彼女は切り立った崖の上に立っていた。
 下界には雲海が広がる。
 蒼空は何処までも高く、盛夏特有の積乱雲が遥か遠くにそびえ立ち、山脈のように連なっていた。
 風が吹き抜け、下界への旅路を辿る。
 サンダルの足下に揺れる草が当たる。
 人間ならば爽快さを覚える光景を前にしても、彼女はなんら感慨を抱くことが出来なかった。永すぎる時間の狭間で存在してきた彼女から、人間的な情緒など消え去って久しい。物事に意味を見いだすことなど無駄でしかない。そう悟ってからは、ただ打ち寄せる悠久の時間にたゆたうため、望まない戦いと繰り返す時間つぶしに身を寄せるばかりだった。
 自分を縛る運命が自分を何処まで連れて行くのか。
 実は、それを知りたかっただけなのかもしれない。
 遠くへ来た、という感慨を覚えなくもないが、それもまた無駄な感情の一つでしかなかった。
 ……そこでようやく、自分が影の下にいることに気づく。夜に生きる者の宿命として、彼女は日に当たると霧散してしまう。だからいつも闇に身を潜めていた。それが当たり前すぎるから、自分に影を落としてくれる存在に気づくのが遅れてしまったのだ。
「………………そこにいたの?」
「ずっとここにいましたよ、私は」
「そう」
 控えるメイドの言葉に、無感動に答える。
 なぜか、いつものように微笑む気にはならなかった。そっぽを向き、視線を遥か遠方へと投げる。
「……お出かけしようかしら」
「あらそうですか、かしこまりました。それじゃ、私も準備しないといけないわ。しばらくお待ち下さいね」
「あなたがついてこれないところへ行くかもしれないわよ」
「それでもついて行きますよ。まぁ、一人で先に行かれるなら仕方ありませんけどね。とりあえずこの日傘を持っていって下さい。あとで必ず追い掛けます」
「どうして?」
「何がですか?」
「どうして、あなたはそんな風に人を想えるの? 自分の全てを人に注ぐことが出来るの?」
 彼女は小さな両手を胸の上に当てる。
「鼓動も聞こえない、暖かくもない。わたしはあなたのように感じることが出来ない。人を思うことが出来ない。色んな人や魔や、魂を絡め取っても……あなたの愛を奪っても何とも思わないの。なのになぜ?」
「愚かだから、じゃないでしょうか」
 ……その言葉に、躯の奥の何かが、少しだけ……ほんの少しだけ、膨らむ。
 後ろから抱きすくめられる。
 暖かい躯の何処かから、時計の音がした。
 小さく正確に刻まれるその機械音は、どこか鼓動にも似ていた。
「あなたは……わたしの全てですから。わたしはあなたのそばにいます。二度と迷子にならないように……」
 甘い匂いがした。
 何処か遠くの記憶が掘り起こされるような気がする。
 それは飲み干した血よりも、ずっと甘くて……。
 子守歌が聞こえる。
 安寧を願う祈りにも似た、優しい調べ。


 「 あかく あかく 
   あかく ねむれ 
   あかく あかく
   ……おねむりなさい…… 」


 優しい風が吹く。
 その道筋を通って、
 蒼空に、白い日傘が、高く高く舞い飛んでいく。