、
 遠ざかる入道雲の彼方で、龍の咆哮が轟いた、
 微かに。
 そんな、気がする、


 午睡――


 ……薄暗い場所。
「もう、夕暮れなのね」
 霊夢は影の中で、目を擦りながら顔を上げた。ほんのり冷気を帯びた風が彼女の白い腕を撫でていく。うたた寝している間に寄りかかっていた神社の鳥居に手を掛けて、立ち上がり、大きく伸びをした。
 ふっと、試みる――

 暗い、漆黒の世界と、多分、青と白の宝石の夢。

 それから、訪問者の夢。正午過ぎの幻、

 天に駆け上る稲妻。

 ……いや、あれは夢だったのか?

 刻一刻と遠ざかっていく、

 それもまたいつもの日常なのだ、けれ、ども。

 今見た夢が思い出せない。
 伸ばした指の先に吹く風の感触。
 しかし、霊夢は執着しない。
 失われた夢を追い掛けるのをやめた途端、漏れる欠伸。
 気を抜いた拍子に、立てかけていた箒が倒れた。石畳を打つ乾いた音。残響はない。
 鳥居の影から外に出ると、赤錆のような黄昏が一瞬で小さな巫女を染め上げる。今だけは神社も森も空も遠い雲も山々も、みな八百万の赤銅色とひとつの黒とに塗り分けられていた。稜線の向こうに、今日の役目を終えた巨大な日輪が落ちていく。
 そうして、夏が、遠ざかろうとしていた。
 四季の定めに逆らうように、爪を立てるように、残滓をふりまきつつ。
 蜩の声が遠くから切れ切れに聞こえてくる。山に帰還する鴉の羽音。夜風を呼び寄せる鎮守の森の葉擦れ。毎日が同じような光景でありながら、一日ごとに世界の位相がずれていくかのような。それはどこか心細くなるような。混濁する境界。
 それら総てに囲まれながら、霊夢はただつれづれなるままにぼんやりと頭を掻き、ゆっくりとした動作で箒を拾い上げて、もう一度口を押さえて欠伸をして、首を二、三度傾けてみる。そして少しだけ自分の、体を抱く。
「そういえばちょっと寒くなってきたわ。獏のように昼寝は場所を選ぶべきかしら。もちろん昼というにはもう遅い時間というのは分かっているのだけれど……そうね」
 箒を持って神社の方に数歩あるいて、
 ……にわかに立ち止まる。
 普段は大きく開かれた円い瞳が、すぅっと細くなる。
「こんな不吉な時間まで眠っていると、やっぱり縁起が悪いのかも知れないわね」
「あらそう?」
 霊夢に再び影が落ち、
 霊夢の頭上から声が落ちてきた。
 紅く燃えた雲の谷間から、
 蒼い空と紅い夕暮れの狭間から、
 夕闇と夜の帳の隙間から、
 そのたおやかな声が、櫻の残り香を忍ばせて、ぞろり、這い出してくる。
 優雅な傘の影は夕暮れの境内を揺らめかせて切り取り、神聖な神庭に穢れた闇の結界を形作る。
「やっぱり、彼は誰れ時に現れるのがお好きなようね……胡散臭い妖怪さん?」
「その通りよ。だから用心はいついかなる時も欠かさない事……そうね、脳天気な巫女さん」
 そうやって、
 夕闇を遮って現れたのは、
 二匹の妖怪を従え、
 紗のように軽く揺れるワンピースを纏い、
 常日頃より常備する日傘によって、あらゆる日光を遮りつつその中に潜む。
 山奥のこの小さな世界、人間と妖怪と古き掟によって守られる場所……「幻想郷」において、数多の妖怪たちの中でも最大の実力者に位置する異形の少女。

 ――そうして巫女と妖怪は、陰陽の形を模すかのように対峙した。

      ☆

「で、何よいきなり。普段は食っちゃ寝して呼んでも出てこないあんたが自分から姿を見せるなんて、よっぽどの悪さをするつもりなんでしょう」
「大正解。博麗霊夢の言うことに間違いはないわね」
 妖怪に誉められてもちっとも嬉しくない霊夢は、本殿に上がるための階段の最上段にちょこんとしゃがみ込むと、隣にちゃっかり腰掛けている八雲紫の顔を胡散くさげに睨み付けた。
「だったら私の言うことをちゃんと聞いて、大人しく山奥の塒にお戻りなさいな。今日はもう、不吉な出来事は間に合っているわよ」
「そういう割にはちゃんとお茶を出してくれるのね?」
「ほうじ茶よ。大体、お客様を無礼に扱うような巫女は失格だと思うのよ。たとえ呼んでなくても、さっさと帰って欲しくてもね」
「あ、このお漬け物なにー? 美味しそう」
「これ橙、それに手を付けてはいけない」
「何でですか藍様」
「それには巫女の皮肉が籠められているからだよ」
 お茶に添えられたぶぶ漬けを珍しげに観る猫又の橙も、それを心配そうに見つめる妖狐の八雲藍も、霊夢にとっては顔見知りである。
「あら、普通に美味しいのに。食べないの? 私が食べちゃうわよ」
 霊夢は大きな口を開けて漬け物を奥歯でぽりぽりと噛みしめる。その様子に、橙は今にも口の端から涎を零さんばかりに見とれていて、保護者を自認する藍はおろおろと橙を押し止めさせているのだった。
 紫は優美な目元を糸のように細めて、自分の連れを見守っている。
 ――博麗霊夢にとって、この妖怪たちとの付き合いは古いものではない。
 今年の春、幻想郷に訪れようとしていた春を根こそぎ奪おうとした、破天荒な計略が巡らされた。冥界の住人が暖かい春を独り占めしようとしたことによって、斯界は皐月になっても雪が降り続き春は訪れない。仕方なく原因を探りに出た霊夢とその友人達の活躍によって、幽雅で能天気な強奪者の企みは砕かれることとなったのだが……話はそれで終わらなかった。
 首謀者が冥界の住人であったがために、霊夢は本来行き来できない生と死の境界を潜ることとなったのだが、その際境界に皹を入れてしまったらしい。霊夢の仕事には境界を書き直すことも含まれてはいるが、世の摂理そのものである生死の境界を策定する能力までは備えていなかった。
 そして、境界修復が可能な存在として霊夢が紹介されたのが、この八雲紫なのである。
 霊夢はおそらく元来の事件そのものよりも苦労して、ようやく紫の住まう里を尋ねた。
 その際、紫を守護して霊夢を妨害したのが、紫の式神である八雲藍と、八雲藍の式神である橙だった。
 激戦を潜り抜け、ついに紫と対峙した霊夢だったが、結局、紫が霊夢の頼みを聞いた兆候はなかった。
 それが証拠に、緩くなった境界を人や霊が楽に移動するようになり、幻想郷には幽霊が増えることとなった。霊夢はこの時点で事件に見切りをつけた。無事に春は戻ってきたし、幽霊はいくら増えようが所詮幽霊である。総体として幻想郷に影響を与えることは出来ないのだ。もともと、境界があろうが無かろうが御盆には戻ってくるし、顕界に飽きたら冥界に戻るだろう。
 が、事件に関わった者たちは、ことが解決した後も博麗神社を足繁く訪れるようになる。
 これは吉例みたいなものだ。
 霊夢の周りの人間も妖怪も、なぜか霊夢を気に入ってしまうのだ。
 それが巫女だからなのか、自分の資質なのか、霊夢当人には図るすべが無いし、興味も無いのだが……本来、神社は神を願う人間のためのものであって、得体の知れない人間や、まして妖怪のための施設ではない。霊夢にとっては迷惑極まりない話だった。
「……そんな目でみても帰らないわよ。今日は目的があるんだから」
 霊夢の頭の中を覗き見たかのように、紫がたおやかに笑う。
「なら早く目的を言いなさいな。どうせまた私を引っ掛けようとしているのでしょう」
「もう少し待つといいわ……そうね、夕闇が闇に呑まれる時間まで」
「まだ結構時間あるじゃない。私は仕事してるからね」
 紫は答えない。
 暮れなずむ空を見上げたまま、目を細めている。
 落ち着きの無い橙を見守りつつ、藍も主の顔をうかがっている。
 夕刻も過ぎようかと云う頃になっても、紫は空を見上げた彫像のように喋ろうとしない。
 霊夢だってしじまを楽しむ風雅ぐらいは備えているが、それにしても妙な様子だった。
 ふっと息をついて、社務所に向かう。
 夕方の仕事といえば、本殿に向かう参道に並ぶ灯篭に火を灯すこと。
 これもまた、人間のためである。
 神はそれ自身が光である故に、人工の光を望むはずが無い。
 おのおのの蝋燭が柔和な光を投げかけ始める頃になると、群青のビロードによって紅の要素は完全に取り除かれ、拭われた夜空には天の川が脈々と光の水を通す。無数に点在する星々の、何千年何万年前の光。
 階段の一番下から仕事を始めた霊夢は、鳥居を潜って最後の灯篭に火を灯すと、手にしていた太い蝋燭を吹き消して、やれやれと肩を竦めた。
 東の夜空を仰ぎ見る。
 満天の星空を威圧しながら、いつものように巨大な月が登り始める。
 今日は満月だ。
 山肌を撫で、地をこそぐように冷めた白光を放つ月。群雲が月のなだらかな曲線を少しだけ隠している。
 月が天頂へ昇るほど、森は黒くなっていく。
 霊夢は空気の冷たさに、少し身震いした。紛れも無い秋の冷気を感じる。
「……解った。お月見をしにきたんでしょう。でも御酒も御団子も、多分あんたたちの分はありませんからね」
「誰が」
 夕刻以来、久方ぶりの紫の声。
 冷たい。
 月光よりも醒め切った吐息で。
 それを呪詛といえば、そうなのだろう。
 少女は月を望んで、月を呪う。
 悪し様に睨み付ける。
「いったい誰があんな月で、月見をしようなどと思うのかしらね」
「どういうこと?」
「……博麗の巫女でも気づかないのなら、他の人間が察知することなんて出来るはずが無い」
 紫は霊夢に並び立つ。
「でも、事件ならおおよそ博麗の巫女の範疇ですものね」
「大雑把ね。雨が降るのは必ずしも雷様のせいじゃないし、湖が凍るのは氷精だけの仕業でもないわ」
「でも、事件を解決するのは、博麗の巫女と相場が決まっているのよ」
「…………納得できないんだけど」
 霊夢は不承不承、夜空の月を仰ぎ見る。
 真ん丸にしか見えない月。
 いつもと同じようにしか見えない月。  
 その月を睨む、境界の妖怪。毒々しい色の爪が光る指で、傍らに立っていた御供の妖怪を呼んで見せる。
「おいで、橙」
「はい、紫さま」
 猫耳をつけた少女が八雲紫の肩にちょこんと乗る。
 その背後には、両手を袖に隠して人を模した九尾の妖狐が控えている。
 八雲紫は既に、夜を睥睨する妖怪の顔をしている。
「霊夢、私の準備はいつでもいいわ」
「私は行くとはいってないわよ」
「貴方の選択が、全て正しいの」
「私を嵌めようとしているんじゃないの」
「あら、そんなのいつものことじゃない」
 紫はにっこりと笑う。これ以上無いくらい爽やかな作り笑いだ。
 普通の人間ならば絶句してしまうぐらいの、恐怖の笑み。
 それでも霊夢は躊躇していた。
 もう一度、月を仰ぎ見た。
 いつもの月だ。
 そうにしか見えない。
 ――これが、始まりなのかしら。大変な目に遭う?
 訪問者の言葉がよぎる。
 口の中で呟く。
 何故だかそう思えなかった。
 いつも事件がある時は、言葉にならない直感や肌をざわめかせる予感がある。だが今はそれがない。微塵も感じられないのだ。
 これは真に異変なのか、どうなのか。
 だから……人間は、妖怪に尋ねる。
「解らないものを探しに行くなんて、こんな不毛な話はないわよ。夜には限りがあるのだから」
「だったら、時間ぐらい止めればいいじゃない? そのくらい簡単でしょう」
「大げさに過ぎるわね」
「なら、もしこのまま放置して、傾いた幻想がやがて手におえない修羅へと昇華したら、貴方は一体どう責任を取るつもりなのかしら」
「そうなったらどうにかするわよ」
「巫女の方が妖怪よりもよっぽど胡散臭いわね」
「楠に空の重さを心配させるのが間違っているのよ」
「だったら――諸法実相、精妙な心の中心に止まる月だけを探しなさい。私が欲し、貴方が探すべき唯一のものはそれよ」
 何故、こんなに気が進まないのだろう。
 たとえ妖怪の挑発であっても、普段ならもう少し気楽に夜空に飛び出している気がする。
 ならば、
 せめて、
 この気怠い理由を探しに行くのはどうだろう。
 どうせこんな気分では、月見をする気にもなれないし、寝覚めも悪いだろう。
 夢の中で悪い事件に遭遇しないとも限らない。
 そう考えるに至って、ようやく博麗霊夢は決心した。
「いいわ。あんたの企みに乗ってあげる」
「悪だくみだなんて。私は夜を月を、妖怪にとってあるべき姿に戻したいだけなのよ」
「あるべき姿なんて言葉、似合わないからやめなさい。理屈と屁理屈の境界をいじっている方が似合っているわ」
「あら、ようやく霊夢らしくなってきたわね」
「これが博麗の巫女のあるべき姿なのよ。それにしても、」
 霊夢は、夜空の月を睨みつけた。
 人間と妖怪を描いた艶消しの影が、月に照らされて境内に大きく伸びていく。
 夜風が真赤なリボンと大きな傘とを揺らしている。
「どうやら今夜は、とても永い夜になりそうね……」