3


 冷たく重い霧がゆっくりと室内に入り込んでくる。それは、これまでのものとは比較にならない重圧感で揺れる。
「さ、こちらよ。お嬢様に失礼の無いようにね」
「場合によるわね」
 三人は扉を抜けた。
 肩口の傷が跳ね、
「っく」
 悟られないように、声を飲み込む。
 ……まず真紅に、包まれた。
 巨大な紅月が支配する世界。
 そこは、吹きさらしのテラスだった。霧のせいで見通しは悪かったが、柵で囲まれた床全体が見渡せる。どうやら湖に出っ張っているらしい。遠く微かに、湖面の漣が揺れた。
 見上げるまでもなく、空全体から紅のセレナが邪悪な微笑みを投げかけていた。霧のせいで月が何倍もの大きさに膨張していた。そこに美はなく、醜悪さばかりを醸し出している。
 テラスには遙か欧州の古城にあるような晩餐用の長大なテーブルが備わっていて、紅いテーブルクロスの上には、等間隔で立てられた燭台が炎を浮かべている。お茶の準備は既に整っているようだ。
 そして。
 客人を迎える主人は、テーブルの一番端、月と湖に背を向けた巨大な椅子に小さく座っていた。真ん中に座ると余ってしまうので、肘掛けに寄り添っている。
 白いワンピースに青白き髪、透き通ってしまうように病的な白さの肌。聖者の如き安らかな微笑。頭と体を覆う聖なる白の衣。
 そして、この世の全ての色素を凝集して精錬した、原初の紅の瞳。
 余りにも幼い、夜の都の王女。
 咲夜が椅子の横に控えると、少女は右手を賓客達に差し伸べた。
「はじめまして、みなさま」
 霧に溶けてしまうような、か細いソプラノだった。
「わたしの紅魔館へようこそ。わたしはこの館の持ち主、レミリア・スカーレット」
「そして今回の悪戯の元凶ね」
「いたずらにしちゃ、おイタが過ぎてるけどな」
 レミリアは口を押さえ、喉を小さく鳴らす。
「面白いわね、人間って。ねぇ、咲夜」
「この方々は特殊らしいんですけどね」
「特殊だぜ」
「ゆっくり腰掛けてお喋りしましょうよ。お茶も入ってるわ。さぁ、どうぞ」
「別に話をしに来たんじゃないけど……躯も冷えちゃってるし、ご馳走になるのは当然よね」
 霊夢と魔理沙が席に着く。
 と、命が困惑した。テーブルには来客用の椅子が二つしか備わっていなかった。
 霊夢が頬を膨らませる。
「もう……ちょっとメイド長、席が足りないわよ」
「あら、ごめんなさい。でも大丈夫。貴方の席はそこよ」
 咲夜が命に指し示す。
 食卓から少し離れた場所に、いつの間にか丸い小さな机と椅子が出現していた。お茶の準備も整っている。
 メイドは微動だにしていないのだが。
(僕が、招かれざる客なのか……)
 命は息を止めるようにしつつ、ゆっくりと椅子に腰掛けた。
 目の前のお茶は、上品な白磁のティーカップになみなみと注がれている。砂糖壺もレモンもシナモンもある。抜かりはない。そして誘うように爽やかな芳香。
 だが、手を伸ばす気にはなれない。
 主人は満足したようで、自分のお茶を美味しそうに楽しんでいる。
 霊夢と魔理沙もそれに倣う。
「……悪者が出すお茶にしては旨いぜ」
「魔理沙のところと互角じゃない?」
「それは聞き捨てならねぇな」
「私もね。魔法使いに負けたんじゃ面目もないわ」
「大丈夫よ咲夜、わたしは貴女のお茶が一番好きだもの」
 レミリアはにっこり笑っている。
「でも……巫女に魔法使いなんて変な取り合わせね。巫女さんはお仕事だろうけど……魔法使いさんはこんなところで遊んでいていいの? 女王ヘカーテの許可は貰っているのかしら?」
「私の仕える神は、もっとずぼらでいい加減で気紛れだから心配いらないよ。怒ったらめちゃくちゃ怖いけどな」
「今の報告しとこうか?」とは霊夢。
「友情は見えないから美しいんだぜ」
 また、レミリアは本当に楽しそうな表情を浮かべる。大理石の彫刻のように、完璧な造型。
「しかし、これだけの力を揮う奴の正体はどんなのかと思ってたが、これで合点がいったぜ。ギュスターヴ・ドレにでも肖像画を描いてもらったことあるだろ」
「わたしは古典的な芸術は好みじゃないの。額には何も飾ってなかったでしょう? 敢えて描いてもらうとするなら、アヤミ・コジマなんかいいんじゃないかしら」
「ミーハーに過ぎるな」
 霊夢がカップを受け皿に置く。
「ま、これだけ統一して印象的な美学を貫く存在ってのも、あんたのような種族ぐらいだと思うんだけれどね。ちょっと場違いなんじゃないの? ここは東の外れの、とんでもない山奥よ。紅い悪夢は欧羅巴へ帰れば良いんだわ」
「ニンニクも月桂樹も馬鹿でかい杭も銀のナイフも持ってきてないが、病弱な悪魔に対抗する手段なんていくつも開発済みだぜ」
「魔理沙、それだけ大きい鞄の割りに準備悪いわね」
「行き当たりばったりが信条だぜ」
 ……ここまで聞けば、命にだって察しがつく。
 この幼い少女が、数多の悪魔の中でもっとも恐れられ、もっとも畏怖と尊敬を受ける種族の末裔だということに。
 滴る血を啜り、
 蝙蝠や狼を従え、
 強大な支配力を司り、
 霞と共に夜に君臨する、その存在。
 唾を飲み込んで、渇きを覚えて。
 目の前の紅茶を飲もうとして、そのあまりの紅さに吐き気を覚える。これは本当に紅茶なのか? 月が紅くしているだけなのか?
 それとも───
 背中を冷たい汗が伝う。
 月の力に幻惑される。
 渇望が、葛藤が、催されている。
 隣を見ると、霊夢がお茶を自然と楽しんでいる。不気味に見えて仕方がない。そんな風に見たくはないのに。実は彼女達も……闇の眷属なのではないか?
 ……ついに震えが出た。
 霊刀を握り締める手の震えが、止まらない。
 もう、限界なのかもしれない。人間としてここに存在するのは。
「お茶のお代わり、もらえるかしら」
 命の苦闘を察知していないのか、霊夢が気怠そうにいった。
 次の瞬間には、ティーカップは溢れんばかりのお茶を湛えている。メイドは主人の側を離れていない。一瞬、魔理沙と視線を交叉させる。それからふーんという表情を浮かべて、霊夢はもう一度カップに唇を寄せた。
「そうやってずっとお茶を飲んでるつもりかしら? お茶代も安くなくてよ」
「夜が明けるまでこうしていても構わないのよ、私としては」
「それは困ったわね。夜は二度と明けないもの。仕方がないから一緒に楽しもうかしら」
「それもいいかもね」
「ふうん……で? どうしたらいいの?」
 レミリアは真っ直ぐ霊夢を見つめる。
 まるで恋に焦がれる少女のように。
「霧を止めて、夜を元に戻しなさい」
「あら、太陽が昇るとまぶしいわ」
「この国には楽しい四季があるのよ。夏なのに陽も出ないから、自分の力を過信した下っ端妖怪やら季節感無視の妖精やらが跳梁することになるわ。そして私のお仕事が増える」
「哀れな下っ端の門番だって現れるな」
「それは美鈴のことかしら。大丈夫、彼女は日が照っててもあんまり大差ないし。だから門番に雇ってるんだけど」
「そうか、それは失礼したぜ」
 レミリアは聞き分けのない子供に諭すような調子で、首をゆっくり横に振る。
「……でも、ここはわたしの城だもの。わたしが何をしようと自由だわ。わたしは人間じゃない。人間とはちがう思考方法で、ゆったり静かに暮らしていくの」
「じゃ、この世からはみ出したところに城でも何でも作ると良いわ。引っ越しそばぐらいなら出前するわよ……とにかく、王女様ごっこは金輪際止めて」
「生真面目にお仕事、大変そう。やめちゃえばいいのに」
「私だって放り投げたいわよ、できるんなら」
「まったく、こんなのが巫女でいいのかしら」
 咲夜がぼやくと、霊夢が無言で睨む。
 しばらくの沈黙。
 完全なる闇の眷属を、その悪魔に仕える忠実な少女を、霊夢はじっと見つめる。
 魔理沙はにやにやと、事の動静を窺っている。
 そして、命は硬直したまま動けない。
「……頼んでも、無駄みたいね」
 レミリアは、咲夜に向かって顔を向けた。
「ねぇ咲夜。これだけ人間と話したのも初めてだけれど、人間に物事をたのまれちゃったのも初めてだわ。今夜は記念すべき日ね」
「そうですね」
「でも、もう疲れちゃったわ。わたしは先にやすみます。咲夜も無理をしないで」
「ありがとうございます、お嬢様」
「ちょっと、自己完結しないでよ」
 巫女と魔法使いが立ち上がった、
 次の瞬間には、幼き吸血鬼とそのメイドの姿は何処にもない。玉座は空っぽで、紅月と霧とが深まっていくばかり。生暖かい風が生気を押し流そうと、ゆっくりゆっくりわだか
まる。
「……逃げ足だけは早いわね」
「つーかあのメイドはやばいぜ霊夢。もし行使してる力が想像通りだったら、対応しようがない」
 霊夢は答えない。
 ただ上を見つめて。
 月のかかった夜の、更にその天蓋を見つめて動かない。
 一言、
「来るわね」
 咄嗟に魔理沙は振り返った。
 命は相変わらず、椅子に腰掛けて硬直していた。悪魔の魔力に抗するのに全身全霊を使い果たしてしまったかように。
「バカ! 命なにしてるっ、死ぬぞ!」
 慌てて命を引き倒し、食卓の下に引きずり込んだ。
 間髪入れず、もの凄い豪雨が降り注いだ。
 ただの雨ではない。
 局地的なナイフの集中豪雨。
 テーブルに無数に突き立ち、その四分の一はテーブルを貫通して止まる。
 テラスに直撃した刃先は折れ、飛び散り、甲高い悲鳴を上げる。
 その凄絶な殺意に、命は我に返る。
 返ったところで何も出来ないので、思わず頭を抱えた。
 テーブルの外では、霊夢が先ほどと同じ姿で仁王立ちしている。勿論、ナイフは降り注いでいる。だが霊夢は動かない。動く必要がない。直撃する短剣は、二つの陰陽玉が正確に打ち払っている。まるでそこにだけ、見えない壁があるかのように。霊夢にその攻撃は届かない。
 やがて。
 嘘のように攻撃が止んだ。
 魔理沙と命が、おそるおそる様子を窺う。
 テーブルは隙間もないほどにナイフが突き立ち、剣山のようになってしまっていた。
 テラスにおいて、ナイフに埋め尽くされていないのは霊夢の周り直径一メートルぐらいだけ。横たわるナイフの骸はそれぞれ月を映して、殺人後の血糊のように紅くうねっている。
「霊夢、だいじょう」
「心配は助かってからにして!」
 考える間もなかった。
 霊夢が身を翻し、一瞬のあと魔理沙が、そのコンマ数秒後に命が続いた。
 轟音と共に、『何か』が堕ちてくる。
 硝子の大窓に飛び込む三人。
 同時にそれが……巨大な塊が、茶会の会場に直撃した。衝撃で、窓硝子がすべて割れ飛散する。
「うわぁ」
 情けない声を挙げたのは当然命だ。
 ぴしゃぁっ!
 紅い何かはテラス全体よりも巨大で、紅魔館の外壁を削りテラスを湖にたたき落とした。轟音と共に巨大な水柱が上がる。同時に、紅い塊にまとわりついていた液体が、紅魔館の壁に叩き付けられられた。
 それは鉄の匂いを帯びていることはいうまでもない。つまり、それは、どんな生物か定かですらない、得体の知れない只の肉塊。
 命の全身を嘔吐の衝動が貫く。
「弱いわねっ、しっかりしなさい!」
 躯を丸めていると、霊夢に背中を叩かれる。
「ここは一本道だ、早く行かないと大変なことになるぜ」
「ほら、いくわよ命」
 荒い息をつきながら、命は頷く。
 地獄だ。ここは。
 泣きたい。でも、泣いたって無駄だ。
 まだ生きているから。だから、立ち上がる。
 それを確認してから、魔理沙が箒にまたがり、霊夢が一歩を踏み出した。そのまま宙を舞う。
 命がなんとか続いた。
 廊下を高速で移動する。と、天井から何かがばらばらとおちてくる。紐が振り回される音、小さな影……人形。
 首を吊った人形が蒼い霊気を上げながら列を成していた。集団自殺の会場を模したように。それらは皆一様に笑う。悪趣味なことに口の端から血を流しながら。小さな手には釣り合わない出刃包丁を握り締めている。
 かぱっと口を開け、邪悪と欲望を剥き出しにして、あり得ない関節の動きで投下、
 魔理沙が躯をひねり、
 命がようやくそれに気づき、
 しんがりに着いた霊夢が玉串で刃を叩き落とす。
 次から次へ現れる殺人人形の群れ。
 霊夢が陰陽玉を飛ばし釣り下がったロープを一気に切り落とすが、数が多すぎて手に負えない。
「魔理沙、曲がり角に気を付けて」
「わかってるぜ」
 やがて、T字の三叉路に突き当たった。
 後ろからくる殺人人形に忙殺されながら、右に曲がろうとして、
「っと千客万来だぜ」
 玄関で出迎えてくれたメイドの少女達が、手に手に短剣を持って殺到する。顔に目はなく、笑った口からは長い牙。たとえ熱愛を抱いてくれているとしても、接吻は遠慮したくなるような表情だった。
 振り向くと、左側からも同様に悪霊のオンパレィドだ。
「ちっ」
 魔理沙が水晶玉を取り出すと、霊夢の陰陽玉のように空中に固定される。取りだしたタクトで指揮をするかのように、魔法使いは少女達を指し示した。
「星の筺、魔の湶、光陰刃となって迸らせ」
 小さく呟いた。
 水晶玉の中に星が浮かんで消え、
 そこから、黒き光線が解き放たれる。何者にも侵されざるストレェトは、亡霊達をかき消しながら紅魔館の廊下を一瞬にして寸断し、突き破り、貫き通した。
 開いた隙間に、三人が飛び込む。
 そこにまた、無限の亡霊がゆらゆらと舞い降りてくる。強力な攻撃も一時のカンフル剤でしかないようだった。
「こりゃいかんな霊夢、やってられない」
「私も同感。今夜は気が合うわね」
「珍しいぜ」
 飛行する二人に、命はほとんど追いついていけない。繰り返される地獄絵図に、狂気に飲み込まれないようにするので精一杯だった。
 最初から三人の共通認識であったとはいえ、足手まといがここまで露見すると、呆れている暇など皆無だった。命自身もそれを自覚しているが、反省する余裕はない。
「ご、ごめ……」
「魔理沙、悪いけどあいつらを引きつけて。これじゃ命が喰われる」
「ここから別行動か。お互い手加減して暴れような」
「殊勝な心がけね。でも、一般人がいる分私の方がハンデあるけど」
「世間的にはそっちの方が評価高くなるもんだ」
 三人は背を向けて立ち止まった。
 霊夢が霊符を右手に四枚、左手に四枚握り締め、片膝をついて半眼で祝詞を唱え始める。
 魔理沙は空中に浮かんだまま、へばっている命の肩をポンポンと叩き、親指を突き立てた。いつもの人の悪い、人懐っこい笑みを浮かべたまま。
「命、貸しにしとくからな。これが終わったら家に茶を飲みに来い。今日の分はその時にこき使ってやる。その代わり、茶の旨さは保証しておく」
「はぁ、はぁ、っ、ま、魔理沙っ」
「また後で、だぜ。少年」
「あ、まって、あの」
 足下に飛来したナイフが突き立つ。
 廊下という廊下、扉という扉、曲がり角という曲がり角から、亡霊メイドが襲いかかってくる。
 命が幼い頃観て怯えた、ホラー映画さながらに。
 霊夢が構える。
「いくわよ!」
「いいぜ」
 霊夢が投げた札は正確に廊下の上下四隅に収まった。同時に迫り来る死霊に向かって、剣印を構え裂帛の気合いを挙げる。
「言霊に従いて我が命を成せ……封魔陣!」
 配置された札から神聖なる純白の閃光がほとばしる。それらは一瞬にして点から線となって結界に至り、近くにいた魍魎を無理矢理巻き込んで浄化していく。もちろん、邪なる血で彩られた館自体も無事ではいられない。
 轟音が響き、館自体を震撼させる。
 苦痛に叫びを上げるかのように。
 それほどまでに強力な一撃だった。


 濛々と煙が上がり、視界が確保できない。
 ごほごほと咳き込んでいると、何者かに腕を取られた。一瞬体を硬くして、
「走りなさい! はやく!」
 霊夢だった。いわれるまま、這々の体で廊下を進んでいく。
「飛んで、まっすぐ」
 努力する。飛び方を忘れそうになっている。
 それでも、走る足に力を込めれば、陸上の選手も叶わないぐらいには跳躍できた。
 二人は混乱の廊下を高速で通過する。
 霊の追手はついてこない。
「一度結界を張って立て直すわ。これだけ敵の魔力が強くちゃあいつの居場所も探せないし」
「う、うん……わかった」
 ということは、魔理沙が敵を引っ張ってくれたということだろう。
「……魔理沙、大丈夫かな」
「いい加減、自分が人の心配を出来るような立場じゃないことに気づいてよね」
「でも、お礼、いってないし」
「後でいえばいいでしょ。どうせ森の中の掘っ立て小屋で本に埋もれてるんだから、その時に」
 ……立ち止まった。
 そこは珍しく、窓の並んだ廊下だった。
 夜空の月から斜めに落ちてくる紅き光が、窓枠の形で床に描かれている。
 そして。
 その廊下の中央に、紅魔館の侍従長が腕を組んで立っていた。
「ごきげんよう、おめでたい巫女さん」
「……こっちがハズレだったみたいね。すんなり通してくれるとうれしいんだけど」
「通さないよ。可哀想に、迷子をこんなところまで連れまわして」
「あんたこそ、ひ弱なお嬢様の護衛をしなくていいの? 連れの魔法使いはとぼけてるけど、ああ見えて見た目以上にとぼけてるから、たまたま寝室に乱入して不埒なことをするかもしれないわよ?」
 十六夜咲夜はふふんと笑う。
「大丈夫、お嬢様は安全なところでお休み中よ。お嬢様は誰にも触らせない。絶対に。たとえ、お嬢様の意志がどうあっても……」
 瞳に宿るのは、強固な意志か、それとも狂気か。
 メイドはそのままの姿勢を保ちつつ、音もなく浮遊。両手に構えたナイフを以て霊夢に襲いかかる。
 霊夢は玉串で右手のナイフを受け止め、
 メイド長の左手の手首を掴む。
 陰陽玉が捕まえた彼女の頭めがけて殺到するが、
 一瞬の後に彼女は自由になり、数メートルの距離が空く。霊夢の掌は宙を掻く。
 メイド長の背後から、ぎらぎらと光るナイフが八本、忠実な僕の様に浮かび、軽快に回転し、一瞬ブラウン運動を模して踊ると、霊夢に向かって殺到した。
「命、離れてなさいよっ」
 霊夢は最小限の動きでそれをかわす。
 咲夜が攻撃を放ち、
 一、
 二、
 三、
 四、
 五、
 六、
 七、
 霊夢の両手に八本の長針、
 ナイフの軌道に沿って投擲して、
 完璧な迎撃、
 七本まで直線の殺意を打ち返し弾き落として、
 ……八本目が飛んでこない。
「!」
 瞠目して振り返る。
 呆然とした命の背後に咲夜が立っていた。
 その手には八本目のナイフがあって、
 静かに振りかざして、
「甘いわね」
 一瞬の出来事だった。
 振り返った命は、既に魅了されていた
 恐怖よりも、命を強く包んでいるのは興奮だった。自分が何をされようとしているか想像できるのに、それでも我慢できない何かが確かに存在している。紅い紅い光の中で、自分は朱く染まる。その瞬間に自分は果てて消えるのだ。その瞬間が待ち遠しい。渇望する。
 欲望が加速する。
 はやく、
 はやく、
 はやく、
 はやく、
 咲夜は笑みを崩さない。
 さぁ下さい、
 僕にそれをください、
 僕を満たしてください、
 僕を狂わせないでください、
 お願いだから、
 お願いだから、
 お願い、
 女性は瞳を細める。
 ナイフが閃き、紅い光を弾き、
 首筋にある約束された痕めがけて、


 霊夢が命に飛びつき、命を押しのける、
 霊夢の背中にそのナイフが、
 落ちてくるそのナイフが、


 ……命は絶叫した。
 闇が世界を覆った。