■ 苺   Fragaria x ananassa        【小野塚小町】


 そこは植物園だった。
 硝子に仕切られた透明の小さなドーム。
 まだ風も冷たい早春の日であっても、日光で暖められた空気の中で様々な花が咲き誇っている。
 その一端、隅に小さく整えられた畑の前。少女がしゃがみこんでいる。きめ細かな和紙のような肌は病的に青ざめている。パジャマの上にカーディガンを羽織って。履物は室内用のスリッパだった。
 少女は一心に、植え付けられた植物を見入っている。
 少しずつ小さな花をつけ始めた、苺の花を。
 まだ実を成すまでには至っていない、生命の息吹。
 それを見る少女の顔は、愛情と、羨望と、真摯な祈りに彩られている。痛々しいまでに細い四肢とは対照的に、激しく輝く意思にあふれた瞳だった。
「またここにいるのね。みんな探しているわよ」
 後ろで声がした。見慣れた白衣の女性だ。一瞬はしった緊張をほどく。
 女性は困ったような笑顔を浮かべて、自分の上に日傘を差してくれる。
 最近自分の担当になった人らしく、医師や他の看護師のように、自分をベッドに張付けない、ちょっと変わった考えの持ち主だ。もちろん大多数の意見の方が正しいことは承知の上で、それでもこの人には好意を抱いていた。
「……もう帰るの? 花を見ていたいんじゃないのかしら」
 少女は首を振った。
 毎日ここを訪れているのは、自分に対しての決意のようなものだ。苺の花を見つづけること自体に深い意味はない。
 巡る季節に従って花は必ず散る。
 だけどいつまで咲くかを決めるのは、花自身の意思であって欲しい。
 それは、天道に背く祈りだ。
「病室でも花が見れるようにしてあげようか」
 そうしてくれるなら、頼むかもしれない。じきにここを訪れることも出来なくなるだろう。
「まかせて。こう見えても、花関係は得意なのよね」
 にっこり笑って、少女は温室を抜ける。
 氷結したように屹立する白い病棟の頭上を、春の息吹が行き交っている。
 見下ろした丘陵のその向こう、港に投錨した何隻もの船。
 ただ、少女が待っているただ一隻の姿は、穏やかな内海のどこにもまだ、見えない。

      ☆

 ここは、幻想郷から続く賽の河原。季節感が薄い死への入り口にも、日本の春は静かに訪れている。が、三途の川を旅する多くの人々には、さして関係のないことではある。
 そこを、一際目立つ紅い髪を乱暴にくくった少女が一人。ふらふらと歩いている。
 小野塚小町。
 こうみえていっぱしの死神である。
 死神をやっているぐらいだから、現世の人々にとっては恐怖の権化であるはずなのだが、なかなかどうして人情味に溢れ涙もろい。仕事に対する態度ものんびりこつこつが身上で、直接の上司である閻魔様から小言を言われることも多い。こういう死神ばかりなら、顕界の死者は減りそうな気もするが、そこはそれ、何処かよそに仕事熱心な死神がいるのだろう。例外はどこにでもあるにせよ、人間任せにはできない仕事なのだから。
 さてその小町だが、浮かばれぬ子供の魂が頑張って積み上げた石の塔を蹴飛ばしながら、なにやらぶつぶつと独り言を呟いている。いや、それは独り言というよりも、まるで携帯電話で誰かと話しているような仕草だった。
「……だから、それは私じゃ曲げられないんだよ。そもそも、私と話をすること自体がルール違反なんだ。解っているのか? ………………。 私は時と定めに従って、お前たちを選び、導くだけなんだ……どんなにお願いされても無理なものは無理だ。延ばせないよ……あぁもう、遮断するからな。じゃぁな」
 一方的に会話を打ち切った小町は舌打ちして、そこらにあった小石を拾い上げると、三途の川に向かって投げ入れる。呼応するかのように川面が隆起して、ところどころ骨を剥き出しにしたフタバスズキリュウの屍が大きく跳ねた。珍しくもない光景だった。
「あら、ご機嫌斜めなのね。また上司に怒られた? 大雨で渡し守の仕事が上がったりとか?」
 小町は吃驚して振り向いた。
 賽の河原には似つかわしくない、華やかな妖怪が立っている。
 風見幽香。
 チェックの服と緑の髪をトレードマークにする、花使いの妖怪である。
 黙って立っていれば普通の少女だが、こうみえて幻想郷でも長命な部類に入る大妖怪なのだ。霊格としては一応神である小町にすら匹敵する。ここまでになると生と死の境すら曖昧にしてしまうから、小町はこの類が嫌いだった。
「今突然、最高に不機嫌になった。好き好んで三途の川のほとりまでやってくるような妖怪と出会っちまったからねぇ」
「行きたいところには何処へでも行くわ。花が呼んでいればね」
「三途の川岸にも花が咲くと? それなりにこの仕事をしているが、聞いた事がないな」
「開花の気配は土の地脈をたどると捕まえやすいの。ここはあの世とこの世が入り混じった場所だから、そういう精魂が完全には断たれてはいない。だから、花だって咲いてもおかしくないわよね」
「ま、花が咲かないよりは咲く方がいいとは思うけどな。三途の川がらみの者どもも、花を楽しむぐらいの余裕をもって旅すれば、その後の審判をリラックスして受けられるというものだ」
「そんな人間ばっかりだったら死神も閻魔も閑職になるでしょうけどね」
「お前は実情を知らないからそういうことがいえるんだな」
 小町は溜息をつくが、幽香は余裕の笑みを浮かべたままだ。
「で、さっきは何を一人でぶつぶつ喋っていたの? 傍から見れば滑稽極まりなかったけど」
「ああ、あれ。たまにあるんだよな、無理やりチューニングしてくる奴が」
「チューニング?」
 小町はさっきの会話を思い出して、肩を竦める。
「多分、あたいの担当になる人間なんだろうけど、こっちに直接アクセスしてきて、懇願されたんだよ。なんでも、想い人が遠方から帰ってくるのを待っているから、魂を取るのをもう少しだけ遅らせて欲しいってさ。そういうことは天命で決まってるわけで、あたいはいわばシステムの一部分なんだから、どうにもならないって説明してやったんだが……まぁ、切羽詰った人間は必死だからな」
「あら、下界ではたまにそういう体験を言いふらす人間が出てくるのじゃないかしら。死神に会ってきた、とか。そういうのは天命で死が宣告されてる人達なんじゃないの?」
 幽香に指摘されると、小町はく、と渋い表情を浮かべた。
「これは必ずしもあたい自身のことじゃなく、死神の一般論として聞いて欲しいんだけど」
「そういうことにしておいてあげましょう」
「一々癪に障る奴だな」
「間違ってはいないわよね」
「……まぁいい。とにかく、生まれた数だけ人は死ぬ。あの春のような異変は例外としても、死神が三途の川を渡す霊の数は毎年膨大だ。だから、低い確率だが今回みたいな接続が発生する。まぁ五年から十年に一度の確率だ。そんな中で、死神の仕事をうまくすり抜けてしまう事故も、ごくまれに存在する。こういう奴らは宗教指導者になったり、パラダイムシフトを起こしたりして、後の人死にの数に影響を与えるから非常に困る。運命が書き換わることはないが、因果は多種多様に変化してしまうからな。だが、それは本当に数百年に一度のことで、ほとんどの奇跡体験は嘘っぱちか記憶の反復に過ぎない。死神は、水も漏らさぬ努力を怠っていないんだから」
「貴方の上司が聞いたら泣いて喜びそうなお話ね」
「どういう意味だそれは」
「さてさて。で、今回の人間は優秀な死神さんの見立てではどう思うの?」
「ああ、心配ないよ。彼女は定刻どおり間違いなく死ぬ。必死なのは誰だって一緒だし、こういうイレギュラーなことが起こった以上、あたいだって特にマークせざるを得ないだろ。順番が来たらじきじきに迎えに行くさ」
「ふぅん……」
「大体な、わざわざこんな辺鄙なところまで死神の勤務態度を笑いに来るなんて悪趣味にもほどがあるよ、あんた。代われるもんなら一回代わって欲しいぐらいだ。あたいがどれだけ忙しいか解るだろうに」
 彼女の上司がそうであるように、小町にもまた説教癖があった。もっともこれは神格を有するもの共通の特徴かもしれないが。
 指を立て、言葉をつむぎ出そうとした小町の唇に、幽香はさっと人差し指を当てる。
「そんな喋ってもどうにもならないことはいいから。今からもお仕事しないといけないんでしょ?」
「あ、ああ」
「じゃ、たまには生気に充ちたものでも食べて充足しなさいな。死神にだって娯楽は必要でしょ」
「なんのことだ?」
 幽香は手の中からぱっとそれを取り出した。
 真赤に熟したそれは、見ただけで甘さを想起できるほどに、熟し切った、
「食べてみる? 美味しいわよ」
 ――そういって、花使いの少女は誘うように笑った。

      ☆

 病室に苺の鉢植えが飾られたのは、それから間も無くのことだった。
 医師達は少女が脱走しなくなったことに安堵したが、それは本末転倒だと彼女は思った。
 鉢植えをお願いしたのは、もうベッドから出られなくなったからだ。
 お気に入りだった植物園に行けなくなったことで、何か一つまた大事なものが抜け落ちてしまったような気がする。失うことにはなれていたものの、目覚めるごとに体が機能しなくなっては、戦慄を覚えるなというのが無理な注文だった。
 ただ、それでも、苺の花をみると気が楽になった。
 それに、白衣の女性は今までと同じように明るく接してくれている。この人だけは自分の前で無理して笑っていない。それが感じられて嬉しかった。
 自分が何を待っているのかを話したのも、多分、彼女が過度に優しくなかったからだと思った。
「……じゃ、その人が帰ってくるまでは、絶対諦めないのね」
 頷く。ただ、ここ最近の悪化傾向はさすがに恐怖だった。自分は彼を待っていられるのだろうか? 残り時間はあと僅かだろう。誰に祈っても、力は借りれそうにない……。
「なら、自分の力を使うしかないわね」
 彼女は、力を篭めてそう言った。
 半身を起こして、彼女に問う。
 自分の力って、どういうこと?
「彼を待つために出来ることは何だってするのよ。自分の力に残った力全てを振り絞って、最後の最後まで諦めないの。たとえそれが誰かを罠にかけることになってもね」
 少女は首を横に振る。短い人生だったけれど、人に恣意的な迷惑をかけることは、彼女の思想の対極にある行為だった。そこまでして、という思いが自分の生命力さえ萎えさせる気がする。
 すると彼女は笑って説明した。
「違う違う。そうやって思考系統を一本化するんじゃなくて……そうね、それは誰もが幸せになれて、ちょっとおかしくて、でも筋が通っているような、そんな悪戯よ。春風が花をなでて、髪の毛を揺らすみたいな、波の飛沫が顔に跳ねるみたいな。あくまでも悪戯……でも、貴方はそれに命を懸ける」
 彼女の瞳に優しくも強い光が宿る。
 この人は、本当に看護師だろうか?
 でも、そんなことはどうでもいい、とも思えてくる。
 その輝きに憧れる。
 自分もこんなに強くありたいと願う。
「いたずら?」
「命はお互いに場所を奪い合って生きているのよ。貴方が今ここに咲いているのは、だれかがここで咲けなかったからなの。だから、貴方は仕掛ける。貴方が欲しいものの為に。花を咲かせるために。貴方らしく、おだやかに、でもしたたかに」
「…………………」
「最後の花は、とびきりの花。だから、貴方の全身全霊が必要なの。解るわね?」
 解るけど、解らない。
 でも、今、自分に出来ることといえば――
 少女は視線を、テーブルの上の苺の鉢植えに注ぐ。
 苺は小さく植え替えられたにも関わらず、前より勢いよく咲いているように見えた。

      ☆

 その春、幻想郷にはちょっとした異変が起きていた。
 いや……異変というには少々小振りに過ぎるかもしれないが。
 博麗神社では、喜色満面の巫女と魔法使いが、ざる一杯に積まれた「それ」を摘んでは、お茶を啜っている。
「いやー。いい時期になったもんだぜ」
「春はいいわね。寒さを気にしないでいいのが一番いいと思うのよ」
「あの愛しい八卦炉を持ち歩かないでいいのはちょっと寂しい気もするが」
「冷え性なら毎日持ち運べばいいんじゃない?」
「あー? 残念ながら足先だけ寒いなんて経験は、まだしたことないんでな」
 いつもの調子の二人だが、春の陽気のせいか妙に弛緩した雰囲気である。酒もないのに酩酊しているような、微妙に視点があわないような。
 そこへ、生きとし生けるもの全般に縁起の悪い少女が、鎌を担いで現れた。
「おいおい、なんだそのだらしない様子は。あたいでも地獄に連れていきたくなるな」
「あら、お迎え?」
「迎えは呼んでないぜ」
 小町は腕組みをする。
「おまえらなんかまだ全然お呼びじゃない。現世で善行と罪を繰り返して苦しむがいい」
「あら、ならそういう貴女はまたサボり? 上司に怒られるわよ」
「無駄に自殺しそうな奴がいないか、見まわりだよ」
「こんな春に自殺なんて手遅れよ手遅れ。桜の下にしこむなら去年ぐらいにしておくべきよ」
「昼間から酔ってるのか?」
「酔ってないぜ」
「さすがにそこまで不埒じゃないわ。酒の肴にはもったいないしね、これ」
「ん? どれ?」
 小町は、二人が摘んでいるものをみて、途端に表情を曇らせた。
「なんだその大量の苺は」
「なんだって、苺よ。西瓜に見える?」
「今年は特に大量なんだぜ。そこかしこに生ってるんだから、こうやって収穫するのすら馬鹿馬鹿しい」
「あんたも食べてみる? 甘くて美味しいわよ」
 小町は何気なく手を伸ばしかけたものの、自制心が働いたのか、結局手には取らなかった。
「い、いや。遠慮しておくよ」
「珍しいわね。何を警戒しているのかしら?」
「毒入りなら最初からそういってるぞ。私は無駄に堂々としているからな」
「いっておくがそれも罪だからな魔理沙。それに、死神は毒では殺せないし」
 小町が警戒したのは、目の前の苺それ自体ではない。
 むしろ、この苺の甘さ美味さはよく解っているのだ。
 先日、三途の川岸にふらりと現れた風見幽香にもらった一粒の苺の実。
 その甘さときたら、おもわず餓鬼道に落ちる罪すら感じ取ったぐらいのものだった。
 甘いものは往々にして人を堕落させる。目の前にはその適正なケースが二人もいるし。
「……お前達、あの花使いの妖怪を見かけなかったか?」
「ああ、あいつか。見てないなぁ。霊夢は感じたか?」
「全然。春なんですもの、あいつは四方八方の花を追いかけてさぞかし忙しいでしょうよ。死神さんはあの悪趣味な奴を探しているの?」
「そういうわけでもないんだが……」
 幽香のことを思い出すと、途端にあの甘さが口の中に広がって、その甘さを求めて、手が勝手に山盛りの苺に伸びそうになって――また、思いとどまる。
「くぅぅ」
「何やってるのよ? 食べればいいのに」
 霊夢は心底不思議そうな表情を浮かべて、また一粒、口に放り込んだ。

      ☆

 最近ではもう長いこと、目を開けていない。
 自分の命が燃え尽きるのにもさして時間は掛からないだろう。少女はそう自覚していた。
 なのに、この心の安寧は一体何なのだろう?
 耳元で、自分を呼ぶ声がする。
「……大丈夫よ。まだ貴方は生きている。貴方の力は少ないけれど、どんどん集約してどんどん強くなっているわ。それに……まだ気づかれてもいない」
 あの女性の声だ。
 彼女の言うとおりなのだろう。とても安心する。
 こわばった四肢の力を抜くと、落ちていきそうになる魂と、浮かび上がる体が海面でバランスを取って浮かんでいる幻想を視る。最後に泳いだのはいつだったろう。ぼんやりとしか思い出せないけれど、その時も隣に彼がいてくれたのは、間違いないはずだ。
「苺は咲きつづける……貴方の命を養分にして、一杯咲くの。それを見てみんなが微笑むわ。だからまた、苺は広がっていく。限りなく、境界を越えて」
 幻想は変わる。
 周囲はあの硝子張りの植物園だ。
 自分はその中央に横たわっている。
 ただし、周囲の花は全部が全部、白く繁茂する苺ばかり。
 それは扉を超え、病院の周辺にも、道端にも、町全体にも広がっていく。
 苺で白く、まだらに埋め尽くされていく街。
 海上に浮かぶ船の甲板から丘を見れば、よく目立つに違いない。
 彼は気づいてくれるだろうか。
 私がここにいることに。
 私が身を賭して、勝負していることに。

      ☆

 やがて、幻想郷では乱痴気騒ぎが始まった。
 たとえまれに見る豊作だとしても、苺の数は有限である。
 人間も妖怪も同じく、貪欲には容易に歯止めが掛からなくなる傾向がある。冬が終わったばかりで、心が開放感に満たされていたというのもあるのだろう。エネルギーだけは無駄に蓄積されていたのだ……それが脂肪になっていたかどうかは、デリケートな問題なので触れるのをやめよう。
 かくして、苺の甘さに魅了された者たちの間で、壮絶な争奪戦が展開された。
 直接の発端は、幻想郷一西洋度の高い屋敷から始まった。メイド長謹製の希少物入り苺ケーキをこよなく愛した幼い吸血鬼は、メイド長のみならず、屋敷のメイド総出で苺の確保を命令した。屋敷から森へ向かって広がる平原の苺は、底引き網漁を思わせる人海戦術で根こそぎ奪われていく。
 これを知った森の奥の魔法使いは、例によって関係のない人形使いの少女を巻き込んで反撃を開始。自分で集めることをせず、館のメイドが収穫したものをゲリラ的に奪うという戦術で対抗した。ちなみに博麗神社の巫女は、早々に傍観を決め込んでいる。もちろん、自分の分の苺は十分に確保しているからである。
 各地で弾幕ごっこによる決闘が行われ、気ままに動く妖精や妖怪が乱入を繰り返すものの、一進一退の攻防を繰り広げていたメイド軍団と魔法使いだったが、突如出現した第三勢力の攻勢によって戦局は一変する。
 それは、春に目覚めた幽霊の一統だった。
 よほど現世に未練があるのか、彷徨い出た冥界の姫は壁という壁を透過しては苺を食い荒らすという、もはや知性体とも思えない究極手段で苺を収奪した。どんな障壁があろうとも直線上にある苺は奪われてしまうのであるから、たまったものではない。こういう食欲の権化に対抗するにはカラフルな四色のお化けを使うのが近代の様式美といった風情なのだが、当のお化けが食い漁るのでは本末転倒だった。もちろん、この和風お化けには二刀流の護衛が自己の存在理由を疑いながらも付き従っているのであるが。
 こうして、苺を巡る馬鹿馬鹿しい戦いは混迷の度合いを深めていった。


 この状況を腕組みして観察していたのが、悩める死神である。
「うーん、怪しい。これはどういうことだろう?」
 小町は自分の領域である三途の河に戻って考えていた。もちろん、仕事は仕事で毎日真面目に勤めている。霊魂を船に乗せて河を往復しながら、この事件についてあれこれと考えていた。
 風見幽香の姿はどこにもなかった。
 苺の大騒ぎがあの妖怪の仕業だとしても、何が目的なのかさっぱり見えてこない。
 事件に動くはずの巫女はさっぱりだし、天狗の新聞記者は争奪戦の趨勢を報道するので手一杯のようだった。苺自体は特に変わった現象だと受け止められていないのだ。
 ならば、なぜあの妖怪は、何故川岸にまで現れたのだろう。
 本当に、単なる偶然なのか?
 妖怪が差し出した一粒の苺について、思いを巡らせようとして……やめる。
 考えがまとまらない理由の一つは、当の苺について、小町がしっかり考えようとしなかったからでもあった。考えれば考えるほどあの芳醇な甘さが頭の奥から染み出してきて、大暴れしている人妖と同じように欲深になってしまうと思うからだ。のんびり屋の死神は意外に生真面目なのだった。
 それが原因かどうなのか。苺の件が始まる前にあった、人間からのコンタクトについて、小町は完全に失念していた。彼女からの交信はその後なかったから、定めに従っているのだろうぐらいにしか考えられなかったとしても、小町を責めるのは酷というものである。
 ………………。
 一仕事終えた死神が、こちらの川岸に戻ってきた。
 苺の繁茂はやはりここまでは届かない。あいも変わらず殺風景な風景だが、彼女は冷静になれるこの場所を好んでいた。
 なにより、苺の誘惑を思い出さなくてすむ。
 と。
 彼女は、その風景に見慣れないものが増えているのに気づいた。 
「なんだ? あれは」
 川原の中央に斜めに突っ立っているそれは、明らかに幻想郷所産のものではない。
 高さ一メートルはあろうかという土管である。
 幻想郷にはたまに、外界の物品が結界を抜けて流れ着くことがある。偶然迷い込んだか、向こうの世界で失われたものがこちらで幻想となって昇華したか。いずれにしても、普通は結界近くに転がっているものだが、まさか三途の川にまで出没するとは。小町は首を傾げた。
「結界が弱くなっているのかな? 最近はあちこちの結界が緩いし、幽霊も異世界人も普通に徘徊しているから、こういうことが起こりやすくなっているんじゃないのか? もう少し規律を正さねばならん時期にきているのかもなぁ」
 土管はコンクリート製で、小町ぐらいの背格好なら簡単に入れそうだった。
 中を覗いてみる。
 下の方に、ちらちらと輝くものが、二個、三個……いや、もっと一杯、鈴なりに繁茂している。
 あれは、
「あれは」
 そして、確かに見て取った小町は、ばっと顔を起こした。
「あれは、苺だ……」
 幻想郷中で血眼になって争奪戦を繰り広げてある苺。
 それが、こんな場所に、沢山残っている。
 思わず周囲を見渡すが、誰もいない。いるはずもない。こんなところに用があるのは、死人と死神だけだ。
 考える。
 考えろ。
 考えようとして――また覗きこむ。
 確かに、手付かずの苺が待っている。
 誰かが摘んでくれるのを待っている。
 みればみるほど、あの苺の甘さが、噛み締めた瞬間、果実から溢れ出す汁の甘さが惹起されて、小町は思わず唾を呑みこんだ。
 今なら……誰も見ていないのではないか?
 誰かと愚かに争う必要もない。むしろ、ここで残しておいては災いの火種に見て見ぬ振りをすることになりはしないか?
 かつて、閻魔に出仕した小野篁は、夜になると地下に続く洞穴を抜けて冥府に通ったという。だとすれば、こういう穴倉は死神の道ともいえるだろう。これは永劫の道理の繰り返しなのかもしれない。
 あれこれと勝手極まりない理由が頭の中でぶくぶくと湧いた挙句、小野塚小町は鎌を立てかけて、遂にそそくさと土管の中に降りていった。その存在がどれだけ不自然なものかという警告も、風見幽香の不自然な出没も、必死の忍耐力もいつのまにか消し飛んでしまっている。
 目指すは、誰も知らない自分だけの甘い苺、ただそれだけである。
「ふぅん、中は結構深いな……ま、これぐらいあたいの手にかかればどうとうことも……あ、ちょ、なんだこれ……おい、やめろっ! うああああああ」
 しばらく、土管の中から、何かと格闘する死神の声が響いてきたものの、何分も経たないうちに静かになり。
 川岸にはまた、死へ連なるに相応しい、静寂とせせらぎが戻ってきた。

      ☆

 もうそれが誰の声なのか、判別するのも難しい。
 でも確かに、少女はその声を聞いた。
「……おめでとう。貴女は勝ったわよ。向こうはまんまと罠にはまったわ。土管の中にいる植物といえば、歯のついた肉食と相場が決まっていることを、彼女は知らなかったみたいね」
 なにがどうおめでたいのかは解らなかったけど、自分には人を嵌めるようなつもりはなかった。
 ただ、願っただけだ。
 最後の力を振り絞って、全力で祈っただけ。
「その祈りが通じたのよ。本当に美しい苺の花、見せてくれてありがとう。この春、最高の花になったわ」
 苺……?
 思い出そうとするけど、それすらも難しい。
 でも、なんだか幸せな気分だった。人が幸せになるのは嬉しい。
「でも、貴方に相応しい幸せだって残っているわよ。……また、時の彼方で会いましょうね」
 茫洋とした意識の向こうで、去っていく影が見える。
 くるくる、くるくると日傘を回しながら。
 あれは、一体誰だったのだろう。
 遠くで船の野太い汽笛が聞こえる。
 聞いたことのあるような、ないような。
 瞳を、開く。ゆっくりと。ゆっくりと――
 自分の名前を呼ぶ声がする。男性の声だ。ちっとも変わらない。
 何かが落ちてくる。熱い、雫。涙?
 泣かなくていい。泣くことなんてないのに。
 だって、私は幸せだ。
 こんなに幸せなんだ。頑張って頑張って、もう一度逢えたのだから。
 もう動かせないと思った手がゆっくりと動く。
 自分は結構したたかに生きたのだと思う。こんなにも余力を残していた。自分が生きていると自覚すれば、力が蘇ってくるのだ。人間とはなんていい加減で、狡猾な生き物なのだろう。でも、その図太さに今は感謝しよう。そして……愛する者を抱きしめよう。


 無数に咲く白い苺の花に囲まれて――少女は今、最後の満開の季節を迎えている。

      ☆

 死神は、濁った空を見上げていた。三途の川のほとりに澄み切った青空は訪れない。目的ある旅には相応の気候があるのだ。あまり贅沢をいう客は地獄行きに違いない。小町はそう思う。
 小町の背後に人影が立った。今回はすぐ気づく。
「おや、いつぞやの妖怪じゃないか。また死にに来たのか」
「ここへ来るのは必ず死にたがりなんていう近視眼的思考からそろそろ脱却すべきだと思うわよ」
「三途の川に見物に来るようになったらお終いだと思うけどな」
「デュシャンの泉だって芸術でしょう? 誰にだって何にも決められないものよ」
「あたいは基本的に屁理屈は嫌いだ」
 他にもっと問い詰めるべきことがあるような気もしたが、いきり立つのは野暮な気がした。
 死神は瀬戸際で美しく散る命を好ましく思う。潔さというのは、人間が時に発揮する数少ない美徳だと思うからだ。
 ただ、おりしも花の妖怪がいうように、何事についても例外は存在する。
 二人は無言のまま並ぶようにして、流れていく死の大河をじっと眺めていたが。
 ふと、小町は思い出したように呟いた。
「――そういえば、先だって変な客を向こう岸まで運んだよ」
「へぇ。どんな?」
「船に乗ってあたいの顔を見るなり『ごめんなさい、ごめんなさい』ってひたすら謝ってきたんだよ。なにをそんなに罪深く思っているのかは、自分でもよく解っていないみたいだったが。それだけ真摯に悔恨の思いがあるのならば、それを審判で正直に述べるべきだといってやったよ。罪を裁くのはあたいじゃなくて四季様なんだからな」
「自分の命を奪った死神に謝るなんて、奇特な霊魂ね」
「まぁな。でも、なんだか悪い気はしないんだ。話してみると結構いい奴で、短い生でも未練なく河を渡れたみたいだったから、そうそう悪いことにはならないだろう」
「人間がみんなそんな感じだったらいいのにね」
「そもそも人を取って食うような妖怪がいる限り無理なんじゃないのか?」
「私は悪食じゃないわよ。土管の中で蔦にぐるぐる巻きにされた死神の方が好みかしらね」
「あんたの趣味は聞いてないよ」
 幽香はクスクスと笑った。
 小町も釣られて笑う。なんだか無性におかしかった。
 天を行く風のにおいが変わり始めていた。どうやら季節の変わり目に立っているようだ。
 幽香が傘を担いで天を仰ぐ。
「今年の春はよかったわ」
「そうか? 幻想郷じゃ苺の騒ぎでてんやわんやみたいだったけど」
「私は実には興味がないもの。苺の花なんて見ている人はいなかったでしょうけどね」
「いや……それに関しては同意見だな。苺の実は甘過ぎて危険だよ。それに」
 小町は、幽香に習うようにして大鎌を担ぎ、旅立っていった少女を見送る。
「今は、この微かな香りだけで、あの甘さを思い出せるから。それでいいよ」


 優しい死神の足元には、今年最後の苺の花が幾らか、静かに白く群れていた。


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