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 ……命は震えていた。全身から吹き出した悪寒が嫌悪感を催す汗になって服を濡らす。
 彼が見たもの―――それは、過去に封じられた剥き出しの記憶。思い出というフィルタァに掛けることなく、直接容赦なくその時間を体験させる責め苦だった。鮮血の匂いが、肌を舐める炎の舌が、五感にしがみついて離してくれない。吐き気が迫り上がって、迫り上がった胃液がざらざらと喉を汚した。
 なんという、運命。
 夢の中で見た姉妹の姉が、過酷な時間に滅茶苦茶にされ、遂には自らを苦しめた「時」を支配する力を手に入れた女性……十六夜咲夜なのか。だとしたら、全ての発端になった最初の蝶、それに連れて行かれた幼い少女は、それはつまり―――
 荒く息を漏らす命と対照的に、レミリアは眉一つ動かさない怜悧な顔のまま、その後を言葉で引き継ぐ。
「……そして、わたしはここにいた。十六夜咲夜というメイドを従え、この紅魔館の主として夜に君臨していた。それがすべて」
「………!」
 心の中でどす黒い感情が猛々しく燃え盛った。彼の今までの人生において、これだけ他人を憎んだ経験はなかった。また、これだけ感情を高揚させた場面もまた存在しなかった。
 目の前の吸血鬼に鋭い視線を投げる。彼我の能力差など考慮の片隅にもなかった。
 レミリアは驚いたように微笑む。侮蔑的で、それでいて何処かに羨望を帯びながら。
「……ねぇ、あなたはこう思っているわ。結局はお前が全部やったんじゃないか、人の不幸につけ込み、人の命を弄び、人の運命を縛る。悪魔め、絶対に、絶対に許せない、と」
 拳を固めた。
 歯ぎしりした。
 レミリアは鈴が転がるように笑う。
「勇敢な人間。博麗でなくても、あなたほどの心を持つ人なんて現世にはなかなか存在しないのじゃないかしら? このわたしの前で、この月夜の下で、感情を燃やし立ち向かってくる……」
 命が遂に一歩を踏み出そうとして、
 出来なかった。その瞬間、躯が見えない力によって固定される。ついで、レミリアが目を細めて睨む躯の至るところから、服と肉が内側から裂け、噴水のような鮮血が吹き出した。
「ぐぁ」
 声にならない苦痛の叫び。
 彼女はゆっくりと首を振る。
「でも、違うわ。わたしがここにこうしているのも、わたしの意志ではないのだから。わたしを何百年ものあいだ揺り動かし、縛り、導く強力な運命がそうさせるの。この力は周囲の事物や魂を蜘蛛の糸のように絡め取り、否応なしに時の狭間へと引きずり込もうとする。この館に関わる者全て、躯を持つ者も持たぬ者も、力の強き者も弱き者も、わたしの運命がわたしの意志とは関係なく呼び寄せた。ここに入ったら最後、来世へも地獄へもいけないまま魂がすり減るのを待ちながら、ただただわたしに忠誠を誓わなくてはならない……」
 あくまでも他人事のように、月を見上げて詠うようなレミリア。
「でもそれは、幻想郷という構造、博麗の巫女という生贄にとてもよく似ている……いいえ、同じことといえるの。いにしえの人間と妖怪を封じるために創られ、結果的にそれらを護るために存在し続ける東の国の結界。そのために求められ続ける巫女。紅白の蝶が飛べば、伝説が守られる代償として現世から罪もない一人の少女が消える。そのために起きる悲劇。今回のこのことだって、どちらが先に罪を犯したかなんて決められないわ。二つの強力な呪いが、互いを飲み込もうとして干渉した結果、十六夜咲夜は扉を開き、わたしはここにいて、博麗霊夢はもう少しでここにやってくる。どちらが滅び、どちらが残るかを決するために」
 少女が椅子から立ち上がった。
 紅月を背にして影に染まる。その背には、醜悪な悪魔の羽の背中が小さくついていて、血まみれの命に向かって影を落としてきた。
「……わたしがこの夜に目覚める前の、瞼に焼き付いた最後の記憶。それは、西方の勇敢な聖職者がわたしの心臓に杭を打ち込むその瞬間の姿。まるで悪鬼のように狂った顔だったわ。わたしが長く待っていたのは、わたしを解き放つ勇敢な騎士だったのに……でも、今生を儚んで塔から身を投げても、空に掛かっているのが紅の月なら、迎えに来るのは白き翼ではなく無数の蝙蝠の羽音。それが避け難き運命。わたしを縛るとこしえの運命」
 レミリアが真横に腕を引く。
「ぐ………!」
 見えない刃で両膝を切られた命は膝をついた。四つん這いになりながら、苦痛に震えながら、それでも必死で顔を上げる。レミリアの顔を見据える。
「貴方はもう充分すぎるくらいに頑張ったわ。でも、眠りにつけば家路を辿ることが出来る。今夜みた全ての出来事を一睡の夢にして、いつも通り布団の中で朝を迎えられる……その前に、もう一つだけ果たさなければいけない仕事があるけどね」
「…………」
「それは、この夜の目撃者になること。わたしの運命が勝ち、幻想郷全てにこの呪詛が振りまかれるのか、或いは博麗の巫女がわたしに勝ち、幻想郷に今までと同じ偽りの永遠が戻るのか……その観戦者となってほしいの。その全ての記憶を夢の奥に封印して生きて欲しいの」
「それ、が」
 喉の奥から声を絞り出す。
「それに、何の意味が、あるんだ………」
「意味はないわ」
 レミリアがあっさりと答える。
「ただ、この満月の夜が存在したことの記憶を留めておいて欲しいという、わたしの意志。わたしを縛る運命へのわたしの渾身の抵抗。それがあなた。博麗と同じ源の力を持つ者に結界を越えさせ、その首筋に呪詛を封じることによってわたしの運命から貴方を守った。貴方が博麗として呼ばれることは『視て』いたから……だから、貴方以上の適任者はいなかったのよ。その傷から血を流し続ける限り、貴方は誰からも自由。全ては貴方の時間であり貴方には誰も干渉できない。博麗の力も不完全にしか発現しない………だから、貴方は誰からもこう呼ばれる……『特殊な一般人』と。」


 本気で泣きたくなった。


 それだけの、ために。
 ただここに来て、こうやって無能を晒すために、自分はここに来たのか。
 自分を傷つけ、
 霊夢を傷つけ、
 様々な驚異や呪詛や悲劇や運命を見せつけられて、
 なお自分は無力な一般人でしかない。
 幻想郷からもレミリアからも、自分は完全なる他人でしかないのだ。
 それでいいのか。
 ………………………。
 ………………。
 ………仕方がないじゃ、ないか。
 自分はただの中学生で、
 周囲の奴らを小馬鹿にすることで自分を高めることしかできない、
 言い訳を呟きながらゲームに没頭するふりぐらいしかできない、
 親に色々言われても真面目に取り合うことも出来ない、
 何処にでもいる情けないガキなのだ。
 これだけ壮大な話を、涙と血と恐怖の入り交じった物語を受け止めるなんてことが出来るわけないじゃないか。どちらにしろ、霊夢が来ればレミリアのいう通りになる。あとは見ていればいいだけ。死ぬにしても元の世界に戻るにしても、あと数刻の辛抱なのだ。先生の叱責をやり過ごすのと何ら変わらない。ただ時が過ぎゆくままに全てを待って、それから―――


 血まみれの手が、博麗の小太刀の鞘をしっかりと握った。凝視しただけで気を失いそうな血の池の中で、小太刀を杖がわりにしてゆっくり、ゆっくりと立ち上がる。
 口の中に血の味がする、血に染まった吐息をつく、
 レミリアをしっかりと見つめる。
「…………もんか」
「…………」
「お前の言いなりになんか、なるもんか」
 怖くなかった。
 目の前で覆い被さるような圧迫を放つ絶対の存在を感じながら、命は立ち上がる。
「……このまま、バラバラにされても、死んでも………僕はお前の言いなりになんてならない。それだったら、博麗として生き、この剣でお前を倒し、自分も死ぬ。そんな格好いいことは、多分出来ないと思うけど、そう思いたいぐらい、お前を認めたくない。レミリア・スカーレット……紅の夜の王女、お前を」
「人間って愚かよね」
「それが、人間なんだよ……きっと」
 多分この科白は、何処かのRPGのラストシーンそのままだ。血が流れすぎて頭がぼんやりしている。どれだったかさっぱり思い出せない。ゲームを沢山遊んだけど、ゲームに愛は注がなかったなと、そんなことを考えた。
 自分は最高に格好悪いと思いつつ、吸血鬼の最後の一撃を待つ―――


「そこまでよ」


 聞き慣れた声が部屋に響く。
 退屈そうな表情のレミリアが、待ちくたびれたかのように肩を竦めた。
 命は苦労しながらゆっくりと……ゆっくりと振り向く。
 扉の前には、いつもの霊夢が立っていた。
「随分と頑張ったわね、命。じっとしておけば何もされないっていったのに」
「れい、む………」
「ささっと終わらせて神社に戻りましょうか。ね、お嬢さん」
「わたしはずっと遊んでいたいわ。夜はまだまだこれからだもの」
「夜遊びする子はお姉さんに叱って貰わなきゃ……あ、でも偉そうなメイド長は一撃で倒しちゃったわ。どうしよう」
 命は震える。その無邪気な言葉の意味することを知っているから。吸血鬼の少女はその様子に悪戯めいた表情を浮かべ、小さな手でそれを隠す。
「じゃ、久々にお外で遊べるのね。嬉しいわ、日光に弱いからなかなか外に出して貰えなかったのよ」
「辺りに迷惑だからお家の中で遊びましょうね。迷子になってもしらないわよ」
「迷子なのはあなたじゃなくて?」
「どうかしらね」
「迷子同士、お友達になるのも良いでしょ」
「夜にしか遊べないような友達なんて不便で困るわ」
 レミリアの言葉が徐々に、熱狂を帯びていく。
 対する霊夢は普段通り。怪我の素振りも見せようとしない。
「じゃ、勝負して勝った方の意見に従うのはどうかしら」
「名案ね。私が勝ったらこの世から出て行くのよ、お嬢さん」
「あなたが遊びに来てくれるならね」
「考えとくわ」
「ありがとう。それじゃ、始めましょうか」
 真紅の王女が心から喜びつつ、大きく手を広げる。背中に翼が……まるで天使の如き純白で巨大な光翼が立ち上がり、ゆっくりと夜空の大気をかき分けていく―――
「さぁ、歌いなさい、わたしを縛りわたしを導く運命よ。歓喜に震えなさい。この夜が遂に成就したことを、この一瞬が永遠であることを祈りなさい。過去と現在と未来、全てに於いて輝き続ける紅色の月に誓って……」
 大地全体を地響きが伝い始める。
 夜空の霧が濃くなり、雲が渦巻く。
 その中央には台風の目のように巨大な月が回転し、膨張し続けている。
 部屋の隅で埃を被っていたグランドピアノが旋律を刻み始める。死の音符が紅き五線紙の上で激しい輪舞曲を舞う。
「れ、霊夢っ」
 傍観者でいたくない命が声を絞り出す。
 前に歩み寄りながら、博麗の巫女が―――博麗霊夢が、いつものあっけらかんとした表情を浮かべる。
「まかせて……大丈夫よ」
 両手を広げる。
 そこから放たれた二つの陰陽玉が、彼女の衛星として楕円軌道を描き始める。
 軽く床を蹴り、紅月の空に舞い上がる。
 紅白の蝶、そのままの姿で。


 悠久を生きる時の迷い子は言った、
「こんなに月も紅いから…本気で殺すわよ」と。
 永遠を守護する夢の迷い子は答えた、
「こんなに月も紅いのに」と。
 紅の夜の王女は言った、
「楽しい夜になりそうね」と。
 白と赤の幻想は答えた、
「永い夜になりそうね」と。
 少年は地にあり、二人を食い入るように見上げていた。
 折れた霊刀の柄に手を掛けながら。