■ クロッカス   Crocus        【射命丸 文】


 射命丸文は、飛んでいる。
 晩春の朧月が照らしだす胡乱な夜空の中を、音もなく飛んでいる。湿気に充ち満ちた夜気を切り裂く黒羽根が、月の光をはね返してぎらりと光った。
 夜夜中、射命丸文は悪夢で目が覚めた。それがどんな夢かは覚えていない。ただうなされ続け、なんとか抜け出ると汗みずくで覚醒する。ネグリジェが肌にはりついて離れないのは、しけっぽい寝室の所為せいだけではなかった。再び悪夢に襲われる事がいやで、目を閉じる事が出来ない。そんな夜はあてどもなく夜空を飛ぶに限る、と文は思った。夢魔と戦った身体は重いが、飛び続ければ気分が晴れるに違いない。早速、服を引っかけると玄関口から飛び出した。
 あてもないままに夜空を飛び続けた文は、月下に珍しいものを発見した。自生したものか、それとも誰かが植えたものか、白いクロッカスの咲き乱れる野原である。野球場ほどある群生地の中心に、文は降り立つ。海の方角からゆっくりとのぼってきた風に一面のクロッカスが笑いさんざめいたその時、文はひときわ大きく咲いた背の高いクロッカスを見つけた。花畑を分け入ってそのクロッカスに手を添えてみれば、実に見事な花であった。その姿をじっと見ているうち、文は胸中に言いようのない不安を感じた。言葉にならない思いに心を掴まれてただ立ちつくすうちに瞳からは涙がこぼれ、滴は月光に煌めきながら白い花弁を打った。
 ……私は、泣いているのか?
 ……疲れているせいか?
 ……それとも例の倦怠感のせいか?

      ☆

 射命丸文は、天狗である。
 新聞を作っては売り、配り、撒き、その発行部数を仲間の天狗たちと競っている幻想郷の新聞屋である。ろくに売れもしない新聞づくりに天狗たちを駆り立てている原因、それは倦怠の恐怖であった。もっとも、文以外の新聞屋にとって新聞を作る理由というものはもっと異なったものかも知れない。しかし、今の文にとって新聞づくりとは倦怠から逃れる手法の一つに他ならなかったし、新聞屋をやっている天狗の背後に必ずついて回るそこはかとない倦怠の影を、文は常々感じていた。巷で囁かれる天狗同士の部数競争が新聞を作る理由なのだ、という言説は天狗たちが世間に向けて口にする表向きの理由であり、世間が天狗たちの言う事を鵜呑みにした結果である。もっとも天狗たち自身、自分たちは部数競争のために新聞を作っているのだと思いこみたがっていたので、それで問題はなかった。
 しかしなぜ、天狗たちは倦怠の影に怯えたのであろう。言ってしまえば、天狗たちは長く生きすぎたのである。あまりに長く生きすぎた故に、身の回りで起きる事柄すべてがかつて何処かで見たことのあるもののように感じられ、日々の生活に新しい発見を何ひとつ見いだせないまま、生という名の色褪せた牢獄に囚われ続けているような錯覚に陥りだしたのである。この狭い世界は何一つ変わらないままずっと続いてゆくのだ、この先生きていても何一つ目新しい事はないのだ、世界は退屈なものなのだ。そんな諦観が天狗たちの意識を覆ってやまなかった。
 世界は狭い。見た事のない風景など存在しないし、予想も出来ない事件など起こりはしない。だから新聞を使って、現実をおもしろおかしく改変して記事にする。誰が思いついたのかはわからなかったが、その発想アイディアは天狗たちの間に受け入れられ、爆発的に広まった。様々な新聞が次々と現れては部数を競い、消えていった。私たちのこの活動こそがつまらない現実をおもしろくしているのだ、という自負が天狗たちにはあった。しかし流行ブームが続いてしばらく経つと、天狗たちは自分の作り出した事態に困惑しはじめることになった。誰もが疑念を抱いていた。自分たちは果てしのない螺旋階段を下り続けているのではないか、と。
 現実に対し倦怠を催した天狗たちは、倦怠を避けるために現実よりおもしろおかしい架空現実を作り出して倦怠を一時的に回避した。とともに、世界を自分たちの作り出した架空現実に向かって誘導してゆくことで、現実をよりおもしろい方向へと徐々に偏向シフトさせて行く。間接的にではあったが現実に指向性を与える事で、よりおもしろい未来へと世界を導いてゆくのである。天狗たちは自分たちの作った架空現実に向け世界を誘導して行く新聞の力に目を見張った。それはまるで、そこに書いたことが実現する魔法の手帳ノートのようであった。もちろんそこに書かれた事柄一言一句がその通りになるわけではなかったが、長期的に見れば世界を自分たちの望む方へとねじ曲げて行くことが出来る力を手に入れたのだと、天狗たちは小躍りしたのである。
 しかし、その喜びは長くは続かなかった。世界がおもしろおかしく書かれた架空現実の方へとすり寄って行けば行くほど、最初はおもしろかったはずの架空現実が日常化し、読み手と書き手は現実にも、架空現実にも次第に飽きて行った。それを防ごうと考えた天狗たちは、さらなる架空現実を生み出す。それは終わりの見えないいたちごっこのようなもので、生み出される架空現実は日々拡大エスカレートするばかりであった。
 (結局、私たちは底なしの倦怠に絡め取られているのではないか)
 そのことに気がついた天狗たちは、例外なくぞっとした。だから、誰もがそのことに気づいていない振りをし、部数の事だけを口にし、いたずらに部数を競争するようになった。
 ……だから、どうだというのだ?
 ……もしそうだとしても、ではどうすればいいのだ?
 ひとたび現実世界に倦怠を感じてしまった天狗たちは、現実のおもしろおかしな再構築なしには現実を直視する術を持たなかったのである。しかしそれもまた、倦怠の再生産に過ぎなかった。
 ……退屈だ。世界は何もおもしろいことを提供してはくれない。

      ☆

 射命丸文は、逃げている。
 霧雨魔理沙の屋敷で写真機を構えながら張り込んでいたのがばれて、屋敷の主人に追われている。天狗の脚力をもってすれば、魔理沙の箒を逃げ切る事など難しいことではない。しかし、彼女は中途半端に急いでいた。捕まるか捕まらないかのところをのらりくらりと逃げて、魔理沙を苛々いらいらさせていた。刺激を求めていた気持ちがどこかにあったかもしれない。そんなわけだから、追いかけっこは長引いた。人里を抜けて竹林に差し掛かった時、彼女は勝負をつけようと鴉に姿を変え、小柄な体躯を生かして竹林に飛び込んだ。ところが敵もさるもの、竹藪をものともせず追って来る。文の方はと言えば、竹にぶつかってはいけないと考えるあまり速度を出しきれずに、依然のらくらと飛んでいる。必然、中途半端な追いかけっこを続ける羽目になった。しらけた逃走劇をしばらく続けた後、二人はようやく竹林の出口を見つけた。やっと竹林から抜けられる、と文が思った刹那、体に重く柔らかい衝撃が伝わり、身体の自由が利かなくなった。かすみ網である。網が体中に絡みついたかと思うと、とりもちが間髪をいれず羽根に粘りついて、二進にっち三進さっちも行かなくなってしまった。
「捕獲、せっいこーう」
 首をねじまげて下を見れば、永遠亭の兎どもである。魔理沙はすんでの所で踏みとどまったらしく、かすみ網の手前で滞空しながら、にやついた顔でこちらを見ている。
「よう、おまえら何やってるんだ」
 兎に問いかける声にも笑いがにじんでいる。
「悪の天狗捕獲大作戦、と言ったところかしら」
鈴仙とか言う兎が答えた。
「あんたたちがこの竹林に入ってきた時から罠を張って待ち構えていたのよ。
 ちょっと前にいろいろあった事だし、たっぷりおしおきしなきゃね」
どうやら以前、とある写真を元にちょっと強請ゆすったことを根に持っているらしい。その写真は、こちらの要求を頑としてはねつけた代償として新聞に載せ永遠邸にばら撒いたのだけど。そんな事を思い出しているうちに、
「おう、思う存分おしおきしてやってくれ。
 私は失礼するがな」
言うなり魔理沙は箒に一声かけて飛び去ってしまう。
「待ちなさい!
 この前の弾幕ごっこで竹林を荒らしたのは誰だと思ってるの!
 まだ育ってないたけのこを乱獲したのもあなたでしょう!」
 魔理沙にその声が届いたかどうか。届いたとしても、魔理沙が待つわけはない。怒り狂う兎たちの群れの中に一人取り残された文は、軽い目眩を覚えた。
「ま、いっか、こいつを捕まえたわけだし。
 この前の写真のお礼をしなきゃね」
 残酷な笑みを浮かべた紅眼の兎の後ろで、因幡てゐが嗤っている。どこから取り出したのか竹刀や木刀、鋤や鍬を持った兎どもに囲まれもうだめか、と思ったその時。
「あらあら、兎が寄ってたかって烏をいじめようというのかしら。
 ……あまり感心しない構図ね」
 鈴蘭が鳴る様な、いかにも涼しげな声が竹林の上から降ってきた。いつからそこにいたのか、日傘をさした妖怪が竹の上に立っている。風に揺れる竹の先端につま先で立つその姿は、まるで重さなどないかのようであった。文は、その妖怪に見覚えがあった。風見幽香である。一同の視線を集めた幽香は、空中に足を踏み出した。瞬間、幽香を中心に竜巻が起こり、竹の葉や下生え、あろうことか兎たちを宙に巻き上げた。兎たちの阿鼻叫喚の中、竜巻の中をゆっくりと降りてくる妖怪は、髪の毛一本乱れてはいない。地面に足をつけた幽香がにっこりと微笑むや否や竜巻は消え去り、宙を舞っていた兎たちは竹林の何処かへとめいめい飛ばされていった。ぱちりと音をたてて日傘を畳んだ幽香は、なんとかその場にとどまっていた鈴仙に向かって口を開いた。
「竹の花を探して竹林に来たのだけど、なんだか不愉快なものを見た気がするわ」
 その口元には獰猛な笑みが浮かんでいて、視線はつらぬくようであった。
「……何が望み?」
 鈴仙の腰はすでに引けている。
「まあまあ……この烏さんもこれで少しは懲りた事でしょうし、あんまり乱暴なことは止しなさいな。
 記者の全身打撲及び内臓破裂で新聞がお休み、というのはどうにも笑えないニュースよ」
 何かを言おうと口を開いた鈴仙だったが悲しいかな、気圧されて言葉が出ない。ただ黙って頷くほかはなかった。


「先ほどは危ないところを助けていただいてありがとうございました。
 お礼と言っては何ですが、何かひとつ望みを叶えて差し上げましょう」
 兎たちとかすみ網から文を解放した後、小言も何も言わず歩き始めた幽香に追いすがって、文は言った。
「別に、あなたから何かしてもらうためにあなたを助けた訳じゃないわ」
 妖怪は髪をかき上げながら面倒そうに言ったが、文に二度三度と続けられると根を切らしたのか。顔を上げて言った。
「そんなに言うなら望みを言うわ。
 私、ある白いクロッカスを探しているの。
 あなた、そのクロッカスを私のもとへ持って来てくれないかしら」
 難しいところのない用事だったので、文は喜んで言った、
「おやすい御用ですよ。
 と言っても今は羽根に鳥もちがついているので後日、お屋敷にお届けにあがります。
 それでよろしいですか」
 妖怪が鷹揚にうなずいたので、文は鳥もちに粘りつく羽根をなんとか広げ、その場を飛び去った。妖怪の唇に酷薄な笑みが張り付いているとも知らずに。

      ☆

 射命丸文は、探している。
 あの夜、自分が通った道を思い出し辿りながら、クロッカス畑を探している。おおまかな目星はついていたので、見つけるのにさほど時間はかからなかった。咲き乱れるクロッカスが彼女を迎える中、彼女は花畑の端に降り立った。初夏の太陽が純白のクロッカスを照らしている事と、風が山側から吹き下ろしている事を除けば、全てはあの夜のままであった。花畑を見回した文は、あの夜見つけたひときわ背の高いクロッカスの姿を見つけると、誰に見せるでもなしに肩をすくめた。


 文が差し出した鉢植えを一瞥するやいなや、幽香はひどくつまらなそうにそっぽを向いた。
「それじゃないわ」
「と、いいますと」
 夕立のあがった人里で買い求めた白いクロッカス。店主のいうところに依れば、ジャンヌ・ダルクという種らしい。
「この花を窓辺に置いておくと、夢見が良くなるそうですよ」
 なぜそれを窓辺に置けば夢見が良くなるのかわからなかったし、花屋の言葉を信じたわけでもなかったが、文は聞いたままを語った。
「あなた」
 その短い言葉に釣られて幽香と目を合わせてしまった事を文は後悔した。絶対零度のまなざしが文の目から背骨に進入し、心臓を掴んだようだった。頭から血の気がすっと引いたと思えたその瞬間、文は己が全身に冷や汗をにじませている事に気づいた。
「私、特別なクロッカスがほしいの。
 ねえ、わかるかしら。」
 けだるげに首を傾げて幽香は言った。
「ご所望なら野生の物を摘んでまいります。
 この前、クロッカスの自生する花畑を見つけたばかりですから。」
 文の答えに幽香はにっこりと微笑んだ。
「そう、それでお願い」
 こうして見ると、妖怪のどこにも邪気は感じられない。文は、己が幽香に対し先ほど抱いた恐怖を思い出し、それが不当な物でなかったかを疑い始めた。
「しかし、クロッカスなんてどれも同じじゃないですか」
文は納得が行かない振りをした。理屈ではおおかた理解していても、幽香相手に納得した様子をとる事が嫌だった。
「違うわよ。
 ……違いがわからないなら、私がどんなクロッカスを望んでも、差し出す事を拒否はしないわよね」
「ええ」
 妖怪の唇に張り付いている酷薄な笑みに嫌な予感を感じつつ、文は肯定するしかなかった。

      ☆

 射命丸文は、躊躇ためらっている。
 ジャンヌ・ダルクの咲き乱れるその花畑を訪れるのは、これが三度目だ。文は鉢とスコップを手にしていた。山から吹きおろす風に一面のクロッカスがおののいて身をかがめる中、文は漠とした不安を感じて立ちつくしていた。
 ……どのクロッカスを採取すればいいのだろう?
 目星はついていたが、文は己の推理に従いたくなかった。危ないところを助けてもらった幽香の望みを叶えると言い出したのは自分であったが、幽香の言いなりになっているようで、どうにも抵抗があった。
 彼女が道具を手に躊躇していると、山の頂から一陣の冷たい風が駆け下りてきた。強い風に目を閉じた文が再び目を開けると、目前に白く長い髪の女が立っていた。唐突に現れたその女に見覚えはなかったが、文はその顔立ちにどこか懐かしい印象を抱いた。女は文に向かって両手を広げて何事かを哀願したが、風の音が聞こえるだけで、文に聞き取れる言葉は一つもなかった。
「何を言っているの、聞こえないわ」
 問い返すが、答えはない。冷たい風が再び吹いたと思うと、女の姿はどこにもなかった。道具を放り出すと、文はそのまま家路についた。

      ☆

 射命丸文は、うなされている。
 何とか悪夢をはねのけて飛び起きると、月光に照らされた窓辺に、鉢植えの白い花がひっそりと咲いていた。人里で買って幽香に拒絶されたクロッカスの鉢を、勿体ないからと自室の出窓に置いておいたのであった。
「夢見が良くなるなんて、嘘ばかりだわ」
 毒づくと、文はベッドに横たわった。意識から白い花を閉め出そうとするが、目を閉じれば花のことばかり考えている。眠れるはずもなかった。仕方ないので、悪夢の内容を思い出そうとする。内容はよく覚えていないが、その感触だけははっきりと覚えている。普通の夢とは違う、寂しさが心の中を吹き抜けるような夢。

      ☆

 射命丸文は、焦っている。
 あれから少しの間まどろんで、曙光と共に起き出したその時から、小さな違和感が胸のうちでくすぶっていた。その違和感は、顔を洗って朝食をとる頃には嫌な胸騒ぎに変わっている。抑えきれない胸騒ぎを抱え、文はクロッカスの咲く花畑へと急いだ。花畑への道のりが遠い。全速力で飛ぶこと十数分、花畑を視界に入れた文は舌打ちした。案の定、幽香がそこにいたのである。


「何の真似ですか」
 上空から投げかけられた詰問に、幽香はゆっくりと顔を上げた。
「あなたが持ってきてくれないから、取りに来ちゃった」
 そう言って微笑んだ足下には、あのひときわ高く、大きく咲いたジャンヌ・ダルクがあえかに揺れていた。文は深呼吸した。
「どうして、そのクロッカスでなければならないのですか」
 文は幽香との間合いを計りながら、花畑に降りた。
「それは、あなたの知るところではないわ」
 妖怪の答えはにべもなかった。
「昨晩、クロッカスの精が夢枕に立ちましてね。
 ここから動かしてくれるな、と私に哀願するのです。
 今回は見逃してくれませんか」
 文がそう言うと、妖怪は喉の奥で短く残忍に笑った。
「作り話が上手ね。
 さすが記者さんは違うわ」
 そう言うと、文の足下に向かってスコップを放り投げた。それは、文が昨日ほったらかしにして帰った、文のスコップだった。
「約束だったわ、私の望みをなんでも一つ聞くと。
 今すぐ、このクロッカスを掘って頂戴」
「嫌です」
 間髪を入れずに文は即答した。その答えを聞いた幽香は、どこか悲しそうな表情をした。
「どうして?
 あなたにとってこれは単なる『白いクロッカス』。
 他の白いクロッカスと何ら変わることはないわ。
 いや、あなたにとってこれは『クロッカス』、『白い花』、さらに言えば『花』でしかない。
 あなたはそうやって世界を記号で省略して、記号の貝合わせでおもしろおかしく遊んできたんじゃない。
 もっとも、最近はそれにも飽きてきたようだけど」
 文に口を挟む余地を与えず、妖怪は続けた
「とにかく、約束は約束よね。
 今すぐ、この子を掘って頂戴」
 そう言って微笑んだ幽香の笑みに、巧妙に秘められつつも隠しきれずに漏れ出ている優れて獰猛な意志を嗅ぎとった文は、激しい悪寒に襲われた。口を開き、言語を発しようとしても、言葉が喉元で絡みついて出てこない。意志を振り絞ってなんとか口の中のつばを吐き捨てると、一音一音はっきりと発音した、
「い、や、です」
 風が不思議な動きをしたと感じた刹那、文は己が音もなくクロッカス畑に打ち付けられている事を知った。視界に飛び込んできた朝の空に、クロッカスの白い花弁が舞った。肺が空気を求めるが、気管が締め上げられていてその欲求は果たされない。喉を締め上げている巨大な力を外そうと思うが、既に指一本動かす事すら出来なかった。
「あなたも妖怪だから、すぐには意識を失わないでしょう。
 聞きなさい、彼女の声を」
 囁く唇が耳たぶを甘く噛むのをはっきりと意識したその時、文はどこか遠くで女の叫び声を聞いたように思った。その声は断末魔の叫びのようにも、また歓喜の嬌声のようにも聞こえた。か細い声だったが長く続き、人間の一呼吸ではとうてい出しえないような長い長い叫びに、文は耳をふさごうとした。しかし文の身体はすでに動かなかったし、意識もまた闇の方へと引きずられていた。気を失う寸前に闇の中で見たもの、それはクロッカス畑に目を閉じて横たわる白く長い髪の女であった。

      ☆

 射命丸文は、立っている。
 白いクロッカスの咲き乱れる野原に、ただ独り立っている。山から吹き下ろす強い風がいちめんのクロッカスを揺らしては去るなか、彼女は悲しみの槍で地面にはりつけられていた。心を吹き抜ける冷たい風に、ただただ涙が出る。
 彼女のジャンヌは、もうそこに居なかった。それどころか彼女のもとからは永遠に失われてしまって、二度と会う事は叶わないのだという事実を、彼女はその時誰よりも深く理解したのである。


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