■幕ノ序


 雨音に包まれている。
 目を閉じて。

 しっとりと濡れた校門に寄りかかっていると、ブラウス一枚だけ隔てたコンクリートから冷たい水が染み入ってくる。ついと躯の軸を前方に動かすと、慣性で薄のように揺れる。自分の体だというのに、人ごとのように自律するのが妙だった。
 首筋に掛かる髪も水を帯びて冷たい。大気でなく水を呼吸している気がする。
 右手には傘の柄を握り、左手で使い込んだ学生鞄をかき抱く。縮こまる。
 頭の上で雨が跳ねる・・・水溜まりやアスファルトや灌木の上で弾けるのと同じように。だから、湿った髪の動きを感じながら、ゆっくりと頭を傾け、天を仰ぐようにして――
 目を開けてみる。

 濁ったビニールの天蓋を隔てて広がる灰色の空。
 そこから流れ落ちてくる涙は、私の心に届かない。
 ああ――駄目だ。
 雨が降ると、私は何も出来なくなる。

 それは、コンビニで買った透明なビニール傘を通してみる雨空。薄暗い世界。
 九月の冷たい雨。
 濁っている。
 いつ付いたのだろうか、眼鏡の端の水滴が狭い視界をさらに阻害している。
 ・・・いや、濡れているのは傘なのか、眼鏡なのか。それすらも解らない。ただ今は、凝るようにして雨音だけに包まれている。
 思い出せば――朝。登校前に見た天気予報の女性が、訓練された流麗な滑舌でほぼ百パーセントに近い午後の降水確率を繰り返していた。それでなくても、見上げた空は今にも泣き出しそうで、猫が顔を洗わなくても今日は雨が降るってわかっただろう。実際こうして雨は降っている。快晴が思い出せないくらいに、世界の始まりから降り続いているかのように。
 なのに、私は外に出た。
 午後から雨が降ると解っていたのに、古ぼけたビニール傘を手にとって外に出た。
 自分の行動の愚かさを知りながら。いまだに傘を持って外に出ようとする己を憎みながら。
 だからこれは、相応の報いなの。
 私はこうして雨の中にいる。
 立ち竦んで、動けない。
 ・・・・・・・・。
 眼前には、古ぼけたバス停が身じろぎもせずにつったっている。雨に打たれても文句一つ言わずに、もう何年も同じ姿のまま、ペンキの禿げたまま、少しだけ傾いて。雨よけの屋根なんて気の利いた物は付いていない。
 視線をゆっくり動かすと、右も左も正面も同じ光景が連なっている。
 霧雨に煙った街。
 何処までも続くアスファルトの舗装。同じ背格好の街路樹。排気ガスを浴び続けた灌木。うっすらと点灯する信号機。
 灰色の都市。
 誰もいない。
 ただ、私だけが一人立つ。

 ふと、思った。

 もしかして・・・私はバスを待っているのだろうか?

 ぼんやりとそのようなことを考えた。
 いつものように尋ねようして隣を見て、
 ――誰もいない。
 見上げても、ビニール傘はただ落ちてくる雨を受け止めている。その向こうは灰色の空。
 高校三年。秋口。
 部活も終わった。夏休みも終わった。目前に迫った受験に向けて、テストとテストの谷間に登下校するだけの生活。
 そんな自分を見下ろす自分が、バスを待っている。
 ・・・いや、本当に待っているのか。
 バスは来るのか。
 煙雨の灰色都市から私を連れ出してくれるバスは、本当に来るのだろうか。

 ヴロロロロロロロロロロ・・・

 視界の右の隅で、光が跳ねる。
私の半身を照らす光。
 低いエンジン音を響かせて、金属の塊が近づいてくる。
 まだ私は微動だにしない。視線すら動かさない。
 私の何十倍もの質量が、雨をはねとばしながらほんの一メートル横を通り過ぎる。ブレーキが軋みを上げ、水を噛んだタイヤが僅かに水蒸気を上げた。停止。
 プシュ、
 聞き覚えのある空気の圧搾音がして、
 象使いに耳の後ろを叩かれた象のように、ゆっくりと後部のドアが開かれる。
 古い、古いバスが、雨のカーテンの向こうで私を待っている。
 その距離、数メートル。バスの跳ね上げた水溜まりの水と、バスの排気口から立ち上る煙と、空から落ちてくる雨とで、私とバスとの間は一層白く濁っている。その向こうから、滲んだ紅いテールランプと、オレンジのウインカーが私を呼んでいた。

 しばらくその灯りを眺めていた気がする。結構時間が経った気がしたが、バスはいっこうに発車する気配を見せない。
 だとすると・・・私はこのバスを待っていたのだろうか。
 雨に包まれた私は、体を動かすのも億劫だった。
 もう一度だけ雨空を眺めて、ここが灰色の都市の形をした牢獄だと確認した。
 だから、
 ただ、雨に打たれない時間だけを求めて、
 わたしは、乗車口へと向かった。
 水溜まりを避けることもせずに、まっすぐに。

 水に濡れた足首は、ひどく冷たかった。


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