■天の龍星、地の龍脈              【Thousand Knives】


「ざけんなコノヤロー!」
 遅刻してきた若い女性歌手がレコーディングスタジオに入った瞬間、メトロノームが床に叩き付けられた。不快な金属音が響き、一瞬で沈黙がその場を支配する。悲鳴を挙げる彼女のマネージャーが目を白黒させている間もあればこそ、その胸倉がごつい手によって絞め上げられる。
「ちょ、ちょっと落ち着いてくださいよ、渋滞に巻き込まれたって連絡入れたじゃないですか。貴方も聞いてたでしょう?」
「事情を聞けば時間が戻って来んのか、あ? 何分待たせれば気が済むんだ。今日はこの後何件も予定が入ってるんだよ。お前なんぞが補填できないほど重要な件だ。解ってんのかこの馬鹿!」
 マネージャーは突き飛ばされると背後のグランドピアノに叩き付けられ、正確に調律された弦が不協和音を響かせる。したたかに頭を打った男はその場に蹲り、少女にも窺える歌手はと言えば号泣しながら何度も何度も頭を下げるが、怒りを爆発させた当人は感情を抑えられない。楽譜をばら撒き、呆気に取られたスタッフを残して嵐のようにその場を去ってしまった。
「なんだよ……あいつだって日雇いに毛が生えたようなもんじゃないか。偉そうにしやがって」
 誰かがぼそぼそと呟く。
 その場にいた人間の大半が共有する思いだった。
 ただ、口には出さない。何としても彼を連れ戻さなければ、今度は自分たちが職を失うだろう。破綻した人格を差し引いても、彼の書く曲、編曲した曲に心酔したレコード会社の役員、業界関係者は日増しに増殖していた。確かに、凡人にはない奇妙な魅力を秘めた男ではある――それを否定できる者は皆無だった。
 まして、弱冠二十四歳の若者ともなれば。

      ☆

 ここは東の都――眠らない幻想都市。

      ☆

 勢いに任せて夜の街に飛び出した彼は、夜をかき消すかのように輝く巨大な都市の一角、不夜城の如き繁華街の片隅で浴びるように酒を飲んでいた。数件の仕事を放置した後悔が脳裏でチリチリと熾火になっていたが、無理矢理消すつもりで強いアルコールを呷り続ける。
 知るか。どうせ、望んで受けた仕事じゃない。
 明日は別のことをやっていても構わないんだ。飯が食えさえすれば。
 ――子供の頃から自分が何者になるかなんてことを考えたことはなかったし、今だってそうだ。単に幼少期から興味を失わなかった作曲やピアノ演奏が、今になって金になる。ジャズ喫茶で演奏すれば一日以上呑み喰いできる。至極簡単。その連続だけで暮らしているだけ。
 去年までは音大生という身分もあったが、担当教授に卒業してくれと懇願されて、叩きつけるように卒論を提出してそれっきり。証書を取りに行ってもいない。だから今は、不定期に変動する収入があるだけの無職に等しい。
 件の作曲だって褒めそやされる程のものじゃない。この世界に新しいものはなく、特に西洋音楽はJ.S.Bが編み上げた理論を繰り返し再発見しているだけ。俺はそれを組み直しているだけ。街にあふれる音楽青年たちが集団になればそれが現象になり音楽のジャンルになるという愚かな様。結局金のある奴が更に金を巻き上げる手段を考えつくだけだ。
 その片隅で、俺はそいつらから零れ落ちる金をつかんではアルコールに変えている。アカデミックで古臭い研究は、結局何ももたらさなかった。
 ――クダラない。
 連日連夜、青年の中に渦巻くのは苛立ちだった。
 自分を取り巻く状況への怒りが、急速に変容する社会への怒りへと変容し、大国同士の狭間で立ちゆかぬまま安易な道を選び続ける自国への怒りにも直結する。若者特有の安易な視点だったが、彼の時代はまだそれが大きな力を持つと思われていた……或いは、持っていた頃の残滓が滾っていると信じられていた時代だった。
 若者の熱気が世界を変える。戦争への拒否が全人類共通の未来の指針になる。
 そうあって欲しい。
 だが、大学闘争を超えた先待っていたのは、活動の袋小路と暴力の先鋭化だった。政治態度すらも見世物になっていく程に経済は急速な発展を遂げ、人々は労働の対価として受け取るささやかな金と充足にこそ自己実現を発見し始めていた。
 青年自らも、高校に上がった頃からヘルメットを被ってデモに参加し、拡声器を手に体制批判のアジテーションを声を嗄らして叫んでいた。学校運営に対抗して独自授業をやったりもした。だが胸中には、それらもまた容易に着せ替えられるファッションではないかという疑念が常に潜んでいた。排除すべき軍国主義や全体主義の中に、どうしても拒否し切れない魅力をも感じてしまう自分がいたから。未来派の芸術に思わず胸が躍る度、資本家と覇権主義に抗すべきと叫ぶ自分が安っぽく感じられた。湧き出す欺瞞で溺れそうになる。滑稽すぎる。何が本当なのか、都度分からなくなっていく。結局、学生の身分を失う頃には闘争の季節が有耶無耶に終結し、今こうしてここにただ存在している。
 ――自分は何者でもない。
 わだかまる焦燥が酒に走らせ、夜な夜な違う女と床を共にする。
 何処にでもいる、どうしようもない男だった。
 このまま何も成せないまま、何にもなれないまま、日夜莫大なエネルギーを消費し続けるこの巨大都市に吸収されて、やがて消えてしまうのだろう。幼少期に見た景色はもはや何処にもなく、山林は切り払われて住宅地になり、道は敷設されたアスファルトで呼吸を奪われ、川にも蓋が敷き詰められ、空をも高速道路に覆われ、ビルの間には車のヘッドライトが夜毎に光の川を作る。全国のみならず地球全域から持ち込まれた資材が無為に消費されていく。二十四時間光で照らされた場所以外は闇を超えた暗黒に包まれ、日の当たらない生活を送る異形の者たちが跳梁跋扈する領域を形成している。堕ちてしまえば自らも異形に転化するか、或いは喰われるのみであろう。
 それでも、此処で生まれ此処に育った彼にとって、この街が世界のほぼ全てであり、この都市以外は遠い異郷だった。
 後退はない世界。
 発展しかしない世界。
 進化の夜を徘徊するたび、青年は自分の限界を心に刻む。
 その恐怖から逃れるためにまた、酒に頼る。
 繰り返し。
「ねぇお兄さん、聞いた?」
 隣で下手くそな化粧をした、初対面かどうかも判らない安化粧の女が、悪趣味な口紅を引いた唇に媚を乗せて青年に話しかける。酒場では女性を顔で覚えない方がいいというのが、色町を一通り学習した彼の大まかな結論だった。
「何をだよ」
「だからさ、あの噂。――また出たんだって、殺人鬼が」
 夜の街には無数の噂話が溢れている。
 それこそ麦酒の泡のように、浮かんでは弾けるクダラない噂。
 ほとんどは酒と共に消化されるか嘔吐して地面にぶちまけてしまえば消えてなくなる類のものだったが。その中でも、あるひとつの噂が地底深くに脈々と熱して渦巻くマグマのように消えることなく、人々の口に登っては沈降していく。
 曰く――
 夜な夜な徘徊し闇に潜む、女の殺人鬼が出る。
 大振りのナイフを手に音もなく忍び寄り、心臓を刳り抜く若い女。
 瞳は兎のように真紅に輝き、そいつに睨まれると何故だかなんの抵抗も出来なくなるとか。
 誰も実際に見たことはない。新聞はおろか下世話な週刊誌のゴシップにすらならない。それなのに、この街の底で藻掻く遭難者たちを捉えて離さない、悪趣味な都市伝説。
 会えるものなら俺だって会ってみたいものだ。
 そいつはどんな顔をしているのだろう。
 俺よりはよっぽど冴えた表情をしているんだろうな。羨ましい。
 殺意であれ謎であれ、刺激を与えてくれる女なら諸手を上げて歓迎するというのに。
「ドラキュラみたいに美形の男前だったら、心臓あげてもいいわねぇ」
 隣の女は青年にしだれかかって、はしたなく嬌声を挙げている。倦んだ空気。扇風機のない夏の、コンクリート打ちっぱなしの部屋のような女だ。一夜の酒と男を求めるような。情けない自分の鏡のような。……チリチリ。また怒りが脳裏を焚く。暴風雨の前触れだ。このままだとこの思考力の欠落した奴の顔を、形が変わるぐらい殴ってしまいそうだと思った。
 酒が足りなかったのか、最低限の理性を働かせた青年は女を軽く突き飛ばすと、金切り声の抗議を無視し、無造作に金を置いて店を出た。

 青年は目抜き通りを外れ、暗がりの中を歩いた。
 最初は飲み直すつもりだったが、夜気の冷たさで脳が目覚めるとその気も失せた。
 自分は何処へ行くのだろう。
 ……まあ、何処でもいい。
 此処でない場所があるなら、何処でも。
 見上げれば、夜空には満月が掛かっている。
 なんだか悲しくなるぐらいに巨大で、褪せた満月。
 満月なのに、欠けているようにも見える。
 まるで偽物みたいだ。
 人間が初めて月に降り立ってから十年が経とうとしている。自分もようやく自宅に登場したテレビに齧りついて熱狂したくちだったが。科学や経済ばかりは馬鹿みたいに進歩して、この街は今や月に向かって聳える富士山のように巨大になる一方だというのに、人間の愚行は一向に変化しない。加速度をつけて後退している気さえもする。
 そうだ。お前こそがその証拠だ――月が語りかけてくる。お前はその都市から逃げ出せないまま、無為にエネルギーを吸われてクダラない一生を終えるのだ、と。
 何処の路地裏に入っても、月の高慢な顔が視界に飛び込んでくる。
 そのくせ周囲は全然明るくなくて、見覚えのない曲がり角が続く。
 酒瓶を抱いた酔っぱらいが、新聞を被せられて生きてるやら死んでるやら判らない足が、残飯を漁る犬猫の唸りが。
 彼の濁った瞳と鋭い耳を錯乱させる。
 家々の壁に、無秩序に貼った褪せたポスターにさえ月が描かれていて、書きなぐられた筆記体は"Welcome to the Moon!"のプロパガンダ。
 苛立たせる。
「ちくしょう」
 ゴミの入ったバケツを蹴り上げ汚物を散乱させながら、さらなる闇へと逃げこむ。
 月光の差し込まない場所へ。影の彼方へ。
 月の使者から逃れるために竹林の奥へ引き籠り、帝の兵によって十重二十重に守られたなよ竹の姫の屋敷を想起する。
 だが今、自分を守る術はなく。
 並び立つ竹はプラスチック製で、屋敷は粗大ゴミのトタン屋根だ。
 どこまでも安っぽい深刻なイメージ。
 逃げても逃げても、偽りの月は追いかけてくる。
 自分の早足は、壊したメトロノームのテンポのようであり、また懐中時計が刻む駆動音のようでもあり。都会の喧騒から遠ざかっているはずなのに、何かに追いつかれているような、逃げられないような閉塞感に取り囲まれて。
 紅い瞳の視線に射られているような錯覚をおぼえて。
 月のない夜空を探した。
 南へ登っていく月の反対側へ。
 痛いほどに首を巡らせる。
 北方、頭上。
 都市の背景光に明るくなった夜空にも、褪せた月の拡がりにも負けない星が一つ。
 ――小熊座の二等星がみえた。
 それは北天から動かない龍
 遥かな昔から航海者達が六分儀を向けた星だ。
 まるで引き寄せられるかのように、そちらに足を進めた。

 いつしか周囲は、畑の間に家屋が点在する開けた場所になっていた。
 都会のビル街が遠く島のように浮かんで見える。
 青年は鳥居の前に立っていた。それなりに大きな神社だった。
 なんともなしに鳥居をくぐる。
 社務所の横に電灯が一本だけ立っていた。神域は妖しき月明かりの魔力にも支配されることなく、闇と静寂がその場を安寧に包んでいた。
 さらに中に進むと、生垣の向こう側にもう一つ、小さな社が建っている。
 額に賭けられた神社の名前が、濁った記憶からある知識を呼び覚ます。
 確か此処は、戦争の頃、天候の情報を司る陸軍の部局だった場所だ。
 と。
「――誰か、いるのかしらね?」
 その小さな社の前で、ひとり、満月を見上げる女がいた。
 呼びかけてきた割にはこちらを見るでもなく、頭上に視線を投げたまま。
 白衣にも似た形ではあるが紺と蘇芳色に塗り分けられた奇妙な服をまとい、長い銀髪を編んで後ろに提げている。瞬きをするごとに、少女にも成熟した女性にも見て取れる、大層不思議な女だった。
「………………」
「いないならいないでいいけれど、いたらいたで返事をして欲しいところね。何しろ言葉は相互に理解を深める第一歩だから。勿論、理解出来ないことのほうが多いけれどね。言葉は全能ではないのだから」
「何をやってる」
「第一声がそれね。解ったわ。会話する価値が無いわけではないみたい。それにしても――ああ、なんてこと。結界の検証作業に失敗したと思ったら、幻想郷から外に飛び出てしまったわ。再検証にはもう一度同じ高度の満月がいるみたいね……そんなに気にしなくてもいいわよ、理解出来ないと分かっているから喋っているだけだから」
 気狂いか、と思った。
 だが、初めてこちらを向いた女性の表情は、青年の警戒を一瞬で興味へと変えた。
 意志を持たぬ人間にこのような表情はない。
 人間には、自分に刺激を与えてくれる存在とそうでない存在、二種類のタイプがいる。男女どちらでもそうだが、特に女性は稀だった。そして、彼が知っている人々を超越したあたかも宇宙のように澄んだ瞳を、目の前の女性は備えていた。
 性的興味を超えて、畏敬すらを覚える立ち姿。
 沸き起こる感情そのままに、一瞬で見惚れた。
 彼は自分の名前を名乗り、女性にも同様に促した。
「先回りが上手過ぎる人は嫌われるわよ」
「そんなことは百も承知だ」
 彼女は星の配置を確認するかのように夜空を見回してから呟いた。
「そうね……では、ここではE・Hということにしておこうかしら」
「奇天烈な格好をしている割に映画かぶれか」
「嘘ではないのだからいいわよね」
 そういって彼女――E・Hは冷笑する。
「貴方も私と同じ迷い人かしら? 私よりは深刻で、人よりは愚昧っぽいけれど」
「そうかもしれない。どうでもいいことばかりを悩んでいるかもしれない」
「世にある懊悩の殆どは実際にはどうでもいいことだけれどね」
「でもそいつが人を動かし、また人を殺すんだ。悩まなくなったらおしまいだ」
「穢れた地上の人間はそうでしょうね」
 つまらなさそうに、E・Hは言った。
 まるで他人事だった。
 多分、青年を対等の相手とも見ていない。
 でもそれが、青年の興味を更に牽いてしまう。
「ここで何をしていたんだ」
「何も。もはや次の時が来るまでは何もしないし出来ないわ。一ヶ月ぐらいはあるのかしら。推論は終わり結論は出ているのだから。あの賢者の計算ごときに狂わされたのは癪だけれど、おおよそ理由も解ったから、全部が無駄という訳ではないのかもしれないわね。もっともしばらくは屋敷を空けなければならなくなったから、姫やウドンゲ達が多少は心配するかもしれないけれど」
「……理由とやらを聞かせてくれよ」
「理解できないのに?」
「それでもいいさ」
「じゃあ、見る?」
 E・Hは地面に向かって手を翳した。
 呼応して、地面そのものが地殻の奥から突き上げる。
 その幻覚。
 唸る。
「………………!」
 無音のまま大地が脈動するかのような感触が青年の裡を貫き、ついで青年の足元に巨大な黄色の光蛇が疾く趨って、あっという間に都会のビル街に飲まれていった。体験の非現実さに戦慄をを覚え、二歩三歩と足がよろめいてしまう。
「な、何だよ、今のは」
「地の龍――地脈よ。穢れた土を巡る大地の蛇。この街の中心に向かって、ここだけじゃない、無数に走っているわ。多分、広範囲からエネルギーをバイパスするよう設計されているのでしょうね。目的が何かはしらないけれど、こんなに密度が高い地脈を人工的に集中させる技は見たことがない。危険なぐらいよ。魔術の干渉で私がここに飛ばされてきた理由の一端でしょう」
 自分が見た幻を受け入れられずにいながらも、青年は必死で食い下がろうとした。
 あくまでも目の前の女性を、対等の存在として捉えようとした。
 安っぽいプライドが支えていたとしても、彼は彼なりに真剣だった。
 努力の価値があると、彼は思った。
「……あんたは神様か。魑魅魍魎の類じゃないみたいだけど」
「そうかしらね。いつかは神様でもあったかもしれないけど、だとしても既に辞めているのかも。もし神様だったら、何かを祈る?」
「いや……祈って解決出来るようなことは祈らないし、神様にしか解決できない事柄を祈るのは間抜けだ」
 E・Hがそこで初めて、無垢な少女のような微笑を浮かべる。
「貴方、昔の私の知り合いに似ているわね。危険な瞳も遣り場のない野心も」
「本心で誉めてくれるなら光栄だけど」
「嘘は我が家に専門家がいるからね。……でも駄目よ。私は思惟と感情を完全に分離できる。どう頑張っても人間の感情が私を動かすことはないわ」
「へえ。そいつも、そうやって振ったのかい」
「殺したわ」
 女は笑った。
 戦慄を覚えるほど魅力的な微笑で。
 心臓がアップテンポのメロディそのままに楽譜を吐き出しそうな高揚を覚える。
 こんな気持になったのは何時以来だろう。
 認めたくはないが――もしかして、初めてなんじゃないだろうか。
「了解、解った。認識を改める。君はE・H、星や地面から真理を探す魔法使いだ。俺について一欠片の興味もなく、女性として認識されるのも許さない。これでいいか」
「魔法使いというのは語弊があるわね。今の実務は薬屋というところだけれど、人に呼ばれるなら天文博士というところかしら。数限り無い時間を星詠みに使ってきたから」
「確かにそれらしい表情だったけど」
 E・Hは頭上の妖しき月を指さしていった。
「あの偽物の月も私の仕業なのだけれど……どうせ理解出来ないでしょうし。そうね……私や、私の血脈に連なる者たちは、星の配置を見れば今が何年何月何日かを正確に読むことができるわ。西暦でも旧暦でもね。光の速さに比べれば、時間も空間も大した問題ではないのだから」
「……では、今は何時だい?」
 女性は秒まで答えた。
 青年は苦笑しようとして失敗した。体感時間とのギャップが大きすぎたから。
「馬鹿な、さすがにそんな早い時間の訳がないだろ。あれだけ飲んでたのに」
 だが、E・Hの瞳は深くて揺るがない。
「くそ、暗くて見えない。ちょっと待ってろ」
 青年は駆け出し、社務所の前にある電灯の下で手巻き式の腕時計を確かめた。
「あれ……嘘だろ、あれだけ飲んだあとで、ここまで歩いてきたのに」
 額を覆い、自分の時間感覚を疑ってしまう。
 頭を振りながらゆっくり小社へ向かった。
「合ってたよ、あんたすごいな……あ」
 不思議な女性は姿を消していた。
 最初からそこには誰にもいなかったように。
 同時に夜空には、不審な色でも大きさでもなければ、拡張現実もしない平凡な月が、先程までとは違う場所に浮かんでいた。眼の錯覚でなければ、だが。思わず目を擦ってしまう。
 自分は何を見ていたのだろう。自分は誰と話をしていたのだろう。
 狐に摘まれたような、そんな気分。
 だが、頭はかつてなくはっきりと醒めている。
 言葉通り、あいつは自分に全くの興味もなかった。その事実が何故か痛快だった。
 それに――本当にこの時間が正確ならば、やらなければならないこともありそうだったし。
 青年は迷惑を承知で神社の社務所の戸を叩き、胡散臭そうな顔で出てきた老神主に平身低頭して電話を借りた。その際に柱時計をチェックするが、時刻は正確だった。
 彼は飛び出してきた仕事場のダイヤルを回した。
「――ああ、俺だ……そちらに戻るよ。……まだ待ってるのか、時間も時間だし帰らせろよ……うん……そうか。解った。泣き声で枯れてなければ今からでもレコーディングはする。先方には改めて謝るよ。こちらはそれでいい。……じゃあな」
 受話器をおろすと、なんだか落胆している自分がいるのに気づく。まだ幾分酒の混じった呼気。湯飲みを持った神主がラジオの前でこちらを睨んでいるのがみえたので、今度はタクシーを呼ぶためにもう一度ダイヤルを回した。
 社務所を出ると、ありきたりな満月が視界に飛び込んでくる。
 そこからじりじりと視点を下げると、天を衝く如き光輝の都市。
 スタジオを飛び出した時の不機嫌さは、短時間の邂逅と別離で吹き飛んでいた。
 帰ったらまた仕事だ。
 何者とも判らない世界の中での蠕動のような。
 ほんの僅かでもいい、新しいことにめぐり合えればいい。
 もっとも――今宵の出会い程に刺激的なことがあるとも思えないが。
 ただ、刹那に失われた奇跡と、その喪失感すらも仕事に変えられれば、今はそれでいい。
 なんだかそう思えるぐらい、青年の心中は澄んでいた。
 垣間見た異界よりもなお、彼自身にとってその事実は謎であった。
 だから、誤魔化すように、
 北の夜空に紫微垣を探す。

 認識しなければ、時間はないも同じだ。
 成り行きで音楽を生業にした青年はそう考える。
 どの芸術だって時間を浪費して鑑賞するものだが、この音楽という奴は特に、己の時間を歪ませて体験する、至って非合理的な贅沢だと思う。
 何しろ、空気がないと存在できない。音は物理を超えられないから、発信者と受信者が同じメロディを同時に共有しているというのは実は錯覚だ。本当は全く違う音を聴いて、相互不理解の言葉でもって良さを分け合っていると勘違いしているだけかも知れない。
 数千年の連なりを持つメロディ。
 不協和音の向こうにある快楽。
 隙間だらけの劇場で鳴るピアノの残響。
 どれも定形ではないのに、聴衆の言葉は同じような感想へと集約される。
 音楽それ自体が持っているはずの魅力をスポイルして。
 どだい、音楽なんてそんなクダラないものだ。
 そう認識しながら、そう卑下しながら、青年は曲を書いていった。
 昼夜が逆転する生活の中で。
 男性のために、女性のために、戯曲のために、生活のために。 
 ピアノを弾き、酒を煽り、女を抱く。
 気がつけはもう一ヶ月経っている。
 認識しなければ、時間はないも同じだ
 何かを待望するかのように、押し黙って、彼は仕事を続けた。

 再び、満月の夜。
 紅い瞳の殺人鬼の噂はなおも広がっていた。誰とも知れぬ死体の一部を咥えた野犬の群れが繁華街のど真ん中を疾走する騒ぎがあり、保健所が大捕物をやったのが新聞の三面に大きく載ったのも呼び水になった。
 殺された。
 心臓がなかった。
 死相が喜びに満ちていた、云々、云々。
 とめどなく連鎖する無責任な言葉がまた、幻想都市のエネルギーとなり天を目指す。まるでそれは、遥か海上で湿り熱された空気を吸い上げて成長する台風のように。
 そんな都市の片隅で、今夜もまた、青年は。
 月から逃げていた。
 ――これはなんだ。
 俺は一体、どこからどこへ迷い込んだんだ。
 青年は必死に走りながら自問自答している。
「夜に出歩くと危ないですいよ」
 出入している小劇場で、ストリッパーまがいの団員に忠告された気がする。
 憎まれ口を怒鳴り返したのは果たして、今夜だったかも定かではない。
 時間なんて大した問題ではない。
 誰が言った言葉だったろう――ほらみろ。
 悪夢ならこんなに綺麗じゃない。
 現実ならこんなに凶悪じゃない。
 ひともいないのに喧騒が遠ざからぬ路地裏。
 背後には姿を見せぬ追跡者の影。
 時折、紅の瞳だけがサーチライトのように暗闇を薙ぐ。
 その一瞬のあとで、破砕音と共に眼前に、巨大なナイフが突き立っている。
 刃渡りだけで胸から背まで貫いてなお余りある、長大な。
 一本だけじゃない。数本、百本、千本。あらゆる場所に。
 まるで千本の針の山のように。
 増殖する。
 連鎖する。
 背筋が凍る。
 逃げなければ。
 逃げ切れ無くても逃げなくては。
 背後の夜空は真っ赤に輝いていた。
 まるで大地に接触しそうなほど巨大になった満月は真っ赤に染まっている。
 充血しきった目のように。
 殺される。
 そう確信した。
 観念したつもりでも、本能が逃げなくてはならないと叫び、躰はそれに付き従っている。
 情け無いと思う。
 クダラない人間だと思う。
 足音が聞こえる。
 複数の、整った足音が。
 追跡者たち。
 足音が、まるで懐中時計の運針のような音に変容する。幻聴になる。
 チッチッチッ、
 引き離して、音が途絶えたと歓喜する毎に、
 次に聞こ始める駆動音が近くなってくるような気がする。
 まるでその間――時間が静止している、という、錯覚。
 時間や空間はいい加減なものだった。実感する。
 これだけ逃げても次の瞬間には心臓を抉られて地に伏しているかもしれない。
 では何故逃げる?
 理屈じゃない。
 こんなところまで理屈に縛られてたまるか。
 ほら聞こえるか――
 ナイフが壁に突き立つ音がフォルテッシモだ。
 必死に逃げる自分の足音が乱れてニ短調に転じる。
 飛んできた硝子が割ればドとレとファとソを同時に押さえたかのような不快な響き。
 木霊する人の嬌声はオペラの名場面の再現だ。
 なんて狂っているのだ。
 世界は二十三・四度傾いて、そのまま斃れてしまうだろう。
 それを何者かが指ささして嘲笑し、生活の糧にするのだ。
 次に倒れる自分の為に。
 記憶が逆流して喉を焼く。
 青年の父親はインテリの編集者だった。
 父の担当した作家の中に、自衛隊の蜂起を促して成らず、駐屯地にて自刃した男がいた。
 彼の作品以上に、彼の行為は人を動かしうる共感を得ただろうか?
 否。
 結局はゴシップと白眼視に塗れ、大半の人間にとっては慰み物にしかならなかった。
 この幻想都市で暮らす者の定めのように。
 自己への後ろめたさから父の仕事にほぼ触れることもなかった青年でも、
 思想の右傾化に対する嫌悪を遥かに超えて、
 その結末には納得できなかった。
 あれは、ない。
 命を賭した者とそうでない者はせめて、区別されるべきではないのか。
 まかり通ってはいけない。
 人間はこの巨大な都市に飲み込まれてしまうためだけに生きているのか?
 作家が最後に著した、輪廻転生を問う長大な連作。
 その最後の題名は――天人五衰。
 不死の頂に辿り着いたものが最後に得る苦悩。
 死を決した刃の苦痛の先に、彼は辿り着いたのか。
 到底到達できない俺は、単に慰み物となって消えるのか。
 結局、何者にもならぬまま。
 地中を這い回る光の龍にエネルギーを吸われて、惨殺死体となって新聞に載って。
 見も知らぬ誰かから指を刺されて。
 顔を見せろ。
 どうせ見当は付いている。
 あの整った、神のように彫りが深く、ドビュッシーの清冽な調べのごとく完璧な相貌で、虫けらを見るような目付きで心臓を抉るのだろう。
 背後から俺を組み伏せて。
 瞳を鮮血のように輝かせて。
 激しい鼓動はもはや懐中時計の駆動音にとって変わっている。
 その背後にはもはや空になった真っ赤な月だ。
 俺と殺人者を取り巻く壁には無秩序で無数なプロパガンダのポスター。
 "Welcome to the Moon!"。褪せた白地に真紅の真実の月が描かれた。
 そこで俺は死ぬ。
 龍に食われて死ぬ。
 俺の最後の望みは、
 望みは、
 その狂気の世界にもなお白く輝く、ステラ・ポラリス――

 グランドピアノの鍵盤に叩きつけた、思い切り広げたごつい掌。
 断ち切る。

 殺人鬼の幻影は掻き消えた。
 何かの残響が鼓膜を揺らす。
 網膜に、あの紅の瞳の明滅を焼き付けたまま。
 懐中時計の駆動音も去り、今はただ静寂が支配している。
 今宵もまた、神社の前。
 渇望が望んだのか、狂気に運ばれてきたのか。
 果たして。
 あの夜と同じように白い月下に佇む、銀髪の女性がいる。
 ただ、今日は髪をまとめておらず帽子もなく。乾いた月光を弾く長髪を緩やかな風に任せている。
 こちらを向いて、上げていた手を下ろして。
 その表情が、少しだけ驚きに支配されていた。
「ああ、一体誰かと思えば。貴方はあの夜の殿方ね。偶然ではないのね。私に会いたかったのかしら?」
 鼓動は正常に早鐘を打っていた。
 言いたいことがある気がしたが、全ては徒労だろう。
 自分が見たものも聴いたものも、確かなものなんて何一つ無いのだ。
 この幻想の都市では。
 俺の言葉はもはや無為だ。
「……正直に言うよ。君に会いたかった」
「私は別にどうでも良かったけどね」
「そうだと思ったよ」
 私も、などと言われればさぞ興醒めだったろう。
 そうだ、それでいい。
 俺を歪ませるのは失意と狂気だけでいい。
「君の魔法だったのかい?」
「何のことかしら」
「俺はここまで、殺人鬼の影に追われてきたんだ。時限爆弾みたいに、一ヶ月経ったから殺されるのかと、思ったよ」
 面白くない冗談だったが、E・Hは意外に真面目な表情で、顎に手を当てて考えている。
「紅の瞳の殺人鬼というのに心当たりが無いわけじゃないわ。どうも私がここに来る前後から流行りだした噂だったみたいだし、実験によって幻想郷の何かが流出し混在してしまった可能性もあるけれど。まあ……ここは不尽の力を失った富士を鍵の一つとして建造された都市なのだから、見目麗しき木花咲耶姫のみを選んだよろしく、噂だって影だって長生きすることはないわ。これからも無数に生まれるでしょうけどね」
 他人事のように語りつつも、どこか親族を恥じるかのような口調だった。
「……ずっと、ここにいたのか?」
「時間なんてあってないようなものだからそれでも良かったのだけれどね。興味が湧いたから、この都市をあれこれ見て回っていたわ。内在する些細な欲望に従ったのは正解だったかもしれないわ」
 地面に視線を落とすE・Hに習うと、神社の境内の砂に見たこともない文字がぎっしり書き記してある。
「なんだこれ」
「神代文字よ。もう覚えたから消してもいいけど、というか勝手に消えるわ。それにしても……とんでもない場所ね、ここは。まるで要塞のような都市だわ。もちろん霊的にだけど。でも、何故幻想郷の結界がああいう形になったのか理解できた。……ここは、『主』を守るために霊的防衛を頑丈にしすぎて結界を密閉構築した結果、龍脈を抱え込みすぎていずれ大崩落を起こす構造的欠陥を抱え込んでいるのね。だから幻想郷では物事が緩やかに推移するよう、半密閉の透過構造にしたのだわ。龍の数字を揃え、幻想を強化する一方で、構造にそぐわない事物を自動的に排除するシステムになっている。紅い瞳の殺人鬼も、もしかしたら排除された幻想なのかもしれないわね。……もっとも、基本設計が同じだから、結局龍脈の頭を抑える形式は同じになっているけど……それだって、妖怪にはさほど影響がないし、人間の繁殖力への対抗措置だと思えなくもない。まあしかし良く考えられた世界だこと」
 理解出来ない。
 分かりきっていたことだ。
 それでも、淡々と自説を語る女性の横顔を見る、それだけで充足感すら覚えた。
 無理をしてでも会話を続けようと試みる。
「ここは……五百年ぐらい前に築城の上手な武将が開いた街らしい。でもそれ以前に、京の帝を呪って新しい皇を僭称した奴がいた。そいつは今も首塚で祀られて関東一円を守護する一方で、その祟りが大正の大地震を招いたなんて話もあったな」
「首塚の話は私も聞いたけれど……五百年前といえば、『幻想郷縁起』で初めて妖怪の結界が形成されたとされる頃に合致するわね。賢者が稗田に書かせたフェイクである可能性は拭えないけれど、五百年生きてる妖怪なんてざらにいるし。やはりここが何らかのプロトタイプだったのは否定出来ないわ。此処と富士山、幻想郷と妖怪の山の位置関係も符号するし。今となってはもはや二つの結界は別物だけれど……概念の境界を強調する割には、幻想郷とここの間で観測できる時空のズレも、果たして最初から賢者の思惑通りだったのかしら、ね?」
「………………」
 青年は、この一ヶ月考えて、唯一問いたいと決めていた言葉を口にした。
「なぁ、あんたは……神様みたいに何でもしっていそうなあんたでも、何かに迷うことがあるのかい? 何者にもなれない俺みたいな愚者は、迷っていることにすら気づかないものだが」
「道標に複数の基準があると思う?」
「ないな」
「誰しも混迷の霧の中を進む時期はあるものよ。でもそれは観測の問題で、貴方がそこにいるかどうかは確率の問題でしかない。平凡な道標に従っているのをつまらないと思っている間に霧は晴れるかもしれないし、そうではないのかもしれない。私は道を示す者ではありえないけどね」
 驚くべきことに、彼女はまっすぐに自分を見ていた。
 目を逸らしそうになる自分が歯痒かった。
「随分と、常識的な答え、だな」
「大言壮語の多くは無知の産物。物事を知って忘れなければ行動も言葉も自ずと決まる。世界がどうあろうと、時間がどうあろうとね」
 無為。
 だけど。
 ……決めた言葉。
 決めていた言葉。
 万が一再会できれば、言おうと決めていた、言葉。
「また、会えるか?」
「会えないでしょうね」
 医者の死亡宣告のようにあっさりと、感情を込めないのに。
 E・Hの言葉は五十鈴の和音のように耳に心地よい。
 悔しいが、残念だという感情が起こらない。
 敗北感が安堵に繋がることもあると知る。
 青年は子供の頃に読んだ竹取物語を想起していた。
 天へ帰る直前の幕。
 育ての老夫婦とあれほど別れを惜しんだかぐや姫は、月の羽衣を着せられた瞬間、地上の一切のことを忘れてしまったかのように振り返りもせず、迎えの牛車へと乗り込んでしまう。
 それは死と同義だ。
 心臓を抉られた死体と同義だ。
 一度だけ出席したことのある葬式で、夭逝した友人の顔を思い出す。
 そこにいるのに、そこにいない。
 今、また、満月を見上げるE・Hが、まさに同じ顔をしていた。

      ☆

 そしてその言葉通り、彼はその後、彼女に二度と会うことはなかった。

      ☆

 昭和五十三年、二月。
 飽きっぽい都市の人々から殺人鬼の噂話など忘れ去られてしまった頃。
 既に自身のファーストアルバムのレコーディングが始まっていた青年は、卒業した大学の研究室を訪問していた。ふと思い立って、学位証明書を取りに来たついでに立ち寄ったのだ。
 その部屋を、彼は遺跡だと思っていた。
 インバーターの深い唸りが狭い空間を支配していて。母親の子宮の中のよう。血管の代わりに無数のケーブルが所狭しと繋がり合い、そこに埃が蹲り、動的でありながら死体置き場の如くもある。
 部屋を支配するのは巨大な機械。
 数年前に導入された、米国製のコンピュータ・シンセサイザーだ。木製の筐体には無数に明滅するランプの数々。その異様から日本の使用者たちの間で『箪笥』と揶揄されていた。
 青年は洋服が汚れるのも気にせず部屋の床に横たわり、両手を枕にして高層ビルのような機械類を見上げていた。
 正確な数字を打ち込むだけで、かつて熟練した演奏者たちが奏でていた音楽を何度でも繰り返し演奏できるマシーン。人のために無人の機械が奏でる音楽。
 ……このコンピュータの中には、数字で構成された電気の龍が趨り猛る。彼女の発する怒声は自然界では決して発生しない矩形波だ。それが人のために創りだされた音楽になる。やがて人が滅亡しても幻想の空間に鳴り響く。今この瞬間、東西の超大国が放った何百という核兵器が地球に降り注ぎ、人々が一瞬で蒸発したしても。データだけが永遠に失われず、龍が奏でる幻想の音楽はエネルギーとなって大気に放出され世界に響いていく。
 恐怖のような、不吉な幻想。
 だが――その魅力を否定することは、到底不可能だった。
 ドアが開く。
「……さん、お電話ですよ。狭山のなんとかさんから」
「ああ、今行く」
 むくりと起き上がった青年は無意識的に、シンセサイザーの峰を超えた冥い部屋の天井の向こうに何かを探していた。今はもう届かない何かを。

 青年を呼び出したのは、一人のミュージシャンだった。
 業界では確固たる地位を確保しているものの、大ヒットには届かない男で、常に奇抜なアイデアを実現しては紙一重の評価をされていた。青年は面識こそあったものの、自分が直接呼び出された理由がよく分からなかった。
 ミュージシャンの狭い家にはもう一人、若い伊達男が同席していた。英国の最新ファッションを語り、いつも身なりを気にしている神経質そうな奴だったが、海外では既に一定評価を受けていたロックバンドのドラマーだった。ドラムを叩く奴といえばガタイがしっかりしている豪傑というのが当時の相場だったが、男は格好をつけていても眼の奥に消せない優しさを浮かべていて、妙だとばかり思っていた。以前自分が反戦デモで警官隊と衝突した街で、同時期に女性たちとダンスパーティーに興じていたという話を聞いて、自分とは関係ない世界の人間なのだと切って捨てたこともあったのだが。
 不揃いな二人と共に炬燵を囲んだ先輩格のミュージシャンは、一緒に仕事をやろう、バンドを組もうと持ちかけた。
 彼の構想ノートには、達筆なイラストの図解入りで「海外で受けるコンピュータサウンド」のバンドというコンセプトが示してあった。曰く、向こうで想像されている幻想の東洋感を逆手にとったイメージでまとめるという。最初の曲は外国人が作曲した『花火』という東洋風の曲をディスコ調でアレンジするといった、具体的な計画も既にあった。
 中央に描いてあったイラスト。
 力強い富士山の大噴火。
 天へ立ち昇る煙の中に書かれる、”for U.S.A”の文字。
 それは同時にこの街の、日本の滅亡をも意味する。
 だが、音楽は不滅なのだ。
 幻想となって永遠に流れるのだ。
「どうだい、面白くないかな」
 喫茶店でスペースインベーダーに勤しみ、UFOや民俗学をも独自研究しているという変わり者は、独特な低音の声で誘惑するように若者たちへと畳み掛ける。デモ用のカセットテープから流れだす、コンピュータ音源の葬送行進曲。アメリカでシングルを三百万枚売るという、馬鹿馬鹿しいほど壮大な夢物語。何故君達なのかという最低限の説明すらもない。断れるはずもない。
 細身のドラマーは以前から友人だったようで最初から加担するつもりらしかったが、当の青年はわずかに躊躇しつつもこう答えた。
「他の仕事も忙しいんで、その合間に出来るぐらいなら……いいっすよ」
「うん、それでもいいよ」
 目上に対しては随分と失礼な回答だったが、企画者は気にすることもなく、皮肉げに満足気に微笑んで大きく頷いた。
 青年はその笑顔に飲み込まれそうになる気分だった。努めて表情を変えないつもりだったが、胸の内に跳ねる鼓動を制御する術はない。彼は残念ながらコンピュータではなかった。
 ――ほんの少し前まで、何者でもなかった青年がいた。
 今。
 否応なしに世界が変わろうとしていた。

 真っ暗の帰り道。孤独な夜道。
 電柱の裸電球が彼の影を長くしていく。
 風の強い雪の日。
 月のない空。
 千切れ飛ぶ雲の向こうに、星を探す。
 似合わぬ未練だと思いながら。
 幻想の北極星。
 脳裡で強く輝く。
 E・H――Eight-Heart――八意。
 八意思兼神。
 あの小さな社――気象神社に祀られた、知恵の神。
 人々の道しるべとなる天の龍……北辰。
 やがてこの幻想帝都を駆け巡る地の龍が全て呼応し、全てが崩落する日が来るのかもしれない。時間の果てには天の龍が極星を飲み込む日だって訪れるのだろう。
 だがそれまでは。
 天の妙見を目指し、地のエネルギーをすべて吸い上げて、発展の限りを尽くすのだろう、この都市。誰も見たことのない未来の摩天楼へ。
 東方のエデン、天空の高天原。
 その幻想が完成する時――天の龍が呼び、地の龍が答え、太古の歴史を呼び覚ます。
 冷戦の超大国を遥かに超えて、未来記にある過去の帝国にも通づる、強大な。黄色魔術に護られた皇帝をたてまつり、真紅の瞳を輝かせる強力な民族。その千の手、万の手に無数の刃を携えて。天の浮舟で世界を巡幸して。
 不吉すぎる、だが魅力溢れたイメージ。
 やがてそこへ届くような戦慄を。
 自然界には産まれ得ない幻想の音に乗せて。
 バラバラに渦を巻いていた音符たちが青年の眼前で、幻の五線紙に組み合わさっていく。
 この都市自らが発振する音楽を模して。

 ――一陣、強い風が吹いて雪を巻き上げる。
 それは、遠く世界を超え時間を超えて、結界を越えて吹き渡る――鍵盤の響きの果ての、東風。