■永劫の樹の元へ                   【Tong Poo】

      1
 
 その日の蓬莱山輝夜は、最近では稀にみる退屈を感じていた。
「……永琳。永琳」
 襖の向こうへ声を掛けるが、答えはない。
 そういえば今日はやけに静かな気がした。
 あれこれ賑やかな鈴仙も、呼ばなくてもいつの間にか側にいる因幡てゐもいない。毬のように跳ね回る永遠亭の兎たちすらも。
 いない。
「もう、何処にいったのかしら。お腹が減って困るじゃない。まあ死なないけどね……でも確か、今夜は満月だし、例月祭の準備もしないといけないのに」
 永遠亭の部屋は無数にあって、一人だとよく迷子になる。
 先日も入り込んだ物置と成長の早い竹に囲まれて出られなくなったことがあった。
 だから、輝夜は単独では滅多に外出しない。出られない。
 檻のような結界があろうがなかろうが、その点に於いて変りはなかった。
 それでも退屈は事実なので、やるべなく立ち上がり、書院の棚に並べられた一冊の本を取り出す。
 いつぞや香霖堂を訪問した際に見つけた、外界の「かぐや姫」の絵本。
 最近なんだか繰り返し眺めている。
 ……聞くところによると、地球における輝夜自身の生い立ちから五つの難題、月の使者による迎えに至るまでの一連の流れが、外では老若男女や貧富の差も関係なく、大半の人間が知っている極めて有名な物語になっているらしい。本人にとってみれば、今まで隠れ住んでいたのがおおよそ滑稽な話である。
 もっとも、物語の最後でかぐや姫はほぼ例外なく月に帰還するという。それはそうだ。実際に月へ帰り始めたところまでしか、大半の地上人は見ていないだろうから。
 ただし、と香霖堂の主人は言った。
 幻想郷に流れ着く大半のものは、外の世界で忘れ去られた事物だ。
 かぐや姫の伝説もまた、時の流れの中で忘却の渦に飲み込まれてしまったのかもしれない。幻想の里であるここですら、竹取伝説は過去の遺物だったのだからね。貴女が御出ます前までは……と。
 さて、どうなのだろう。
 自分以外の人間たち全てが私を知っているのに、私は彼らのほぼすべてを知らなかった。永遠亭の時は止まっていたのだから、いてもいなくても同じことだった。
 だが、今や私の時は再び動き始めた。
 そして流れ去る地球の歴史の向こうにも私がいたことを知っている。
 無論この先も、私の大河は尽きること無く永劫へと流れ続ける。
 自分はもはや月の姫ではなく、地上に隠棲する蓬莱人なのだから。
 ただ、その川の上流に何があったのか、その下流に何があるのか……垣間見たいというのは高望みだろうか。どうでもいいことだから別に放っておけばいいのだけれど、輝夜はとてもとても退屈していたので。今日は特に、なんだか無性に気になった。
 庭を見遣る。盆栽で育てている小振りな優曇華は、今日もあまり大きくならず、実も付けないというのに……。
 なんだろう、胸に小さな疼きがある。
 少し前に訪れた奇妙な夢のせいだろうか。
 外に出て、何かを見たい。
「こんな日は久しぶりに遠出するのも良いかしらなんて、思っているのだけど」
 出不精なので、いまだに幻想郷のことをほとんど伝聞でしかしらない輝夜は、外出といっても何処へ行けばいいのかよく分からない。迷いの竹林を一人で抜けられる自信もなかったりする。自分を付け狙ったりそうでなかったりする面倒な奴もいるし。寂しいから殺し合いをするというのは、さすがにちょっと間違っている気がした。
 無類の知名度を誇る姫も、幻想郷では単に人妖の一人でしか無い。力を誇示するように並び立つ神々や大妖怪に比肩する気もなく。普段は盆栽や本を眺めて静かに暮らす、ささやかな少女だった。
 
 さしあたって輝夜は、家人の帰宅か来客を待つ事にして、座布団に座り直した。
 現在彼女が欲しいのはこの退屈を紛らわせてくれる誰か。
 お茶とお茶請けを肴に遊んでくれる誰かが来るのを、待っていた。
 霞掛かって白く濁った竹林を眺めながら。

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 ――幼い童女と博麗霊夢を乗せて、舟は音もなく川面を滑っていた。
 燃え盛っていた竹林も視界の地平線に没し、今は銀盤のような水面の上をゆっくりと流れるのみ。瞬かずに降り注ぐ星空の中央、皇帝のように座す地球はどこまでも蒼い。あまりに幻想的で美しいその姿を眺めていると、心が吸い込まれても全然おかしくないな……などと霊夢は考えていた。
 やがて、漕ぎ手のいない舟が再び岸にその身を寄せた。桟橋はない。
 少女は巫女を見遣る。短い旅の終焉に気づいたらしい。
「……ここからなら帰れるかしら?」
 巫女が問うと、少女は小さく、だがはっきりと頷いた。
「よかったわね。道草せずに真っ直ぐ帰るのよ」
 巫女が先に舟から出て、少女を抱きかかえて地面に降ろした。たわわに桃の生った木々の向こう、霞掛かった森の更に遠くで、古めかしい街の灯りが夜を照らしている。この世界では青い空が天を覆うことはないけれど、人の時間はそれなりの手順で朝を迎えるようだ。太陽がある限り、どの世界でも昼夜がなくなることはない。
「ありがとう」
 幼い娘は礼を言い、左手で袖を押さえた右手を霊夢へ小さく差し出した。
「何?」
「あげる」
 巫女が手を出すと、少女はそこに翠の宝珠をそっと載せる。
「これ、あんたの物じゃないの?」
「あげる……もう、わたしにはいらないものだから」
「いらないものだから、くれるの?」
 少女は頬をあからさまに赤くし、誤解を解くべく首を横に大きく振った。
「ううん。本当にとっても大事な物だから、あげるの」
「だったら、貰おうかな」
「うん」
 少女は安心したように微笑えむ。霊夢のちょっとした意地悪だったことに気づいたらしい。霊夢は「ごめんね」と呟くように謝った。
「……ありがとう」
「成り行きだからいいのよ、多分。どういたしまして」
 少女は霊夢へと手を振ってから、街に向かって歩きだした。
 そこが何処に繋がっているのか、霊夢には全く分からないし、知ろうとも思わなかった。
 ただ、自分の行ける場所ではなさそうな気がしたから。
 こういう時の自分の勘は昔からよく当たるのだ。理由は謎だけれど。
「まあ巫女だしね」
 ――さてと。
 これからどうしよう。
 およそ事件に関わる時はいつも、予感で始まり適当に妖怪を退治していたら主犯に出くわすというパターンを繰り返してきた。根本的な問題がそれで完全解決かというと定かではないのだが、霊夢にとってはいつも瑣事だった。とはいえ、最終的に宇宙だの冥界だのととんでもないところまで辿り着いてしまう割には、神社まで無事帰って来れるのが通例だったのだが。
 今回はといえば、何処から始まったのかも分からないし、何処で終わるのか見当もつかない。気づいたら、どうやら地球ではなく月っぽいところにいて、見知らぬ女の子をあやしながら川下りという前代未聞の展開。誰かに連れてこられたのか、何かに巻き込まれてしまったのかも分からない。前回月に来た際はロケットが崩壊してどうなるかと思ったが、けちょんけちょんに負けた相手が条件付きで一応幻想郷まで連れて帰ってくれたのだった。ここが月であれば当該の相手が存在しているのかもしれないが、再び浄土に侵入した人間に腹を立て、今度こそ本格的に収監されたとしても文句は言えない。
「そんなこといっても、私も来たくて来た訳じゃないのにねえ。なんで川下りかもよく分からないし」
 ただ、予感が存在する。
 ――私は『何か』を探していたのだ。
 以前に確かに見たことのある『何か』。
 これから真視えることもあろう『何か』
を。
 多分巨大で、偉大で、有り得べき存在。でもそれがなんだったのか……断続的に見せられる幻視のような光景に、今はもう霞んで見えないけれど。僅かなる望郷の心を充たしてくれるかどうかも分からないけれど。斯界は今なお五里霧中、天涯に星は瞬かずあって、道標は見えない。
「って、あ、船」
 ぼんやりとしている場合ではなかった。
 振り向いた時には遅かった。舫い綱を結んでいなかった小舟はゆったりとした流れに乗り、無人のまま静かに離岸してもはや遠くにあった。
「あーあ」
 飛翔して乗り込むことも出来ないわけじゃなないけれど、、そこまでして追い掛けたところで結局何処へ行くか定かではない。霊夢がどのように一歩を踏み出そうとしても、それは確率的にどれも同じ意味でしかなかった。
 周囲はうっすらと霞が掛かり始め、水面も遠くまでは見渡せなくなりつつある。
 何処へ行くにしても早く決めなくてはならないだろう。
「……歩いていて知らず水に落ちるのだけは嫌だから、水音のしない方向へ行きましょうか。森に池がない保証はないけれどね。ここの人たちはなんだか意地悪そうだし」
 霊夢は、少女から貰った緑宝珠を懐にしまいこみ、ついで手近な木から一つの桃をもいだ。予備にもう一つと手を伸ばしたところで欲を抑えこみ、桃をハンカチで軽く磨いてからさっそく齧りつき、そうしながら少女が消えた道とは別の方角へと歩き始めた。

 疎らな木々が立ち並ぶ林が、いつの間にか竹林にとって変わっている。
 緩やかな風が吹く度に、笹の葉がこすれ合って低くささめく。空気は流れているのに、白い霧は一層深くなって水を直接呼吸しているかのようだ。竹の姿も茫洋として、恥ずかしげに潜んでいるようでもある。ただし、夜のはずなのに周囲は不思議と明るく、足場に困ることはなかった。
「なんだか見たことのあるような、ないような場所ね。竹の生育は早いから、人工物でもないと見分けがつかないわ」
 霊夢は薄暗い樹間を見渡しながら、かろうじて人が踏み分けた跡のある道を辿っていく。これすらも単なる獣道か、あるいは人妖が化かしたものでないとは言い切れないが、その際は出てきた奴を懲らしめればいいだけなので話は早い。
 空には相変わらず地球が掛かっている。
 無限の距離を転移する力を貸してくれる神様ってどなたかしら、とか考えてみる。
 考えたところで修行してなければ使いこなせないので、徒労だったが。そもそもそんな力があるなら、住吉三神のお力を借りるまでもなかったし。
 歩くのも喋るのも苦にならない質だったが、竹林にわけいってから体感時間で既に一刻以上は経っている。視界に変化のない状況に飽きてしまうのは仕方のないことだった。
「迷いの竹林なら妖精とか幽霊が無駄にわんさか湧いて、少なくとも退屈だけはしないのだけれど。私は潔癖症でもないから、どうにも綺麗過ぎる場所は落ち着かないわ……ま、竹の切り口から金銀財宝が湧いて出るとかなら大歓迎だけど。私は竹細工師じゃないけどね」
 と。
 視界の右方向に初めて、うっすらと明かりのようなものが見えた。
 一つ溜息をつき、努めて期待しないようにしながら、そちらに方向転換する。
 実態のない狐狸の類でなければなんだっていいわ、もう。
 お茶を出してくれるならこのさい悪魔でも構わない。
 多少疲れていた霊夢は投げ遣りにそう思った。
 知らず足音が早まるのに気づかないまま。
 だが――彼女がその灯火の正体に気づいた時、多少の驚きを感じずにはいられなかった。何故ならそこは、彼女にもよく見覚えのある場所だったから。
「なにこれ。永遠亭じゃない」
 地上の幻想郷に於ける名所・迷いの竹林。その奥深くに位置しているはずの日本屋敷そのもの。紛れもない。相変わらずの主張しなさで目の前に鎮座している。閉ざされた門の柱に掲げられた松明が、霊夢の目指した光だったのだ。
「おかしいわね。なんでこんなところにあるのよ。だってここ、地球じゃないでしょ」
 門扉を押すと施錠されていない。軋ませながらゆっくりと押し開けるが、塀の外と同じように人気はなく、大きな庭と玄関が閑寂と共に広がっている。滅多に訪れる訳ではないが、ここぐらいまで入り込もうとすると、あの紅い目をした宇宙兎や、それこそ一ダースほどの妖怪兎たちが殺到するのが常なのだが。
 玄関口で家人を呼ぶが、冥い廊下に反響するばかりで答えはない。
「ほんとに無人なのかしら。よく似ているけど別のお屋敷? ちょっと休憩させて貰いたいところだけれど、さすがに黙って入り込むのは良くないわよね、魔理沙じゃあるまいし」
 建前が魔法店店主で本業が泥棒な感じの友人が聞いたら腹をたてるような、至って配慮のない呟きを零しながら、霊夢は勝手口を目指して庭を迂回し始めた。なにしろ広大な屋敷である。建物同士を繋ぐ渡り廊下も多く、軒下をくぐるなんてはしたない行為をせずに裏手を目指すのは結構な距離があった。
「あんまり広い家に住むのも考えものね。あの時間メイドみたいな奴でもいれば別なんだろうけど、掃除が大変で困っちゃうわ」
 そういいつつ、廂間を抜け新たに小規模な庭に突き当たった時だった。
「あら」
「あら」
 庭に面した廊下の向こうに、見覚えのある少女が座っていた。
 大きな座布団を敷いて、長い着物と、更に長く艶やかな黒髪を広げて。
 艶やかな扇子を口元に当てて。
 ――蓬莱山輝夜。
 この屋敷の主だ。もっとも、ここが本当に永遠亭であればの話だけれど。
 輝夜はにっこり笑って言った。
「最近のお客は庭から現れるのがトレンドなのかしらね。竹垣をジャンプ?」
「いきなり嫌味かしら。仕方ないじゃない、玄関から呼んでも誰も出てこないんだし」
「そうね、今日は不思議なことにだーれもいないのよね。誰かが代わる代わるどっかにいくことはあったけれど、誰もいないっていうのは初めてかも」
「お姫様ひとり残してどっかに行っちゃったんじゃないの? 我が儘が過ぎて」
「そんなことは無いわ。だって、私は皆に愛されているもの」
 悪気なく誇張なく、輝夜は静かに言い切った。
 これだから傅かれることに慣れたお嬢さんは。
 霊夢は呆れて物も言えない。
「ただ、実際にこうやって誰もいないと退屈で仕方ないわ。不便だし。永遠亭の時を止めていた頃は感じる事もなかったのだれど。いざ実際に退屈ってのを意識すると、これはこれで結構辛いものねえ」
「贅沢な悩みだこと」
「おかげでこうやって月光浴しかすることがなくて。例月祭も祀れないものだから、あんなに月が近くなって困ったものだわ」
「どうでもいい困惑ばかりね……って、ちょっと待ちなさいよ。あんたね、ここは地球じゃないのよ? 月光浴なんて出来るわけ無いじゃない」
「何を云っているのかしら? 私は別に『月光浴』浴でも構わないけれど、どっちにしたって同じことよ。夜空を見上げないで歩くから迷子になるのじゃなくて?」
 輝夜は頭上を指さす。
 つられて振り返った霊夢は、あんぐりと口を開けた。
 烟っていた霞が若干晴れて雲の多い夜空の向こうに、それはもう花札のように絵になる満月が浮かんでいる。姫の言うとおり、いつもより大きく見えるのは薄曇りのせいだろうか?
「え、え、なんで……いつの間に。あれー」
「私は別に宗教家になるつもりはないけれど、巫女なんて人を導く職業の人があれこれと狼狽するのは良くないと思うわ」
「……それはそれは、大変ありがたい忠告ありがとう。傷心に沁みるわ」
 霊夢はただ、呆気に取られて月を仰ぐしかない。
 輝夜の方も、何をそんなに驚くことがあるのかと霊夢を訝しがりながら、それでもゆっくりと立ち上がった。
「さてさて、お客も来たことだし饗したいところなのだけれど、永琳もイナバもいないからどうしたらいいのか分からないのよね。悪いけど台所を探してお茶の準備をしてくれない?」
「………………」
 確かに、馬鹿みたいに月を眺めているよりはそちらの方がましだった。
 ただ、客にそんなことをさせる家の主人に遭遇したのはこれが初めてかもしれない。
 霊夢はそう思った。

 二人はなんだかんだと言い合いながらも、やたら広い家屋の中から炊事場を探し出し、お茶を淹れて元の部屋に座った。主に霊夢が。輝夜もようやく一息ついた様相だったが、霊夢は何時間も歩いた自分と同じような表情をしている輝夜がちょっと憎らしかった。
「さすがにうちのお茶は美味しいわね。寂を感じるわ」
「淹れたのは私だけどね。そもそも、どんな種類のお茶か知らないんでしょ?」
「うん」
「うちの安っぽいお茶っ葉と交換してもきっと気づかないんだわ。少し持って帰ろうかしら」
「それじゃ、時折訪れる白黒の珍品ハンター並じゃない」
「魔理沙、やっぱりやってるのか……」
 輝夜は飲み干した湯呑みを置いてから、霊夢に尋ねた。
「で、今日は何の御用かしら? こちらには特に退治される理由もないし、永琳がいないから薬の調合も無理よ」
「いやその、別に用ってわけじゃないのよ。なんというか、道に迷ったというか」
「本当に迷子だったの? 竹林に入るってことはここを尋ねるからだと思ったのだけれど。それともあの焼鳥に用事があったのかしらね」
「そういやあの人に最初にあった時は、あんたにけしかけられたんだったわね。肝だとかなんとかかんとか」
「まぁ暇つぶしよ。肝試しで人生暇つぶし。死なないけど」
「それはともかくとして。つまり、なんだか訳がわからないうちにここに来てたってことよ。こういうのはあんまりないことだわ」
 暇だった姫は、霊夢に話を促した。さしあたって立つ気力もない霊夢は、自分の遭遇した出来事を話し始める。
 大火事から焼け出された女の子を仕方なく助けて川を下ったこと。
 どうやら夜空に浮かんでいるのが地球だったこと。
 街がみえたので女の子と別れたこと。
 霧が深くなっていたので歩いていたら、ここに辿り着いたこと。
 女の子から貰ったものについては、個人的なことだし黙っておく。
 輝夜は差し出されたお茶のお代わりにも手をつけず、聞き入っていた。
「……てな具合で、みっともない話よね。空飛ぶ船に乗ったと思ったら魔界まで連行されたこともあったし、もう少し後先考えて行動するべきなのかもしれないわ」
「貴女がそれを云っては駄目な気がするわ」
「どうしてよ」
「なんとなく」
「……ふう。まあそういうことで、図らずも永遠亭に来ちゃったからには此処は地上なのだから、一休みしたら家に帰るわ」
「月には山と海を繋いで空間をそっくり入れ替える程度の技術があるから、何処に誰がいたっておかしくはないけれどね。でも、だからといって此処が普通の幻想郷とは限らないわよ。永遠亭が私を除いて無人なのも、なんとなく理由がわかったわ」
 そういって輝夜は、貴人のように表情を綻ばせる。
「何よ」
「……さっきの話、黙ってることがあるわね」
「何のことかしら」
「なにかを貰ったでしょう? 女の子に」
「貰ったり貰わなかったりしてるわ、いつも」
 霊夢はとぼけた。
 輝夜はますます喜ぶ。
「嘘はつかないということかしら。なら私も伝えるけれど、これはきっと私の夢よ」
「何を言い出すのかしらね、このお姫様は」
「だって私は貴女と同じ夢を既に観ている――焼け落ちる竹林の中央を、小川に裾を浸して歩いて、やたら面倒くさそうな巫女に連れられて小舟に乗り、大きな河を下ったもの。何時までも泣き止まない私に向かって、貴女はいったわ。『ねぇ、あれを見るといいわ』って」
「………………」
「そう、そして焼け落ちた竹林の向こうから、地球に向かって飛び立つ――」
 霊夢は何かを考えるようにして、満月を見上げる。
 即答しないのは、霊夢の観る夢が特殊だからだが、それは口にしない。
 考える。
 共有する光景。
 闇夜のような空。
 月下の散歩。
 浮かぶ月と、地球。
 何かを探す自分。
「……姫様じゃなくて、実は私の夢だっていう可能性は?」
「あるかもしれないわね。貴女だって月を訪問したのだから、月の光景が枕元に浮かぶこともあるでしょうよ。ただしそこに、月で見たことのない物が浮かんでいるとすれば?」
「うーん」
 輝夜は明らかに面白がっている。この高貴な人はそれはもう大層暇だったのだから、夢だろうがなかろうが、興が乗れば乗ったで別に構わないのだろう。くたくたになるまで歩いたこちらとしては迷惑な話だが。というか、仮にどちらかの夢だとしても、なんでこんなにも疲労を感じないといけないのか。理不尽極まりない。
 でも、もしこれが自分の夢だったとしたら。
 何処かに、探している『何か』を見つけられるとしたら。
 可能性。
 きっとそれは、見つけてもどうしようもないものだとする予感もある、けれど。
 ――分からない。
 裡に秘めたものを誤魔化すように、霊夢は自分の頬をつねってみた。
「夢なら夢でいいけど、さっさと覚めてくれないかな。もう一度ちゃんと眠って、ゆっくり朝まで眠りたいわ。あまり余計なものなんか観ないで」
「そう言わないでよ。今日は気紛れに遠出したい気分だったのに」
「明けない夜に何処へ行くつもりなの? どうせ夢なんだし、他に誰もいないのなら里帰りでもすればいいじゃない。一人で」
 適当に答えたあとで、瞬時に後悔した。
 それはもうたっぷりと。
 輝夜が両目を爛々と輝かせて、勢い良く立ち上がったから。
「それよ! さすが博麗の巫女、人々を導く役目の者ね!」
「あー。ダメよ。駄目。私は行かない。疲れているし」
「それじゃ、さっき飲んだお茶の代金を徴収するわよ。貴女が普段飲むお茶の何倍するかしらね。永琳のメモ帳に書いてあるはず」
「そんな殺生な。私が淹れたのに」
「淹れた時の作業量を時給換算しても、まだ足りないと思うけれど」
「贅沢は敵だわ……」

「……最近メンテナンスにも立ち会ってなかったら、正確な位置の記憶が定かじゃないのよね」
「なにを探しているのか分からないと探しようがないじゃない」
「あの永夜事変の時、貴女が二回目の訪問の際だったかしら、永琳の隠した檻を見つけたでしょう? あれと同じ要領でいいのよ」
「適当ね。というか、ここはあんたの家でしょうが」
「勝手知ったる人の家というじゃない」
 すっかりやる気になってしまった輝夜に引き摺られるように、霊夢は再び永遠亭内部を探索する羽目になってしまった。この姫様は結構アクティブで、しかも遊び相手への配慮がほとんど無い。外面の良さで人を騙すタイプの人間だと、霊夢は脳裏の識別情報に書き加えた。
「だいたい月に行くっていったって、ロケットもないじゃない。例の月の術だってあんた使えないんでしょう? 夢だからって飛んでいくとか疲れること云わないわよね」
「まあまあ、その辺は心配しなくていいわよ」
「心配しないから、とりあえず放っておいてほしいわ……」
 二人が歩く度に、木張りの床が鶯のように小さく軋む。
 障子の開閉、地平線まで続くような廊下。明らかに外見よりも広い。永遠亭もまた、紅魔館のようにあちらこちらで時空が歪んでいるらしい。
「幻想郷の住人は無駄に迷路とか大好きよね。悪癖だわ」
「迷わないより迷うほうが楽しいじゃない」
「人生が暇つぶしの人だけじゃないのよ。特に普通の人間はね」
「貴女は普通の人間かしら?」
「わりとそうよ」
「九割ぐらい? 正解?」
「うーん、そう念を押されると自信がなくなる」
 各所に灯る照明が決して消尽しない。これは仮想現実の賜物らしいが、ちびない蝋燭が羨ましい霊夢はその下を通るたびにじっと見つめるのだった。
「ふー。……あれ、なにこの襖。妙に小さいし、他のところみたいに規則正しくなってないわ」
「あーあー、これよこれ。さすが博麗の巫女ね」
「もうその褒め方飽きた」
 二人が入ったのは四畳半程の小さな部屋。がらんとしていて、天井には鈍い明かりが付いている。
「これ、霖之助さんのところで見た蛍光灯ってのに似てるけど、暗いわね」
「なんだったっけ……ああ、たしかこうね」
 輝夜は柱に据え付けられた電子計算機みたいなものを二度三度と押した。
 すると、入ってきた襖に外からロックされる音が響いた。鍵穴もないのに。ついで振動もなく部屋全体が上昇し始めた、ような圧迫感に包まれる。霊夢は慌てて、
「な、なんなのよこれ」
「ええとね、準軌道エレベータ」
「なにそれ」
 輝夜は答える代わりに、採光窓の向こうを指さした。
 霊夢が窓におでこを当てると、月下に照らされてグレイスケールの彩色を施された幻想郷全景が、ミニチュアのようなサイズになって眼下で遠ざかりつつあった。
「なんだこりゃ」

      2

 紅白の巫女は頭を抱えた。
「せっかくお家に帰って眠れると思ったら、またお月様に逆戻りなんて!」
「眠っているのに眠りたいなんて奇妙なことをいうわね。そんなに寝たかったらここで横なればいいじゃない」
「でもどうせあっという間に目的地に着くんでしょう?」
「ご明察ね」
 それこそ憎まれ口を叩く暇すら無い。雲を突き抜けて月へと上昇を続けた永遠亭の一室は、このまま宇宙へ飛び出してしまうんじゃないかという霊夢の予想を裏切って速度を落とし、虚空の一点で静止した。
「いやもうここって宇宙よね」
「高度二十キロメートルってところかしら。この上にもまだ六十キロぐらいは空気の層があるはずだし。だからまだ、全然地球。勿論、普通だと呼吸はできないけど」
 ロックされた扉が開くとそこは、左に巨大な地球の頬を眺める庭園だった。博麗神社の境内ぐらいはある。手入れされていない竹林が申し訳のように植わっているが、床はは永遠亭と同様に徒広い板の間だった。
 見上げると、遥か上方に真っ白に輝くH型の物干し竿みたいなものが横切っていく。さっぱり使い道が解らないが確かに人工物のようだ。あんなところでお洗濯をする人がいるのだろうかと、霊夢は疑問だった。
 一方、この場所の一応の所有者は荒れ放題の様相に柳眉を顰めた。
「……成層圏プラットフォームあたりまで来るのは久しぶりだけど、整備してないのね。今となっては必要ないものかもしれないけれど、荒れ放題というのは感心しないわ。裾に埃もついてしまうし」
「なんだか天乃八衢って感じの場所ね。進行方向が逆だけど。それに、あんたたちは月の追っ手から隠れているって話じゃなかった? こんなもの作ってたら見つけてくれっていってるような物じゃない」
「永琳がそんな迂闊なことをすると思う? それに、ここはまだ地球だから、すなわち幻想郷よね。永琳の結界も、博麗大結界も働いているはず。それに、万が一本にも当に見つかった時、地球からも逃げ出さなきゃいけなかったかもしれないから準備してたのよ」
「……それだけ執念深い相手なの?」
「私たちはそう思っていたわ。実際はそうでもなかったけどね」
 天空高いこの場所なら月もさぞ大きく見えるものとばかり思っていたが、宇宙空間での月の姿は逆に褪せている。周囲の闇に呑まれてしまいそうだ。霊夢には、空気のレンズという外套を剥ぎ取られて、なんだか寒くて凍えているようにも感じられた。
「この間宇宙を翔んだ時と、なんだか宇宙の色が違うわね」
「真なる月に行く時は普通向こう側へと『潜り抜ける』のだけど、今回は表を通りましょう。月へ行くには幾つもの方法があるのよ。吸血鬼のロケットは思った以上に大成功で正直残念だったけれど」
「あんたねぇ。住吉様のご加護があったんだから失敗する訳ないじゃない」
「準備期間が長くても場合によっては失敗するのがロケット打ち上げなのよ」
「月人だって、雲に乗って降臨とか昇天とかやってたくせに」
「ああ、地上人を怖がらせるためにね。あんな不便なのに進んで乗りたがるのは、お釈迦様に怒られるほど頭の悪い猿だけよ……で、どうする? 普通の宇宙船でもいいけど、手近なのは格好悪くて嫌なのよね。ひっくりがえったら蓮の花になるなんて悪趣味なこと、誰が考えたのかしら。まあ多時空航行能力を考えたら合理的ではあるけれど」
「なんでもいいわよ。別に私が行きたいわけじゃないんだから」
「そうね。では手っ取り早く、一番速い方法で行きましょう。亜光速で飛べる奴」
 輝夜が手元の端末を操作する。
 同時に視界の下方、地上付近で雷鳴が轟いた。
「ん、雷? 雲はずーっと下にあるのに、なんだか近くで聞こえたわね」
「間違いではないわよ」
 もう一度。
 周辺の薄い大気を、分子単位で震わせる響き。
 地上ではないのに、お腹に響いて轟く。
 霊夢はプラットフォームの端に立って、地上の方を覗き込んだ。
 日本列島に雲はほとんど掛かっていないのに、どこから雷鳴は響いてくるのだろう。
 再度。確実に近くなっている。
 いや、違う――
 もう一度。今度はしっかり分かる。
「あれって咆哮じゃない!」
 そう。
 日本列島の西の果て、海中から巨大な水柱を立てて迫ってくる存在がある。
 蛇のような躰をくねらせて、こちらに向かって上昇してくる。ぐんぐんと、真っ直ぐに。
 世界に伝説を残し、日本でも聖獣とされる、幻想郷の最高神。
「龍じゃないの! なんで現れるのよ」
「残念ながら本物じゃなくて、月で造られたレプリカの機械人形なんだけどね。部屋がないから僅かばかり不便だけど、風を受けるのは気持ちいいわよ」
 何度も巨体をくねらせながら、二人の立つ空中プラットフォームにその身を横付けした長大な東洋龍は、まるで儀仗兵のように頭を垂れた。輝夜が言ったとおり、瞳が写真機のレンズのように繰り返し機械的なピント調整をしている。俄には信じられないが、これはどうやら巨大な絡繰らしい。アリスが見たら卒倒するに違いない。
「どう、すごいでしょこれ。月にいた頃、鬼に攫われたことがあって、永琳がこれに乗って助けに来てくれたのよね。懐かしいわ」
「あいつらは月でも悪さをしてたのか」
「まぁ人攫いが仕事みたいな奴らだし。私にも攫われる理由があったしね」
「なによそれ」
「いやまあその」
 輝夜はぽりぽりと頬をかき、誤魔化すようにして頭頂部にひらりと屹立した。
 突っ立ったままの霊夢を促す。
「それはそれとして、さあいくわよ」
「本当に大丈夫なの?」
「私も何度か使って慣れているから大丈夫。光速の九十パーセントまでは加速できるけど、風情もないから一時間ぐらいで月に着くようにさせるわ」
 霊夢も恐る恐る、龍の額に飛び乗った。額とはいえ、先程のエレベータ部屋ぐらいはある。立ったまま飛ぶのはちょっと不安だなと考えていたら、何処からともなく自然と座布団が現れた。「配慮が行き届きすぎよね」などと呟きながら、沈み込みそうに柔らかいそこへお尻を落とす。
 輝夜はその様子を見て満足そうに頷き、手綱のように二本角を握ったところで、
「そうそう、これを忘れたら駄目ね」
 輝夜は雅な懐紙に指先でさらさらと何かを書き込こみ、龍の眉間の間にペタリと貼った。太陽光に照らされて、なぞった部分が黄色の文字となって浮かび上がる。その文字曰く、

『H2A・十三号機』

「何それ」
「私が月に帰る時用の、最新のおまじない。量子印よ」
「いやあんた月には帰らないって決めてたんでしょう?」
「予想し得ることに永琳が手抜かりすることなんてあり得ないのよ。たとえここが夢であったとしてもね」
 輝夜は自信満々で頷く。
 霊夢は漲った姫の様子にもはや食傷気味だったが、ここまで着たらもうどうにでもしてという感じで、
「解ったわよ。こちらはいつでもどうぞ。あ、急発進して宇宙に落とされたくないからその辺はお願いするわよ」
「大丈夫よ。私はもはや地球の人間なのだから」
「全然そうは見えないけどね。どこから見たって立派な宇宙人よ。未知との遭遇を繰り返し過ぎて疲労がぶり返しそうだわ」
「そんなのすぐに吹き飛んじゃうわ、きっと」
 姫は満月を真っ直ぐに見つめた。
 二度と帰ることはないと思っていた世界へ。
 真なる月の、そのさらなる真実へ。
「では――蓬莱山輝夜式、月面ツアーへようこそ!」

 ゴアアアアアアアアアアアアアアッ!

 龍が時空を揺るがした。
 ゆっくりとプラットフォームを離れ、ギアを入れるが如くに段階を踏んで加速していく。 通常空間であれば息もできないはずだが、不可視の壁に覆われた操縦席兼キャビンであるところの龍の額では普通に呼吸ができ、しかも速度に対応して心地良い風が吹いていた。
 霊夢は髪を押さえ、遠ざかっていく地球を振り向いた。
 あっという間に日本列島全景が海に囲まれて、地球が真円を描く。
「月への旅、再び――か」
 あの星のあの島の、本当に小さな結界に囲まれて、私たちは暮らしているのだ。
 普段は感傷的になることも少ない霊夢だったが、それでもやはり、真っ暗な世界にぷかりと浮かぶ蒼い宝玉の姿は、胸に僅かな揺らぎを覚えさせるのだった。

 龍の操縦を楽しんでいた輝夜は、十分ぐらい経ったところで飽きてしまい、自動操縦に切り替えて座り込んだ。霊夢は「やってみる?」と尋ねられたけれど、上下左右も分からない場所で迷子になっても困るのでかなり強く遠慮した。
「ね、普通の宇宙も悪く無いでしょう?」
「星が多過ぎて怖いわね。瞬かないし」
「空気がないからよ。見えたり見えなかったりする地上の光景の方が、宇宙的に考えれば特殊なのよ」
「いや、普通は宇宙を翔んだりしないから。でも、前回は宇宙船の操縦というか神様への祈祷で外なんて殆ど見られなかったから、今回は楽ちんでいいわね」
「風景の変化に乏しいから途中で飽きちゃうのが難点だけど」
「いや、あんたはちょっと早く飽きすぎよ。もう少し落ち着きなさいな」
「私の普段の生活を知っていてそういう事を言うのかしら?」
「可哀想な兎を振り回して遊んでいるというのは聞いているわ」
「兎が複数形じゃないのが正解よね」 
 蓬莱山輝夜は、前方に待ち構える月を眺めている。
 普段と変わらない表情にも見えるが、千年以上ぶりに帰る月について若干の感慨もあるだろう。推し量るには、霊夢は輝夜のことをあまりにも知らなかった。
 ふと、霊夢は疑問を口にしてみた。
「ちょっと気になったんだけど、あんたは結局なんで罪になったのよ。蓬莱の薬を飲んで不老不死になった事自体がどうして罪になるのか、って感じだけど」
「ああ、それね。せっかくだから話しておいてあげましょうか」
 輝夜は座布団に座り直し、月を見ながら喋り始めた。
「――そもそも、蓬莱の薬を飲むことっていうのは、死がなくなるってことじゃないわ。不老不死というのは生きても死んでもない状況になるということ。藤原妹紅は地上人の概念に縛られているから、死にかけたり復活したりを繰り返しているけど、あれでは本当の意味での不老不死とはいえないのよ」
 ……人々が皆長命で、何の憂いもないような浄土に見える月の都にも穢れはある。穢れとは人間に起因するだけではないのだから。『静かの海』に生物が存在しないのは、かつて生命のスープともなり穢れを招く最大の要因である『海』を概念から浄化するために管理されているからだ。だが、そもそも生きている事自体が穢れなのだし、死が撒く穢れもある。
 でも、その生と死の新陳代謝が、月の都を指導者と民、兎たちで構成される社会として維持させている。変化のない文化がエントロピーで容易に満ちてしまうのは成仏が禁止された今の冥界を見れば明らかだ。月もまた地球と同じく、程度の差はあれ緩やかな定常開放系に支配されている。それが生物としての自然だろう。
 だがもし、蓬莱の薬を服用した人間が、『生きても死んでもない』状況を達成したとしたら? 他者の穢れに塗れることはあっても、自らは穢れを発しない存在になったとしたら? そしてそこになんら瑕疵がなかったとしたら?
 今まで構築されてきた文化は否定され、価値観の転倒、パラダイムシフトが起こることになるだろう。支配者が支配体制の確立に困るといった卑小なレベルではない。社会全体がもはや別の物になるということだ。次段階に到達することで新たに発見される事象もあるだろうが、これまでに構築された理論や理念になんの価値も持たなくなる可能性がある。起こりえる事象は必ず起こるというのは、月の民に共通して認識されている概念だ。
「そういうことで、月世界の構成を根底から覆しかねない禁忌を犯した私は否定されるしかなかった。実際に皆の前で処刑されたけどね。死ななかったけど。でも蘇生したことは月の一般の民には知らされていないはずだから、今でも私は罪人として死んだことになっているはず」
「……ん? じゃあ、蓬莱の薬を飲むこと自体が穢れを引き起こすということはないのね?」
「そうよ。月の一般の人々にはちゃんと説明されていないけれど、蓬莱の薬自体が毒だとか、穢れたものだとかいうことはないわ。味も悪くないし健康になるし。死なないけど」
「もともと長命なんだから、もうみんな不老不死になっちゃえばよかったんじゃない? みんなで渡れば怖くないっていう諺もあるでしょう」
「どこの諺よ」
 輝夜は笑った。少しだけ寂しげな笑い。
「でも駄目よ。蓬莱の薬は少量しか作れない。材料的な意味ではなくて……うーんそうね、薬剤調合の設計段階でといったところかしら。不老不死は人間ではなく、どちらかといえば神様の側の技術だから」
「人間が祈ったり語り続けたりすることで、偉い人も偉くない人も神様になったりすることがあるじゃない?」
「そうね。でも、その最後のトリガーは神様側にあるの。人間の信仰がなければ神様にはなれないけど、神様を作るのは神様だもの。人と神の境界は、実は思った以上にきっちりと引かれているらしいわよ。少なくとも、あの境界の妖怪が弄れるレベルではないって永琳が言っていたわ……まあそれと同じようなことで、蓬莱の薬を作るには、その最終段階である工程を通らなければいけないの。永琳でもそこは不可避なの」
「それって何よ」
「覚えてない? あんたたちが最初に永遠亭に攻め込んだ時、私がなんて云ったか」
 霊夢はうむむと目を閉じて考える。

『……私の力で作られた薬と永琳の本当の力、一生忘れないものになるよ!』

「ああ、言ってたわねそんなことを。やっぱりあんたが蓬莱の薬を作ったの?」
「私には製薬なんてさっぱりよ。でも、蓬莱の薬は私の力なしには作れない」
「例の『永遠と須臾を操る程度の力』を使うの?」
 輝夜はきっぱりと否定した。
「違うわ。あれは不老不死になった後に身についた、後天的な力だもの」
「あら、そうなの?」
「貴女が月に行く前に『神降ろしの修行』をやって力を身につけたでしょう? それと同じよ。まあ私の場合は、勝手に能力が開花しちゃったんだけど。その技術自体はもとより月にあるものだしね」
「それを同じというのは……私だって努力したのに」
「いや、『それ以前の力』があるということで一緒ってことよ。でしょう?」
「人には誰しも取り柄ってあるからね」
「でなければ、妖怪があれだけ博麗霊夢を嫌がる訳ないもの」
「嫌がっているのは『博麗の巫女』でしょうに」
「どうかしらね」
 輝夜の視線がある種の期待を込めて霊夢を見つめたが、霊夢ははぐらかした。どう答えたところで意味はないと思ったからだ。どちらにしろ幻想郷はそのように回っている。
 霊夢は再び、話の主筋を輝夜に戻そうとした。輝夜の話に不自然な点を感じたからだ。
「あれ……じゃあ聞くけど、なんで死んでるはずのあんたを月は呼び戻そうとしたの? あんたの本当の力って一体何よ」
 永遠の姫の表情。
 笑み。
 永遠の微笑。
「それを見についてきてるんじゃないの?」
「違うわよ! 無理矢理連れてきたじゃない」
 輝夜は再びたおやかに目を細める。
「霊夢なら無理矢理帰ることも出来るはずでしょ。それに、探すものを探さないと帰れないんじゃないかしら? 気持ち悪くて」
「………………」
 睨み返そうとして失敗した。意図せず溜息が溢れる。
「なんだか、お互いの考えていることが筒抜けで気持ち悪いわね。これは夢だから?」
「他人と夢を共有するなんて体験は興味深いわ。相手が誰であろうとね。それに本当に夢だったら、覚醒した時に朧になって忘れてしまうわよ。気にしなくていいんじゃないかしら」
「だといいけどねぇ」

 一時間の旅はあっという間に過ぎた。
 二人の眼前には巨大になった月。
 荒涼とした死の世界、『表の月』だ。
「私たちは普段、これを見上げているのよね。本当に単なる岩石の塊なのねぇ。どこまでも真っ白で、ある意味綺麗だけれど」
「綺麗なものは大抵、時が止まっているものよ。刹那の美というのは人間による後付の概念ですからね。美しくないから必要だと認めればいいのに、人間は短命なことに意義を見つけようとし過ぎだわ」
「あんたたちが考えるとそうなるのでしょうね」
「意見の相違だわ。ささ、月周回軌道を経由して月の都を目指すわよ」
 姫が龍の角を握り直す。
 同時に、龍が再度咆哮を放った。
「もう! ちょっとあんた! なにかやらせるなら前もって言いなさいよ! 何回もこんなの間近で聴かされたら、鼓膜が破れちゃうわ」
「これだけの距離で龍の声を堪能する機会もないわよ」
「こんなもん、直近の落雷と大差ないわ」
 龍の呼び声に呼応して、月を取り巻く不可視の外殻が二度三度と瞬いて、遂にそのヴェールが取り払われる。概念の境界を越え、宇宙が蒼や紫に渦巻く。目の前には並々と水を湛えた『静かの海』。
 人と神が住まう浄土――真実の月が現出していた。
「そうそう、この光景だったわね、前に来た時は。宇宙も青かったし」
「もう呼吸できるからシールドを解除したわ」
「こないだはここでいきなりロケットが暴走して海に突っ込んだのよね……」
「着陸って結構クリティカルな技術だって永琳もいってたわ」
「そもそも帰る方法を考えずに出かけるのが間違っていたのよ」
「人間らしくていいんじゃない」
「いや、考えたのは悪魔と魔女なんだけど」
「まさに地獄への片道切符ね」
 龍は下降を開始した。
 静かの海に近づき、その海面すれすれを飛んでさざ波を立てる。
 輝夜は龍をけしかけ、水飛沫が二人の頬を掠めては遠ざかっていく。
 二人はそのまま直進して愛の入江から陸地に飛び込み、緑の生い茂ったタウルス山脈を低空飛行のまま飛び越え、時の湖を見下ろしながらフンボルト海へと進む。まるで本のページをパラパラ捲っているかのように月面の光景は移り変わっていく。
「ちょっと! 速度出しすぎ! 天狗じゃないんだから」
「あら、第一宇宙速度がご希望?」
「私の知らない用語で誤魔化そうとしてもダメよ」
 霊夢だって空飛ぶ巫女を始めてもう結構な時間が経つけれど、こんな超速度で地上を掠めたことはない。輝夜が高度を自在に上げ下げするものだから、まるでたたきつける台風になった気分だ。霊夢は髪の毛を必死で抑えながらも、緊張感と一体の快感を覚えるのを抑えられなかった。 
 その一方で。
 躁状態といえるくらいコロコロと笑う輝夜の様子が少し不自然に感じられてもいた。
 フンボルト海を抜ける辺りで、月の地面に地球が隠れてしまった。月はいつも同じ面を地球に向けているから、霊夢も上空から月の裏側を初めて目の当たりにする。そこは表のような大海はなく、山とクレーター由来の湖が無数に連なっていて、平坦な土地は少なかった。ただ、地球の真裏に当たる部分にまで到達すると、人工的に平野が開拓されており、肥沃な土地には穀倉地帯が広がっていた。
「あー。月の人は桃しか食べてないんじゃないかって心配してたのよ」
「国産みの前の神々は葦の芽から生まれたなんてお話もあるでしょう。それに貴女は月の姫たちにいろいろ食事を供されたんでしょうに」
「イメージの問題かしらね。第一印象って結構大事よ」
 田園地帯を抜け、街道に沿って飛ぶとまもなく。
 碁盤の桝目のように整備された巨大な月の都を通過する。霊夢にも見覚えのある大陸風の屋根が連なる。輝夜は機械龍の速度を若干落として、真円を描く外輪山の中の都を一度だけ旋回した。
 高性能な能動性隠蔽を展開した龍の影は街に落ちない。行き交う人々は空の訪問者に気づくこと無く、遠くかすかに雷鳴のような響きを聞くだけだという。あちこちで薬を撞く玉兎たち。変化の乏しい、思索に重点をおいた毎日の生活。
 先の第二次月面戦争では唯一虜囚になってしまった霊夢だったが、今あらためて彼らを眺めてみても、生活様式こそ違うとはいえ、幻想郷の人間たちとさほど変わりないようにしか思えなかった。
 輝夜はといば、若干顔の色が失われ、表情を閉ざした面持ちで。
 小さく独りごちている。
「……本当、なにも変わっていない。千年なんて信じられないぐらい、なにも……」
「………………」
 さすがの霊夢も、言葉を掛けるのを若干ためらってしまった。
 程なく龍は旧き都に背を向け、その向こうに蜃気楼のように聳え立つ、巨大な山を目指した。

      3

「ちょっとぐらいは、街に寄ろうとか、思わなかったのね」
「……知り合いに会うわけにもいかないし、やることなんてないわよ。あんな鄙びた都になんて用はないわ。だいいち私は死人なのだから」
「お月様は彼岸だとも言われるわけだし、別に幽霊がいたっておかしくないじゃない」
「それは地上の慣習でしょう。蓬莱人だからってあの手の根無し草になりたいわけじゃないのよ」
「まあね。私も幽霊だの亡霊だのにはろくな知り合いが居ないから、気持ちはわかる」
 龍が一直線に目指す巨大な霊山は、霊夢が首を巡らしても届かないぐらいに高々と天を突いていた。頂は妙に細長く尖っているようで、見慣れない形をしている。
「なにこれ、妖怪の山よりずっと高いじゃない」
「標高は一万メートルぐらいかしら。富士山は勿論、妖怪の山の二倍はあるわよ。神々が住まう場所だからこういう感じになる。前に永琳がいっていたのだけれど、幻想郷に山があるというのは、ああいう結界を敷くための必然的な構造なんだって。位置とかも大切だけど、おおよそここの模倣らしいわ」
「月都万象展のパンフレットでも思ったけれど、なんでもかんでも月起源にすればいいってものじゃないのよ」
「地球で産まれて月で発展し、再度地球に持ち込まれた……なら納得するかしら? 妖怪が月を欲しがるのは歴史的に必然的なことなのよ」
「わかった、わかったから。で、今度は山登り?」
「その逆よ」
 龍は突然上昇し、次いでその身をくねらせると飛行を急降下へと遷移させた。
 巨大な山のほぼ隣に、これまた地獄まで通じているかのような大穴が開いている。底には到底光が届きそうもない。
「……飛び降りるわよ、準備はいい?」
「え」
「さん、はい」
「ちょっと待ちなさいよ」
「待たない」
 輝夜が自ら孔に身を投げる。飛ぶという感じではなく、断崖絶壁から投身自殺でもするかのように頭から。霊夢も慌てて、龍の背を蹴って空中に躍り出た。今までの速度を殺すことなく、闇へ没していく二人。
 龍は反転して天空へ、巨大な霊山の方向へと登っていく。一瞬錐揉みした霊夢の視界の端に、別離の咆哮を挙げる使役獣の姿が映っていた。
 空気抵抗はあるが落下速度は変わらない。真横で瞳を閉じた輝夜に、霊夢は詰問する。
「いきなりどうしたのよ! なにかやる時は説明しなさいってば! 弟橘比売命じゃないんだから」
「この先であの子が言うことを聞いてくれる保証がなかったからね。いきなり寝返って倒さなきゃいけないのは嫌だもの。気に入ってるし」
「……? 乗っ取られるの?」
「まあね。機械はそこが辛いわね。まあ人間でも兎でも洗脳とかはあるけど……あ、手を広げないほうがいいわよ。周囲の壁とかに激突して怪我をするわ。この先どんどん狭くなるから」
「何処まで潜るのよ。何も見えないじゃない」
「さっきの御山と同じくらいの深さ、かしらね……ああ、迎えが来たわ」
 姫の言葉からまもなく。
 自らの風切音以外に、天狗が扇子を仰ぐ時のような、真剣を素振りした時のような音を発しながら、闇の底から何かが接近してくるのが霊夢にも解った。薄い緑の光を放ちながら飛来する飛行物体が見えてくる。それは、黒光りする正四角錐のペア。付近を一旦通り越し、速度を調節しながら二人を挟みこむようにして随伴飛行を開始する。
「なにこれ」
「『二人の近衛』よ。生体パターンをスキャンしているの。この先に通してもらえるようにね」
「意味分かんないって」
「招待状に証明のスタンプを押してもらってるところ」
「ずっと解り易いわ。でも私はここの人間じゃないわよ?」
「多分大丈夫よ。多分ね。駄目だったとしても、隔壁にぶつかって死ぬだけだけど。私は死なないけどね。どちらにしても夢だし」
「夢だけど墜落死はいやだなあ」
 飛行物体が放つ光のせいで、高速落下しているチューブ状の隧道内部の様子が霊夢にも窺えた。と同時に、そこに浮かぶ異様な光景に気づく。
「なにあれ! 壁に仁王さんがたくさん埋まってるわ! 手とか足とかだけ突き出してたりするわよ」
「だから動きまわると危ないといったでしょう。あれは守護機械大神。大丈夫、動かないはずだから」
「よく知ってるわね、さすが月のお姫様だわ」
「……私がここにいる時は、まだ建設中だったのよ。やっぱり完成には至らなかったみたいね」
「どういうこと?」
「基幹部分の構築が終わったところで、設計図が失われたってところよ」
「?」
 霊夢には理解しがたい言い回しを並べる輝夜。ということは、無理に解さなくてもいいという意図なのだろう。考えるだけ無駄なので、霊夢は聞き流すことにした。
 やがて、周囲を回転していた飛行物体が回転を止めた。二人から少し距離をとると、合体して正八面体を形成し、速度を上げて飛び去っていく。
「……認証終了。ゲートが開くわ」
「悪い予感がするわね」
「博麗の巫女がいうなら、不吉なことね」
 輝夜が両目を開く。
 目に当たる風が厳しくて薄目の霊夢にも、縦孔の底に眩しい光が現れたのが見えた。
 徐々に大きくなる、近づいていく――
「お待ちかね、ここが……千年幻想郷よ」
 二人は光のなかに飛び込んだ。

 巨大な空間に、地平線まで卒塔婆が連なっている。
 霊夢に浮かんだ最初の感想は、それだ。

 天の果てまで霞んで見えない、茫漠たる球状空間。その内側がびっしりと、巨大なビル群で埋め尽くされている。月面で見たような大陸風の古めかしくも雅な外観ではない。ただ目的の機能を達成するためだけに造られた、無機質で、機能美さえ顕さない直方体の群れ。賽の河原に華道の剣山を趣無く並べただけのような。植物の緑は一片足りとも存在せず、そこを占める色は白か、灰色か、鉄の輝き。
 世界の中央には黄色く輝く人工太陽があって、慈しみの光ならず、ただ必要に応じて必要なだけ光子と光波を放つ核融合を繰り返している。
 街ではあるが人のためではない。
 都市であるがための都市。
 まるで単細胞生物の群体ように。月それ自体に感染するかのように。
「なによ、ここは」
「一刻の迷い、かしらね。現在の月世界はこのコンセプトを切り捨てた。月の住人の大半はここのことを知らないわ。だから機能はしていても、もはや遺跡に等しい。お陰で月の物質的な発展はもう止まったけれど」
「街、じゃないわよね」
「街の形をした集積回路みたいなものよ。ここに住むモノも要素に勘定した、ね。グローバルブレイン、太古神と直接会話するための擬似人工知能……まあ何でもいいわ。終わったことだし」
「こんな処に住むなんて、考えただけでおかしくなってしまいそうよ。地獄や魔界のほうがまだマシだわ」
「少しは解って貰えたかしら? 月の狂気を」
 言葉通り、輝夜の表情に狂気が差し込んでいる。いつもの穏やかな表情が何処か歪んでいる。いや……変化は月に到達した辺りから始まっていたのだ。霊夢も察していた。だからといって、霊夢がどうこう出来る問題でもなかったけれど。
「その分だと、あまりいい思い出はなさそうね」
「残念ながらね。千年以上目にしていなかったのに、目の当たりにしただけでこんなに負の感情が沸き起こるとは自分でも思わなかった。修行不足かしら、ね」
「寝て起きてばっかりしてるからでしょ」
「相違ないわ」
「で、こんな不快なものを見せるために態々ここまで来たのかしら」
「ここを越えないと見せられないものよ。でも……やっぱり、そう簡単には通れそうにないわ」
 都市全体に警戒のサイレンが轟き始めた。
 次いで、ビルのあちこちから白い人影が、雲霞の如く沸き起こってこちらに飛んでくるのが見える。
「システムに介入したつもりだったけど、表層の警備は書き換えられてて無理だったわ。いきなりで申し訳ないけれど、弾幕ごっこの時間よ。真実の月(ルナティック)レベルのね」
「……こうなるんじゃないかと思っていたわ!」
 霊夢はお祓い棒を抜き、懐から陰陽玉を取り出した。空中に放り投げたそれは、『狼狽』と『恐怖』のように紅白の巫女を周回し始める。その後ろに陣取る姫。
「私はどちらかといえば戦い向きじゃないから、なるべく後ろに下がらせてもらうわ」
「嘘ばっかり!」
「本当よ……本気で戦うと加減ができないのよね、不老不死ってどのくらいやったら相手が死ぬか判断しにくくて」
「……兎たちの繁殖力が旺盛でよかったわね。で、湧いてくるあの大群は何?」
「戦闘用ガードロボットよ。月面で修行してる生きた兎たちと違って、相手の殺処分だけを純粋に実行するわ」
「相手が機械ならそれこそ殲滅しちゃっていいんじゃないの」
「ところで、機械に魂は生まれると思う?」
「今はそういう哲学的な議論は要らない!」
 長耳の先から尻尾の付け根まで全身真っ白、人間のシルエットをした機械兎が、真紅の瞳で霊夢を捕捉しては手にした光線銃を一斉に放つ。弾かれるように離れる霊夢と輝夜。だが、光線は二人の軌跡を追ってぐにゃりと曲がって追尾してくる。速度は遅いが次々に攻撃が放たれる中、いつまでも逃げてはいられない。
「ちょっと! 敵の光が曲がってくるわよ こんなのどうすればいいのよ」
「一回転したり誘導したり、壁を使ったりとかしなさいよ。誘導レーザーの指向性には限界があるわ」
「何処に遮蔽物があるって? それに、これだけいっぺんに撃たれたら動きようがないじゃない」
「鏡があればいいけど、例えば、光はとんでもなく重い時空の横を通る時に曲がったりするわね」
「とんでもなく強い、力……そうか……! 『天手力男命よ、我に偉大なる怪力を授けたまえ!』」
 霊夢の両手が鈍く光り、次いで黒く滲む仮想の珠が生じた。
 機械兎たちの放った赤い光線が黒い珠の周囲を通ると、方向がねじ曲げられてあらぬ方向へと四散した。輝夜すらも霊夢の機転に舌を巻く。
「単なるお馬鹿な巫女じゃなかったのね。応用力が高いわ」
「失礼ね! でもこれはいいわ……つまりこういうことかしら」
 霊夢が漆黒の球体を微妙に操作すると、ねじ曲げた光線の指向を多少制御できるようになった。数度試した後、レーザーを放った兎自身に直撃させた。兎は黒焦げになって都市へと降下していった。
「これであの光線はなんとかなりそうだわ」
「霊夢、危ない!」
 輝夜の叫びに、躰が思惟よりも敏捷に反応した。正方形の辺をなぞるように直角に位置を変えたその空間を、都市の四方八方から真っ直ぐに伸びてきた一条の線が貫通し、天井まで接続して蜘蛛の糸となる。
 すんでのところで躱した。
「捕獲用のフェムトファイバーだわ」
「ああ、あの切れない綱ね。私もあれで縛られたわ」
 それは月の技術――人間には感じ取れない須臾の時間を編みこんだ、不浄を断つ結界の紐だ。その構造は地上にも転じ、神を鎮座させ神域を区切る注連縄にも用いられている。浄土である月以外の者は、これを使った組紐で縛られると抜けることが出来ない。
「でも大丈夫、私にフェムトファイバーは効かない。捕まっても切ってあげるわ」
「姫様があの機械の兎に捕まらなかったらね」
 片手で手力雄の力……重力操作を行い、もう一方で大量のお札を投じ反撃する霊夢。陰陽玉は鷹のように跳び回って兎たちを弾いているが、いかんせん数が多すぎて近寄らせないだけで手一杯。月面空洞の敵は増える一方で、霊夢の手持ちは少ない。 
「霊夢にレーザーは届かないけど、フェムトファイバーに捕まったらおしまい。反対に私にはフェムトファイバーは通じないけれど、レーザーは避けなければならない。あはは、なんだか斑鳩時代のルールみたいね」
「斑鳩時代? そんな時代区分は日本にはないわよ」
「千年幻想郷にはある。月にだって神代から歴史が繋がっているの。弾幕ごっこもスペルカードルールも地上の幻想郷オリジナルじゃないわ。だから、最初に対面した時も同じ文法で相手をしたでしょう?」
「そりゃまたご親切なことですね!」
「では、親切ついでに」

 龍の頸の玉――

 高々と天をさした輝夜の指先から、七色の光線が次々と輝き、兎たちを薙ぎ払う。
 押し返す。
 神々しき光の、邪なるプリズムの分解。
 龍の咆哮がそのまま虹の光撃と化したかのように。
 頚を飛ばされ、腕をもがれ、足を失い、胴をぶち抜かれて落下する無数の兎たち。
 悲鳴とも破砕音ともつかぬ不快な音が反響していく。
「できるなら最初からやりなさいよ!」
「せっかくの里帰りなんだもの、あまり狂わずに眺めたかったのだけど……そうもいかないのかもしれないわね」
 輝夜の表情が、地球照を抱いた月のように昏く翳る。
 兎たちの壁が遠ざかり、その場に新たな人影が現れたから。
「――そこまでよ、輝夜」
 竹取の姫は勿論、博麗の巫女にも見覚えのある人物が虚空に浮かんでいた。
「薬屋の人……」
「来ると思ったわ、永琳」
 永遠亭の薬師。
 蓬莱山輝夜の従者。
 かつての月世界最大の賢者である八意永琳が、やるせなく細い腕を抱き、虚空に浮かんでいた。
「なんでよ! 私たちどっちかの夢だったら、こんな邪魔者出てくる訳ないでしょ」
「馬鹿にしないで欲しいわ。なにしろ永琳なんだから、他人の夢にぐらい普通に介入できるできるでしょうよ。月の頭脳という二つ名は伊達ではないわ」
「はあ、あんたは一体どっちの味方なのよ……それにまた、嫌な相手も出てちゃったみたいじゃない」
 やたら誇らしげな輝夜に、霊夢は正直苦笑するしかない。
 永琳の下には、綿月豊姫と依姫の姉妹が控えていた。月の頭脳なき現在、月を外敵から守護する責任者たちである。レミリア・スカーレットのロケットで月を訪れた霊夢は妹の依姫に正面対決のすえ敗れ、その裏で計略を仕掛けた八雲紫は、姉の豊姫と彼女に指示を与えた永琳におおよそ負けたのだ。
 二人の表情には永琳にはない真剣さと焦りが浮かんでいる。
「……蓬莱の姫はともかくとして、あの巫女にこんな簡単に侵入を許すなんて」
「ここにはいかなる穢れも持ち込んではいけないわ」
「分かっています、お姉様」
 二人は自分たちが師の視界内にいることに、緊張を感じているようだった。
 その永琳はといえば、若干高度を下げて輝夜に並び、儚げに話しかける。
「私は、貴女が本当にここまで来るとは思っていなかったけどね、輝夜。そこまで退屈させていたのなら謝るわ。だから、お願いだからこの先へはいかないでくれないかしら?」
「せっかくここまで来たのにそれはないんじゃないのかしら? いくら永琳の言うことでも聞けないわね」
「じゃあ、残念だけど無理矢理にでも捕まえるわよ。こう見えても鬼ごっこは得意だから」
「知っているわ、幼い頃によく遊んで貰ったもの。でもどうやって? ここは私に造られた世界。永遠と須臾を操る私を、フェムトファイバーで捕らえることは不可能よ」
「私が直接やらなくても、この二人の優秀な弟子が貴女達の相手をするわ」
「……出来の悪い教え子で悪かったわね……でも、千年以上、常に永琳の隣にいたのは誰だったか、覚えてもらってもいい頃だわ」
 侵食される。
 月から流罪に処された月の姫が、ゆっくりと月の狂気に浸されていく。
「あんた大丈夫なの?」
「不老不死になって以来、嘗てないぐらいに健康で張りがある感じよ……私の心配なんてしてないで、妹君について考えなさい。でなければ、蓬莱の薬が必要なぐらいに怪我をするわ」
「ご心配は嬉しいけれど、でも絶対に服用しないわ。死んでもね」
「それがいいわね」
 霊夢と輝夜は今一度距離をおく。
 永琳を後ろにして豊姫は下がり、祇園の剣を構えた依姫が霊夢に相対した。
「巫女よ、二度やっても同じことだよ。私には勝てないわ」
「奇遇ね、私もそう思っていたところよ。だから今日は大禍津日神の力は借りないことにするわ。美しくないし、妖怪っぽいし」
「覚悟は認めるが、勝負は勝負。今回はルールを譲る気はない! 『祇園様、再び剣の鳥籠をお貸し下さい!』」
 神霊の依り憑く姫は、剣を天に翳した。と、神の剣は天井に刺さるほど長大に伸長し、天井都市の一角を抉った。同時に下方から無数の剣が生え出て、幾本ものフェムトファイバーと共に霊夢を捕らえようとする。出現地点を読んでいた霊夢は余裕を持ってするりと躱したが、左右にあった陰陽玉が一瞬で無残な串刺しになってしまった。
「開幕に同じ攻撃っていうのは芸がないんじゃないかしら?」
「何を策謀しようが、結果は変わらない!」
 霊夢の連投する霊札を『天鈿女命』の力ですり抜ける依姫。直接斬りかかろうとすると、
「『天石門別命よ』!」
 虚空に開いた次元の穴に飛び込んだ霊夢には届かずに空を切る。
「神様の力を借りるのだけは達者になったようね」
「神様の剣とチャンバラなんて出来ないもの」
「ならば潔く覚醒し、ここで見たもの聞いたものを全て忘れ、あの蒼き穢土にて日々平穏に暮らすがいい!」
 今度は霊夢の出現地点を予想していた依姫が、旋風渦巻く豪剣で霊夢の細い首を狙う。
 いつもの癖で結界を張って防御しようとした霊夢だったが、弾幕ごっこですらない戦いで通用するかどうかと、一瞬後悔してしまうという隙を作った。
「しまった」
「覚悟!」

 仏の御石の鉢――

 甲高い音を立てて、依姫の必殺剣が弾き返される。
 輝夜が構成した青白い光の壁が霊夢を半球状に包んでいた。
「なっ」
「ほら霊夢、しっかりしなさい! こんなことでは月の最後の秘密を拝見できないわよ!」
「五月蝿いわね!」
 つい憎まれ口を叩いてしまう霊夢だったが、まずは依姫との距離を取るつもりで全力上昇する。もちろん姫は攻撃を加えながら追従する。打ち掛かる無数のフェムトファイバーに機械兎たちが続く。
「蓬莱の姫の動きがあのように早いとは……放ちなさい!」
 一方、妹に比して戦闘が得意ではない豊姫は、機械兎たちを盾にしながら、輝夜と霊夢を分断するように動いてゆく。依姫と霊夢の能力の差は歴然としていたが、二人の相乗攻撃は油断ならないと悟ったからだ。また、自分が単独で接近戦を挑まれれば勝機は薄い。豊姫の指揮によって、兎たちが死角を無くした連続攻撃を輝夜に仕掛ける。まるで十握剣の如き形をした、赤方偏移の光刃のように。

 火鼠の皮衣――

 対して巨大な真紅の盾を展開した輝夜は、その攻撃を受け流す。レーザーがあらゆる方向へメチャクチャに拡散し、都市を構成するビルや空中街路が巻き添えを食って溶解し、崩壊する。地下都市の空気が赤熱してゆく。
「楽しい……楽しいわよ永琳……時間を止めていた頃には味わえなかった興奮だわ。下品だと自覚していても、罪だと感じていても、この衝動はおさえられない――!」
 血走った目で、輝夜は都市中心部へと手を差し伸べる。
 呼応して、地下都市の天井に、壁に、空間に、ビルに……無数の立体映像が浮かび上がり始めた。
 巨大なものから手のひらサイズまで、多種多様なサイズで。
 豊姫が悲鳴を挙げた。
「都市の映像セクタに介入されています……! 千年以上前の古いコードでどうやって」
 永琳が諦念と共に呟く。
「この都市は輝夜の力を借りて作ったものだもの。その基部が変化していない以上、私たちに彼女の意志は止められないわ……ここは今や、あの子を失った月が永遠に晴れぬ未練と悔悟を続けるための――封印されし墓所なのだから」
「……聞きなさい、博麗霊夢!」
 依姫の剣とお祓い棒を噛みあわせていた霊夢は、遠く離れた輝夜の叫びにはっと顔を挙げた。ガリガリと削られていく頼りない祭具と、無慈悲な狂気の女王に成り果てた姫の姿を素早く見比べる。
「この場で貴女だけが知らないというのは可哀想だから教えてあげる! 私がどうやって蓬莱の薬を飲み、月で処刑されて地球に流されたか! どうして月に帰らなかったのかをね!」
「こっちは取り込み中なのよ! そんな暇ないわ!」
 依姫と睨み合いながら、しかし、背後に写る巨大な映像が霊夢の網膜に飛び込んでくる。
 そこには幼い輝夜と、今と変りない永琳が手を繋ぐシーンが浮かんでいた。

      ☆

 かつて、月に一人の男がいた。
 神代から続く歴史においても、永琳に匹敵するほどの天才かつ冒険者で、地球から見て表側にある巨大なクレーターに研究施設を構え、蒼き星を見上げながら、日夜新たな理論と発明を繰り返していた。
 だが彼が活躍した当時、月の文明はさる理由で早くも停滞期に入ろうとしていた。地球から月に渡る道を発見し、民を導いた偉大な指導者・月夜見は、物質的発展の全体的なリソースを勘案した。その上でこれ以上の発展は、当時既に問題視されていた地球に於ける星の損耗と同様の事態……急速な穢れを招くとして、精神的な発展をこそ目指すべきだと考えた。物質的文明レベルや科学技術の段階にしたところで、これから先一万年以上は、半ば神々を失った地球文明を優越することに間違いない。ならば、外敵をほとんど気にすることもなく、我々は豊かで長大な精神文明を構築すべきだと、月の上層部に示したのだ。
 その時期に前後して、蓬莱山輝夜が誕生した。
 彼女は月にとって革命的な子供であった。彼女の存在そのものが月文明を数段階も進化させるのは間違いない程に。だからこそ、月夜見は自分の右腕たる八意永琳を彼女の後見人として付け、大事に育てさせたのだ。永琳は能力のある者たち数人を弟子として育てていた――無論、綿月姉妹も含む――のだが、数々の過程を経て輝夜の天賦の才を認識した永琳は、彼女に敢えて英才教育を施さず、普通の子供として育てようとした。
 男は激怒した。
 月にはまだ尽くされぬ可能性がある。
 そしていま、蓬莱山輝夜という鍵すら、神々から授かった。
 高天原をも超越する次元への挑戦も可能だというのに。
 それを尽くさぬまま、何故、真なる精神の深みなどを垣間見えようか。
 月はもはや荒涼たる砂漠だ。
 世界への冒涜、神々への背信だ。
 あってはならぬことだ――。
 ……男は穢土たる蒼き星を理想として見上げすぎたのかもしれない。
 あの星は人を惑わす。心から隔離しなければ、あの美しさが心を容易に捉えてしまうのだ。無限の優しさが人を滅ぼすもまた真実。だからあの星に住まう人々は、なんの努力もせずに至上の世界を手に入れ、変転を繰り返しながら幾重にも苦しんでいる。
 だかきっと、そこには無限の可能性も秘められている。
 あれはきっと、
 完成されすぎた幻想だったのだろう。
『「この幻想郷』の人々が羨むほどの。
 ……そして男は、破滅の狂気の虜と化した。


 月には地球から逃亡してきた、嫦娥という名の罪人がいた。彼女はかつて天界の仙人だったが地上に降りたために不死でなくなり、貴人から蓬莱の薬を盗み飲んでふたたび死ななくなった。不老不死は月では絶対の罪であり、彼女は永久に幽閉されることになった。
 男はこの件を永琳に持ちかけた。
 不老不死の薬を作って罪の検証をしよう。蓬莱の薬は禁忌だが、罪の輪廻を避けるための研究ならば月夜見様のお心にも叶うから、と。永琳は知識欲から彼の甘い誘惑に乗ってしまい、輝夜の力を使って製薬を実行した。男はその一部分を持ち出した。大事に育てられ過ぎ、わがままの限りを尽くしていた蓬莱山輝夜は、八意永琳に蓬莱の薬の話を繰り返しせがんでいたのを男は知っていた。『永琳の使い』が薬を渡せば、姫が興味本位でそれを飲んでしまうのは目に見えていたからだ。
 こうして彼女は不老不死となった。
 輝夜が最悪の罪を犯したことが知れ渡ると、月の支配者たちは恐懼した。だがもはや取り返しはつかない。少額の金と引換に輝夜に薬を渡した者は既に首謀者の手に掛かっていて、何故輝夜に渡ったかという経路は掴めなかった。永琳は当然のように件の男を疑ったが、天才である彼が少なくとも宮中で尻尾を掴ませることはなかった。そして問題は、輝夜自身の処断に移っていた。
 いかなる理由であったとしても、どのように重要な人物であったとしても、蓬莱の薬に関する罪は免れえない。
 しかも蓬莱山輝夜は月の民全員が知っているほどの姫であった。
 ――こうして彼女は、月の都の中央で、見せしめのために処刑された。
 だが、蓬莱の薬は彼女を死に繋ぎ止めない。知恵者たちは、程なく蘇生する輝夜の記憶を薄めて蒼き星に流し、その罪の穢れを穢れで濯いだ後に月に呼び戻し、嫦娥と同じように永遠の監獄に留めるしかないと考え、そうした。

 だが……それこそが、男と、彼に賛同する少数の人々の当初からの目的であった。
 もはや蓬莱山輝夜から死の頸木は取り外された。輝夜が蓬莱人となった以上、月は永遠の可能性を得たのだ。 
 そして彼が祝杯を挙げたその頃になってようやく、愚かにも、八意永琳は彼の企てを察知した。彼女の犯した空前絶後、最大の罪であった。
 そして――
 竹取物語が始まって終焉を迎え、輝夜の罪が晴れた満月の夜。
 そしらぬ顔をして月の使者の一人となり、なよ竹の姫を迎えに来た彼を、同行した八意永琳はおぞましい方法で惨殺した。月の迎えは例外なく全員殺された。この時点より今に到るまで、月には表向き、姫の居所についての情報がないことになっている。
 月を避けるかのように深い深い竹薮の奥。 
 全身血塗れの八意永琳はきょとんとした顔の蓬莱山輝夜を前にしてはらはらと涙をこぼし、抱きついた後で自ら蓬莱の薬を呷ったのである。
 未来永劫、己の罪を償うために。

      ☆

 その輝夜は今、綿月豊姫の首を片手で掴んで締め上げている。
「アハハハハハ! どうしたの月の姫! 地球にいるもう一人の狂気のほうが、圧倒的に! 絶対的に! 焼け爛れるくらいに楽しいかったわよ!」
「ググ……苦し……」
「月に安んじながら、月の狂気を感じずに生きる感想を聞かせて欲しいところね!」
 あれだけいた機械兎は焼け落ちて数を減らし、今、豊姫の危機に接近できない。泣き崩れる八意永琳の映像の前では、霊夢の攻撃を再び薙ぎ払った依姫が、姉の救出に向かおうとする。躰のあちこちに傷を負った霊夢がそれに追いすがる。
「姉様!」
「あんたの相手はこっち!」
「どきなさい、地上人!」
 と、依姫と霊夢の間に、光で覆われた蜘蛛の巣が現出し、霊夢は急停止を余儀なくされた。
「これは、天網蜘網捕蝶の法……! 八意様!」
「……ふたりとも、私に手出しさせることの意味を考えなさい。貴女達は愚かなレイセンとは違うのですよ」
 永久凍土よりも冷え切った永琳の声。
 目の前の輝夜よりも永琳の様子に恐れを抱いた豊姫は、渾身の力で輝夜の拘束を振りほどいた。
「下がりなさい、かつて同胞だった姫よ。貴女の穢れは今や真実の月をも浸食しているわ」
 豊姫の神宝である素粒子の扇子がたおやかに振られ、澱みきった世界が空気ごと相転移し浄化される。だがその清浄さを更に払いのけて、輝夜は迫る。圧倒的な穢れを十二単のように纏って。
「お姉様、今参ります!」と依姫が手を伸ばすが、
「私は大丈夫、それよりも巫女にとどめを!」
「……はい!」
 光の捕縛網を潜りぬけ、再び現れた敵の大軍に追い込まれる輝夜に近づこうとする霊夢。
 正直言ってもはやボロボロだったが、今は輝夜の側に行きたかった。
 彼女の過酷な真実を見せられたからだろうか?
 それもある。多分。
 だが、ここまで来たのだから、今は自分でも見てみたい気分になっていた。この越えられぬ鉄璧の向こう側にあるという真実。月を揺るがせた蓬莱山輝夜の秘密を。
 それは霊夢の意志だった。
 とは、いえ。
「……さあ、時間を取らせたけれどこれで終わりよ。一刻も早くお姉様を助けに行かないといけないの。もはや神々の力を借りるまでもなく、この綿月依姫が終わらせます」
 またも綿月依姫が自分の前に立ち塞がる。
 霊夢は限界を感じている。
 ――やっぱり、勝てないかな……。
 自分と同種の力を揮うこの姫は越えられまい。
 さらにあの薬師もいる。この状態のまま本気で来られたら抵抗出来ないだろうな。
 暴走した輝夜は手がつけられないし、お話を聞いてくれるかどうか分からない。
 本当に、最後の最後まで連れていってくれるのかしら。
 背後でエンドレスにリピートされている月の秘史が、永琳と輝夜の過去の笑顔を映し出していた。
 ……もう、疲れちゃった。
 ああ、なんでこんなに苦労してるんだろう。
 輝夜の夢なら便宜を計ってくれてもいいし。
 自分の夢なら限界を超越したっていいじゃないか。
 体力とか、能力とか。
 幻想とか。
 だったら――――
 ――――
 ――。
 此処は幻想郷じゃないし、
 月の中枢かもしれないけど、現実じゃないし、
 弾幕ごっこにもスペルカードルールはないし、
 私はもしかして、博麗の巫女ですらないんじゃないだろうか――
 ルール破り。
 それは簡単に見えて、じつは結構つまらないものだ。
 だからそれもまた、一つの禁忌。
 でも、それがほどける。ほどけてしまう。8の字になった紐が。
 犯そうとする。超える。
(――どうせ、これは夢だ。もう、どうなってもしらないわ……)
 依姫が剣を振りかぶり、振り下ろした。
 同時に、霊夢の瞳から光と意志が消え、真っ直ぐにつきだしたお祓い棒が、依姫の手から剣を弾き飛ばす。同時に自らも祭具を取り落としている。
「なんなの?」
 妹君の驚愕。
 そのまま彫像のように硬直した、霊夢が爆発した。
 いや――
 霊夢は依然としてその空間の中央に『存在していた』。彼女の服と服の狭間、服と躰の隙間、敗れた生地の裂け目、袖の中、スカートのポケット、靴の隙間……ありとあらゆる空間の入り口から、褐色の霊札が無数に溢れて依姫に襲いかかったのだ。瀑布の奔流のように。もはやそれは物理的に可能な現象ではなかった。世界が『破れていた』。
「どういうこと……『天鈿女命よ、再び力をお貸しください!』」
 だが、神霊を降ろした依姫の躰に、黄色の呪符はまとわりついて離れない。兎たちにもボディが見えなくなるほど張り付き、次々に力を失って落下していく。
「巫山戯ないでよ! なんで! どうして! 神霊の威光が効力を示さないなんて」
 いまや溢れ出す呪符は津波となり、月面地下空洞を埋め尽くさんばかりの勢いで増殖していく。
「これは一体、何の神様の力なのよ!」
 あの気丈な依姫が怯えるほど、異形の光景。
 永琳の表情が一層厳しくなり、離れて対峙していた依姫と輝夜も動きを止めざるを得ない。
 それでもなお、気丈に反撃を試みる依姫の霊弾は霊夢に届かない。いや、札の洪水を抜けて届いているのもあるのだが、そこに居るはずの霊夢はいなくて、まるで同じ場所に同時に三人も四人も存在しているかのように見える。時折霊夢の姿が歪むようでもある。
「瞬間移動……じゃないの? なんなのこの地上人は」
 永琳の表情が呟く。
「博麗の巫女……いいえ、博麗霊夢は己がその場に存在する確率を変動させているのよ。まちがいなくその場にはいる。ただし、私たちの観測に隙があるから、捉えきれていない。一方で向こうは正しくこちらを観測し世界にも干渉を続けている。一般相対性理論を無意識的に崩して、溢れさせている」
「その力って、月の」
「いいえ……宇宙の始まりよ」
 永琳は無数に舞い散る札を避けながら、手にした超弦の弓を引き絞った。
「どんな存在であれ、人間がこのまま『この宇宙』を縛るべき物理現象を越えてもらっては困るのよ。事象の地平線を越えて届く我が呪詛を受けなさい」
 ビィン、ビィン、
 弓から銀の矢が放たれる。破魔の鳴弦。あらゆる次元を超えて対象を捕らえる天呪。
 アポロを撃墜した神代の業だ。
 この狭く限られた空間で幾つもの花を咲かせゆく。
 だが霊夢はそれすらくぐり抜けて迫る。
 呪いの先、ほんの一点に存在する安全地帯を完璧に見抜いて。
 永琳すらも戦慄する。
 この能力は一体何だ?
 誰にも分からなかった。
 ここにいる者たちに無知を責めることは出来ないだろう。
 ――霊夢が持つ稀有なる力。
 それは物理法則はおろか、この世のすべての事物という大地から自らを少しだけ切り離す、『空を飛ぶ程度の力』。かつて霧雨魔理沙がそのあまりの途方もなさに、敢えて名前をつけ、スペルカードの一つという概念をわざわざ付け加えたその力。

 名を、夢想天生――

「あはははははははは! これは地獄だわ! このもっとも尊き浄土にエントロピーで蒸発する地獄が現出したわ。せっかくだから私が永遠を保証してあげる。札にうもれて皆一斉に、一様に退治されてしまえばいいのよ! 世界最後の妖怪退治よ!」
 狂気に取り憑かれた輝夜が永遠の力を繰りだそうとした。
 永琳がそれを止めようと手を伸ばす。
 輝夜は咄嗟に手を払った。
 永琳の表情が悲しみに歪む。
 輝夜の顔が驚きに溢れる。
 一瞬で、狂気が拭い去られる。
 永琳の背後で、巨大な立体ビジョンの永琳が、幼い自分に無限の優しさを向けていた。
 自分はどうしてそんなことをやったのか、信じられないとでもいうように――
 輝夜はゆっくりと頭を横に振り。
 顔を背け。
 永琳を見つめ続けることができなくて未だ悪夢の中央に浮かぶ、もはや地球人とは言えぬ『人間のような事象』へ必死に抱きついた。

 燕の子安貝――

「……! 依姫、豊姫!」
「もう遅いわ、永琳!」
 燕の巣のように編み込まれた巨大な光の檻で両者の空間を遮った輝夜は、霊夢を捕まえた勢いそのままに地下都市最深部へ飛び込んでいく。姫に抱きつかれた瞬間、巫女は超常の力を失ってぐったりと項垂れた。生物のように舞い散っていた呪符が、風化した紙のように皆一斉に、空気に溶けこんでゆく。
 一瞬我を忘れていた依姫が、慌てて叫ぶ。
「防御隔壁! 急ぎなさい」
「駄目、間に合わない」
 豊姫が呆然と呟く。
 格子状に閉ざされていくミステリウム製の五重障壁の向こう。
 気を失った霊夢に肩を貸した輝夜の顔が、こちらを振り向いた。
 視界にあるのは永琳だけ。
 永琳もまた、輝夜だけを見つめている。
「輝夜……」
「安心して永琳。この先、結局はなにも起こらないのだから。これはきっと、ううん、間違いなく私の夢なのだから」
「分かっている、分かっているわ……でも」
 少しだけ泣きそうになる永琳。
 永遠の月の子は小さく頭を振った。
「大丈夫、私はもう変わらないわ。すぐに……貴女の側に戻るから」
「輝夜」
「愛しているわ、永琳。永遠にね」
「………………私もよ」
 憔悴しきって浮かぶ綿月姉妹、
 力なく切ない笑みの八意永琳。
 かつて存在した巨大な月の幻想。そこに取り残された彼女たちに見送られて。
 輝夜の前の隔壁が、重い音を響かせて閉ざされた。

      4

 ――――――。

「……ちょっと、そろそろ起きなさい、霊夢。重たいわよ」
「あ、何、失礼ね。私は重たくなんてないわ!」
 なんとなく反射的に抗議をしてから、ようやく霊夢は自分が輝夜に体を預けていたのに気づいた。
「ああ、あ、ごめん」
「貴女でも謝ることはあるのね」
「私が悪かったらね。滅多にあることじゃないけれど」
「沢山あると思うけどねえ」
 ようやく頭が冴えてきた。
 私は――博麗霊夢。ここは?
「あれ……私、どうしたのかしら。結局あんたのお付きの人と、姫様達にのされた?」
「そんなところよ。いろいろあって通してくれたわ。肝心なところで失神するなんて博麗の巫女も頼りないわね」
「悪かったってば……でも、ここどこ? 薄暗くてよく分からない」
「あとは真っ直ぐ歩けばいいだけよ」
 手を引かれて歩く霊夢。
 そういえば……里の子供の手を引いて歩いたことはあるけれど、自分が手を引かれた覚えがないなと、霊夢は考えていた。寂しさを感じることはないけれど、なんだか気恥ずかしくはある。多分、悪いことじゃないんだろうな……そう思いながら。
 蓬莱山輝夜の言った通り、次第に周囲がぼんやりと輝きはじめる。
 黒曜石のような床で、近くで川のせせらぎのような音がする。自分の姿が見えるほどに磨かれていて、なんだか落ち着かないなと考えていた。
 緩やかな風。聞き覚えのある音――葉擦れ。これは……笹だろうか?
 その辺りで、自分は影の中を歩いていたのだと気づいた。
 何の影?
 見上げる。
 もはや充分に明るい。視界は豁然と広がっていた。
 正面中央、霊夢はそれに気づいた。
 ようやく。
 輝夜もまた、ゆっくりと見上げていく。
 もはや言葉は必要がない。
 そこに、それが立っていた。

 ――これだ。
 私は『これ』を探していたのだ。
 確信した。

 天まで届くような巨大な樹が、その空間を圧するように鎮座していた。
 博麗神社の境内に匹敵するほど太い幹に、巨大な注連縄を巻かれて。
 先程までの未来都市よりは狭いものの、依然として広大な人工空間。周囲を無言の竹林が取り巻いている。それらが一様に仰ぐ、まるで入道雲の如く広がる樹陰。巨山のようでもある大樹の盤根からは清流の源が幾つも流れ出している。
 今まで一度も聴いたことがない、敢えて表現するなら水晶を指で弾いたような神秘的な音が、高音から低音、また高音へと響きあっている。立体的な聴覚体験からは音源が判別しにくかったが、遥か遠くの枝々から聞こえてくるような気がしていた。
 もはや貧弱な語彙でそれをどう賞賛していいのか。
 存在の絶対さが、霊夢を打ちのめしていた。
 様子を眺めていた輝夜はとても満足そうに頬を赤くしている。
 ようやく魂を取り戻したかのような霊夢が、ようやくいった。
「あ……」
「なに」
「……あの」
「どうしたの」
「手、握りっぱなしだった。ごめん」
 輝夜はきょとんとし、次いで声を挙げて笑った。
「面白いわ。貴女がそういう人だったとは思わなかった」
「あんたこそ、狂鬼になったり悪魔になったり、おおよそ人間らしくないわよ」
「お互い様でしょ。ただし、どっちも同じような女の子っぽいってことで」
「……同じにされるのは、どうもね」
 霊夢は若干赤くなりながら、もう一度輝夜の手を握りしめた。
 輝夜が嫌がらないので、そのまま、繋いだまま。
「で、なによ、これ」
 元宇宙人が、誇らしげに胸を張った。
「――蓬莱の樹。月文明の源であり、地球をも導く神の木。幻想を空想の最上位にした根源。真実の月が夜に地球を照らして幻想を育み、その住人……妖怪にすらも大きな力を与える存在。妖怪の賢者を始め、数多の侵略者たちが求めてやまなかった伝説」
「あの、例の蓬莱の玉の枝って奴の本物?」
「これそのものではないわ。いわゆる優曇華、穢れを吸って蓬莱の玉の枝になる植物はこれを元に設計され作られたの。この樹の枝も時折、あの植物と同じように宝玉を付けることがあるわ。遠いけど、上の方に今も生っている」
 輝夜の言葉に呼応するように、枝の先があちこちでキラキラと輝いている。
 まるで白き銀河のようだ。
「月夜見様が海に映る月を見て、一族共にこちらに渡る決心をなさったのは、月にもこの樹が存在していると知ったからなの」
「にも? 地球にもあったっていうの?」
「そうよ。創造を司る古き神々の御代にはたくさん生えていた。それも徐々に少なくなって消えてしまったらしいけれど。海を割った預言者や、著名な魔術師達が持っていた杖の大半は、この樹から削り出されたものよ。それを真似て、支配者たちが権力の証に錫杖を示していたの。まあそれを逆手にとって、月の人たちは優曇華をばら撒き、地球に戦争をもたらしていたのだけどね。……その一方で、月夜見様が月に渡って来られた時代には、ここは樹海と言えるほどの蓬莱の樹が茂っていたというわ。でも、月への入植が始まった頃から徐々に枯れ始めてしまって、今ではたったの一本だけ。穢れが枯死の原因といわれて、徹底的に浄化されたけれど、それでも止まらなかった。本当に穢れが原因かは結局分からなかったみたいだし、人が生きていれば穢れは完全には取り除けないものだからね。そういうことで、私が生まれた頃には既にこの状態だった。きっとそのままでは寂しいから、周囲に姿の変わらぬ竹林を施したのね」
 輝夜は絡めた指をそっと解いた。
 霊夢はちょっとだけ残念に感じたが言葉にはせず、先を進む輝夜の後ろに付いていく。
「ねえ、この樹がとんでもない力を持つってのは、それは私にだって見ただけで分かるけれど……具体的にどういうことなの?」
「貴女は神様とお話ができるのだもの。触っただけで教えてもらえるわ」
 二人は備え付けられた階を登り、盤根の上、力強い幹にまみえた。
 輝夜に促されて霊夢はゆっくりと近づき、太い幹に触れる。
 脳裡で弾ける泡沫。
 上から下へ。
 神意が示され、その整った顔立ちが驚愕に支配されていく。
「嘘……これ、天沼矛と、同じ……なんて」
「そう――これは世界を作る樹。伊邪那岐命と伊邪那美命が成したように、神々の力を持って創造を行う幻想の頂点」
 輝夜もまた、幹に手を触れる。
 同時に、周囲の光量が増えた気がした。
 山ほどもある樹が喜びを光で示しているみたいだと、霊夢は思った。
「普通に祈るだけでは、この樹は不可視の神霊と同じ。真に最大限を引き出すには、神々のように直接イメージを伝達する必要があった。ここに住まう神に近しき人々でも、それは至難の業だったわ。でも……私には最初からそれが出来た。私の持つイメージをそのままこの樹に伝えることが可能だった。それこそが私の秘めたる本当の力。幻想に形を与える増幅器のようなもの」
 瞳を閉じた姫の横顔。
 自分が知っている幻想郷の誰よりも古くて、高貴な顔立ち。
「蓬莱の薬についてもそうよ。亡霊のように歪な有り様ではなく、完璧なる不老不死……、すなわち神代の力を完成させるためには、私がこの樹に永琳のイメージを伝える必要があった訳。それだけじゃないわ。未来都市も超科学も、人間の脳では階層的に絶対に到達できないレベルの進化は、私を経由したイメージの示唆が元になっている。だから……私を失った月は発展を止めたのよ」
「でもどうして、あんただったの?」
「神代の系譜を持つ月夜見様や永琳達や、月の支配者たちと私は根本的に違うの。私は月で生まれ月で育った突然変異。父母の顔も知らず、子供の頃から高貴な者として存在していた。それはもう甘やかされてね――だから」
 月の姫君は、狂気を秘めたその美貌を眩い光に晒す。
 少しだけ、ふたりの距離が遠ざかった錯覚。
「――だから私は、正真正銘、唯一無二の月の子なのよ」
 滔滔と告白を続ける輝夜が、やや疲れたかのように、たくましい幹にその身を預けて呟く。
「……永琳は教えてくれなかったけれど、もしかしたら私は本当に、この樹から生まれたのかもしれない。流刑地の地上で竹の中に隠された意味は、その隠喩だったんじゃないのかしらね……あの頃の私は真に狂っていて、竹薮の中の御殿やそこに住んでいた賤しき夫婦たちをも家族だと思い込もうとしていた。後さきを考えずに蓬莱の薬を残したり、とかね。それらも今は、時の流れの向こう側にあったかもどうかもわからない夢幻でしかない――あったらいいなとは、思うけれど」
 幹に額を当て、押し返すようにして姿勢を直し、霊夢に向き直る。
「いずれにせよ、私の出現は月に選択を迫った。私を使ってこの樹が枯死するまで際限のない発展を目指すか。私の存在を警鐘となし、もはや大幅に進んでいた文明に固執せず、精神的なレベルの進化に切り替えるか。月夜見様は最初から後者を望まれていた。でも、『奴』の策略と永琳の失敗により、私は蓬莱の薬を飲んでしまい、月文明は私を失った。『奴』の計画に乗った者は根こそぎ処分されたと永琳は云っていたわ……そして、この樹には時間封印の為に巨大なフェムトファイバー、封印の注連縄が施された。決して枯れずに存在し続ける『永劫樹』になったのよ。ただ、それでも今なお、創造の余韻たる幻想分だけを月と地球に及ぼし続けている……」
 霊夢は想像した。
 この少女は自身では片鱗も理解出来ない様な知識のイメージを脳裡に刻んでは、正確に神樹に伝えることのみを望まれていたのだ。それは神への供物、祭壇の上の羊となにも変わらない。生きても死んでもない有り様でただひたすら樹に呼びかけ続ける、大樹の子。伝説の通りに月へ帰っていれば、彼女は自動機械の一部に組み込まれていたかもしれない。
 だが、永遠の従者と、幻想郷の幻想分が彼女を守っていた。
 これからも護られ続けるだろう。
 すっと。
 とこしえに。
「……でも、天沼矛と同じモノから産まれて、忌み子として地球という外界に流されるなんてね。それじゃまるで……」
 ぼやくかのように喋っていた霊夢が、その言葉の意味の重大さにゆっくりと気づく。
「あんた、まるでヒ……」
 霊夢の口に輝夜の人差し指が当てられる。
 それを自分の口に当てて、シーっというポーズを取る姫。悪戯めいて。
「言わぬが花ということもあるわ。言っても詮なきことだもの」
 なんということだろう。
 彼女は二重の意味で伝説。幻想郷……いや、日本にとっての蓬莱の島だったのだ。数多くの男はおろか、神の末裔たる帝にまで求められて然るべき存在であった。
 生まれながらの姫。
 物語の中の物語
 最上位の幻想が結実した少女――蓬莱山輝夜。
 彼女もまた一人の、永遠の巫女だった。
 ……霊夢にじっと見つめられて、輝夜は少し照れるかのように後ろを向いた。
「さて、どうする? どうせここまで苦労して来たんだし、なにかお願いしてみればいいのよ。きっとなんでも叶うわよ。永い間、月が独占してきたんだから、一つや二つぐらいなら構わないでしょう」
「なんでもって……壮大過ぎてもう何をお願いしていいやら分からないんだけど。うちのお賽銭箱をお金でいっぱいにしてくださいとか?」
「それは叶わない気がするわ。俗っぽすぎるから」
「うん、私も。自分で云ってなんだけど、ちょっと幻滅したわ……というか、今の話の流れだと、私じゃ無理でしょうに。あんたじゃなきゃ」
「今の私はもうしがない地上人だし、多分お願いは届かないわ」
 その時。


 ポン

    ポン

  ポン

       ポーン


 緑の天蓋から降りてきた幻想の音が、霊夢の胸で弾けた。
「………………?」
 霊夢が自分の懐に手を入れると、いつぞや何処かで幼女に貰った翠の宝珠が中から一定パターンの音を発振している。
 大樹の枝々と干渉し、響き合う。
 増幅して。
 ハーモニーを奏でている。
「あれ? こんなのもあったっけ。なんだかいろいろあったから――よく、覚えていないわね」
 霊夢の掌で揺れる緑。
 霊夢の戸惑いを代弁しているかのように。
 輝夜は一瞬虚を突かれた表情になったが、やがて何かを悟ったように、ゆっくりとゆっくりと、開いていく蓮の花のように笑顔を綻ばせた。
「ほら。貴女のお願い、聞いてくれるって」
「そうなのかしら……困るなあ。お願いがあるからわざわざ神社にいく、そこにきっとご利益があるのよ。お願いを捻出するってのは違うと思うわ」
「無欲なのはそこそこいいことだけど、なんだか似合わないわよ……じゃあそうね、あの地球のために祈ってみるのはどう? せっかく巫女なんだから。私だって今は地上の人妖だから、少しはご利益分けてもらえそうだし」
 輝夜が軽く、パンパンと柏手を打った。
 巨大な樹陰の向こう、閉まっていた空間が無音で左右に展開していく。
 懐かしきあの、蒼き光が差し込む。
 二人の住まう唯一無二の星――地球だ。
 びっくりするぐらい大きく、闇の世界に浮かんでいる。
 同時に周囲もいろいろと持ち上がり始めた。静かな地響きと共に、大樹自体も上昇を開始しているようだ。二人の眼前には漆黒の台座がせり上がってくる。高く高く、地球に向かって真っ直ぐに。
 二人はそこに飛び乗る。
 左右に向かい合った龍の彫像、中央の祭壇には三柱の別天津神――

  天之御中主神、

  高御産巣日神、

  神産巣日神。

「祭祀の場、龍の台座よ」
「私が祈るにはなんだか立派すぎるわね。逆に博麗神社が小さすぎるのかしら」
「でも、やはりここには巫女が立つべきだわ。私はここで何度も樹にお願いしたけれど、とてもとても違和感を感じていたもの」
「分相応って言葉も地球にはあるのよ」
「残念ながら私も知っているわ」
「でも、なんだか、お茶を一服して落ち着きたい気分でもあるし」
「少しは空気を読みなさいな」
 珠が放つ光が、徐々に強くなっている気がした。
 目の前の大樹は明らかに発光している。
 虹の如く色を変えながら。油膜の如くに対流しながら。
 ふう、と霊夢は息をついた。
 ――仕方がない。
 やってみようかな。
 まあ適当に、自分が望むささやかな事を、樹に伝えてみよう。
 誰かが笑うかもしれないけれど、ただ自分の為に。それが仮に誰かに本当に届くのなら、それでいいのかもしれない――。 
「……解ったわ。巫女らしく、たまには皆のために祈ってみる」
「じゃ、私は……そうね、貴女の為に時を止めてあげるわ。……前に貴女たちが夜を止めた時、貴女は私を逃亡の罪人から当たり前の人妖にしてくれた。月を見ても怖れたり呪ったりしなくてよくなった。私の空を再生の鳳凰は確かに翔んだのよ。だから今度は……未来永劫、終わらない祝福をしてくれる博麗霊夢のために、私が仮初の永遠を作ってあげる。どうでもいいことだけどね」
 姫の言葉に衒いはなかった。
 巫女が姫に向き直る。
 自然と、まっすぐに。
「……ありがとう」
「なぁに。小さくて聞こえないわ」
「ここまで連れてきてくれてありがとう、輝夜。……多分、これを見れてよかったと思う。ここに来れて、よかったと思うわ」
 手を差し出される。
 古き姫がおどけて笑う。
 その眦に大きな涙を貯めて。
 手を握り返す。最初は恐る恐る、次いでしっかりと。
 それは彼女が初めて見せた外見相応の表情であり、遊び疲れて充足感に充ち満ちた、童女の様でもあった。
 ――今ここで本当に、彼女は永遠の月の子の役目を終えたのかもしれない。

 霊夢は祭壇に向き直る。
 かつて蓬莱山輝夜はここに立って、月のために樹に祈った。
 そう、そして私はここで祈ろう。
 地上の幻想郷の幻想のために。
 そして、幻想郷を取り巻く世界のために。
 緑の宝玉が一層輝きを増し、純粋な光へと転化する。
 霊夢が握っているのは今や一つの珠ではない。
 数多くの宝玉を実らせた、立派な振りの神樹の枝。
 実在する神宝――真の、蓬莱の玉の枝。

 霊夢は舞い始める。

 シャラン、シャラン!

 風が吹き始める。東から吹く新しい風。優しく強く。地上の光を天の銀河へと巻き上げげながら。神に捧げるための、人間を祝福するための、その揺らぎ。
 五十鈴の代わりに蓬莱の玉の枝が鳴る。
 神の世界の虚数の音を、一音、また一音、響かせゆく。

 シャラン!

 蓬莱山輝夜は霊夢の背後に浮かび上がり、全天へと両手を差し出す。
 時間が引き伸ばされる。巨大な時空が事象の地平をも歪めゆくかのように。
 そう、この一点。
 宇宙は永遠となる。

 シャラン!

 ……遥か遠方では、地球を卵として孵化した巨大な鳳凰が、再生のための浄化をなさんとしてまさに月に飛来しようと試みる。極彩色の鳥に平行して虚空を進むのは、太陽の名前を冠したちっぽけな、たった三人のアメリカ人だけを載せた宇宙船で。その向こう、地球の静止軌道上では、月面の住人と地球人が血みどろの戦争をやっているのすら見える。命の散華が無数の花火のようだった。地上に目を向ければ、幻想郷の森のさなか、霧雨魔法店の窓辺で魔理沙がこちらを見ている。恐る恐る月を窺うかのような鈴仙・優曇華院・イナバの顔も見えた。八雲藍と橙、日記をつける東風谷早苗、読みかけの本とパチュリー・ノーレッジ、夜空を舞うルーミア、盃を傾ける西行寺幽々子と魂魄妖夢、竹林の中の藤原妹紅。東の都の音楽青年も。皆それぞれに月を見上げている。
 あらゆる幻想が、
 無数の人々が、
 一緒くたになって巫女の瞳に映っていた。

 シャラン!

 でも。
 例えば霊夢は、世界によくあれとは望まない。
 誰かを救いたいともあんまり思わない。
 悲劇的な事象を消滅させようとも考えない。
 あの、月の未来に憤った男のように。
 平凡な者も王権持つ者も、みなそれぞれ別の、だが同じく良き世界を望むように。
 それらと博麗霊夢は違う。
 なにも否定しない。
 ただ、今あるそのようにあれと願うだけ。
 輝かしい未来も。悲しい歴史も。悲喜こもごも、その全てを。博麗神社でいつも、お茶を飲みながら幻想郷の空を見上げているのと同じように。
 そうして霊夢が観測する幻想郷はどれも、確率的に実在している。あり得る可能性すべての数だけ、東方の彼方に幻想郷があり、日本があり、そこを取り巻く地球があって、月がある。人々がいる。恐らくはそのそれぞれで同じように祈る、博麗の巫女も。
 眼前に浮かぶ地球が微妙に揺らぐ。霊夢が観測するたびに微妙に位置を変えながら。光が粒子であり、同時にまた波であるのと同じように。
 霊夢が感じ移ろいゆく、全ての可能性が、正しく幻想郷だった。
 すなわちもはや、流れる白い銀河の星々全てが、太陽と地球と月と幻想郷である。
 那由他を越えて増え続ける。
 霊夢が祈れば祈るほどに。
 あらゆる可能世界が裸の特異点をも隠してしまうぐらいに、無数に。
 それを永劫樹の幻想が保証し、蓬莱山輝夜の創る永遠が実現する。
 霊夢はそれをただ、ひたすらに願う。

 シャラン! シャラン!

 そこは、
 天と地を結ぶ新たな天の浮橋であり、
 それは、
 次代の国生みであった。

 
 
 シャラン――


 新しい風、
 東から吹く風に吹かれながら。
 永劫樹の輝く夜を、
 天にまき散らしながら。
 弾けあう音を首飾りにして。
 蒼き地球光の下で。


 シャラン!



 永遠の巫女が舞い続ける。



 シャラン!


 舞い続ける、


 シャラン!


 永遠に、


 シャラン、


 シャラン、


 シャラン……





































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 シャラン、




 ――夢。

 輝夜は目を覚ました。
 耳の奥に鈴のような、そうでないような、不思議な残響が残っている。
 寝ていたのか起きていたのかも分からない、ぼんやりとした気分。半覚醒状態。
 夜、永遠亭。
 薄暗い部屋の縁側で座布団に腰掛けて。
 空には大きな満月が真っ白で優しい光を投げかけてくる。
「ああ、そうね……今日は確か、満月だったわね」
 遠くで兎たちが餅を搗きながら歌っている。
 あいも変わらず大黒様を称える歌だ。趣旨が違うのだが、まあもう咎める気にはならない。
 その付近で、鈴仙・優曇華院・イナバと因幡てゐがあれこれ言い合いをしているのが聞こえる。イナバにはあの地球兎を言い負かすまではいかないにせよ、対等に話すぐらいにはなってほしいのだけれど……無理かしらね。
 廊下の方からは聴き慣れた足音がする。
 きっと永琳だろう。千年以上も毎日聴いているのだから間違いはない。でも私はすぐに、「あら、永琳なの?」と尋ねるだろう。永琳もきっと、「また夢でも見ていたのですか?」と呆れるのだろう。それでいい気がした。それがいい気がした。
 手の中には香霖堂で受け取ったかぐや姫の絵本がある。
 ――この旧き物語は幻想へと昇華したのだろうか?
 でも、幻想になったということは、もはや失われることがないということでもある。
 本がなくなり、言葉すら失われても、四季折々の望郷に苛まれた時、人はこうやって月を見上げるのだろう。月がなくなることはないのだから。
 その時、住み慣れた地上を後にする少女の物語もまた幻想として蘇るのだろう。
 物語の不死。
 物語の永遠。
 物語の、無限。
 ――すべての世界に寿福を与えようと舞い踊った巫女の幻が脳裡に浮かんでは消える。
 あれはいつのことだったか、もはや定かではない。
 ただ、分かっていることはある。
 私が今も、月に帰れぬ永遠の罪人であるということ。
 そんな私が――無数にある誰かの中の物語で、生きて続けていくということ。

 柔らかな東風が吹き抜け、竹林の笹が今宵も秘め事を囁きあう。
 呼ばれるようにして、庭にある盆栽に目を遣った。
 発見。
 驚き、それからゆっくりと微笑む。



 小さな優曇華の盆栽の先に一つだけ、
 ――緑の宝玉が輝いている。