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 灯りの炎がちろちろと揺れる中、魔理沙は気怠そうに座り込んでページを捲っている。周囲には無作為に広げられた本や巻物が散乱している。一冊の本を開いて少し読んではまた閉じ、堆く積まれた山から別の本を取り出しているからだ。とても誉められた態度でないということは、魔理沙自身も承知していた。だってどうしようもないのだから。大好物のはずである未知の事柄の一つ一つが、頭の中に全く蓄積されない。仕方なく、目の前の本を閉じた。
 顔を上げると、散らかり放題の廊下の向こう、何とか光が届くぎりぎりの場所に、あの博麗の本が落ちている。一行も読んでいないまま放り出している。それなのに、結局またその本をぼんやり見ている。
 どうしてしまったのだろう、自分は。らしくないなと思うのに、臓腑の辺りが重くなっていく一方なのだ。悩むだけ無駄な時間だった。無駄無理無茶は喜んで嗜好するが、こんな気持ちで時間を費やすのは、望んでいない。
 初めての体験だった。
 無性に口が寂しい。
 お茶か、酒でもいい。何かを口にしたかった。霊夢と飲んだお茶の味が懐かしかった。
 そう思いながら、やるせなくまた新しい本に手を伸ばす。
「……………ん?」
 指先に電流が走る。
 倦怠感が一瞬で吹き飛ぶ。強力な魔力に弾かれたように手を引っ込めると、妖しい乳白色の輝きがその場に満ちた。取ろうとした本の厚い表紙に、輝く魔法陣が浮き出ていた。そこから間髪入れずに純粋なエネルギーが打ち出される。
 魔理沙は瞬時に水晶球を構え、間一髪それを弾く。光弾は球面によってあらぬ方向へと飛び去り、図書館の壁面にぶつかって爆ぜた。
 それが合図となった。
 無限書庫のあちこちから、魔法を付与された本が空中へと浮かび上がる。大きくて古い本ばかりだった。厚い表紙は茶色にくすんでいる。どれもこれも魔法陣を展開し、魔理沙に向かって包囲網を狭めつつった。
「まったく。トラップならトラップらしく、早めに起動するべきだろう。こっちは珍しく退屈をもてあましてたっていうのに」
 魔理沙は不適に微笑んで、荷物をぶち込んだリュックを背負い箒に跨り、中空へと浮かび上がる。カンテラはいつものように箒の先。例の本の行方に少しだけ気を払ったが、とりあえず今は棚上げする。折角悩まなくていい時間が来たというのに、そちらを楽しまずにどう生きればいいというのだろう。
 その精神構造の難解さはさておいて、霧雨魔理沙は基本的に超がつく楽天家であった。
 本の姿をした使い魔達が間断無き攻撃を開始した。魔理沙は自分から仕掛けることなく、水晶球を用いて反撃していく。水晶球に光の一撃を通し、内部における屈折を利用して別の目標に命中させる。実に効率的な作戦だった。
「この程度じゃねぇだろ? これなら上の召使い達の方が手強かったぜ」
 あらゆる攻撃は直線だった。反撃も直線で返却される。上昇していく魔理沙を中心として、レーザーの幻影が描かれていく。
 と、余裕綽々といった雰囲気だった魔法使いの表情が、一瞬だけ凍り付いた。収縮した瞳孔は、光ではなく、突如出現した強大な魔力に反応している。二度三度と瞼をしばたたかせて、大きく呼吸を整える。
 唾を飲み込む。
 常にマイペースな魔理沙にそこまでさせる、相手が来るのだ。
 遥か遠くまで連綿と続く図書館の、左右の壁にゆっくりと……まるで飛行機を迎える滑走路の灯火のように鬼火が点灯していく。地平線の闇の奥からこちらに向かって伸びゆく。
 魔理沙を追尾して無軌道に飛び回っていた本の群れが、俊敏な動きで集合すると、王を迎える儀仗兵よろしく空中に整列した。彼らが背負う魔法陣はゆっくりと回転しながら、その到着を待つ。
「まったく……化け物屋敷で商売始めれば結構な金になるぜ。上のお嬢様に勧めてやるのもいいかもな」
 静かに呟き、拳を固める。
 水晶玉をポケットにしまう。
 物怖じしない魔理沙が決心をしなければいけないのはなぜか。それは自分と同質の力を持つ相手でありながら、自分など比較にならない強力な魔法を備える相手であると理解しているから。
 彼我の差が絶対的であるから。
 その絶対者が、闇の向こうからゆっくりと飛んでくる。
 音もなく飛翔するのは、場違いな古いベッド。いにしえの揺籃。時の流れからこぼれ落ちた、小さな小さな笹の舟。
 しもべである本達に迎えられるように、それは空中に静止する。
 そのベッドには少女が横たわっていた。
 正確には、少女の姿をした完全な骸骨。ネグリジェを纏い、安らかに眠るその眼窩は窪んで落ち込んでいた。その奥の闇に光はない。
 魔理沙がポケットの中の呪符を求め、手を忍ばせようとして……動かなく、なる。
「………っ」
 金縛り。何をされた訳でもない。自分が恐れているだけかとも思う。屈辱ではあるが、それが願望でしかないと理解できるくらいには、まだ魔理沙は理性的だった。眼前の無力なはずの骸は、すでにこの空間全域を支配しているのだった。
 不意にその場が紅に染まった。
 魔理沙は首を動かすことにさえ苦労しながら、ゆっくりと頭上に視線を移していく。
 虚空にぽっかりと窓が浮かんでいる。何もない場所に窓だけがある。その窓は既に開かれ、既知の紅月が夜空に浮かんでいるのが見えた。地下深くで見る月は、不自然で、不愉快で、圧倒的だった。
 光が注がれているのは、少女の寝床。
 魔理沙が苦労して視線を戻す。ベッドの上には骸骨の代わりに頬を紅くして眠る少女が寝息を立てていた。紫を帯びる美しい長髪が布団全体に大きく広がっている。胸の上には一際大きな百科事典をしっかりと抱きかかえている。
 人形のような肢体が、横になったままゆっくりと浮き上がり、ベッドを離れた。忠実な家具は静かに滑り出し、闇の奥へと遠ざかっていく。少女は横になったまま魔理沙に近づき、ゆっくりと姿勢を起こした。
 そこでようやく瞳を明ける。
 思慮に溢れる紫紺の輝きには、深い憂いが宿っている。
「……そこの白黒ね。私の書斎で暴れているのは」
「書斎っていうには、でかすぎるぜ」
「大きさは関係ないでしょ。ここは私のプライベートな場所なんだから」
「謙遜も、ほどほどにしないと……嫌味だな」
 軽口はなんとか叩けるが、手はまだ動かせない。
 魔理沙は意識の深層でそれでもいいと思っていた。あれこれ悩むよりは、こうやって面倒くさいことに対峙していた方がずっといい……自分よりも遙かに巨大な敵に対峙している方が。
「まぁ、そうかしら。確かに、ここはあなたの汚らしい小屋の家財道具を売り払っても、五倍ぐらい足りないほどの価値があるわ」
「うちのガラクタ共なんぞ買い取ってくれる殊勝な古物商なんていないぜ」
「まぁそのくらいの価値はあるのよ」
「しかしまぁ、こんな暗いところでよく本が読めるな」
「あなただって勝手にうちの本読んでたじゃない」
「私は準備万端だぜ。何時だってな」
 嘘だ。もう少し時間が掛かる。
 もう少しで、手が届く。
「……でもそうね、最近はちょっと見づらくなってきたわ。本が読めないと困るのに。鉄分が足りないのかしら?」
「どっちかっていうとビタミンAだな」
「あなたは足りてるみたいね」
「足りてるぜ、いろいろとな」
「じゃぁあなたを頂こうかしら」
「いっておくが、結構高いからな」
 あと、中指の第一関節、一つ分。
「ええと、簡単に素材の灰汁を抜く方法は何処だったっけ……」
 少女が胸に抱いた本を開いた。
 その瞬間を見逃さなかった。唇を思いっきり噛んだ。鋭い痛みが走り、血が溢れる。その代償として自由を取り戻した。ポケットの中の右手に集中した。掌に呼び込んだ。
 しっかりと握った。
 同時に本の兵隊が無数の攻撃を放つ。
 一瞬だけ魔理沙の方が早かった。直線のエネルギーは全て、魔理沙に攻撃が及ぼされる前に乱反射を始める。
 魔理沙の掌にあるのは水晶球。その数は四つに増えている。赤、青、紫、緑。星の呪が刻印され、星の欠片が封印されたそれらは魔理沙の周囲をゆっくりと回転し陣形を描き、主をあらゆる攻撃から守っている。
 右手にはタクト、左手にはありったけのスペルカード。魔理沙が今可能な全て。血を飲み込む。全身を包み込む魔の気配が躍動し、全身に緊張と歓喜が満ちていく。人間から魔女への変転。無条件の興奮。
「……魔法を発動させる前に決着がつくなんて、魔法使いとして恥だぜ」
「ふうん。結構やるのね、ええと……霧雨魔理沙」
「私の名前を知ってるのか?」
「この場所にない知識はないわ」
 その言葉を鍵にして、魔理沙の記憶における検索が成功する。目の前に浮かぶ少女の姿が、先達が残してきた記録に描かれた禍々しい存在とだぶっていく。
 遙か昔に読んだ伝説。魔道を極め一瞬で金を創ったとされる昏睡の錬金術師。
 七つの手と四つの口を持つ、知識と日陰の少女。
「……パチュリー・ノーレッジか」
「あら。私のことを知っていて、私の前に現れたのはあなたで二人目よ」
 パチュリーは少しだけ驚いた顔をする。
「魔法使いの中であんたを知らない奴はもぐりだろ。まさかあの彷徨える図書館とセットだとは思ってなかったけどな」
「だれかがどこかで適当な伝言ゲームをやっただけでしょ」
「ひたすら迷惑な奴だな」
「全くよ」
「おかげであんたと図書館、両方ともの相手をしなくちゃならないぜ」
「その心配はないわよ。図書館の本を傷つけられちゃ叶わないもの」
 パチュリーを、一際美しく一際強い光芒の魔法陣が包み込む。その各所に、強力な魔力が膨らんでいく。
「あなたは……多分、星と魔の法が得意なのね。ええと……こうかしら」
 パチュリーが唇を濡らした。洩れる吐息。スペルを呟く前段階の動作だった。
 それだけで、魔力を籠めた結点がほどけた。
 魔理沙が放った光線を遙かに上回る強大な光の支柱が、四方八方に放たれた。魔理沙の星の結界が直撃弾をなんとか弾くが、バチバチと火花を立てて盛大な悲鳴を挙げる。箒を握った魔理沙自身も、さすがに戦慄を覚えた。
「………嘘だろ」
「私は真実の大海を揺れ動く存在よ」
 抱いていた本を空中に固定させると、間髪を入れずスペルが細々と唱え始られる。瞳を閉じ、髪を大きく広げるパチュリー。

FAAOEIEOAMFMKHNRIGSGRAAOEIEOAMFMKHNRIGSGR…

 右手が素早く印を切って魔理沙に向かって優しく差し出された。
 それは紅の火焔となって溢れ渦を巻く。炎の神の大いなる怒り、街を焼き尽くし人の愚行を浄化する聖なる炎。
 魔女は唇の動きを微妙に変化させる、

UNIAGEARUSZEAROOGKAIHDNIAGEARUSZEAROOGKAIHD…

 左手が素早く印を切って魔理沙に向かって優しく差し出された。
 それは大瀑布の如き水流となって魔理沙に襲いかかる。大いなる大海の大神の涙、大渦の底に住む水棲の妖精の姫の歌声。
「くう…………!」
 獄炎を浴びせられながら水の弾幕を被せられる。水蒸気が濛々と立ちのぼり、一瞬にして視界を失う。魔理沙は奥歯を噛み締めながら距離を取ると、本の群れが容赦なくエネルギーを放つ。水晶玉から光線で反撃するが、絶望的なまでの差は覆しがたい。
 それにしても、恐るべきはパチュリーの魔法行使力だった。敵はスペルカードも使わずにこれだけ強力な法術を短時間で唱え完成させ行使している。しかも聞き間違えでなければ、スペルの詠唱が重複している部分があるようにすら聞こえた。
(七つの手と四つの口、か)
 魔理沙は本当に久しぶりに、己が生命の危機を覚えた。紅魔館に入ってからも、ここまで追いつめられてしまったことはない。そして、いつも冗談をいいながら簡単に危機を乗り越えてしまう、あの極悪非道な巫女はここにはいない。
 生死与奪の権利は、パチュリーにではなく、自分の呪符の中にある。
 唇の端から血を流しながら、魔理沙は壮絶な笑みを浮かべる。
(面白くなってきたぜ)
 彼女にとってこの危機は、この上ない快楽でもあるのだった。