■ 桔梗   Platycodon grandiflorum        【十六夜 咲夜】


 いつものように代り映えのしない、宵の口。
 世界の運命に従って、真ん丸の月が東の山の稜線から姿を見せる頃、湖のほとりにひっそりと立つ洋館の窓が、空に向かって開かれていく。
 闇に映えるほどに紅い館。
 紅魔館。
 東の最果てにある幻想郷では、おおよそ唯一西洋的な建物である。
 その中の住人も西洋的かと問われると、そこまで保証はできないとしても。
「……午後七時三十分。今夜も良い夜ですね」
「取りたてて血も流れない、退屈な夜だけどね」
 長い長い館の廊下を、主人と僕が並んで歩いていく。
 いつもの習慣で自分の懐中時計を確認したのが、十六夜咲夜。紅魔館に住まう唯一の人間にして、紅魔館のメイド長を務めている。
 そんな咲夜を視界に入れているようで、何にも興味が無いようにも見える倦怠けんたいの表情を浮かべているのが、レミリア・スカーレット。背格好を見れば咲夜の幼い妹という風情だが、これでも五百年を生きている吸血鬼の姫であり、館の持ち主である。申し訳のような小さな黒い羽が、背中で退屈そうにしていた。
 最近はレミリアが持ち前の我侭わがままさを発揮して遊びに行く夜が日増しに増えていたが、どうやら今夜はまだそういう気分ではないらしい。一々お供をしなければならない咲夜としては、今日ぐらいは館でおとなしくしていて貰えると、遣り掛けの仕事が存分にこなせるのでありがたいなと考えていた。
 五百年を生き長らえても、稀有けうなことに、レミリアは少女の精神を備えている。勿論、人間の精神の脆さを測定器具に使うのはそもそも間違っているのだが。
 ただ、自他共に認める悪魔の僕である咲夜もまた、そういう観念的な意味では、人間の枠に入らない少女であった。
 アンニュイを上品な顔に貼り付けてレミリアが、顔も見ないで咲夜に問い掛ける。
「咲夜が何を考えているか、当てて見せようか?」
「どうぞご自由に。もっとも、正解しても景品はありませんよ?」
「じゃあ、咲夜が何を考えているか考えている私が何を考えているか、当てて見せなさいよ」
「それは意味無しジョークですか? お嬢様のいい方を借りれば、『今夜の咲夜は仕事をしながら私に邪魔をされる運命なのよ』というところでしょうか?」
 レミリアは少しばかり眉をひそめた。
 が、咲夜が自分のほうを確かめもしなかったので、瞬時に表情を整える。
「仕事仕事というけれど、メイドは沢山いるんだし、咲夜はお休みを取れないぐらい忙しいの? メイドたちを休ませても、咲夜が休んでるところを見たところがないんだけど」
「あら、私はそれなりに休んでますわよ。レミリア様の前にいる時は仕事をしているわけですから、レミリア様が見ていない時に休んでいるのは自明の理です」
「私のせいで仕事が増えているような言いぐさね」
「それは買い被りですね」
「では、私が見ていないところはずっと休んでいるの?」
「あらあら、私はそんな風に見えますか?」
「見てないところで休んでいるのだから、見えるわけないじゃない」
「当然ですわ。私は時間が流れる限りレミリア様のそばにいますものね」
 だが、彼女は時を止められるのだ。彼女の懐中時計を見て、額面どおりに受け取る知人はあまねく天地において存在しない。
 完璧で瀟洒なメイド――十六夜咲夜を、人は悪魔の犬と呼ぶ。
 呼ばれるほうもおおむねそう思っている。
 だが、飼い主の方は忠実な番犬についてどこか含むところがありそうだった。
 ――悪魔の心は、いつも夜空の月に現れる。


 ほどなく、それは館の主の意によって始まった。
「咲夜ー。咲夜ー。」
「はいはい、何でしょうかレミリア様」
「『はい』は一回でいいの」
「はいはい」
 無駄に広い大広間。ちっとも威厳の無いレミリアが、大広間のせり上がった台座の上に大きな長椅子を置いて、そこに足を組んで座っている。ほんの僅かに身長と足の長さが足りないせいで、威厳よりも可愛らしさとユーモアを醸し出しているのが残念極まりない。
 咲夜はエプロンで手を拭きながら、レミリアの前に立つ。
 レミリアはなんだか満足そうに頷くと、一つわざとらしい咳払いをしてからおもむろに宣言した。
「咲夜、私、花壇がほしいの」
「花壇? 花壇なら、目の前にうんざりするぐらい広いのがありますけど。阿蘭陀風の」
「そうじゃないの。仕切りがいらないぐらい大きい奴……そうね。向こうの丘が花で埋まるぐらいがいいわ。ロマンティックでしょう?」
「……………………」
 咲夜は溜息をつきそうになりつつも、瀟洒な態度を守った。いつものわがままだ。しかも、今度は結構大規模になりそうだった。大体、夜行性の吸血鬼が花畑を望むなんて滑稽な話ではないか。ヨルガオばかり植えればいいのだろうか。
「それで、花は何にしましょうか」
「何でもいいわ。咲夜に任せる。とにかくいーっぱいの花がほしいの」
「そうですか。では今夜からでもメイドたちに指示を出します」
 途端、レミリアが不満げに頬を膨らませる。
「咲夜に任せるっていったでしょう? ほかのメイドたちにやらせては駄目よ」
「……ちょっと、わがままが過ぎませんか? お嬢様」
「それからもうひとつ」
 姫君は、メイド長の小言を聞き入れるつもりなどさらさらないらしい。
「わたし以外の誰も、わたしの花畑に入れては駄目よ? これはいつも押しかけてくる能天気な連中も、不届きな妖精も例外じゃないわ。わたしが駄目といったら駄目なの。分かるわね?」
 どうやらこれは挑戦らしい。
 しかもなにやら裏がある。
 だが、咲夜はあっさり頷いた。
「分かりました。期限はいつまでに?」
「どうせわたしは飽きるのが早いから、忘れた頃でいいわよ……言われれば思い出すから」
「気の長いことで」
 頷くと咲夜は、玩具を見つけた子供のような表情を浮かべているレミリアの前を辞した。いつものように仕事を始めながら、懐中時計を盗み見る。
 いつもと同じように、今夜もまた長い夜になるだろう。


 夜が更けた頃。
 咲夜は紅魔館地下の大図書館を訪れていた。しかしこれは、調べ物と言うよりは、毎晩の巡回みたいなものだ。ここに住まう住人は、実はレミリア同じ位に手間が掛かる人物である。今も、本を読みながらぐしぐしと鼻水を啜りあげている。
「喘息の具合はいかがですか? パチュリー様」
「なんだか風邪みたいよ。咲夜が用意してくれる健康茶は欠かさず飲んでいるのにね」
「ならしばらくは、夜に窓を開けるのをやめた方がいいかのかもしれませんね」
「で、何の話だったかしら」
「お嬢様の欲しがる花壇を、どうしようかと思っているというお話ですね」
「それは相談かしら? 咲夜なのに、人をあっさり頼むのね。珍しい」
「あら、別にパチュリー様にお願いするのではありませんよ。借りたいのは本ではありませんから」
 図書館の隅にある勉強机に向かって、咲夜は方眼用紙と色鉛筆を広げ、
 たかとおもうと、一瞬で花畑の設計図らしきものが完成した、らしい。時間を止められる咲夜の早業である。別に興味はないので、紫の衣を纏った魔女は、古代の本からわざわざ顔を上げたりしない。鼻水が垂れないように気を使う必要はあるにしても。
「それで、方針としては植え替え中心で行こうかなと」
「あまりきっちりとしたものは出来そうにないわね、それじゃ」
「多分ですけど、一面に花が咲いていればお嬢様は納得されるのではないでしょうか? でも、単一の花ばかりを植えるというのも、病気が蔓延したらすぐに全滅しちゃうでしょうし。こちらも遣り甲斐がありませんわ」
「秋の七草なんてどうかしら。分かりやすくていいし、種類も多くて世話もしがいがあるでしょう」
「それは唐突なお話ですけど? パチュリー様になにか意図があることかしら」
「私、本と夢と幻像と、干からびた押し花でしか見たことがないから、実物が見たかったのよね。全部が一斉に咲くところ」
「…………………」
 咲夜はパチュリーをジト目と多少引き攣った笑いで見つめつつも、既に秋の七草が示された本を取り出している。パチュリーは認めたがらないが、この大図書館における本の配置について、魔女とメイド長は互角の記憶を有しているのだ。
「でも、さして悪い提案ではありませんね」
 咲夜は頁をめくりながら、図解で示された秋の七草を……その中でも特に、紫色の花に視線を落としている。


 朝が来た。
 この日、レミリアは何処へも出かけないで、大人しく就寝した。
 彼女は非常に強力なので、吸血鬼だからといって別に太陽の下を出歩けないわけではない。レミリアが夕方起き出して早朝就寝する吸血鬼的「早寝早起き」を身につけているのは、ひとえにメイド長の教育の賜物だった。おかげで、周辺の住人は大変迷惑しているが、紅魔館の住人が感知することではない。
 さて、この館の大きな門を守護する妖怪は、紅美鈴という名前である。
 彼女はれっきとした妖怪だが、人当たりのいい性格といい、健康志向の能力といい、平平凡凡とした傾向が災いして、アクの強い館の住人とは一線を画す存在だった。もちろん、美鈴の方が浮いているのだが。
 さわやかな目覚めと共に、例によって門の前に立った美鈴は、一つ大きなあくびをした。今日も取り立てて何もない一日だろう。おおよそ紅魔館で一番の閑職が門番であることは、自他ともに認めるところである。
「おはよう、美鈴」
 あくびが中途半端なところで固まって、美鈴は慌てて噛み潰した。
 十六夜咲夜が門から出てくるところだった。
「あぁ、これは咲夜さん。おはようございます」
「相変わらず暢気なものね。私が不埒な侵入者を退治していなかったら、今ごろ紅い大惨事よ」
「え? え? そんなことがあったんですか?」
 大惨事が紅くなるのは、別に紅魔館が危機に晒されるという意味ではない。役に立たない門番が生贄にされるサバトが開催されるだけのことである。心底震える美鈴に、咲夜は完璧な微笑を浮かべる。
「あったかないかは自分で気づくことじゃない? 門番さん」
「はぁまぁ、そうなんですけどね」
 完璧なメイド長にそういわれると、自分は返す言葉がない。萎縮しそうになるところで、美鈴はようやく、咲夜が持っているものに気づいた。
「咲夜さん、それ……」
「ああこれ? 別にナイフから宗旨変えしたわけじゃないのよ? 手品にも似合わないし」
 咲夜が持っているのは大きなくわだった。濡れた土に塗rb>まみれている。が、咲夜が野良仕事なんてするだろうか? しかもこんな朝方から。汚れているのは鍬だけで、いつもどおりメイド服には埃一つ付いていない。もともとメイド服は作業着なわけだから、汚さないという発想もおかしい気がするのだけれど。門から出てきたのに汚れるという発想もおかしい。広大な館の何処でなにをしていてもおかしくないとはいえ。
 ただ、鍬すらそれなりに似合ってしまうところが、この女性の完璧さを示しているのかもしれない。
「まぁそういうことだから、せいぜい侵入者を入れないように頑張ることね」
 そういって、咲夜はまた屋敷に入っていく。
「は、はい」
 美鈴は敬礼するような勢いで咲夜を見送った。
 門番を頑張ることは勢い、さらに屋敷から孤立することでもある。
 彼女はしょげながらも、メイドか誰かに食事を持ってきてもらえる方法はないかと算段を始めた。


 正午過ぎ。幻想郷の大部分には細かい煙雨が降りしきっていた。
 とはいえ、外界から隔絶した図書館にはほとんど影響がない。耳を済ますと低周波のような雨の連なりが微かに届くぐらいなものだ。本の大敵である湿気を完全に遮断するためだ。
 パチュリーは昼寝の時間らしく、姿を見せていない。
 悪魔も魔女も眠るときは眠るのである。
 そして、そういう刻限こそ、悪魔的な人間が世に憚るのである。
「やれやれ。酷い雨だ」
 黒ずくめの魔法少女が、農夫よろしくタオルを首にかけて、図書館の本を物色している。パチュリーが起きている時だと自由に本を持ち出せないからだ。でなければ、雨の中わざわざ出掛けたりはしない。魔理沙を隠すのは霧雨の中、というわけである。
 だが、単純な行動パターンを読まれたのか、図書館には真紅の罠が待ち構えていた。
「魔理沙ー。あそぼー」
「うわ、こら、抱きつくな。静かにしろ」
 館の主の妹である吸血鬼、フランドールだった。あまりに強力な魔力を有しているので館に半ば封印されている。レミリアよりも更に純粋培養な、少女の結晶だった。
「さてはお前が外に出ようとしたから、雨が降ったんだな」
「ひどいー。それは言い掛かりよ。お外を見るたびに雨が降ってるんだもの」
「じゃぁお前が外を見なければ雨は降らないっていう訳だな。便利この上ない」
「魔理沙がずっと一緒にいてくれたら考えてあげる」
「かなり難しいな」
 と、そこへぶつぶつと本を読みながら歩いてくる人影が。
「やばっ」
 魔理沙とフランドールはいっせいに本棚の影に隠れる。魔理沙はどこにだしてもおかしくない侵入者であるが、フランも本当は就寝時間である。
「千と五百八十二、か。お嬢様ならこの運命もみられるのかしらね」
 歩いてきたのは図書館の主ではなく、神出鬼没のメイド長だった。
 本を読みふける姿は珍しいといえよう。彼女は他人に隙を見せる行動を取ることはない。
「あいつも本なんて読むんだな」
「咲夜だって知らないことはあるんじゃないの?」
「なかったら、私やパチュリーなんかは廃業だぜ」
 咲夜は二人が隠れている本棚をそのまま通過しようとして、
「そこのお二人。無駄に暴れて私の仕事を増やさないでいただけるかしら? こう見えても忙しいのよ」
 二人はびくっと震えた。近くに積んであった本が二、三冊落ちる。顔を見合わせて口に指を当てるポーズはそっくりだった。
「ああもう、美鈴にはあれだけ釘をさしておいたのに侵入者を許して……お嬢様には黙っていてあげますから、遊んだら帰ってね。妹様も早く寝てくださいよ」
 そういうと、咲夜は立ち止まりもせずに歩み去り、広大な図書館の一角にある黄色いドアを抜けて姿を消した。
 また二人きりになった魔理沙とフランドールは、影から出て首を捻った。 
「血も涙もないメイド長が、なんだあの様子は。最近ああなのか?」
「ううん。普段は別にいつも通りだと思うけど。悩みでもあるのかしらね。似合わないけれど」
「私がみるに、あれはきっと恋の悩みだぜ」
「そんなことないでしょ」
「私はの魔法使いなんだから、間違っているわけがないだろ」
故意に間違っている可能性はあるんじゃないかしら」
「フランドール、お前本当に暇なんだな」
「四百年前から暇だよ」
「それだけは心底同情するぜ」


 午後四時過ぎ。
 そろそろレミリアが目覚める時間とあって、紅魔館は慌ただしい時間を迎える。メイド達は駆けずり回って掃除や洗濯をこなし、締めきっていた窓を少し開けて澱んだ空気を追い払う。夜が近づくにつれて紅魔館が大きく見えるようになっていくのは、中と外の温度差が影響しているわけでもないのだろうが。
 そんな多忙時に、紅魔館のドアを叩く訪問者が現れた。
「もう、なによこんな時間に……美鈴は何をしているのかしら」
 珍しく額の汗を手の甲で拭いながら、正面の大きな扉を開けて、咲夜は来客を確認した。
「あ、出てきたわね」
 立っていたのは、年中無休でおめでたくも涼しげな格好をしている博麗の巫女である。この悪魔の館を頻繁に訪問する人間は、この少女と霧雨魔理沙ぐらいなものだろう。
「正面から正々堂々と現れるのはどっかの魔法使いと違っててまぁ許してあげるけど、今は本当に忙しいのよね。何の用かしら」
「せっかく気を効かせてあげたのにいきなりその言い様はなによ」
 直情的な霊夢はすぐにむくれるのだが、それは長く続かない。 
「まぁいいわ。香霖堂こうりんどうにいったら、霖之助さんがあんたに頼まれてた物品を見つけたからって。言付けるようにいわれたんだけど、もうせっかくだから持ってきちゃったわ。あんたんところ紅い扉だし」
 咲夜は一瞬顔をしかめ、霊夢から視線を外して思案するようだったが、すぐに余裕の表情を取り戻した。
「紅い扉かどうかしらないけれど、そういう用件なら美鈴に伝えてくれればいいのに」
「ああ、あいつならいきなり飛び蹴り食らわせてきたから返り討ちにしておいたわ。もうちょっと教育したほうがいいわよ、いろいろと」
「あの子はあれで職務に忠実なのよ。愚昧とも言うけどね……」
 咲夜は頭を抱えて、それから霊夢に手を差し出した。
「ま、ありがとうといっておくわ。それ、受け取るから」
 霊夢が持っていたのは、金属製の箱だった。三十センチ四方で、片側がヒンジで止まっている。
「代金はまたツケらしいわね? お金預けてくれたら霖之助さんに渡しに行くけど」
「巫女まで賽銭詐欺を始めるようになったの? 世の中間違ってるわよね」
「誰がよ! それよりもなんだか言動がいろいろ不審ね。また何か企んでるんじゃないの?」
「それよりもいいの? さっさと帰らないと、お嬢様が起き出してくるわよ」
 本当は食事をたかろうと思っていた霊夢も、それを聞くとすごすご退散せざるを得なかった。レミリアにまとわりつかれたら鬱陶しくてかなわない。彼女は、訪問時間を間違えたことを悔やむのだった。


 そして、また――
 いつものように代り映えのしない、宵の口。
 世界の運命に従って、真ん丸の月が東の山の稜線から姿を見せる頃、湖のほとりにひっそりと立つ洋館の窓が空に向かって開かれていく。
 闇に映えるほどに紅い館。
 紅魔館。
 この時間こそが、その名に相応しい姿を館が見せる瞬間である。
「……午後七時三十分。今夜も良い夜ね」
 一日の仕事を終えた紅美鈴が、紅魔館の大きな時計台を振り返って頷き、それから大きく伸びをした。
「さて、私の仕事も終わりだねぇ。咲夜さんに食事を貰ってこようかな」
 紅魔館はそれ自体が夜に活動する魔物である。だから、門番の仕事は昼間に限られるのだった。
 門から館に向かって歩いていくと、館の扉から数人の妖精メイド達が飛び出してくる。なにやら血相を変えている。美鈴はメイドの一人を呼びとめた。
「あれ? あんた達どうしたの?」
「お嬢様がいらっしゃらないんです」
「また何処かに出かけられたんじゃ? 咲夜さんは?」
「それが、メイド長もいらっしゃらないので……普段なら出かける際は事細かに指示をされていくのですが、そんなこともないから」
「どっかにいるんじゃないの? 館は広いんだし」
 基本的に暢気な美鈴と違い、メイド達は非常に真面目だった。美鈴をキッと睨み付けると、「失礼します」といって方々に散っていく。
「いらっしゃらないとしても、二人ともどうにかなる方じゃないんだし、そんなに心配しなくてもいいと思うんだけどねぇ」
 それよりも無事に晩御飯にはありつけるのだろうかと心配をしながら、美鈴が館に向かって歩み出したその瞬間、


 夜空全体に鮮血がぶちまけられた、
 かと――錯覚した。


 圧倒的な魔の気をぶつけられて、美鈴は一瞬たじろぎ、なんとか背後を振り返る。
 館の向こうに連なる丘の方で、巨大な炎の柱が天に向かって突き立ち、夜空を染め上げていた。
 血の色よりももっと紅い、それは運命の深紅そのものだった。
「お、お嬢様……なのか?」
 一瞬立ちすくんだが、それでも門番として確認しなければならない。
 美鈴は宙に浮かび上がり、もう消え始めている魔力の発生源へと向かった。
 そしてそこで、もっと不可解なものを目にし、言葉を失った。


 広大な花畑だった。
 紫を中心に、ピンクや黄色や白の花が、入り交じりながら丘を覆い尽くしている。
 緑の草原をバックグラウンドにして、花が霞のようにたゆたっている。
 それは桔梗。
 それは萩。
 それは尾花。
 それは女郎花。
 それは葛の花。
 それは撫子。
 それは藤袴。
 丘全体が七種類の花で見事に染め上げられていた。
 そしてそこに、三人の影が落ちていた。
 一人は、夜だというのに日傘を差して、上空の美鈴を見上げて微笑んでいる。
 一人は、巨大な気を放ったばかりで影すら揺らいでいる、吸血鬼の姫。
 そして最後の一人は、花畑の中央でうつぶせに倒れていた。いつもは塵一つつかないメイド服の背中には、真赤な鮮血が飛び散っている。でも美鈴には何故かその姿が、至極安らかに眠っているようにも見えるのだった。


 ……一体これは、
 美鈴は戦慄を覚えながら呟いた。
「いったいこれは、なにがあったっていうんだ?」

      ☆

 幻想郷において好んで日傘を所持する少女は、多分に胡散臭いと相場が決まっている。
 レミリア・スカーレットが日中出かける時は日傘が必須だし、隙間を操る某妖怪に至っては存在自体がいかがわしい。
 そしてそれらに共通するようにまた、この風見幽香という妖怪もまた、昔から日傘をこよなく愛用しているのだった。
 成り行き上、紅魔館の客となった彼女は、赤い髪の使い魔が淹れた紅茶を飲んで渋い顔になった。
「この館ではお客に、こんなに不味いお茶を出す風習があるの? ぶぶ漬けの方がまだましね」
「咲夜がいないんだからしかたないわよ」
 パチュリーは自分専用の召使を貶/rb>けなされてひどく立腹したが、一番傷ついたのは悪魔本人だろう。既に姿が見えなくなっている。
 ここは、紅魔館の大図書館。
 館の主な住人はみな揃っている。神妙な表情の美鈴も、暇そうに転がっているフランドールもいる。応接室などに陣取らなかったのはなりゆきだが、準備を監督するメイド長が不在だからだったのか、パチュリーが参加しないからなのかは定かではない。
「で、この状況で私はなにをすればいいのかしらね」
 幽香が、例によって少し上方に備えられた椅子で足を組むレミリアを見上げて問う。レミリアの細く小さな手とアームレストの間には、霊夢が届けたあの金属製の箱が置いてあった。
「被害者以外の面子が集まってすることといえば、密室の解明しかないでしょうに」
「私も被疑者なのに? 犯人は自明なのに? 罪を裁く審判もないのに?」
「大切なのは、過程と動機よ。そうよね? パチュリー」
「どうせ幾万の推理小説のどれかのパターンには適合するんでしょうけどね」
「贅沢はいわないのよ」
 幽香はいままでこの館に近づかなかった自分の勘が優れていたことを改めて悟った。
 なにしろ、ここの住人はおおよそ面倒くさいのだ。
 溜息をつき、美味しくないお茶をもう一度口に含んで、通りすがりの即席探偵は口を開いた。
「じゃ、最初に謎を設定しておくわね。解くべきものは二つ。
 一つは、忽然と出来あがった花壇の謎。
 もう一つは、どうして十六夜咲夜がああいう目に遭ったのか。
 ――でも、この二つはどうやっても切り離せない。そうよね? お嬢様」
「そうね。間違ってはいないわ」
 レミリアは愉快そうに笑う。幽香はそれが鼻についたが、顔には出さなかった。
「ここにいる人達の話を聞いた時点で、一つ目の謎は既に解けているわ」
 これは皆が頷く。だが、説明は必要だろう。
「つまりこういうことよね。お嬢様の無理難題を押し付けられて、十六夜咲夜がここに来て花畑の設計図を書いた時、パチュリー・ノーレッジは喘息でも風邪でもなかった」
「そう。あれは花粉症だったの。だから咲夜は窓を閉めるっていったんだと思う」
 紫の魔女は本を読みながら頷く。
「昼間に霧雨魔理沙が主の目を盗んでここへ潜入した時、そこの妹君は嫌味を言われたわね」
「あたしのせいで雨が降っているっていわれたら、へこむわよ。あの時はもう十日以上も雨がふっていたんだから」
 フランドールは床に転がって頬杖を付き、不満げに足をばたばたさせていた。
「それはそうよね。その頃は梅雨だったんだから……それに、一番大きな証拠はといえば、お嬢様が咲夜に花壇をせがんだ日と、今日の月の位置が全く一緒だったということよ。これはつまり、月の運行が一巡したことを……対になる日であることを示している。すなわち、お嬢様が咲夜に花畑作成を命令したのは、阿蘭陀式の花壇でチューリップが満開の春で、今日この日、咲夜の花壇が皆の知ることとなったのは、荻も茂った秋の日であるということ。別に花畑は一日で出来たわけじゃないわ。あそこにずっとあって、咲夜が懇切丁寧に手入れを続けていたのでしょうよ」
 美鈴が顎に手を当てて首を傾げる。
「でも、あんな場所にあるとしたら気づきそうなもんなんですけど……私は門の前にずっと立っていたんですし、見えない場所でもないんですけどね」
 全員の冷たい目が美鈴に注がれる。
「なんですか、その視線は」
「因果応報、諸法実相といったところかしらね」パチュリーが呟く。
「つまりそれは、咲夜一流のミスディレクションね」
 幽香は説明を続ける。
「お嬢様は始めに無理難題を提示したわ。『わたし以外の誰も、わたしの花畑に入れては駄目よ?』とね。咲夜が自分一人で花畑を整備していると誰かに告げれば、面白がって悪戯しにくる奴を呼びこむようなものじゃない? あの黒白の魔法使いとか、花を追いかける私とかね。だから、咲夜はまず花を選んだわ。秋の七草という花たちを」
 花畑から一つ失敬した桔梗を取り出して眺めてみる。
 見事な花だと、幽香は感心した。
「もともと花壇に植えるような花々でもないから、花をつける前は単なる野草にしか見えないわ。観察眼の乏しい人にとってはね。それに、『七草』という概念それ自体が、花であると認識させることをおぼろげに阻害する。さらに、季節感に乏しい紅魔館の窓を巧妙に、なかなか開けさせないことにして、花畑を見つけにくくしたのね。門番を門に張付けて中と外の連絡を少なくしたのもそういう理由でしょう」
「でも、私は咲夜さんが鍬を持って出てくるのを見ていますよ? 春の終わり頃ですが」と門番。
「それも貴方の意識を逸らしているのよ。メイド長が泥まみれになって野良仕事なんてするはずないと思ったでしょう? だから、咲夜が一人で花畑を整備しているなんて頭の隅にも考え付かなかったのね。でも実際その頃、咲夜はあちこちから植物を植え替えて、どろどろに汚れていたのよ。どう植えれば一番綺麗に色が混じるか、雑草を取り除き、妖精よけの結界を張り、花期が同じになるように一定の花の時間を止めようとしたり……その努力は尋常ではなかったはずよ」
 レミリアはそれなりに満足そうに聞いているが、フランドールは退屈過ぎて眠ってしまっていた。
「ところが処暑の頃、咲夜にとってちょっと予定外の事が起こった」
「霊夢の訪問ね」とレミリア。
「ええそうよ。香霖堂で前々から購入予定だった金属の箱を、博麗霊夢が珍しいお節介心を発揮して届けてくれたことね。それ自体はたいしたことではなかったんだけど、なるべく外部との接触を断っていた彼女のシナリオが、霊夢の尋常ならざる勘に介入されると、どういう事態に展開するか、彼女には読めなかったのよ。ときに霊夢は、お嬢様の支配する運命からすらするりと逃れてしまうのだから……結局、その心配は的中したわ。それから数日して、別段花もない博麗神社に私がなんとなく訪れることになったのだから。そこで、私は十六夜咲夜の準備した花畑の存在を察知した。そしてそれが満開になる日を待っていたという訳よ。こうして存在自体をひたかくしにされていた花の密室は、遂に他人に知られることとなったの」
 そこで、幽香はまたお茶を飲んだ。既に冷めていてさらに美味しくなかったが、どうやらお茶のお代わりは頼めないらしい。身に合わない労働だな、と思った。
 ただ、少ない聴衆はそれなりに聞き入ってくれているらしい。
 最後まで話さないわけにはいかない。
「では、クライマックスね。おりしも満月の今晩、私は以前から決めていたスケジュール通りに咲夜の花畑を訪れる為、出かけたわ。花のある場所なら何処へでもいくのが私ですからね。さすがに優秀なメイド長は、花畑から遠く離れた場所で私の存在を察知し、防衛戦を繰り広げたわ。私に言わせればまだまだだけど、これだけ強い人間は長い歴史でもほとんどいないわね。彼女はありとあらゆる手段で私を妨害したけれど、やっぱり僅かながら私の方が優勢だった。彼女は他の何者にも花畑を気付かせないように、静粛に戦ったのだもの。普段の力を十分には発揮出来なかったことでしょう。でも私は容赦しないで、徐々に押し込んでいき、次第に咲夜は防戦一方になった。そして、遂に花畑の上空まで入り込んだのよ。彼女は花畑に降りていき、下方から最後の迎撃を試みるつもりだったみたいだった。そこへ、」
「私が現れたのよ……不幸なことにね」
 レミリアが傲然と言い放った。 


 ――そう。そのとき最後に、風見幽香は十六夜咲夜にこう告げたのだ
「残念だけど、私はいつも傍観者なの。そんなに頑張らなくても、花には手出ししないわ」
「どういうことなの?」
 時間を止める暇もなく、
 咲夜の胸から細い少女の腕が生えていた。紅い爪がギラリと輝く。
 自分が噴き上がる劫火の中に晒されていると感じる。
 止めど無く吹き出す血は気が遠くなるぐらい紅い。
 そういえば、咲夜は結構長いこと忘れていた気がする。自分の血もまた、こんなに紅かったんだということを。
「私の花畑に誰も入れるなといったでしょう? ――咲夜、あなたは何故私の花畑に立っているの?」
 背後で、真紅の恐怖が囁く。
 昇ってくる満月が紅く紅く染まる。
 いや、月だけじゃない。足元に広がる花畑全てが紅く染まっていく。
「お……嬢さ……ま」
「これが貴女の運命なのよ。解るわね、私のしもべ」
 何も答えられなかった。
 そのまま、メイド長は花畑の中央に崩れ落ちた。
 咲き誇る桔梗が、焦点を失った彼女の瞳に一輪、映っている。


 幽香は桔梗の花を眺めていた。色のない図書館において、その紫だけが罪深く、また強い。
 美鈴は笑えるぐらい顔色が褪せている。
「そ、それで咲夜さんは、大丈夫なんですか……?」
「殺すぐらいなら最初からメイドになんかしないわよ」
 レミリアは美鈴のごく人間的な反応が詰まらないようだった。彼女にそれ以上を求めるのこそ非道だと、幽香などは思うのだが。
「まぁ最近は、咲夜が私のことを軽くあしらっている素振りがあったりなかったりしたから、一度ぐらいは主従関係を確認するのも暇つぶしになるかな、って思っただけのことよ。花畑も口実に過ぎないわ。さすがといえる仕上がりだとは思うけれどね」
「ではさしずめ、それは無我の匣とでも言うべきものかしら?」
 幽香が睨み付けると、レミリアは箱をぽんぽんと叩いて笑い返した。よくみると、箱には返り血が数滴飛散しているのが伺える。
「心臓ぐらい奪っておかないと、咲夜は時間を止めて自分の世界にしてしまうからね。周囲に流れる時間に張付けることが、咲夜を完全に屈服させる唯一の手段なのよ。まぁ、鍵穴のない鍵箱を自分で準備するところまで咲夜が己の運命を『視て』いたのなら、悪魔の僕としては申し分ないわ……さてさて、いつまで休暇を取らせるべきかしらね。あまり不味いお茶は飲みたくないもの」
 そういうと、館の主はこの場の全てに飽きたかのように浮きあがって、そのまま姿を消した。
 パチュリーは石像のように読書に戻り、美鈴はこちらに一礼してから、眠ったままのフランドールを恐る恐る抱き上げて運んでいった。
 一人に幽香はまだ、桔梗の花を眺めている。
 考えている。
 何故あの花畑で、桔梗が強調されていたのか。
(それは、買い被りすぎじゃないかしらね? お嬢さん)
 約四百年前にこの蓬莱の島で、桔梗の花が歴史を動かしたことをよく覚えている幽香は、一人ごちる。
 運命は曲げられないとしても、吸血鬼の姫のようにその過程に拘らなければ、多様な意味を含めることは可能ではないのか。それに、あの箱にしたって、メイド長であれば種無しマジックで中身をすり帰ることなど容易だろう。本当に心臓が入っているのか、それとも小さな小さな機械の作動音がしていないか、吸血鬼は最後まで確認すべきだった。
 確かに、もう運命は決している。
 幽香にしても、これ以上なにもいうことはない。
 ただ、感想を一言付け加えておくとすれば――
「悪魔の犬には、おおよそもったいない花畑よね」
 口の端に張付けた笑み。その呟きには、何処か悔しさが混じっている。

      ☆

 茫洋とした霧の中に、花畑が浮かび上がる。
 紫を中心とした、秋の花々の咲き誇る世界。
 その園の中央には、体を半分だけ起こした少女が一人。
 メイド服を着ていても職務に束縛されない。
 彼女は休暇中だった。
 焦点の定まらない瞳で周囲をゆっくりと見回し、深く感慨もなく、ただ花に囲まれているという事実だけが、彼女に無垢な喜びを与える。
 しばらくそうしていたが、やがてまたゆっくりと、彼女は大地にその身を投げた。
 瞳を閉じる。なににも縛られない。なにをも求めない。誰も訪れない。
 永遠の刹那、仮初かりそめに運命から解き放たれた少女が、紫の桔梗に葬られて眠る。
 感情を浮かべない、夢も見ない、空白少女のままで。
 懐中時計は彼女の眠りを妨げることなく、
 ただ、
 ただ、
 胸の奥で作動する小さな鼓動だけが、
 秒針と運針の代わりに、確かに時を刻んでいる。


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