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 闇の中を、二人の足音が交叉する。
 前を行く美鈴。
 とぼとぼと歩く命。
 階段が自ら仄かに光っていて、二人に不思議な陰影を彫り込んでいる。
「やっぱりメイド服は窮屈で駄目ね。だからあたしは館に入るのが嫌なのよ。ここから先はお嬢さまの力が強すぎて、普通のメイド達じゃ仮の姿を留めていられないから仕方ないんだけど」
「………………」
「だけど、咲夜さんがあたしを呼ぶなんてことがあるとは思ってもみなかったわ。ま、あなた達一行がそこそこ出来る人達とは思ってたけど。あたしが本気を出せば門なんて絶対くぐれなかったけど、まだ挨拶代わりの攻撃だったしね。巫女料理は当分お預けになりそう……あああ、あたしもまだまだ修行不足かな、結構謙遜してるでしょ」
「……………」
 美鈴が呆れたように振り向く。
「あんたもなんか喋りなさいよ……つまんないじゃないの」
 その言葉に、びくっと体を震わせる。繋いだ両手の感覚が手の奥で熾火のように揺れる。口の端に自嘲めいた笑いを張り付けて。
「どうしたの?」
「……そういう科白をいった女の子が、いるんだ。そうやって、呆れてた」
「ふーん。あたしと似てるのかしらね」
「……………」
 美鈴はつまらなさそうに唇を尖らせると、また上方を向く。命は拳を固めて、小太刀の鞘を握り締めるだけ。その少女は今、生死を賭けた死闘を繰り広げているはずだった。なのに……自分は何も出来やしない。
「それは、あんたがそういう風にしてるからよ、きっと。人間だって、つまんない人間と付き合うのは好きじゃないでしょ、きっと」
「……………」
「そういう時は何か仕事をやって、自分を鍛えて、頑張ってみることが大切。それでどうにもならなくても、別にいいじゃない。自分が頑張ったことは変わりないんだし」
「なんか、すごく普通のことをいうんだな」
「人間でなくたって、これくらいのことはみんな、普通に考えるでしょうに。あたしは門番なんてやってるから、意外と特殊なのかもしれないけどね。それはそれで楽しいものよ」
「僕も、『特殊な一般人』だよ」
「普通の一般人はここまで来られないわよね、確かに」
 そういうと美鈴はクスクスと笑った。
 霊夢を思うと笑えるような気分にならなかったが、それでも悪い印象は受けない。
 咲夜のように、本気で人を殺す人間もいれば、目の前の少女のように、人間以上に人間らしい人外もいる。幻想郷という世界はどれほど混沌としているのだろう。その中で、いまだ自分の目的も意志も持たない―――或いは、失ってしまった―――自分は、一体何処へ向かっているのか。
 命は上方を見上げる。
 この階段の先に、その答えはあるのだろうか。


 階段は終わりを告げ、目の前に大きな扉が聳えている。うっすらと輝いている。その向こうから、時折呼び鈴の音がする。周囲には白く滲む幽魂が無数に飛び交っている。
 チリーン…………チリーン…………。
 残り数段を残して、美鈴は立ち止まった。
「あたしはここから先へは行けないわ。あとは一人で進んで。お嬢様が待っていらっしゃるから」
 頷く。
「あの……ありがとう。案内してくれて」
「どういたしまして。もう会えないのが残念だけどね」
 美鈴は肩を竦めた。
「あなたなら取って食べようって気にならないわ。一緒にいた巫女や魔法使いと違って気に障らないし……でも、お嬢様に会って、無事でいられるわけないもの」
「…………そう、だね」
「もし成仏できなかったら門番見習いで使ってあげるから、門のところに来てね。待ってるわ」
 ありがたくない申し出だったが、素直に頷いておく。
「それじゃ」
「お嬢様に粗相の無いようにね。あとであたしが怒られちゃうわ」
「うん……さよなら」
 命は美鈴に軽く辞儀をすると、残りの数段を登り始める。これが、自分の人生の最後の階段。登り馴れた学校の階段が、自宅の階段が想起され、死刑囚の階段のイメージに繋がる。
 登り切り、ドアのノブに手を掛ける。
大きく深呼吸する。
 チリーン……………。
 そのベルに答えるかのように、ゆっくりと、ゆっくりと……ノブをひねった。
 木の扉が軋みながら開いていく。
 肩口の傷が、抉られたようにズキリと痛んだ。


 ―――紅い終着駅。
 そこは、半壊した部屋だった。
 屋根が吹き飛んでいる。四方の壁に備わった窓も壊れ、捻子を飛ばし窓枠は折れ、硝子は飛び散っている。霧が敷き詰められた床は紅と白のタイルに埋め尽くされていた。
 空を覆い尽くした紅月。月以外の部分も紅い霧が渦を巻き、気流となって流れている。目の錯覚でなく月はゆっくりと自転していて、大気の紅き潮流の源になっているようだ。
 部屋の隅には埃を被ったグランドピアノが設置してある。
 そして、部屋の奥は謁見する王の玉座の如くに迫り上がっており、そこには大きな揺り椅子と、それに座って緩やかに揺れる幼い少女の姿があった。白い指の先には呼び鈴があり、今まさに次のベルを鳴らしている。
 チリィン……。
 部屋の中に入った命は動けない。
 気怠そうに肘をついたレミリア・スカーレットの視線が、ようやく命に向けられる。
「咲夜を、見なかった?」
「……あ、あの」
「さっきから呼んでいるのに、咲夜が来ないの。あなた、知らない?」
 か細い声。
 その圧倒的な気配に、唾を飲み込む。
「たたかって、る」
「………誰と?」
「霊夢と、戦ってる」
 レミリアは、もう一度ベルを鳴らそうとして……手を止めた。そして、無造作に呼び鈴を投げ捨てる。
 呼び鈴は床と不協和音をかき鳴らして死んだ。
「やっぱり、咲夜もまだ人間なのね。仕方のないことだけれど」
 その口調は何処か切ないように、命は受け取った。
 その時、突如始まった床の震動と共に、地響きと崩壊音が窓の外で弾けた。
 命は目を剥いた。
 窓の向こうで、時計塔全体に禍々しいひび割れが入ったかと思うと、もくもくと土煙を上げながら建物全体が崩落し始めた。煉瓦や石やタイルがそげ落ち、針のついていなかった文字盤は外れ吹き飛び、砂埃は霧と相まって、崩れゆく建造物の姿を隠していく。
「霊夢!」
「心配しなくても大丈夫よ。咲夜が負けたわ……さだめ通りに。馬鹿ね。メイド長の役職は取り上げるべきかしら」
 レミリアがぽつりと呟く。血も涙もない悪役の科白というよりは、何についても無感動なロボットの合成声のようだ。
「……あの子がここに来るまで、もう少し時間があるわ。怪我をしてるみたいだし。それまでに、あなたには主賓としての義務を果たして貰うから………菅原命、外界よりの刹那の旅人」
「僕の………名前を………」
「さて、何から伝えるべきなのかしら? 人間としてショックが少なくて、これから起こることを見届けられて、それから帰途についてその後も生きていける為には」
「………………」
「脳味噌なんて化学的で無駄なものへの対応なんて、正直いって面倒で仕方ないわ」 
 すべてが決まっていること。
 すべてが決まっていたこと。
 レミリアの口調は、まるでタイムスケジュールを読み上げているかのように淡々として無感動だった。そこには興奮も悪意も一切の感情も存在しない。それが逆に、命の心を氷らせていく。
 と、ふと思い出す。
「……霊夢がいってた」
「なにを?」
「『お嬢さまは僕には手を出さない』って」
「その通りよ。私はあなたを殺さない。だって、あなたは特殊な一般人ですものね」
 レミリアはそこで初めて笑った。醒めて光る犬歯が月光で紅く染まる。
「あなたはここで全てを視る。幻想郷の全てを……そしてあるいは、幻想郷の終わりの日を……最後の博麗として」
「はく………れい………?」
「あなたは博麗よ。十四人目の博麗。幻想郷に招かれた、人間と妖怪の守人」


 霊夢の姿が脳裏に浮かんだ。
 光少なき祠の前に座る霊夢。なぜかそこには、無数の紅白の蝶が飛び交っている。その中央で、霊夢はしっかりと瞳を閉じている。表情の浮かばぬ顔―――そこに自分の姿が重なる。ただ茫然と見ているだけの自分。
 その僕が……博麗?


 小太刀の柄を握り締める。その中は汗でびっしょり濡れている。
「……でも、僕は」
「空を飛べるようになったのは、私が咲夜につけさせた肩の傷のおかげ。牢を脱出したのはその宝剣のおかげ。そう思っているのかしら? ―――でも、それは間違っているわ。あなたは自分の力で全てを為してきた。博麗大結界に入ってから、ずっと」
 レミリアは自分の爪をゆらりと眺める。
 ロッキングチェアが小さく揺れ続ける。
「その傷は、貴方を護るための呪符なのよ。あなたから記憶を奪い、急速に博麗の守人と為す博麗大結界の力からあなたを護るために……そして、私を取り巻く『力』からもまた、貴方を護るために」
「……そんなこと、言われたって、解らない……」
「でしょうね。人間ですもの。自分の能力を狭め自分の世界に甘んじ闇を恐れる愚かなで卑小な生き物。だけどそれは宿命だから、あなたを責めたりはしないわ……重要なことは、博麗の結界は近世の人間が妖怪を封じるためだけに備わっているものではない、むしろ古の人間と妖怪の、ある種の共存関係が生み出した…………機械」
 混乱する命に、レミリアは諭すようにゆっくりと話す。
 ―――価値観が変動する時代、妖怪を封じ各地で繰り広げられた戦いに終止符を打つため、博麗大結界は設けられた。
 戦いに付き合わされた妖怪達としてはいい迷惑だったが、ある時を境にして真面目につき合うのを止めた。なにしろ必死なのは人間だけなのだから、馬鹿馬鹿しくて仕方ない。しかも理性や哲学に縛られた人間の思考は硬直していて順応性に欠け脆い。ようするに身の程知らずが馬鹿の一つ覚えで妖怪に突っかかっては倒されるという現実ばかりが転がっていたのである。
 妖怪は人間を喰らうが、殺すことに喜びを覚えているわけではなかった。腹が減ったら食事をするのは普通のことではないか。逆に、信念を曲げずに何度も立ち上がる人間の方が、妖怪達にとってはよっぽど不気味だった。
 そこで、結界が設置された時に、あえて熾烈な抵抗をするのを止め、結界の内側から更に強力な結界を張り巡らしたのである。これは、同時に封じられた結界内部の人間の仕業でもあった。それは外界の術師よりも非常に強力な結界だった。
 様々な意図が錯綜する中、こうして幻想郷は誕生する。
「でも、内側で完結するわけにはいかなかった。妖怪は人間を襲いたかったし、人間をからかうのもまた好きだった。内側の人間も妖怪の跳梁をそのままにして置くわけにはいかなかった。結界は自由に開け閉めされるものであってはいけない。穴は開くかもしれないけど、開きっぱなしでも駄目。その役目は、結界が外と中を区切っているということを知っている者でなければならなかったの。最初の頃は、結界を生み出した者が外と中で通じ合っていたのかもしれないわね……だから、守人は外から招かれる。結界を結界たらしめる存在として。だから博麗の巫女、『博麗霊夢』は、そのからくりを動かし続けるための贄」
 祖母から聞いた話が想起される。
『神様に呼ばれる子だっているんだよ。お役目を果たすために、連れて行かれる奴だっているんだ……神様のやることに逆らっちゃいけねぇ。自分の番が回ってこないようにお祈りして、お鎮めするだけのことさ』
 唾を飲み込む。確かに筋は通っている。あの蝶は、自分を迎えに来たのか。
 レミリアの瞳が、理解できない……したくない命の心を射抜く。
「『博麗霊夢』は今までに十三人いた。彼女達は世襲ではなく、いずれもあなたのように外界から捧げられた迷い子達。一人の役目が終わるごとに、紅白の蝶が舞い、何も知らない幼い子供を幻想郷へと招くのよ」
 レミリアの膝の上には、一冊の本があった。それは遥か地中深くの広大な図書館で、霧雨魔理沙が偶然見つけた本だった。彼女がそれを読むことはついになかったが。
「もし、今の博麗霊夢が死ぬようなことがあれば、あなたが次の博麗になるの。記憶を奪われ、強大な力を植え付けられて」
「…………」
「もっとも、幻想郷の中の誰も、あの子は倒せないでしょうけどね。彼女は幻想郷そのものなのだから」
「……あんたなら、倒せるのか」
「解らない。でも、わたしの運命がそれを望んでいるなら、そうなるでしょう」
「あんたが、霊夢を殺したいんじゃないのか。幻想郷を壊すために」
「わたしじゃないわ。わたしを突き動かす『運命』が、そう望んでいるのよ」
 レミリアの口調はあくまでも他人事だった。ゆっくり、ゆっくりと月を見上げ、
「もう、この夜の出来事は何十年も、何百年も前に決まっていた……わたしを包み込む見えない『運命』の鎖によって。それを知れば、あなたはきっと普通ではいられなくなる。きっと悲しみ、わたしに対して憎悪を抱く。でも、あなたの役目はそこから始まるから……それを最後まで見届けなければならない」
 そして、夜の王女は微笑む。
「それに、今のあなたは博麗のなり損ないの、只の人間だもの。抗うことすら叶わない」


 吸血鬼が手を差し出すと、
 視界に鮮烈な紅が弾け、
 ―――次の瞬間、命の意識は記憶の中にいた。
 幻想蝶が招いた、少女達の悲劇の記憶の狭間に。