「山行きバス」


 眠っていたのか、起きていたのか。混沌とした意識が、汚泥のような記憶の奥底からゆっくりと浮かび上がってくる。大気に押しつけられた水面はずっと遠くて、こちらからでもまだ、雨に打たれているのが見えて、それなのに、
 ・・・何かが違っているのに気づいた。
 私は数度瞬いて、そして、ゆっくりと目を開いていった。
 重い体はまだガタガタと震えるバスに揺られていて、濡れたスカートは気持ち悪いぐらい生乾きで、周囲の窓硝子は水滴に曇っていて、そして。
「目を覚ましたわね」
 バスの最後部の座席、私のすぐ隣に、女の子がちょこんと座っていた。
「え・・・あ」
 頭の上の紅い大きなリボンが、まるで私にお辞儀をしているかのように、ひょこひょこと揺れていた。私はそこで完全に覚醒した。崩れていた姿勢を慌てて直し、鞄を抱きしめてしまう。
 はっきりと思い出す。彼女はこの乗り合いバスにおける、最初にして唯一の同乗者だった。途中誰が乗り降りしたかは定かではないが、バスには結局彼女一人しかいない。
 目の大きな、多分、私より年下の女の子だ。小柄なのに確信が抱けなかったのは、その表情が子供にしては大人びている、というより・・・明快な感情を表した顔ではなかったからだ。それは澄ましているような、笑っているような、怒っているような・・・いろんなものを溶き合わせたような、古風な顔だった。
 私がどうしていいものかと狼狽したのをみてとったのか、少女は今度は確実に、年相応ににっこり微笑んだ。
「こういう時は、きちんと自己紹介した方がいいのかしらね。初対面だし。でも、初対面できちんと名乗る奴なんて、あまり知り合いにはいないんだけれど」
「・・・・・・そう、なの?」
「無駄なこととか、関係ない事ばかり、とうとうと話しては煙に巻くばかりなのよ。秋に樹を見上げれば紅葉の朱色を、冬に雪を掬えば光のきらめきについて喋るべきだと思わない?」
 妙に枯れた視点で物事を捉える女の子だった。大人びているのか、少女のままなのか、どうなのか。
「ああ、それはいいんだけれど。私の名前は博麗霊夢よ。あなたは?」
 私は問われるままに名前を答え、それから一つ質問をした。
「どうして、私に・・・?」
 声を掛けたのだろう。
「それはもちろん、他に誰も乗っていないからよ。便乗はしてみたけれど、帰るまで結構時間が掛かるんでくたびれちゃったのよね。境内に座ってるのよりも、機械の車のお腹の中の方が退屈するなんて初めて知ったわ」
 何処か妙な言葉が続く。違和感を覚えながらも、続けて尋ねてみた。
「何処かへ帰ってるの?」
「出てきたのだから帰らなきゃ駄目でしょう? この乗り物、雨を避けられるのは便利だけれど、あまり何度も乗りたいとは思わないし。ああ、神社のお茶が恋しいわ」
「・・・よかったら、水筒持ってるんだけど」
 私は何故か少し慌てながら、鞄から細いステンレスの魔法瓶を取り出した。
 左右に揺れるバスに苦慮しながら、半分ぐらいコップに注ぎ、霊夢と名乗る少女に渡す。
「火もないのに暖かいなんて、式・・・いや、これは霖乃助さんの区分かしらね。相変わらず、外は驚かされることが多いわ」
「・・・外?」
「あ、これ珈琲ね。レミリアのところで頂いたことがある。おいしくはないけれど、今は暖まって嬉しいわ。ありがとう」
「ううん・・・よかった」
 どこかボタンの掛け違いのような言葉の遣り取り。でも私は、霊夢の持つ、掛け値なしの可愛らしさと瑞々しい表情に、どこか気圧されながらも取り込まれつつあった。霊夢には恐らく年上であろう私に対する遠慮なんて微塵もなかったけれど、それが何故か妙に心地よかったのだ。
 一人で微睡んでいた時よりもずっと、気分が良くなってきた。
 ――そしてそこで、ようやく、自分が何の目的もなくバスに乗ってしまったことを思い出したのだった。
「あ」
「どうしたの?」
「これ、何処行きのバスだろう。私、確認せずに乗っちゃった・・・」
 普段はバスになんかには乗らずに歩いて帰るはずなのに。
 雨がひっきりなしに降る学校の前で自分が何をしていたのか。ほとんど前後不覚になってしまって、それからそのまま、走り込んできたこのバスに乗り込んだのだ。今考えても、あの時の私はどうかしていた。
「そうなの? よく分からないけれど、いろいろ大変みたいね」
「ずっと乗ってれば、元の場所まで帰ってくれるかな。霊夢は・・・普段乗らないから知らないのよね」
「普段というか・・・初めて乗ったからね」
「・・・そう。運転手さんに聞いてみようかな。今、何処を走ってるんだろう」
「外を見ればわかるんじゃない? こんなに窓硝子だらけなんだから」
「でも、全部曇っちゃってるから見えないよ」
「私には見えてるわよ・・・ほら」
 霊夢が指を差す。
「きっとあなたにも見えるわ」
「え・・・?」
 私は訝りながらも、その方向に向き直った、

 瞬間、
 まるで露光する瞬間のように
 水蒸気のブラインドが一斉に開かれて。

「うそ・・・」
 緞帳がすべて落下したくらいに、劇的に光景が反転した。
 総ての窓が一瞬の間に晴れ渡った。透き通った。
 窓硝子なんて嵌っていないかのように、外界が鮮明に映える。
 そして気付く――バスが、降りしきる黄色と紅色の秋を登っていることに。
 スローモーションのように一つ一つ、無数の楓が回転しながら背後へと流れていく。弱くなった雨粒が、ブラウン運動を繰り返しながら広がっていく微細な運動すら、しっかり見て取れる。一部始終が、私の網膜に残像を残しながら遠ざかっていく。
 バスは見えない風のマントを孕ませながら、色づいた紅葉の最中を山へ山へと分け入っていくのだった。慌てて背後を見ると、灰色にわだかまる都市が小さく、地平線の彼方に霞がかった島のように、卒塔婆のように見える。バスが進む世界の鮮やかさに比べれば、私が戻るべき灰色の都市群は、墨を落とした半紙に透かしてみるぐらいに濁って、現実感がなかった。
 一体私は何時間、バスに揺られていたのだろう。
 いいえ、そもそも・・・あの街は、本当に私の街なんだろうか?
「どうしよう・・・」
「よっぽど疲れていたのかどうか、私はしらないのだけれど。ちょっとばかり乗り過ごしてしまったのは本当みたいね」
「ちょっとじゃないよ・・・帰らなきゃ、いけないのに」
「何で? そんなに急いで帰らないといけないの?」
「なんでって、だって、このままじゃ日が暮れて、道に迷って。それに・・・さっき霊夢もいったじゃない。出てきたなら帰らなきゃ駄目だって」
「明日になれば、よっぽどのことがない限り日が昇るわ。帰りたいのなら、いつでも帰ればいいじゃない。なんでそんなに慌てているの?」
 私が突然放り込まれた苦境に対して、霊夢は全く口調を変えないまま、あっけらかんとそう言った。返す言葉がなかったけれど、霊夢にしてみれば突き放すような感じではないのだろう。表情は全く変わっていない。心底そう思っているようだった。
 そんな顔をされては、怒るわけにもいかない。
 私はただ、縮こまるしかなかった。
 ・・・多分、その時の私は、家に帰れないということへの焦燥よりも、突然現出した鮮烈な世界のリアルさが、そして、私の隣で一緒にバスに揺られる霊夢の邪気の無さ、無垢な少女としてのかたちに畏怖を覚えていたのだろう。
 これは夢なのだろうか。
 私はまだ夢を見ているのだろうか。
 あるいは・・・私自身が誰かが見ている夢の中に飛ぶ、一頭の蝶なのだろうか。
 霊夢の横顔の上には、あの大きなリボンが、紅白の蝶そのままに羽を休めている。


 それにしても、バスが走る山麓は秋一色に染まっていた。
 秋とはいっても、ここまで見事に映える紅葉は、晩秋の山中でないとみられない気がする。都会の季節の移ろいの象徴はどれも虚ろだ。有名な銀杏並木も、交通を麻痺させる突然の大雪も、その一部だけが切り取られた写真のような季節の欠片だ。こんな風に愕然とさせられる程、秋そのものをぶつけられる経験は無かったように思う。
 それもあって、私はどんどん心細くなっていった。
 運転席にすら、人のいる気配がない。
 ただ、隣に不思議な少女がいるだけで。
「・・・もうそろそろかしらね」
 不意にぽつりと、霊夢が呟いた。
「そろそろって?」
「降りたくなってきたなって。家までもうすぐだわ」
 と。
 その霊夢の言葉に呼応するかのように、バスは速度を弛めた。
「え・・・・・・」
「ほらね。そろそろじゃないかと思っていたのよ」
「え、霊夢・・・もう、降りちゃうの?」
「そりゃ、帰るからね」
「・・・・・・・・・」
 心細さが胸を締め付けた。
 久方ぶりに、感情が喉の奥でつかえる。良い気分ではなかったけれど、いてもたってもいられない切迫した気持ちになることなんて、最近はあまりなかった。
 そして――バスは身震いするようにしながら、ゆっくり、ゆっくりと止まった。
 終点ではないのだろう。バス停もガードレールも、何もない場所。
 そこから脇にはいるようにして、舗装もされていない細い山道が、急斜面に穿たれている。首を上げても、色づいた木々に遮られてその先は見えなかった。
「えっと・・・急ブレーキ注意、止まってから座席を降りる、と」
 車内に表示された注意書きを読み上げてから、霊夢はポンと席を降り、近くにおいてあった赤い和傘を手に取った。なんのためらいもなく、料金を支払うでもなく、タラップを降りようとして、ふとこちらを向き、
「じゃあね。心配しなくても、きちんと家に帰れると思うわよ」
と笑いかけた。
 私は震えていた。
 突然、また、ひとりぼっちにされるのが本当に怖くなった。
 霊夢がタラップを降り、車外の人となる。
 私は慌てて、鞄とビニール傘をひっつかみ、それでも一応運転席の方を気にしながら、タラップを二段越しで一気に飛び越えた。
 バスが行ってしまえば、私は帰れない。
 それなのに、私は躊躇わなかった。
 バスから見た外はあんなに透明だったのに、バスを降り立った瞬間、意地悪をするかのような乳白色が私を取り囲む。周囲には雨のような霧のような、白い靄が掛かっていた。せっかく乾いた制服が、もう水を帯び始める。仕方なく、ビニール傘を開いた。道は舗装されていなくて、革靴にぬかるんだ泥がこびり付く。霊夢はすでに細い小径を軽快な歩調で登りつつある。私がバスから降りた事なんて全然気付いていないようだ。

 カアァ

 大きな影が落ちてきた。
 信じられないくらい大きな黒い鴉・・・きっとそうに違いなかった・・・が、私の頭上を飛び越えて、遠ざかっていく。一度啼いただけなのに、その声は山彦になって何度も何度も私の耳に響いてくる。背中を押すように、押されるようにして。私は霊夢を追って、斜面を登り始めていた。
 ここがどこかも解らないのに。


 道と言うよりは、泥の川を遡っているようなかんじだった。
 眼鏡に泥が跳ねた。三回拭って、もうどうでもよくなった。ハンカチもびしょびしょになってしまったのだから。
 木々のトンネルの中を必死で登っていった。
 時折風が吹き抜けると、細かい雨に混じって、銀杏や楓が降り注いだ。
 傘はすぐにさせなくなった。むしろ、鞄ともども持っているだけで邪魔だった。両手をつき、障害物を掴みながら登っていった。それでも傘を捨てなかったのは、自分なりの抵抗だったのだろう。彷徨い込んだところが日本の何処かもわからなくて、ただ一人の女の子を求めて、こんな霧雨の中、泥にまみれながら山道を登っていく。非常識すら飛び超えて、多分もう異世界にいるのだと気付いていたから、だからきっと・・・それでも帰らなきゃと思っている自分、抵抗している自分の支えにしていたのだろう。
 一つのことを必死でやっていると、なんだか自分の中がぽっかりと、なにもない状態に陥ることがある。最近の私は日頃から常にそんな風だった。それをいつも、もう一人の私が近くで冷ややかに眺めている。
 今年の梅雨のあの日、それは決定的に顕著になった。
 でも、今この時・・・私はそういう余裕すらなく。時折落ちてくる霊夢の軽快な、遠ざかる影を追い掛けて、ただただ必死で山を登っていった。
 そこに、何かが重なってくる。
 むかしむかし、とおいあの日に、
 手を引いてくれた人に必死でついていけるように、頑張って歩いた記憶。

『まって、まってよ』
『あわてなくても大丈夫だよ。いっしょに歩くから。手、にぎろうか?』

 同じ顔をしていて、
 声もそっくりで、
 だから、背伸びをして、せめて髪型だけは変えて貰った、
 ちょうどその頃の。
「・・・そんなことない」
 私は、荒い息に紛れて否定した。
 言葉だけで。
 心の中の堰は切れ、決して消えない思い出がいくつもいくつも、バスから見た山の景色のように鮮明に、ふつふつと湧きだしていた。
 私の心の曇りを、灰色に濁った林立がごしごしと洗い流しているかのようだった。
 それを少しでも否定したくて。
 奥歯を噛みしめて、ぬかるんだ道を、水溜まりを蹴っ飛ばして歩いた。
 
 カァア、
 あの鴉が戻ってきたのだろうか。
 暗い空に、もう一度翼が影を落とす。
 その小さな隙間から一瞬だけ、一条の光が差し込んだ気がした。 
 
 頑張って、頑張って、ようやく坂は途切れた。
 踊り場のように開けた場所に出た。
 私は鞄とビニール傘を投げ出し、むき出しの膝小僧に手を当てて肩で息をしていた。
「・・・あーあ。泥まみれ」
 赤い傘を開いて肩に担いだ霊夢が、少し眉をひそめていた。同じ惨憺たる道を登っていったはずなのに、霊夢は汚れた場所が皆無だった。靴にすら泥一つ付いていない。
 なんだか凄く損した気分になった。
 なのに、私自身意外なことに――私は笑顔を浮かべていた。
「気付いているなら・・・もう少し、その、待ってくれても・・・いいんじゃない?」
「気付かなかったわよ。それに、雨や泥と遊びながら山を登ってくる女の子なんてあまり聞いたことなかったもの。私の知り合いには変なのが多いけれど、あなたみたいなのは初めてかもね」
「私だって、こんなことするの、たぶん初めてよ。霊夢もやってみればいいんだわ」
「泥まみれになるのは嫌なんだけど。一緒に歩くにもそれじゃ困るわね」
 本当に人ごとで話す霊夢が、何故だかすごく素敵に見えた。
 こういう言葉遣いが出来る人間がいることに感動していたのかもしれないし、もしかしたらこうして再び霊夢と言葉を交わせることが嬉しくてたまらなかったのかもしれない。妙に高揚していた。
「・・・あそこに家があるから、タオルでも貸して貰えるか聞いてみましょ」
 汚れた鞄を持ち直し、傘から泥を弾いてもう一度差す。こんな山中に家なんてあるわけないでしょ――なんて、言葉を投げつける暇もなかった。確かにそこには小さな家があった。
 だから、こういってやった。
「家なんて無いじゃない」
 間違ってはいないと思う。
 ・・・それは家、というのは適切じゃなかった。むしろ家よりも更に不可思議な、
 それは小さなカフェだった。
 瀟洒な洋風の建物の前には手入れを施された赤や緑のパンジーや、名も知らない秋の花が同心円の花壇にカラフルな模様として配されている。その中央には、鉄製の支柱から広がった大きなパラソルがあって、硝子張りのお洒落な丸机が一つと椅子が三脚、準備されていた。奥の扉は開いていて、戸口に立っていた人が私たちを見つけ、フリル満載の傘を差して駆け寄ってきた。
「いらっしゃいませー」
「ほら、家じゃないよ霊夢」
「家じゃないの? ここ」
「うーん、家と言えば家かも知れませんし、そうじゃないといわれればそうじゃないのかも・・・わたしが決めることではありませんので」
 かわいい声でそう答えたのは、緑の髪の、どこか人形のようなメイドさんだった。私と同世代だろうが、霊夢以上に年齢不詳だった。女の子をかわいい部分だけで構築したらこうなった、というような雰囲気を振りまいている。周囲の花よりも、更に華やかな女性だった。
「でも、せっかくですので、少し休んでいかれませんか? もう少しで雨は止みそうですし、その間にお茶でも用意しましょう」
「ああ、寒かったのよね。お茶は本当に嬉しいわ。紅茶でも構わないからね」
「はぁい」
 傍若無人な霊夢の台詞に影響されたのか、私も遠慮より先に要望を口にしていた。
「・・・あの、よければタオルを何枚か貸して貰えませんか。汚してしまうかもしれませんけど」
「構いませんよー。ちょっと待っててくださいね」
 メイドさんの言うとおり、雨は小康状態になってきた。私と霊夢は庭の中央の席で待つことになったけれど、あまり寒さを感じなかった。これだけの紅葉に囲まれているのに、寒くないというのが逆に変な感じだったけれど。
 受け取ったタオルで、髪の水を拭う。曇った眼鏡を拭うと視界が開けた。服はどうしようもなかったけど、鞄についた泥や水を落として、傘の水を払う。
「・・・池に嵌って岸に泳ぎ着いて、もう散々って水を払う犬のような仕草ね」
 とは霊夢の感想。大きなお世話だった。
 それでもなんとか人心地ついたところで、メイドさんが銀色のお盆にお茶を載せてきてくれた。そそくさと席に着く。
「はぁいどうぞ。今日はケーキも上手く焼けたので、お裾分けですよ」
「うわ、おおきな苺。すごいわね」
 霊夢が感嘆の声を上げる。
 絵に描いたような二等辺三角形のショートケーキが、心地よい湯気を上げるダージリンと一緒に、私の前に並べられた。
 霊夢は早速、お茶に手を伸ばす。
 私はメイドさんに頭を下げた。
「いただきます」
「いえいえ。向こうにいますから、何かあったら呼んでくださいね」
 メイドさんは花園に視線を振りまきながら、建物の中へと消えた。代わりに、入り口に置かれた古めかしいラジオが、誰かの会話や、聞き覚えのある知らない歌を紡ぎ出す。本当に趣味のいい場所だった。少なくとも、泥まみれでくるべき処ではない。
 お茶で唇を濡らす。
 心地よい暖かさが、全身に広がっていくのを感じる。
 置かれたポットの口から、静かに湯気が立ち上っている。
 霊夢を見れば、フォークでショートケーキをつついてから、暫く考えて、まず大きな苺を突き刺して、一気に口に含んだ。大人びた言動の霊夢が、いやに子供っぽい仕草を浮かべるから、私はつい笑ってしまい、それを霊夢に見とがめられた。
「なによ」
「ううん、なんでもないんだけど」
「嘘をつくのがヘタみたいね」
「そんなこと・・・ないよ。ずっとばれなかったんだから」
 誤魔化すようにしながら、私もフォークでショートケーキをつつく。
 霊夢は少し膨れていたけど、そのまま私に尋ねてきた。
「・・・で、どうして追ってきたの?」
「え?」
「バスに乗ってれば帰れるっていったのに。わざわざ山の中に踏み込んで」
「・・・・・・」
 それは、
 ――ひとりぼっちが怖くなったからだ。
 でも、私の口は正直に、それを伝えなかった。
 フォークが、ショートケーキの先端を突き崩していく。
 でも、私の視線は、その向こう・・・花壇に遊ぶ、紅白の蝶を幻視している。
 あの蝶は飛んでいるのか。それともあれは、私の妄想でしかないのか。
「・・・私ね、泣かなかったんだ。あれから、ずっと」
 どうして、誰にもいえなかったことを言い出す気になったんだろう。
 でも、その時にでないときっと、永遠に言えないことだったのかもしれない。
 とつとつと、言葉が漏れだした。
「自分の半分が失われてしまったって、頭では解っているのに・・・ううん、本当は、いつも無くし続けてきた。誰にも見つからない場所で投げ捨ててきたんだって」
「それは悪い子のすることよね」
「私は悪い子なのよ。ずっとずっと、大切な人の不幸を願っていた」
「それは、呪いかしら」
「そう・・・そうかもしれない。だから、・・・それは叶ってしまった」
 ぐすぐすになっていくショートケーキの上から転がり落ちそうな、瑞々しい大きな苺を私はフォークで貫き通していた。


 それは、六月の梅雨空の下。
 通い慣れた交差点で。
 私のすぐ目の前で。
 なんでもない登校風景が、
 氷のように凍り付く。
 蒼い顔をしてよろめき出てくる、
 破損した車の運転手。
 私の形をした人の亡骸が、
 糸の切れた人形のように転がっている。
 庇われなければ、
 そこに転がっていたのは私だった。
 ――いいえ、これは私だ。
 私がそこで死んでいる。
 そのすべてを雨が平等に叩いていた、
 それはそんな時間。


「私は双子の姉を目の前で失ったのに、一滴だって泣かなかった。ほとんど自分のせいなのに。涙が出てこなかった」
 苺をフォークで二つに裂く。まだ、ケーキは一口も食べていない。
「いつからか、お姉ちゃんの方が優れてるんだって、一つの卵の中のいいところを合わせて生まれてきたのがお姉ちゃんだって、そう思ってた。私はその残りが凝り固まってできたんだって。馬鹿な幻想だと思っても、どうしてもその考えが捨てられなかった」
 お姉ちゃんの方がかわいい。
 お姉ちゃんの方が頭が良い。
 お姉ちゃんの方が、人に好かれている。
「でも、それをお姉ちゃんにいうことは出来ない。だから精一杯背伸びをして、頑張って、お姉ちゃんに釣り合うようになろうって。いつもそう思っていたの」
「・・・ふぅん」
 霊夢はケーキを食べながら、私の話を上の空で聞いている。
 ・・・そう、それでいいの。
 これは誰にも言えない秘密。
 誰かに言いたかった。聞いて欲しかった秘密。本当は――お姉ちゃんに聞いて欲しかった秘密。
 いえなかったのは、お姉ちゃんにいったら、きっと全部受け入れられてしまうから。
 それが怖かった。
 だから絶対言わなかった。
 そして・・・いまはもう、絶対に叶わない。
「あの万華鏡も風鈴も写真も、私が悪い子だから失われてしまった。黒猫なんて別に不吉でも何でもないのに、私がことさらに気にするからお姉ちゃんは事故に遭った。本当はいつも、心の奥底で、私の顔で私よりかわいく笑うお姉ちゃんが嫌いだったのかも知れない。考えるたびに否定して、でも気になって、忘れられなくて」
 真っ二つになった苺は同じ形をしている。その欠片の、どちらが先に朽ちるのだろう。
「私たちはいつも、一輪の花にとまる二頭の蝶だった。だからきっと、綺麗な方の蝶が失われたとしたら、花は蝶を受け入れたりはしないのよ」
 思いつくままに言の葉が散っていく。
 支離滅裂だった。
 感情の迸りではない。人に見られないところで刻む呪詛そのものだ。
 呪いの対象もいないというのに。
 代わりに、あんなに素敵だったショートケーキが、見るも無惨になっている。
 このケーキは私だ。呪いは自分に返ってきた。それだけのことだ。
 ・・・私が言葉を失うと、ノイズだらけのラジオの歌が、やたら鮮明に聞こえてくる。何処かで聞いた、でもやっぱり知らない歌。メロディだけは覚えている。思い出せない。
 いやに静かになっていた。
 雨が止んだのだ。
 花の影で羽根を休めていた蝶たちが、水滴を避けながら飛び立ち始める。
「・・・で、私を追ってきたのかしら?」
 自分でお茶のお代わりを注いだ霊夢が、私に問いかける。
「それは・・・解らないけれど。でも」
「でも?」
「――それでも私は、やっぱり、お姉ちゃんと一緒にいたかった」
 花壇では、紅白の蝶が飛んでいた。その近くを、みすぼらしい小さな白い蝶が、戯れるように飛び回っている。
 優雅な紅白の蝶。
 なんだかどたばたとしていて、力無い色褪せた蝶。
 二頭は一緒に飛ぶ。
 ただただ、羨ましい。
 霊夢はそんな私をじっと見ている。何も言わない。
 急かされている気がした。絶対に、答えなんて出ないというのに。
「・・・もう叶わない願いだって知ってる。でも、このままじゃ私は、こうやって雨が降るたびに何も出来なくなる。花の影で雨が止むのを待ちながら、羽根を失い地面に落ちる。でもお姉ちゃんはきっと今も、あのどこまでも蒼い空を飛んでいて、私にはもうけっして追いつけないんだから・・・あんなに綺麗で、あんなにかわいいままのお姉ちゃんが羨ましかった。ねたましかった。ずっと一緒にいたかった」
 霊夢はちょっと考えるような仕草をして、
 ――そして。
「よくわかんないけど、それならずっと一緒にいればいいんじゃないのかしら?」
「え?」
 またも霊夢はあっけらかんといってのけた。
「一緒にって・・・」
「ああ、考えるのはやめたほうがいいわ。それは間違っているから」
「・・・・・・」
 頭の中がぐちゃぐちゃだった。
 家族も友達も誰も彼もが、お姉ちゃんのことを記憶に封じて、お姉ちゃんの分まで強く生きようと誓い合ったのに。同じような言葉で励まし合っていたのに。私はそれが受け入れられなかったのに。
 なのに。
 霊夢は朝の空気のように透き通った表情で、一瞬毎に明るくなっていく空を見上げるのだ。
「雨が降れば傘を差すし、風が吹けば髪をおさえるわ。総ては流転するけれど、握っておけば凧みたいに飛んでいかないこともある。もちろん、『向こう』へ行ってしまった人を連れ戻すことはルール違反だから駄目よ。でも、そういう意味じゃない。大事な人を歴史にしない決意が、貴方と貴方の半身とをつなぎ止める。多分、輪廻の輪を繋ぎやすくもするのでしょうね」
 霊夢の目は空を彩り映す。
 何処までも澄み切った、水晶玉のような瞳だ。
 その輝きに、私の心が解きほぐされていく。
「・・・・・・」
「なによ、ぽかーんとして」
「に、似合わない言葉だなって、思って」
「あのね。一年中こんなめでたい恰好しているんだから、降りてくる言葉ぐらいはきちんと紡がないと。それでなくてもおとぼけ巫女とか、守銭奴とか陰でいわれているんだから」
「巫女?」
「結ぶのも繋ぐのも、勝手にはおこなわれないの。人がやる事よ」
 霊夢はそういうとまた、静かにお茶を傾けた。なんて美味しそうに飲むのだろう。
 言うことは言ったということなのかもしれない。
「おはなしは終わりましたか?」
 いつの間にか、あのメイドさんが隣に立って、向日葵のような場違いな微笑みを浮かべている。
「いつもよりは喋っちゃったかな。そろそろ帰ろうかしらね。雨も止んだみたいだし」
「・・・でも霊夢、私、まだ」
 追いすがる私に、メイドさんが笑いかける。
「事情はよくは解りませんが、雨が上がれば大丈夫ですよ」
「・・・・・・・・・」
「太陽と青い空の下にいれば、みんなきっと一緒です! 花もチョウチョも木々も、私だって元気になれますから」
 両の拳を胸の前で固めて力説する。
「結構当たってるんじゃないかしらね? それ。適当だけど」
 妙に感心したような仕草をする霊夢。メイドさんは勝手に勢いづく。
「そうです。それに、捜し物なら、諦めなければきっと見つかりますよ」
「その顔はまだ諦めてない顔ね」
「もちろんです! なんたって、ご主人様の為ですから」
「はいはい」
「二人とも・・・知り合いなの?」
 私の問いかけに、霊夢とメイドさんは顔を見合わせた。
「・・・そういわれてみれば、そんな気もしますけど」
「近ければ遠い、遠ければ近い、ね」
「ウチは蕎麦屋じゃありませんようー」
「それよりも」
 霊夢は眉をひそめて、私の皿を指差した。
「一口も食べない上に、そんな惨状はよくないわね。子供の時、食べ物を粗末にしちゃいけないっていわれたでしょう?」
 確かにその通りだった。
 メイドさんにお詫びを言ってから、ケーキの崩れていない部分と、半分にした苺を一緒にして、ゆっくりと口に運ぶ。
 ―――――――。
「どうです? 美味しいですか」
「私は好きよ。神社じゃまず食べられないしね」
 答えたい。なのに、答えられない。
 喉を降りていく甘さの変わりに、鼻の奥からこみ上げてくる何かを必死で堪える。
 ・・・だめだ。
 こんなことで、
 こんなことで涙を流したら、またお姉ちゃんに笑われてしまう。
 だから、無言のまま、幾分空をみる姿勢で、ゆっくりとその味を噛みしめていた。

       ☆

 カフェを離れて、霊夢と一緒に螺旋のような坂道をずっと登っていった。
 紅葉のトンネルはまばらになり、その向こうの天が高い。
 道は整えられていて、歩きやすかった。
 二人の傘は閉じて久しい。
 空に近くなるに連れて、得体の知れない違和感を感じていた。怖くはない。でもどこか、自分がいてはいけない場所にいるような感触ばかりが肌を伝っていた。
 少ない語彙から選び出した単語がよぎる。
 充足、
 予感、
 ・・・幻想の結末。


 ――唐突にそれは現れた。
 森の中にひっそりと立つ、色褪せた大きな鳥居。
 不揃いの石で作られた階段が、上へ上へと続いている。
「ふう。やっとついたわ。かなり道草くっちゃった」
 霊夢が凝りそうもない肩をくるくると回している。
「ここが霊夢の家?」
「ま、そうね。一人で住むには狭いけれど、ま、最近は呼びもしない客がいろいろやってきて迷惑してるわ」
 霊夢があっさりと、鳥居を潜り、階段に足をかける。
 そして、私に振り向く。
「どうする? 一人のお客ぐらいなら、増えても一緒なんだけど」
 私は最初そうしたように、
 学生鞄を抱きしめ、傘を握りしめて、
 強く首を振った。
「ううん・・・いい。帰らなきゃ」
 多分この先は、私の世界じゃない。何故だかそれが感じられた。
 それに・・・いつか私は遠い昔に、ここにたどり着いたことがある気がするし、
 今日だってここに立っているし、
 もしかしたら・・・次もまた来れるかもしれない。
 いや、届くだろう。きっと。
 雨が循環し、
 山に降り、
 川に流れ、
 海に注いで、
 再び雲となってこの国を訪れるように。
 私たちは繰り返し、繰り返し、この道を辿っていく。
 その時はきちんと準備をして、霊夢を喜ばせるプレゼントを持ってこよう。
 雨を忘れないで、雨を怖がらないで、ビニール傘を忘れずに。
 ちゃんと歩いてこよう。
 霊夢に会いに来よう。
 そう決めたんだ。
「ここからでも帰れるかしら?」
「霊夢が言ったのよ。ちゃんと帰れるって」
「そうだったかしらね? 責任までは持たないわよ」
 霊夢の物言いがソプラノの波になって私の髪を揺らす。すっかり乾いて、少しぱさぱさになってしまった短い髪を。
「あ、霊夢だ。遅いお帰りだぜ」
 階段の上の方から、知らない女の子の声が落ちてくる。
「巫女ともあろうものが、神社を放置して遠出とは・・・これはまた、事件の匂いがしますね。今日の貴女の行動は、鴉を使って監視済みですよ? しっかり記事にしますから覚悟してくださいね」
「あ、やっと帰ってきたの? これで藍様のお使いがようやく終わるよぉ・・・早く帰ってご飯食べないと、お腹減っちゃってしかたないよぉ」
「・・・知らない女の子の声がしたけど。人間かしら」
 霊夢は上を見上げて答える。
「さすがに兎は耳が良いわね。でも駄目よ。この子はもう帰るんだから」
「山のお寺の鐘はまだ鳴ってないんじゃないのか? 霊夢」
「急かされる前に帰るのがいい子の条件なのよ。ねぇ」
 霊夢が笑う。
 私も笑って答えた。
「・・・私は悪い子だっていったのに」
「悪い子ぶってるうちは、悪い子になれないのよ。鬼も攫ってはくれないわ」
「じゃぁ、良い子でいたら何かご褒美くれる? 山の神社の素敵な巫女さんなら」
「そうね・・・」
 霊夢が少し考えて、それからいった。
「今度逢ったら、一緒に空を飛んであげるわ」

       ☆

 道なりにしばらく歩くと、開けた場所に、あのバスがウインカーを点滅させて律儀に私を待っていた。
 雨上がりの空は夕陽に灼けてもう真っ赤に染まっていた。その下に、いくつものビルを中心として、灰色の都市が地平線まで広がっている。
 千切れた雲に視線を沿わせていくと、まだ真っ青な空が残っていた。
 私はバスに乗り込む前に、眼鏡を外し、自分の見える世界を構成する、その懐かしい色を、しっかりと網膜に焼き付けていく。


 ――やがて私は、
 青空に二頭の白い蝶が、山に向かって遊びながら飛ぶ、幻想を見た。



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