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 暖かい。
 頬が柔らかい感触に受け止められている。それだけで安心できるような。
 ただ、目を開けても閉じても漆黒が全てを覆っていた。震えが全身を駆けめぐる。顔から感じる暖かさとそれ以外の場所全てを覆う寒さの落差が激しかったのかもしれない。極めつけは何処かから落ちてきた水滴だった。手の甲で弾け、思わず、
「冷た……」
「あら、起きたのね。ぐーもーにー、ねぼすけさん」
 頭のすぐ上から声が落ちてきた。だけど、暗闇の中ではその顔を判別することが出来ない。
「霊夢?」
「ええ」
 安堵が躯を駆け抜けてから、その原因に思い当たる。命は慌てて体勢を起こした。
「霊夢……僕、メイドの人に襲われて……」
「酷い目にあったわよ」
「あれから、どうなったの?」
「どうもこうもないわ。けちょんけちょんに負けていつの間にかここにぶち込まれてたわ。本当に癪ね。負けるってのは珍しい体験だけど、あんまり繰り返したくはないわね」
「………ここは?」
 空気が湿っている。地面は干し草のようなもので覆われているようだが、水気を帯びていて不快だった。耳の奥で空気が揺れる音がする。あとは、金属の軋むような音。声が響くと言うことは、金属か石か何かで出来た部屋なのかもしれない。
 部屋の隅では、水が一定間隔で滴り落ちている。その響きは単調で、冷たい。
「触ってみれば解るわよ」
 霊夢の細い手が命のそれを掴み、たぐり寄せてそれを掴ませる。赤錆の浮かんだ鉄の棒が上から下へ。その向こうに、太い鉄鎖があるのがわかった。自分達のいる空間を包み込んでいる。
 頭痛がする。茫洋としたデジャヴ。何処かで見た光景。その記憶の形は定まらないが、まだとても近くにあるような気がした。
 封印。施錠。少女……牢獄。
「この鎖、力を封じる魔法が厳重に施してあるの。私でもどうにもならないわ」
「そうなんだ……」
「しかも、上の仕掛けと連動してるらしいの」
 頭上に首を向けても徒労だが、微かに…微かに何かが揺れている音がする。質量を感じさせる軋み。
「多分、天井を落とす仕掛けよ。鎖を切ったらぺっちゃんこの上、穴だらけにしてくれると思うわ。あのお嬢様の食卓に血入りのメインディッシュが並ぶってわけね」
「………………………」
「いい趣味じゃないわよね、こんなところに閉じこめるなんて。陰湿さが窺えるわ」
 膝をついてそろそろと最初の位置に戻り、あぐらをかいた。疲れが吹き出る。結局、自分達は地の底で、虜の身になってしまった。それも風前の灯火らしい。自分のせいで、自分の……。
「あ」
「どうしたの?」
 思い出した。なんで忘れていたんだろう。
「殺されそうになって、霊夢が僕を……かばってくれたんだろ」
「一般人だし、仕方ないでしょ」
 こともなげにいう。
「怪我してるんじゃないか?」
「大したことないわよ」
「あるよ!」
 自分でもびっくりするぐらい大きな声が出た。握り拳を固く結ぶ。幾重にも響いていく自分の声の向こうで、呼吸を止める気配がする。
「……あ、あの、大きな声出してごめん。でも、怪我してるんだろ? 心配なんだ」
「…………」
「一般人だし、何も出来ないし、迷惑しか掛けてないけど。でもやっぱり、心配なんだ。そんな資格無いかも知れないけど」
 沈黙が舞い降りるまで、しばらくの時間が掛かった。ついで、霊夢の溜息がはっきりと聞き取れた。
 無言の気配がするすると近づいてきて、手探りで何かを渡される。手ぬぐいと、これは……呪符だろうか?
「え、何?」
 微かに衣擦れの音。
「あいつに切られて、背中に傷があるの。自分じゃ上手く貼れなかったから。お願い」
 ぶっきらぼうに霊夢はいい、背を向けて命の前に座ったようだ。血の匂いに混じって、なんともいえない芳香が立ちのぼる。鼓動が急激に跳ね上がった。
「布で傷を拭いてから貼ってね」
「う、うん」
 確かに、そこには歪んで貼り付けられた紙があった。ゆっくりと剥ぎ、丸めて棄てる。それから傷口を広げないように、力を入れないようにしながら背中を拭う。霊夢が少し呻き声を漏らしたようだったので、慌てて手を引っ込め、またゆっくりと再開する。視界がないのでどこまですればいいのか解らないが、それでも精一杯優しく努めた。
「……あの、咲夜ってメイドの力」
 霊夢が呟く。
「え?」
「なんだと思う、命」
「霊夢には、わかってるの?」
 霊夢は答えない。
 命は手を止めて考える……あの時、霊夢と戦っていたはずの彼女は、一瞬の後に命の後ろに立っていた。その前は、レミリアとの茶会の時。彼女が視線を巡らせるだけで、いつの間にか命のための机が準備してあった。そして、博麗神社に於ける最初の襲撃でも、一瞬にして無数のナイフを現出させている。それらに共通する能力。
 瞬間移動、テレポーテーション……いや、
 ちりちりと疼く思考。
 違う。彼女の力は、傲然と力を見せつける為の力。意志を持った支配の力。
 脳裏に閃くビジョンは、くるくると回る日傘。目の前に提示された………懐中時計。
「時間……」
「恐らくね。望むなら、彼女は時間を止めてしまえるのよきっと。その間に自分は好きなことが出来る。多分、そんなに長い間じゃないんでしょうけど」
「そんな。時が止まってる間に攻撃されたら何も出来ないよ」
 自分で思いついたにも拘わらず、命はその途方もなさが信じられない。
「現に私達は何も出来なかったわ」
「そうだけど」
「羨ましいわ、とっても便利な能力よね。時間止めてお仕事いくらでもさぼれるじゃない。御主人様に内緒で昼寝し放題よ」
「……多分、そういう使い方はしないんじゃないか」
 メイド長を自負するだけのことはある。紅魔館では、主人のみならず、その忠実な僕も絶大な力を行使するらしい。
「そんな相手じゃ、負けるよね」
「負けたけど、まだ負けてないわよ。私も命も生きてるもの」
「魔理沙も、きっとね」
「あの子はどうやったって死なないわよ、いったでしょ」
「……僕も、そう思う」
 傷に触れないようにしながら、呪符を貼り付ける。肌に触れると、まるで水を帯びた紙のようにぺったりと張り付いた。
「これでいい? 霊夢」
「ありがと。大丈夫みたい」
 また、小さく衣擦れの音。命は赤面する。想像力に拠って沸き上がってくる映像を必死でかき消しながら。
「でも……まずはここを出ないとね。やっかいなメイドさんの気配がないうちに。とりあえず、鍵の在処を探さないと」
 また、疼く。今度は掌。痺れるような、焼け付くような記憶に小指の先の爪が引っ掛かるような…。
 密室、鍵、涙、少女……、
 ぴちゃん。
 こぼれ落ちる雫が手の甲を打った。
 握り締めたそれが、何かに当たる。知っている感触。
「……小太刀」
「何?」
 命は、神社で渡された博麗の小太刀を握り締めていた。まだ抜いたことのない武器。情けない迷子で、特殊な一般人で、戦うことはおろか逃げ惑うことさえ上手くこなせない自分に与えられた刃。誕生を待ち続ける力。
「霊夢」
「どうしたの、命」
「霊夢の力は封じられてるんだよね」
「ええ」
「じゃ、僕じゃ……駄目かな」
「………」
「僕はただの迷子だけど、だけど、空ぐらいは飛べるようになったし、この世界にちょっとだけは馴れたかも、しれない。幽霊や妖怪と話すのは難しいけど、そいつらが僕と同じように存在してるってのはわかるんだ。霊夢や魔理沙や僕が生きているのと同じように。だから」
 自分に饒舌なのは似合わないな、と思う。ここが暗闇なのを感謝する。
 霊刀の柄をしっかりと握り締める。
「だから……もしかしたら、僕も霊夢を助けられるかもしれない。そりゃ、駄目かもしれないけど……でも、やってみたら出来るかもしれない。助けたいんだ」
 手の中には、鍵。
 後は差し込んで、ドアノブをひねるだけで良いはずだ。もちろん、それが夢であってもいい。自分が決めたことなら……真剣にやり遂げたいと思うなら。むずがゆい思いがする。頬が上気する。暗闇でよかった。
 霊夢の言葉を待った。
「……やってみればいいじゃない」
「そう、思う?」
「足手まといがそうじゃなくなるのは、こっちとしても大歓迎よ」
「もし失敗して、二人とも串刺しのぺちゃんこになったとしても、恨まない?」
「恨むわよ。未来永劫あんたにくっついて、延々と恨み言を聞かせてあげるわ。こっちは仕事で抜群に酷い霊を何人も知ってるんだから、自信たっぷりよ」
「……そりゃ、怖いな」
 霊夢がすまして笑う表情が目に浮かんだ。そんな顔をしたまま、命が起きるまで膝の上に頭を載せさせてくれていたのだ。それを思うと、顔が綻んでしまう。
 一緒にいられて、よかったと思う。
「わかった。それじゃ、やってみる」
「期待しないでおくわよ。その刀もいい加減骨董品だし」
「それなりに期待してよ」
 鞘を抜き放ち、鉄格子の前に立つ。おずおずと触れて、刃の存在を確かめる。剣術なんて素人なので、どう構えていいか解らないが、とりあえず頭上に振りかぶった。多分ひたすら格好悪いのだろうが、暗闇が隠してくれる。だから、大丈夫。
 瞳を閉じイメージする。目の前にあるのは
大きな壁。そこを守護する紫色の結界───
魔法陣。ゆっくりと回転している。向こう側に、瀟洒なメイドが立っている。不格好な自分を優しく見守っている。組んだ両手の端には鋭いナイフが三本。鈍く光る。首をかき切ろうと機会を窺っている。やっぱり恐ろしくて、逃げたくて……でも、恐懼に捕らわれてはいけない。
 後ろには霊夢がいる。じっと待っている。命の行動を待っている。
 やってやる。
 夢と現実の曖昧なこの世界なら、望んだことを叶えるのだって少しぐらいは簡単なはずだ。
 もう一度、雫が落ちる音を聞いた。
 脳裏で、紅白の蝶が一度羽ばたいた。


 奥歯を噛み締め、全力で袈裟切りに振り下ろした。


 鉄琴と化した鉄格子を断たんとする刃が、生理的嫌悪感を催す轟音を響かせる。七つ目が鳴り響いた瞬間、小太刀は澄んだ音と共に折れ飛んだ。
「……………っ!」
 腕への衝撃に刀を取り落としそうになる。痺れを必死に耐えた。鎖を断ち切った感触も、格子を切り裂いた感触もしなかったが、頭上でトラップが大きく揺れ始めた。
「霊夢っ」
「充分だわ」
 光輝が誕生した。視界を取り戻し、その眩しさに両目を腕で覆う。
 少女の輪郭をした純白の光。瞳を閉じた霊夢の姿が発光している。その両手には、徐々に大きくなる陰陽玉。
 キーコ、
 キーコ、
 キーコ、
 吊り天井が大きく揺れ、運動エネルギーが飽和し、
 突然轟音と共に落下を始め、
 じゃらじゃらと連鎖し、巻き上がる鎖の響き、
 もうもうと埃が立ちのぼり、
 二つの陰陽玉が直上に急上昇して迎撃、
 天井を粉砕し、
 バラバラにし、
 並んで釣り下がった極太の針を打ち砕き、
 二人の頭上から落下物を駆逐する。
 両手で頭を覆った命には、ただ埃が舞い降りてくるだけ。
「命、見て」
 白い燐光を纏った霊夢に指摘されて、命は鉄格子を振り返った。
 鉄格子と鎖は既に無く、うっすらと赤い光が見える戸口は開け放たれていた。
 まだ痺れる手の中には折れた聖剣。
 ただぼんやりと、
「……剣を折っちゃった、僕」
「そうじゃないでしょ」